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ep17.少女遊戯0

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 洗い物が終わった後でも、ユキがリビングに残っていた。珍しい。普段はそそくさと部屋に戻ってしまうのに。ユミコさんが淹れてくれた紅茶を机に冷たくなるまで放置したまま、彼女は机に座って本を捲る音を奏でていた。

 無感情にさえ見えるその横顔。白磁の肌と対照する黒曜石の瞳に、微かな憂い。それさえどこか調和的だ。いつか思った、神様が彫ったみたいだと。

 それからふと気付く。彼女の眼が、綴られた言葉を追ってはいないこと。おそらくユキは本なんて読んでいないのだろう。その時にようやく彼女が待っていただけなのだと気付く。

 ユキに話しかけようとして、言葉がのどに引っかかった。

 この前のお墓参りから、少しだけ――あるいは少しだと思いたいだけ――私達の関係は遠ざかった。変えたいと思ったはずの関係性は、今も標を見つけられないまま。彼女の「破綻」にどう向き合うべきなのか、足踏みをしている。

 そんな私の思惑は、結局ユキから逃げるような行動として表れてしまっていた。どうすべきなのか分からないまま、なんとなくユキを避けている。

 それに私達の関係が遠ざかったと思う要因は、私の側だけにあるのではなかった。ユキもなんとなく私のことを遠ざけているようだった。

 以前よりも目が合わなくなった。口数が少なくなった。笑っているところをあまり見かけなくなった。そういえば、今日の体育の時だってそうだ。彼女の言葉は干からびたように素っ気なかった。

 台所から片付けの物音がしなくなったことに気が付いたのか、ユキはちらとこちらに視線を寄越した。

「……終わった?」
「はい」

 仕事の時間はもう十分ほど過ぎている。それでも敬語にしてしまったのは、無意識に距離を置きたかったからか。無意味な自問が脳内に浮かんで、答えを待たずに消えた。

 彼女は手に持っていた本を閉じて「お疲れ様」と呟いた。立ち上がって私の方へ身体を向ける。

「ジュン、」

 そこで彼女は言葉を止めた。何かを言おうとして、

「あ、えっと……バスケット、やっても良いんだよ」
「え?」

 一瞬なんの話か分からず、私はポカンとした。

「ほら、今日ケイが言ってたでしょ。ジュンが部活やりたいなら、遠慮しないで」

 言われて、そういえば今日ケイさんから熱心な勧誘を受けていたことを思い出す。

「いえ、そんな。今でも十分満足していますし」

 さすがにそういうわけにもいかない。お金をもらって学校まで通わせてもらっている以上、今もらっている仕事を安易にやめたりすることはできなかった。

「でも本当は部活やりたいでしょ?」
「もうそんなことないですよ」

 私は嘘をついた。本当のことを言うのなら高校でもバスケは続けたかった。あのコートの上の気持ち良さを、私は知っているから。ケイという人の魅力に気付いてしまったから。一緒にコートの上に立てたら、きっと楽しいに違いない。でもそんな甘えたことを言いたくはなかった。それに現状に満足しているのも事実だ。

「そう」

 いつも通りのごく短い返答。顔を伏せたユキの表情は見えない。ただ、その声音が、酷く冷たく聞こえたことだけを、幾許(いくばく)か後になって鈍く認識した。

 言い残してリビングから去っていくユキをと見送る。何かを言うべきだと分かっているのに、何も言い出すことが出来ずに、呆然としていた。伝えるべき言葉がのどに詰まったように、息苦しさだけが残った。

   *   *

 お風呂を済ませて、自室で勉強をしていた。もう日課になったことなのに内容は全く頭に入ってこない。ユキにほんの少し冷たくされたことが、思いの外堪えているみたいだ。

「やめたっ」

 シャーペンを机の上に放り出し、早々に英単語の暗記を放棄した。こんな状態で続けても非効率過ぎて話にならない。椅子の背もたれに身体を預けて、深いため息をついた。

 ユキを避けちゃった時にも、彼女はこんな気持ちになったのかな。そんな風に思うのは傲慢かな。ユキ気持ちが分かったら、もう少し素直になれるかな。


 ……バカだ、私は。

 また同じところで迷っていた。自分の気持ちに区切りがついたら、今度はユキの事情にかこつけて、また踏み出すことを躊躇っていた。決めたのに、この関係性を変えたいと。

 彼の言葉を借りるなら、ユキはスイッチをオンオフするみたいに、人と距離を作ってしまう。彼女と極めて近い距離にいた人間は、知る限り私だけだ。後はみんな遠くにいたんだ。ユキが砕けて笑うところを見たことはたくさんあるけど、学校じゃ彼女がそんな風に笑うことなんてなかった。きっとイチタロー君やユミコさんさえ、みんな遠くだったんだ。彼女のスイッチがオンになる人はきっと、一人だけだから。

 そんな私が彼女のことを避け始めたらどうなるか、もっと単純にそのことに気を払うべきだった。

 そう思ったら急にユキに会いたくなった。椅子に預けた体重を戻して、部屋を出た。ぱたぱた音を立てて階段を上り、ユキの部屋に向かう。ノックもせずに扉を開けると、ユキが驚いて私を見つめた。

「どうしたの……?」

 すこし怯えたように、ユキは小さな声で言った。

「あ……えっと、」

 問われて答えを返せず、その時にようやく勢いに任せて部屋を出てきたのを後悔した。何を言うべきかわからなくて、しばらく口をぱくぱくさせた後にできることは、目を伏せることだけだった。我ながら行動が突発的過ぎた。

「用事があるのよね……?」

 穏やかな口調に、急いで首を縦に振る。

「ま、座りなさいな」

 ユキの勧めてくれるまま、彼女のベッドに腰掛ける。彼女は勉強用の机にノートと教科書を広げたまま、椅子を回転させて私の方を向く。

「……最近は様子がおかしかったけど、そのこと?」
「うん……」
「全然話してくれなから、ずっと不安だった……」
「ごめん、自分の中で整理したいことがあって。避けちゃってた」
「……嫌いになったわけじゃないんだよね?」
「うん」

 言ってからユキはしばらく私を無言で見つめて、深く安堵の息を吐いた。こんなに不安にさせていたのかと、私は初めて実感を伴って思い知った。

 ユキは椅子から立ち上がって私に近づき、そのままベッドに押し倒した。

「ユ……あ、」

 覆い被さった彼女に、すぐさま唇を奪われる。舌が入ってきて、絡めて受け入れて。離れた彼女の表情は、どうにかすれば泣いてしまいそうに見えた。

「やっと、安心できる……」

 零れた落ちたような言葉を聞いて、私は感情隠すように微笑んで彼女の頭を撫でる。

 彼女の近くに私しかいない理由はこれなんだ。ユキはまだ、恋人だけしか近くにおけない。だからその他の誰もを、遠くにおいてしまう。でも本来人間関係はそういう二元的なものじゃない。関係性にはあるべき距離がある。それがユキにはどうしようもなく欠如している。これがユキのずっと培ってきた破綻。

「ねぇ……今日シても大丈夫だよね?」

 でもそれを単純に伝えたところで、すぐに直せるものだと思えなかった。それどころか、その言葉は簡単にユキを傷つけてしまいそうだった。

「大丈夫だけど、今日はやめよう?」

 そう言った瞬間、彼女の表情が沈んでいく。でもそれは性欲を満たせないからじゃないのだろう。彼女の中で、他人と精神的に近いという感覚を求められる数少ないものは性行為なんじゃないか。それを拒否されることが怖いのだ思う。

「その代わりね、ほら、こっちおいで」

 私はユキをベッドに横にして、彼女の身体を抱き締める。

「これだけでも安心するでしょ?」
「うん……」

 彼女はその感覚を確かめるようにおずおずと頷いた。

「今日はここで寝るね。添い寝だけだけどさ。それから起きてるだけ、話そうよ。たくさん。不安?」
「……ううん、平気、だと思う」
「良かった。あ、寝ちゃう前に歯は磨かないと」
「そうね」

 それから二人で歯磨きして、電気を消して、同じベッドに入って、とりとめもないことをずっと話して、

「ジュンは最近、クラスのみんなから好かれてるから、結構さびしいんだ、休み時間とか」
「ユキも一緒に話そうよ、みんな話したがってるから」
「でも……」
「私と普段話す時と同じように話せばいいだけだよ」
「それ難しい」
「えー。リューコちゃんとかとは面白く話せてるのに」
「え? そう?」
「うん、かなり。みんなもそう言ってるし」
「そうなんだ……知らなかった」

 …………。

「そういえばジュン、もうすぐ試験だけど勉強進んでる?」
「うん、習ったところは一通り復習した」
「はやっ……!」
「え? そうかな?」
「まだ試験の一週間前だよ?」
「でもこれでお仕事さぼらなくて良さそう」
「あ、特別勤務」
「いやそっちは考えてなかった。ていうかテスト中もやるんだ……」
「その前に今週末」
「あー……うん」
「えへへへ」
「楽しそうだなぁ……」

 …………。

「そういえばさ、ジュンが先に起きた時に私も起こして欲しいな。寂しいかな、寝る前まで一緒だったのに、起きたときに傍にいないのは」
「うん。……うん、そうだね」

 …………。

「そろそろ寝る?」
 とろんとした目で、ユキが聞く。
「そだね」
「最後にキスくらいしてよ?」
 聞かれたので間をおかずに私からしてみた。
「あ」
「じゃあおやすみ」
「え、なんかずるい」
 もう一回してみた。
「あ」
「すやすや」
「え、ずるいなにこれ」
 そのまま寝たふりをしていたら、いつの間にか本当に寝てしまっていた。

 ……。

 …………。

 ………………。

「……ユキ。ユキ。起きて、ねぇ、ユキ」
「……ん? ん……朝?」
「私、お仕事あるから」
「あ、そっか……ふぁ……」
「行ってくるね」
「うん……あ」
「ん?」
「行ってらっしゃいのチュー」
「寝ぼけてるよね?」
「うん」
「……もう」

 寝ぼけ眼のユキに軽く口付けて、私は着替えに自室に向かった。

 今日もまた一日頑張ろう。
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