湯に火照った身体をベッドに埋(うず)めて、イチは部屋の明かりを消した。刹那、胸を一つの感情が掠めていく。
その感情を知覚した瞬間、「ああ、またか」とイチは思った。今日学校で会ったばかりだというのに、彼女は自分に呆れた。
それはいつもほんのささやかなきっかけに誘起される。
例えば、夜寝る前に布団に入ったらいつもよりちょっと冷たい気がした時とか。
疲れてるけど、ベッドで横になっても眠れない時とか。
無意味に本なんか読んで、夜更かししてしまったと時とか。
多くは、そういう夜の帳と静寂が降りる時間、ふとした刹那に心の隙間に入り込む。寂寞にも似た切なさと一緒に、弱い心をチクチクと苛む。
それは恋しさだ。
手元の携帯電話に手を伸ばすけど、もう遅い時間だからと、結局連絡は取りはしない。当たり前のことだ、とイチは思った。こんな時間に大した用もなく、メールするなり、電話するなり、そんなの馬鹿げたことだと。第一話題がない。それでも多分、相手はそんなに気にはしないだろうとは思う。例え電話を掛けて起こしたとしたって、怒ったりしないだろう。しかし仮に相手の好意に甘えるようにそんなことをしたって、なんて伝えようか。『ちょっと声が聞きたくて』なんて、人から言われなくても、自分らしくないことは分かり切っているのに。
手に持った携帯電話は、無機質に沈黙を保ったままだ。けれど、握りしめていると、ほんの僅かに期待してしまう。もしかしたら彼女が私に電話なんかをかけてきてはくれないかと。
折りたたんだ携帯電話を無意味に開閉してみても、時間だけが無為に過ぎていく。ちょっと裏切られた気がするなんて、そんな的外れな感情はしまい込んで、イチは目を閉じた。しんと静寂に沈んだ部屋の中はなんだか息苦しいと思った。
頭の中を真っ白にするイメージを浮かべても、単調に羊の数を数えてみても、一向に眠気は訪れなかった。試しに開いてみた眼は闇に慣れて、微かな月の光に照らされた部屋の中さえよく見えてしまう。
きちりと整頓された部屋の中を、多分きっとイチの心の在り様のようだと人は言うだろう。それが私のイメージなのだろうと、イチ自身も自覚していた。
でも実際は違う。見た目良く整えられた部屋のように、イチの心は単純ではない。彼女はこんなにも感情豊かで、複雑で、儚い想いに揺れもする。
機械的な意見提出? 合理的な意思決定? 確率論的な判断基準? そんなものに囚われているだけの人間じゃない。
『私はそれほどに計算機のような人間に見えるのか?』
昔、教室で彼女の学友全てに声を荒げてそう聞いたとき、答える人間は居なかった。誰しもが、彼女はそんなことないという答えを聞きたがっているのが分かり、それでも《そう見えていた》から。
沈黙の意味を悟って、イチはそう見えているだろうさ、と自嘲気味に納得した。そう見える様に生きてきたからと。
けれど、イチに一人だけ、沈黙を返さなかった少女がいた。彼女はきょとんとした顔で呟いた。
『え? みえないよ』
呆気なく、どうしてそんなことを聞くのかと訝しみさえする表情で。その時の彼女の顔を今でもイチは鮮明に覚えている。最も彼女の表情に関することなら、ほとんどを克明に思い出せるのだが。穏やかに微笑んでいる顔から、哀しさを噛み殺すような悲痛な顔まで、忘れられない思い出とか、気持ちと一緒に。
イチが少し昔のことを思い返して、最終的に考えているのは、結局また彼女のことだった。想えば想うほど、無性に切なさが増していく気がした。
携帯の画面を開いてみた。暗所に慣れた目が、一瞬表示画面の明るさに眩む。ぼんやり時刻を確認すると、もう零時をとうに回っていた。連絡の取れる時間ではないはずだったし、イチ自身もそのことはよく分かっていた。
というのに、連絡がつくと思ったら、自然に手が動いていた。電話帳から、検索して電話をかけるまで僅かに数回ボタンを操作するだけ。いつの間にか、自制心が置き去りになっていた。
半ば夢中で携帯を耳に当てる。その一度目のコールを聞いた瞬間、はたとイチは我に返った。今となっては相手の着信履歴に自分の名前が残ってしまうことが、嫌でたまらない。すぐに切るつもりだったが、つい三コールしても出なかったら切ろうと、中途半端な結論を出した。
数秒にも満たない後に、案の定繋がらない携帯を切った。焦燥感にそれを放り投げようとした瞬間、マナーモードの携帯が震えた。ナオコからの折り返しの電話だった。慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし、私です。今電話があったと思うんですけど」
「え、あ、うん……ごめん、夜遅くに」
「いいえ、私もちょうど起きてましたから。何かありました?」
「えっと……」
言葉に詰まる。衝動的に電話してみただけで、別に何か用があるわけではなかった。咄嗟に気の利いた言い訳を思いつけるはずもなく、仕方なく真実を伝えることにする。
「別に用があったわけじゃないんだけど……」
「そうなんですか? 珍しいですね」
「……ちょっと、その……声とか、聞きたかった……とか……ね……」
ああ、一体何を私はトチ狂ったことを言っているのか、とイチは思った。ありきたりな上に、妙に少女漫画的だ、その上子供っぽくて救えないと。
「……今どこでもドアが使えるなら、すぐに行くのに」
一瞬の沈黙の後に返ってきたナオコの声の真剣さに、イチはちょっとだけひるんだ。
「いきなり何を……」
「だってイッちゃんがそんな可愛いこと言うなんて……! 今すぐ抱き締めに行きたい」
イチは自分の頬が紅潮するのが分かった。ナオコが恥ずかし気もなく言う台詞と、先の自分の発言の恥ずかしさに、顔が熱を帯びる。
「……気持ちは嬉しいけど」
「ええ、実際はすぐには行けないんですけど。でもそういうこと言われるの嬉しいんですよ。私を必要とされている気がして。なかなかそんなこと言ってくれないじゃないですか。いつもはクールですし」
敬語に戻った彼女の口調で、興奮状態が沈静化してきていることをイチは悟った。けれど同時に、まだ熱っぽい彼女の口調から、どうやら自分はナオコの変なスイッチを押してしまったようだと自覚する。
「うん、ちょっと疲れてるのかな……? 自分でも何してるのって思うんだけどね。ああ、でもすぐにかけ直してくれてありがとう。嬉しかったよ」
「わぁ! 今日のイッちゃんはやけに素直です! 珍しいこともあるんですね」
「うるさいな。割と素直に生きてるよ」
「まさか。世間体やら規律やらのしがらみを常に意識しておいでじゃないですか」
「そりゃあ……そうだけどさ」
「あ、でも私と一緒にいるときは素直ですよね」
「……そうかもね」
「ふふ、そう考えるとなんだか誇らしい気持ちになります」
「そうなの?」
「ええ」
上機嫌に肯定するナオコの声を聞いたら、イチはなんだか間の抜けた気持ちになった。あれこれと悩んでいた自分が馬鹿らしく思えた。
十分ほどナオコと通話をして、電話を切った。それ以上話していると、際限なく話が続いてしまいそうな気がした。明日もやらないといけないことがいくつかある。そのために体力を温存しておくつもりだったし、ナオコは週末にはどうせ家に来るのだ。その時にまた話をするとしよう。そう言えば彼女に出すお茶の葉はまだあったっけ? お茶菓子は? そんなことを考えていたら、イチはいつの間にか眠りに落ちていた。
穏やかな、幸福そうな表情は、普段の彼女より幾分子供っぽい愛らしさがあった。