曇天の空は雨の気配に薄暗い。
肌を撫ぜ、髪を揺らす風は、湿っているのが良く分かった。きっともうすぐ雨になるんだろう。
「ユキが、破綻してる?」
私の口から転がり出た言葉は、力なく地面に落下したみたいに思えた。
イチタロー君は地面に落ちた言の葉が染みこむのを待つみたいに、下をじっと見つめていた。それから、ゆっくり口を開く。
「僕の勝手な思い込みかもしれないですけど」
「……君はどうして、破綻してるなんて思うの?」
「姉さんを見てると、不自然に思うんです」
「何が?」
「人との、他人との距離感が」
彼のその口調は、妙に渇いているように聞こえた。
「親しくなるって、少しづつ距離を縮めていくことでしょう? でも姉さんのそれは違う。スイッチがオンオフするみたいに、あの人は関係を構築してる。一ヶ月も姉さんと過ごしたジュンさんなら、思い当たるところもあるんじゃないですか?」
言われて、全く思い当たらないところがないわけではない。でも彼女のそういう『破綻』はそこまで歪なものだったろうか。
「僕と姉さんは、昔から喧嘩したことがないんです。ただの一度も。でもそれは僕らが格別に仲が良かったからじゃありません。幼少時に姉弟で遊ぶ時さえ、お互いにどこか遠慮をしているところがあっただけです。まるで見ず知らずの子供に接するみたいに。
それがおかしなことだと気付くのには随分時間がかかりました。家族なんて誰もいないでしょう? ユミコさんだって、本当の意味では家族じゃない。母は僕が自我を持った時には既に家にいませんでしたし、父は昔っからあんな様子でしたから、家族という感覚が僕ら二人には欠如したままだったんです」
「なるほどね。でも君の言うそれは、そんなに問題かな? ユキだって特に困ってる様子もないし……」
「それはあなたがいるからですよ」
その言葉に、彼の語気の鋭さに、私は少しだけひるんだ。
「どうして?」
「ジュンさんがいるから、姉さんはなんとか関係を保っていられるんだと思います。あなたが他人との関係性の緩衝材になってくれるから」
そうだろうか? 私は分からなかった。
思案する私を追い込むように、彼は言葉を続ける。
「事実として、姉さんは、あの人がいなくなってから――」
「あの人?」
割り込んだ私の声音は、自分が思っているよりも鋭かった。
「昔、姉さんと仲良くしていた人ですよ。“あなたと同じように”ね」
彼の含意することはすぐに分かった。
「私とのことも知ってるんだ?」
「別に調べたわけじゃありません。気を悪くしたらごめんなさい。姉さんの部屋の音、聞こえちゃうんです。夜は静かだから特に」
ユキが自室を使わなかったのはそのせいか? どちらにせよすぐに気付かれただろうけれど。
「別にそれをどうこう言うつもりはありません。まぁとにかくあなたと同じような存在がいて、その人に支えられていたから、姉さんはどうにか過ごしていられた。でもあの人がいなくなってからの姉さんは、酷かった……。『居場所の見つけ方がわからない』と言っていました。僕がその言葉が姉さんにとってどれくらい重いものかはわかりませんが、でもその時の姉さんの憔悴は、正直目に余りました」
私には、そんなユキの姿はとても想像できなかった。いつもどこか超然としていて、思いの外すっとぼけているのがユキだった。
でも、その『超然』の裏側にあるのは、彼女の言葉にし得ない孤独なのかもしれない。私はその一端を知ってはいる。クラスメートの話の中に、孤独を抱えたユキの姿を、散らつく光のように見かけるから。
「人の形成する社会に馴染めなかった個人は、想像以上に容易く死んでしまいますよね?」
私はその問いに答えられなかった。咄嗟にそれを否定したかった。
でも私は、私にはそれができない。私も過去に死のうと思った人間だから。
生きることは出来た。両親がいなくたって、それでもなんとか生きていくだけならできたはずだ。私を殺したのは「必要とされない」という感覚だった。それを痛いほど、この身体は知っている。
「距離感を取れないことは、その言葉の意味以上に、致命的な破綻ではないでしょうか? それは姉さんを殺してしまいませんか?」
「分からないよ……」
「僕にもそれは分かりません。僕の杞憂かもしれない」
「じゃあ君は私にどうして欲しいの? なんでそんなことをわざわざ伝えたの?」
その問いに彼は一瞬、複雑な表情を覗かせた。苦しいような、迷っているような、そんな表情。それから、腹の中に詰まった言の葉を押し出すように口を開いた。
「いえ、ただ知っておいて欲しかっただけです。ジュンさんには。……すいません、考えなしで」
その時の彼の顔は本当にあどけない子供が困惑しているようで、私は不意に彼がまだ中学生だという事実を思い出した。
急に毒気を抜かれた気分になって、私は自分の口調が柔らかくなるのを自覚しながら、
「そっか」
と、それだけ、答えた。
雨が、落ちてくる。
一つ、二つ、それから、数え切れないくらい、たくさん。
返した手の平に、雫が弾けた。
「君は、ユキのことが好きなんだ?」
「ええ。一人の女性として」
「そのことを――」
「伝える気はありません。生涯」
私は彼を見つめた。
「あんな綺麗な人と他人みたいな距離にいたんじゃ、恋に落ちるってものです。大丈夫ですよ。ただの思春期的な思い込みの感情にしぎません、こんなものは」
彼は歩き出す。私の母の墓地に背を向けて。
「行きましょう。これ以上濡れると、風邪を引いちゃいます」
「……うん」
彼の後ろに続く。
ユキは私を必要としている。
でも、それは純粋な恋情ではないのだ。
彼の話を聞いて、その予感は確信に変わった。
それはずっと分かっていたことだ。
私達の関係は、友達でも、恋人でもない。
名前のない関係性だ。
でも、変えていいのかもしれない。
もっと明確な形にしても良いのかもしれない。
私はそうしたい。
今はまだ着地点さえわからないけど、でも私は探したいと思っている。
私達の、この無名の関係性の、終着駅を。