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int6.気儘皇帝1

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 春の陽気の中に仄かな熱が籠もり始めた五月の初日のこと。昼食を取り、クラスメートの歓談に華を咲かせていた生徒達は、次限の体育の準備に追われていた。そそくさと着替えを済ませ、予鈴が鳴り終わる頃には日差しが燦々と降り注ぐ校庭にほとんどの生徒が集合していた。先日から続いている体力測定もそろそろ終わりを迎えようとしている。本日の種目は五○メートル走と走り幅跳びだった。

 決して数が多いとは言えない体育会系の部活に所属する者を除き、この私立女子校の生徒は大半が体育の授業に積極的に参加しない。五○メートル走などは最初(はな)っから適当に流して、後は木陰で休憩と洒落込んでいる生徒も少なくなかった。モリの一団やイチとナオコがその筆頭だった。校内の気風からか、教師側もそれを半ば黙認している節がある。

 ところで、モリとイチは犬猿の仲である。二人は中学どころか小学生の頃からの知り合いだが、これがまぁ馬が合わない。だからといってこの二人、互いのことをそれほど忌み嫌っているわけでもなかった。

 銀縁眼鏡に切れ長の瞳、怜悧な顔立ち、いつも通りのポニーテール、イチは彼女より頭一つ背の低いモリを見下ろして言う。

「モリモリ、一言良い?」
「あのさ、イチコ。モリモリって呼ぶのは止めろってあれほど言ったよね」
「うん、覚えてたけど、あえてそう言った」
「なんなの? 喧嘩売ってんの?」
「いやいや、クラス内の票をがっちり握ってるモリモリに、私がそんな恐れ多いことできるわけが」
「現在進行形でしてるけど、一言とやらを聞いてあげるよ」

 モリの剣呑な笑みを、イチは余裕の微笑みで見返す。

「最近ちょっと太った?」

 モリの直近にいた山崎ヒロコには、その言葉がざくっとモリの胸中に刺さったのが聞こえた気がした。

「……イチコ。世の中には言って良いことと悪いことがあると思うの」
「級友の諫言(かんげん)だよ?」
「私の微かな肥満を嗤うことが?」
「いやだからもう二、三回、五十メートル走ってきなよ」
「余計なお世話だっ!!」

 額に青筋を浮かべ噛みつかんばかりの勢いでイチに喚いたモリの横腹に、さっと何者かの腕が伸びた。

「いやでもモリモリこれはちょっと……」

 陽光に透ける緋色の髪を靡かせている。歩くカリスマ、橋本リューコがモリの脇腹をむにゅっと掴んでいた。

「こらっ! 橋本てめぇ!」
「うはははははー! モリモリが怒ったー!!」
「モリモリ言うなああああああ!」

 脱兎の如く逃げ出すリューコをモリが全力疾走で追いかけていった。

「元気ですねぇ、あの二人」

 ナオコはのほほんとヒロコに話かけた。

 山崎ヒロコはモリが掌握する二十四人の中で、比較的上流階級に属するお嬢様のグループの中心人物だ。自然、似たようなグループのナオコとは多少なりとも交流があった。

「橋本さんとだけなんですよ、あんなに子供っぽくなってしまうの」

 ヒロコは苦笑混じりに応えた。モリは彼女のグループのトップなのだから、本心としてはもう少し落ち着いてもらいたいところだったのだろう。

「リューコは幼稚だからな。引きずられると子供になる」

 イチはくつくつと笑った。

「誰が幼稚だーー!」
「うわ、寄って来るなリューコ! お前が来るとモリが……!」
「二人ともそこで大人しくしてなさいよ!!」

 形相を変えて突撃してくるモリに、イチとリューコが揃って反対方向に駆け出す。

「くそっ! なんで私がこんな目に!」
「イチがモリモリをからかうのが悪いんだぞ」

 リューコはにかっと悪戯な笑みを浮かべる。

「嘘吐け! お前がモリモリをけしかけたんだろうがっ!」
「まぁまぁ、走り出したモリモリに追いかけられるのも一興じゃない?」
「モリモリ言うなつってんだろおおおお!!!」

 三者三様に騒ぎながら、駆けていく。リューコだけがどこまでも楽しそうだった。

「ナオちゃん」
「なに?」
「あの中で一番脚速いのって誰?」
「リューコさんが50mを7.4秒でダントツかな。イっちゃんも8.3くらいだからそこそこ速いし。モリさん9秒超えてなかったっけ?」

 はぁとヒロコがため息をつく。

「遊ばれてるよね」
「橋本さんのおもちゃにならない人なんていないよ」

 ナオコはクスクスと笑いを零す。一方ヒロコは本当にあの人相手に自分達は上手く立ち回れるだろうかと、微かな不安を抱いたのだった。

   *   *

 さて、半ば体育の授業をサボタージュしている生徒がいる反面、他と比べても浮いて見えるほど真剣に取り組んでいる組み合わせがあった。小泉ジュンと小渕恵(おぶち ケイ)の二人組である。二人の共通点は多い。文武両道の優等生であり、中学はバスケ部に所属、そして負けず嫌いだった。

 初めはそれほど意識していなかった二人だったが、種目を重ねる事に自然と互いをライバル視し始めた。なにせほとんどの種目で両者の身体能力が拮抗するのだから、それも無理はない。一○○○メートル走で、身体一つ分だけ早くジュンがゴールしてから(無論二人は他の追随を全く許さないリードを保っていた)、彼女たちのライバル意識は揺るぎないものになっていた。今日までの戦績は全くの互角。だが先の走り幅跳びで一歩だけケイがリードしていた。最後の種目の五○メートル走で勝てば、彼女の勝利は決定的なものとなる。

 裏表がなく実直な性格のケイは、比較的同級生からの人望も厚く、特にバスケ部に所属する面々からほとんど尊敬に近い感情を持たれていた。身長は一六○を僅かに下回る程度だが、それを補って余りある彼女の身体能力は、入学した時点でレギュラーの地位にくらいつくほどだ。運動で引き締まった身体は無駄な肉が一切なく、しなやかで健康美がある。その上器量も優れているものだから、本来ならばクラスのリーダー的存在になるような存在だったが、モリの工作によりクラス内での彼女の権勢はごく小さなものになっていた。彼女と親しい人物は誰一人いなかったし、なによりそんな中心人物になるべき素養がある存在がこのクラスには多すぎた。

 とはいえ生徒会などに元々興味のなかったケイは、これ幸いと存在感を希薄にし、穏やかな学園生活を送っていた。なにかと注目を集めては委員長だの部長だのと、すぐに人の上に立つ立場に持てはやされる彼女にとって、希有とも言えるこの状況を満喫しない手はないのだ。

「何やってんだ、あいつらは……」

 額の汗を拭って、ケイは校庭を疾走する三人組が教師に一喝されるのを遠目に見ていた。

「モリさんとイチさんが怒られてるのって珍しいね」

 くすくすと笑いながら、ジュンはそのぼやきに答えた。

「リューコが元凶でしょ。二人とも気の毒に」
「どうかな? モリさんとイチさんも騒いでたけど」
「あー、確かにあの二人もよくじゃれあってるなぁ」

 半ば呆れた様子で傍観するケイを横目に、ジュンは思う。落ち着いていて頼り甲斐があって、なんだかお姉さんのようだと。下級生からの人気も高いと聞くが、それも納得だ。自然と周りに人を集める魅力がある。リューコとはまた違ったカリスマの持ち主だった。

「そういえばジュンちゃん、五○メートルどれくらいだっけ?」
「七秒ジャストくらいだと思う」
「じゃあまた私と同じくらいか」

 ケイは苦笑するように口角をあげる。

「こんなに拮抗するとは思ってなかった。私運動に関しては結構自信あったんだけどな。なんで帰宅部なんかやってるの? 勿体ない」
「あの、ユキの家で働いてるから」
「え!? そうなの?」

 適当に事情をぼかして説明すると、ケイはしきりに感心したように頷いていた。

「すごいね。ちゃんと働いてるんだ」
「全然、働いてるって言っても結構甘やかしてもらってるから。ユミコさん、優しいし」
「いやいや、ジュンちゃんが頑張ってるからでしょ」

 えらいえらいと頭を撫でられ、ジュンはくすぐったそうにした。

「転校生なのに、ユキとやたら仲が良いのはそういうことだったんだね」
「それってやっぱりみんな気にするんだ?」
「ま、少しはね。ユキは人を遠ざけるところがあるから」

 ケイは誤魔化すように笑って話題を変える。

「でもそれじゃあジュンちゃんを部活に誘うのは無理そうかな?」
「うーん……そうなっちゃうかな」

 実のところ、ジュンはケイの所属するバスケ部には少なからず惹かれていた。入部が出来ないと分かっていながら、四月の終わりに一度放課後に部活動を見に行ったことがあるくらい。それでもせっかく自分の納得する環境で働かせてもらってることを思うと、入りたいとはとても言い出せなかった。

「でも正直ジュンちゃんは欲しいなぁ……」

 少し微笑んで、ケイはそんなことを口にする。

「ユキに直接聞いてみようか。一応君の雇い主なわけだし」
「え?」

 ジュンがケイを止める間もなく、彼女は二人の後方で所在なさ気にしていたユキに声をかけた。

「ユキー。ジュンちゃん部に欲しいんだけど?」

 呼ばれてちらとこちらに視線を目を向ける。極端に運動の苦手なユキは、普段よりもくたびれて見えた。

「んー……そうね」

 ユキが考え込む素振りを見せるものだから、ジュンは内心微かに動揺した。普段ならばならば即時即答で断るからだ。

「今、二人って体力測定どっちが勝ってるの?」
「さっきの幅跳び分で、私が一歩リードかな」
「じゃあ、この種目でもジュンに勝てたら、ジュンの好きな方にして良いよ」
「引き分けたら?」
「せっかくだしバスケで決着をつければ?」

 ユキはごく素っ気なく言った。

「勝たないとジュンちゃんには権利すらないわけか」

 ケイは苦く笑った。

「だってこの子、私の家の子だもの」
「ふーん……」

 ケイは意味ありげに目を細める。心なしか愉快そうだ。ユキはケイが苦手なのか、対照的に俯いていた。

「そういうことみたいだけど、ジュンちゃんはそれでいい?」
「う、うん。ユキがそう言うなら」

 ケイにバスケットのワンオンワンで勝てるとは思えなかったが、どうせ自分で決めるなら、とジュンは承諾した。

 二人の前の組が、五○メートル走のスタートを示す旗の振りあげと同時に走り出す。全力で疾走していく二人の女性徒を見ながら、ジュンとケイはスタートラインに立った。

   *   *

 大半の生徒が授業中にも関わらず、ぼんやりと休憩する校庭端の木陰では、モリが一人ぜぇはぁと息を大きく乱し座り込んでいた。イチとリューコを全力疾走で追いかけたものの、彼女の足では結局追いつくことはなく、気力だけなんとか追いすがっていたところを教師に一喝され意気消沈の様子だ。

 一方イチはやや息を乱す程度、リューコに至っては汗に服が湿る程で、あいも変わらず元気そうだった。ナオコと三人並んで、一直線に駆け抜けるジュンとケイを鑑賞していた。

「おー、揺れておる揺れておる」
「あの身体の細さで、あの胸はずるいですよねー」

 リューコとナオコは「ほぅ……」と感嘆の吐息を漏らす。

「お前ら……」

 呆れかえって窘めるのはイチ一人だけだった。

「あ、今回はジュンちゃんの勝ちですね」
「小泉はギリギリ六秒台か。やたらめったら速いな」

 と、イチ達が素直に感心もする中、

「いや素晴らしいね! あの肢体と曲線美! ケイも確かに美人だけども、ジュンちゃんのが色っぽいね! 犯したいね!」

 リューコだけが獣欲をむき出しにしていた。他の生徒にはギリギリ聞こえない程度の音量に調節しているのが、実に憎らしい配慮である。

「リューコがそういうことをしてると妄想した小説もどきがこちらに」

 すっとイチがリューコに携帯の画面を見せる。

「ちょおおおおおおお!? イッちゃんそれは誰にも見せないって約束じゃないですかぁ!?」

 携帯の画面に表示されていたのは、以前ナオコが書いていた妄想の書き綴り(※ex1参照)だった。本気で恥ずかしがるナオコの抵抗もイチの無言の制止に押さえ込まれ、その隙にリューコはさらりと内容を流し読んでしまった。

「いやー、さすがの私でもこんなことはしないけどね」

 若干引き気味に顔を引きつらせ、リューコは携帯をイチに返した。体育教師に見つからないようにさっと体操着のポケットに忍ばせる。

「うっうっ……ひどいですよぅ……」

 半分泣き掛けかけているナオコの頭を、イチは宥めるように撫でながら言う。

「私は正直リューコならやりかねないと思ったが」
「失礼ねっ! 私は基本的に和姦主義者よ! イチと一緒にしないでもらえる? ジュンちゃんという着眼点は非常に良いけども」
「ユキじゃなくて?」

 少し前に、リューコがユキにアプローチをかけていたことをイチは知っている。

「あれは本命だからまた別の話よ。ユキは嫁に欲しくて、ジュンちゃんは傍においておきたいの。分かる?」
「残念ながらさっぱりだな」

 イチは肩をすくめて、手の平を空にむけてみせた。

「ユキやナオちゃんみたいなたおやかな子は私はどちらかというとお嫁さんにしたいタイプで、ジュンちゃんとかフクみたいなのは手許に置いて飼いたいの。普段は澄ました涼しげな顔してる優等生な子が、女の悦びに苛まれてる表情はぐっとくるでしょ?」
「……確かに」

 リューコの高説に力強く頷くナオコ。同意こそしないが、イチも胸中ではまったく否定できなかった。

「ジュンちゃんやフクなんか、学校ではほとんど隙を見せずにツンとしてる分、ギャップもあるし。しかも二人ともギリギリまで反抗しそうでしょう? 苛め甲斐があって最高じゃない?」
「ですよね!!」

 全力で同意するナオコを、イチはぺちりとはたいた。

「いたっ!」
「まぁリューコの言い分はわかる」
「え? じゃあなんで私、はたかれたんですか?」
「何となくリューコの言い分をそのまま納得するのは気に入らなかったから」
「はたかれ損だっ!」

 イチとナオコがじゃれている間に、リューコの視線はすっとジュンに移っていた。ケイに勝ったことが嬉しかったのか、その表情は無邪気にほこんでいる。悔しそうにしてるかと思われたケイは、悪戯を思いついたように薄く笑っている。

「へー、ケイも気に入ってるんだ。んー……私も結構本気で欲しいかもなー……」

 リューコは唇からごく小さく零れた囁きは、聞き手を探すことなく空気に溶けて消えた。

「将を射んとせばまず馬を射よ、ってね」
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