どうやら俺はいつの間にか眠っていたようで、目が覚めるとやっぱり彼女はいなかった。
消えたんだろうか? まさか、まだ早い。物語が終わるには、まだ何も起きていなすぎる。
なんてくだらないことを考える。
だけど、現実は物語じゃない。何もかも、突然に終わる。大したきっかけもなしに。
俺とリョーコがいつのまにやら仲良くなくなっていたように。
ろくな山場もなく俺の野球部生活三年が過ぎ去っていったように。
なんて感傷的な追想をしてしまうほどに俺は今暇だった。籠の中の鳥が突然外に放たれて、大空を羽ばたいていけるのは、鳥が飛ぶために生まれてきたからだ。俺のような地を這うために生まれてきたような生き物は、いきなり籠の戸を開けられたって、見知らぬ世界への通り道を畏れながら今まで通り止まり木にしがみ続けるしかないのだ、とかなんとか考えてみたけどとどのつまりは休日=部活動だったせいで休日に何をすべきかがわかんなくなっちゃいながら、三度寝くらいかましてもう夕方、そこからさらにだらだらしてそろそろヤバイ誰かどうにかしてくれあと三秒で死ぬ、と思ったら都合よく電話が来た。都合がいいことは素晴らしいことだ。人生はご都合主義であるべきだ。物語じゃないんだから。
電話の相手は、まあなんと、驚くべきというべきか、春原だった。
「もしもし元気? そっちは暑い?」
と彼女は涼やかな声で。
「暑いけど、なに、そっちって、どこにいるの?」
「家だけど」
「うん、じゃあ気温同じだよね」
「そういやそうだね」
本気で言ってるのかよくわからない。
「ね、冒険に行かない?」
「冒険? なに?」
唐突だ。さすがにここまで唐突だと困る。物語には多少は伏線が欲しいものだ。物語じゃないけどさ。
彼女は得意げに応えた。
「ぼうけん【冒険】(名) スル [1]危険を伴うことをあえてすること」
「はぁ、えっと、危険なの?」
「危険だよ!」
「そうか。で、いつ行くの」
「今!」
「どこに?」
「お化け病院!」
お化け病院というのはこの街の中心を走る国道沿いにある、廃病院のことで、その荒廃しきった見た目と華やかなロードサイドに唐突に現れる暗闇のインパクトによってこのあたりでは有名な心霊スポットとなっている病院のことだった。
「えっ、その、もしかして、ふたりきりで?」
「えー? んふふ」
「あ、ふたりきりではないんですね」
「とりあえず、集まってよ! 早くね」
春原は嬉しそうに電話を切った。こんなに元気なやつだったのか。
別に行かない理由もないので俺は自転車漕いでお化け病院まで。
湿気った空気、夏の夜、ぼやけた月。
おばけ病院に到着すると路上の暗闇の中に街灯の灯りに照らされたきらきらと光る何か丸い物がってもしかして人魂ァ!?
なんて訳はなくて、そこには春原がいて、
「何してんだ?」
「シャボン玉」
彼女は暗闇のなかできらきら光るシャボン玉の群れの中でにっこり笑った。
「なんでだ……」
「楽しいよ? やる?」
と彼女はストローをさし出してきたけど、いや、それはいわゆる若者言葉で言うところの関節キッスゥというやつではないでしょうか。
だってこんな、だって間接キッスだなんて、僕らまだ手もつないでないのに、じゃなくて、えーと、なんてクソ純情丸出しの俺の逡巡をいったいどういう意味に受け取ったか、急に彼女は不機嫌になって、
「ふん、嫌ならいーよっ」
って唇を尖らせて、それからシャボン玉をすごい勢いで吹きまくった。
きらきらと仄かに輝く石鹸液の球体を見ながら俺は泡沫夢幻という言葉について考えた。人生は泡のように儚い物という意味の言葉だけど、儚い人生、それでも生きている間はシャボン玉のようにこの世界で必死に表面張力を頼りに丸くあらねばならない。やがて弾ける運命と知っていても、自らの形を保たねばならない、なんてよくわからないことを考えたり考えなかったりした。
「あ、来た来た」
って彼女はストローで公園の入口の方を指し示した。そっちには三人、二人は男、悪友のあいつら、残る一人は女、俺の幼馴染であるところのリョーコさんだ。
はぁ、やはり俺たちふたりきりではなかったですね。
ダサオの奴がこっちを指さしながら嬉しそうに、
「ほら、言ったろ、が誘えばこいつは絶対来るって」
とその横でなぜかこっちを睨んでるリョーコさん。やめてくれ。違うんだ。俺はただこのくだらぬ日常から連れ出してくれる水先案内人として彼女に期待したのであって何か下心とかそんなんないんだって。という弁明を俺が口にする前にいきなり彼女は「帰る」って一方的にぶきらぼうに言い捨てて、
「おいちょっと待てって!」
「おー? おー!」
バカな男ども二人は楽しそうに俺たち二人の表情を見比べる。それを知ってか知らぬか春原さんはリョーコの手をとって、
「そっかー、今日は都合悪いんだね!」
なんて無邪気に笑顔で、
「え、う、うん」
あまりの脳天気さにリョーコが押されてる。
「じゃあ明日の朝から行けばいいんじゃない?」
「せっかくの心霊スポットなのに?」
「それってもう単なるハイキングだな」
「ばっかみたい」
と言い捨ててそのまま立ち去ろうとするリョーコの腕を掴んで、
「明日、行こう」
「……」
驚いたみたいな無防備な表情でこちらを振り向いた彼女はしばし、優しかった昔の彼女のままにも見えたのだった。と思ったのもつかの間、彼女はいつもみたいな冷たい目で俺を睨み、無情に腕を振り払ってどっか行った。
振り向くと、連中が何かひそひそ話してる。
「何ひそひそ話してんだ」
「いやー、仲いいんだなーって」
「あれを見て仲がいって思えるんなら早いとこ天国行って神様に眼球取り替えてもらってきたほうがいいぞ」
といったところでその日はお開きとなった。一体なんのために集まったのかはよくわからない。
俺がまた自転車をえっちらおっちら漕いで家に帰って部屋に戻ると、メイドはすでにそこにいた。なるほど、先に帰ったもんな。じゃなかった。一応別人って設定なんだっけ。
「毎日ご苦労さんだな」
「別に……」
この馬鹿馬鹿しい茶番。俺はこの状況に対してどんな感情を持てばいいのか未だにわかりかねていた。
嬉しい? たしかにそうかも知れない。だけど、わけがわからない。素直に喜ぶわけにもいかない。だからといって悲しくもないしもちろん楽しくもない。怒るわけにもいかないから、俺は喜怒哀楽どれでもない感情を、強いて言うなら不思議な落ち着かない気持ちを抱えて彼女と同じ空間に尻を落ち着けるしかないのだった。
メイドはまたあの漫画を読んでいる。いつまで読んでいるんだろう。こんなに漫画を読むの遅かったか。
と、彼女はマンガ本から顔を上げて、
「ほんとに行くの? 冒険だか言うの」
「え、俺がその冒険行くのって知ってていいの? 設定的に」
「なんでもいいでしょ。あゆみが行くから?」
「そうだよ。春原が来るからだよ」
「……」
メイドは不機嫌そうな顔をする。気にせず俺は続ける。
「それにあいつらも、俺のバカな二人の友だちと、それと、こいつが一番大切なんだけど、あとリョーコって奴も行くんだよ。お前は彼女のことを知らないだろうけどな。あいつが行かないなら、俺も行かないよ」
「そのリョーコって人のことをどう思ってるの?」
「聞きたいのか?」
「いや、やっぱいい」
「彼女は来るかな」
「どうだろうね」
「怖がりだから、来ないかもな」
「むっ」
「むっ?」
「なんでもない」
翌日、朝早くに彼女は集合場所にやってきた。なぜだろうね。
ところでそれからすぐにもう一つなぜだかわからないことが発生して、というのは、集合時間から三十分たっても残りの三人がやってこないことだった。