Trampled over…B
「当然動くものとは思ってないが………」
「嫌になるなぁ、この階段は」
先程からおっさんとガキが二人、絵変わりの無く薄暗い階段を登り続けている。普通な
ら絶対使われないのだろうと判断させるこの階段は、フロアとフロアのスパンが滅茶苦茶
長いのだ。しかも、何かが隠されているという事から、踊り場毎に壁をチェックしなけれ
ばならない。
「まぁそれ自体は苦にならないけどな………」
がんごんがんごん、と壁を適当に叩いていれば、俺達二人の注意力で見逃す事もないだ
ろう。ひんやりとした空気の中で、壁を叩く音がこだましている。
「なぁ………タカハシ」
クラタがヤニで潰れた、渋い声で
「さっきの………確かにお前なら何かやるとは思っていたが、あれは正直驚いた。一体ど
うやったんだ?」
そう訊ねてきた。根気のいる作業はあまり性に合わないと言っていた(と言いつつも粘
り強さや根性、忍耐といったモノで言えばクラタは人に見習わせたい程の男だ。苦手では
あるが、出来ないワケではないようだ)ので、あるいは俺に気を遣っているのか……どち
らにせよ間に耐えられなかったようだ。
「…………」
「さっきの、ガラスを一気に粉砕した」
「元々はな……水でやるんだよ、あれは」
「水、か?」
「トモハラさんがさ、教えてくれたんだけど、ガラスってのは固体じゃなくて液体なんだ
よな。確か学校の理科でも先生が教えてたよ。結晶構造を持たないし、熱を加えればドロ
ドロになる、冷やせば固くなる………性質的には液体の性質だろ?」
「で?」
「中国武術において、人は水って考えているらしいんだよな。それが代謝を調節したりと
かするんだが、物理的な見地として、一般的にその水が打撃の衝撃を吸収するってハナシ
でさ………中国武術のある門派じゃそれを逆手にとって、体内の水を利用して衝撃を伝え
るらしいよ」
「ん。だから?」
「空手の母体である中国拳法の基本であり奥義なんだけど、『遠当て』とか言うのかなぁ?
『寸剄』とかいうのか………そこのトコロは全然分からないんだけどさ、対象と同調して
一気に力を開放する、理屈じゃぁ説明しづらいなぁ………」
「あんなのはまやかしだ」と主張される事の多い中国拳法のメカニズムだが、そんな事
は決してない。四千年も連綿を語り継がれたひとつの文化は確かに存在する。
にわかに信じがたいといった顔のクラタも、幾度と無くその神秘を目撃している。一列
に並べられたビール瓶、その端に置かれた瓶を殴打して手前より後ろの瓶を破壊する、と
いった演武は実在する。
力のコントロールという、そんな凄まじい技が五千年を数えようとしている現代におい
ても理論体系化されていない理由は、実際に受けてみなければ分からない。胸を打った衝
撃が表面を貫いて背中に疾る、全身の血が沸騰するような感覚に陥る、鼓動が欲求を満た
さない時の不快感を覚える………推測の域を未だに出ない事であるが「体内の水が衝撃を
伝えているのかもしれない」と俺自身考えている。
「中国四千年の技か………お前みたいなヤツが易々と覚えられる技じゃないんじゃない
か、習ったのか………あの女に?」
ガチャン、と音を立ててM92Fにマガジンを突っ込むと、クラタがそう訊いてきた。少
し強引さのある、追求と言った感じだ。
「ひどく感覚的な事でな………………実際ならばもっと教えても良かったかもしれねぇが
覚えたのさ、自分でな。あの木には世話になったよ、唯一見守ってくれたのは………」
「あぁ、どういう事だ?お前が自分で覚えたってのの先は?」
訝しい顔で、片眉を吊り上げて、クラタが更に突っ込んできた。
「あ、いや………偶然さ、修行で覚えたのさ。それだけさ」
もうすぐ一年が経つのだ。蝉の鳴き声、蛍の灯り、夕立の匂い、自分の体が冷たくなっ
ていくのを感じて、業火に包まれて、護るべき人に助けられ、誰一人救えなかったあの夏
から。
「何処ぞの大木でも殴り続けていればクラタもあるいは………な」
思わず呟いてしまった。
「何言ってやがるんだ」
「あぁ、悪いな」
要領を得た会話を諦めたのか、クラタは肩をすくめ
「さ、お喋りに華を咲かせるツラでもねぇからな………流儀に忠実な暴力やんぞ」
のしのしと一段一段を一段と力強く踏みつけた。さらに首を左右に揺らし鳴ったごきご
きという音が、さも出勤間際、家族に出発を報告するかのようにさらりと言ったクラタの
セリフを笑えないモノにしていた。
俺はクラタの背中を追って、底が少し溶けたエア・フォース・ワンで床を蹴った。
一番初めにその怪現象に気付いたのは、子供達だった。
自分が属している組織は、基本的には霊感能力やサイキック等の特殊能力者によるテロ
へのカウンターテロとして編成されたモノだが、ジャンルがジャンルだけに背後に犯罪を
匂わせる超常現象もまた、担当している。
Xファイルのような案件を担当している故、自分が属す組織“特務機動課”の構成員も
も必然的に特殊能力者達で編成されている。
日夜、国内の怪奇現象に目を光らせている。
その日、午後からやや分厚い雲が頭上にかかり出し始めた時間だった。都内某所の幼稚
園の園庭で園児達が遊んでいた。
一人の園児が園庭のフェンスの外、道路を挟んだ向かいに見えるごみ置き場で、それを
発見した。燃えないごみの収集日、指定のゴミ袋に入れられなかった為に収集車に回収さ
れなかったのであろうひとつのゴミ袋が、電信柱の根元、カラス避けネットの下でポツン
と置かれていた。
園児は、カラス避けネットと地面との隙間からその中へ入ろうと、嘴をその隙間に突っ
込んでチャレンジする一羽の鳥を眺めていた。縁全体に砂鉄を含んだネットは、なかなか
持ち上がらない。
重いならきっと諦めるだろう、傍観していた園児の興味も他の事へと移ろうとしていた。
己の無力さを嘆いたのか、鳥は天を仰ぐように鳴いた。
聞き覚えのある鳴き声から、園児はその鳥が鳩である事に気付いたのだそうだ。
程無くして、我が特務機動課が捜査に着手する事になった決定的な減少が起きたのだっ
た。空に向かい嘆く鳩の傍らに一羽、また一羽と別の鳩が降り立ってきた。その数は園児
が数えようと人差し指の先を躍らせようとする頃には、誰もが我が目を疑う程に至り、 事
態の異常さは、園庭の中心で保育士を囲んでいた一部の園児までも感じ取るに及んだ。
園児らの視界を埋め尽くした鳩達が次に取った行動は、最初の鳩の鳴き声が決して嘆き
ではなかった事を気付かせた。
仲間を呼んでいた。
黒山の鳩だかりが力を合わせて、カラス避けネットを突破するのには然程時間を必要と
しなかった。一羽、また一羽、アスファルトの地面とネットとの隙間にくちばしを突き入
れると、申し合わせたように一斉に身をよじり出して、遂には垂れていた頭が上がり、カ
ラスを避ける為の防護壁は、鳩達によってその役割を奪われてしまった。
アーチの上がりきるのを待ち望んでいた鳩達が、我先にその向こうへと突進していく。
オイルショック時のような狂気の沙汰が再現されていて、その当人達は脇目も振らずに回
収されなかったゴミ袋を包囲した。
*
「で、宿敵カラスを撃退する程の防護壁を突破した鳩軍団は……その後何を?」
サナエはアイスバーの棒を加えながら訊ねる。極めて聞き取り辛い言い方だったが
「回収されなかったゴミ袋の中にあった台所ごみを貪り始めたそうです」
ハンドルを握る男はそれを気にかける事なくバックミラー越しに彼女を見ながら答えた。
「で、こう言っちゃ悪いけど……その程度の事で何故わざわざ我々ミステリー研究会が捜
査に乗り出さなきゃいけないのか、教えてもらいたいんだけどね」
ミステリー研究会、とは二人が所属する組織の俗称である。
「いえ、発生から六時間と二十二分が経過しているので、現場状況や周囲にいた諸々の視
覚情報、証拠品の数々は確保出来てはいるんですがねぇ……」
「熟考を重ね、結果わざわざ早退させてまであっしにお声をお掛けになったワケですかい」
芝居掛かった口調でそう言う彼女の格好は、表向き彼女が所属する組織、いわゆる学校
という場所の制服だった。
「えぇ……まぁ本来はカラスが取るだろう行動を鳩がやった……ってだけなら国立科学博
物館の職員にでもあてがうべきなんですけど、今回はこの異常な現象が……クローブボッ
クスに資料が入ってます」
「………?」
サナエが怪訝そうに身を乗り出してグローブボックス内を物色する。
「何これ?」
「えぇ、それを捨てた人間の検討は早い段階でついていたので、一番に当たってみたのですが」
「近所にある料理店の店員……なの?これどういう事かよく分からないんだけど」
「中華料理屋で、近頃話題だったそうですよ。ここ最近で雑誌に掲載された情報を検索し
ましたけど、なかなかですね」
サナエがボーっと資料を眺めながら、そう言えばお昼ご飯はまだだった、と気付いて溜
息を浅く吐いた。
「そうですね、特務機動課のオフィスに着いたらご飯にしましょうね。なので今は仕事に
集中してくださーい」
先手を取るかのように、運転手の男がバックミラーに移る女子高生を諭した。彼が今の
セクションに配属されたての頃の教育係がサナエで、一年が経過した今日では彼女の扱い
方に関しては組織内でも高い評価を頂戴している。取り立てて二人の関係が噂の的になる
のだったが、お互い仕事での絶対的な信頼では結ばれていても、人と人との付き合い方な
る概念が通用しないようであった。例えて言うならお互いが相棒の事を“潤沢な資金”と
思っているようであり、また“金はあくまで手段”といった考えがあるからこそ、熟成が
必要とされる関係にもならないのである。
「……それで、回収した鳩の胃袋から検出されたモノと店主から聞いたゴミの内容を照合
した結果、アナタにこの一件を任せる事になったワケでして」
「勿体ぶらずに早く言いなさい。アナタはとても有能だけど何を言いたいのか回りくどい
悪い癖があるのだよ」
「これは失礼いたしました。さて、検出されたモノを分析した結果、如何にも鳩が好みそ
うな大豆」
「遺伝子組み換えの激安商品ね」
「それから胡麻、料理の肥大化に一役買ったパンの耳……あ、これは近所の商店街のパン
屋から入手したそうです。それ等のモノには一切口を付けず、あるモノだけを貪ったそうです」
「ふ~……ん。でも鳩ってそんなに嗅覚が良くないんじゃなかったっけ?」
取り出したファイルを一枚一枚めくりながら、サナエはこの件について関心を持てない
という気持ちをこれっぽっちも隠さず態度に表している。生返事はもはや聞き飽きている
彼にとっては然程珍しい事でもないのだが。
「で、鳩の好きな食べ物が変わった、という事だけ?今すぐ日本野鳥の会事務局に急行し
て頂けるかしら、上司命令なら行ってくれる?」
仕事場が特殊でなかったら、誰でも今すぐ車を加速して急ブレーキをかけてやりたい衝
動に駆られていただろう後部座席でシートベルトを利用していないサナエの態度に、別段
気を悪くした様子も見せずに
「本当に事件性がないか、それを調べるのも仕事だ……との課長の命令でして」
わざとらしく、やや中継役の苦労を感じさせる溜息混じりの口調で対応した。
「まったく」
そんな彼の手綱さばきは、サナエも十分承知しているのだった。
「で、今回こんな現象が起きた、または起きたと思われる現場は全部で何箇所確認されたの?」
「今のトコロ、透視チームからの報告はお手元にございます資料の通り。それと、何より
耳よりなのは今朝未明、歌舞伎町で多数確認された野鳥の死骸、鳩やカラスを回収して解
剖に回した所、どうやら歌舞伎町上空ではカラスが幼稚園前で目撃されたゴミ袋の役目を
果たした疑いが強いようです」
「はっ……?」
「歌舞伎町では明け方になると、たっぷりと肥えたカラス達が生ゴミの奪い合いしている
のをご存知ですよね?」
サナエがぼんやりと夕方六時台のニュース番組が好んで特集する暇な企画の一場面を記
憶の中から検索して、それが終わったのを確認してから彼は続けた
「回収したカラス達は全身がヒドイ有様であったようで……あ、ファイルの最後にコピー
した写真がありますよ」
「見たくない……ちょっと待って、カラスが負けたの?」
サナエの関心が、わずかに傾いた。
「そのようですね、当然鳩にも犠牲が出ていますが。現場を念視させたトコロ、カラスの
通常業務である残飯の回収を集団で強引に奪った……との事です」
「はいはい、それで?」
「あるモノとはですね、実は調味料なんですよ」
サナエは片眉を上げて訝しい顔をしながらも、手の平を上に差し出して“どうぞ、続け
て”と促した。
「最近、業界に参入してきて、類を見ないスピードで最大手に躍り出た……ルーツ・オブ・
トレバリー社の販売している調味料、色々と諸説があるまする……しかぁし、製造に関わ
る話は全て謎と言って遜色ありません」
「憶測の域は出ないにしても、原因はそこにあると考えられるってワケか」
「はい、しかしこのルーツ・オブ・トレバリー、実は大戦後の日本経済を支えた救世主企
業でありまして、各科学的な調査機関が登場せずに我々が首を突っ込むのは」
「まぁ関連性が出て来たところで、“鳩にも大人気!先を争う程の美味さ!”って宣伝すれ
ば良いだけで……どちらにせよ骨折り損みたいねぇ。どう考えても、この一件は何処かの
組織への破防法の適用を決断させるキッカケになるのかどうか……」
「いえ、対象が鳩であるというだけで……人間がどうのこうのとなれば」
サナエのズルズルと後部座席のシートに沈み込んだ。そして
ググゥ
「何だかツチノコ捜索企画番組に真剣に参加する義務みたいですねぇ……」
苦笑混じりに彼がそう言った。
「実際ツチノコ探すよりも徒労に終わりそう。あー誰か鯵【トレバリー】に命を狙われる
ような大事件を持ってきてくれないかなぁ……」
「不穏当な発言ですが……そうですね、誰かが企業の内部でもスッパ抜いてくれりゃぁ楽
しくもなりそうですね」
自分が属している組織は、基本的には霊感能力やサイキック等の特殊能力者によるテロ
へのカウンターテロとして編成されたモノだが、ジャンルがジャンルだけに背後に犯罪を
匂わせる超常現象もまた、担当している。
Xファイルのような案件を担当している故、自分が属す組織“特務機動課”の構成員も
も必然的に特殊能力者達で編成されている。
日夜、国内の怪奇現象に目を光らせている。
その日、午後からやや分厚い雲が頭上にかかり出し始めた時間だった。都内某所の幼稚
園の園庭で園児達が遊んでいた。
一人の園児が園庭のフェンスの外、道路を挟んだ向かいに見えるごみ置き場で、それを
発見した。燃えないごみの収集日、指定のゴミ袋に入れられなかった為に収集車に回収さ
れなかったのであろうひとつのゴミ袋が、電信柱の根元、カラス避けネットの下でポツン
と置かれていた。
園児は、カラス避けネットと地面との隙間からその中へ入ろうと、嘴をその隙間に突っ
込んでチャレンジする一羽の鳥を眺めていた。縁全体に砂鉄を含んだネットは、なかなか
持ち上がらない。
重いならきっと諦めるだろう、傍観していた園児の興味も他の事へと移ろうとしていた。
己の無力さを嘆いたのか、鳥は天を仰ぐように鳴いた。
聞き覚えのある鳴き声から、園児はその鳥が鳩である事に気付いたのだそうだ。
程無くして、我が特務機動課が捜査に着手する事になった決定的な減少が起きたのだっ
た。空に向かい嘆く鳩の傍らに一羽、また一羽と別の鳩が降り立ってきた。その数は園児
が数えようと人差し指の先を躍らせようとする頃には、誰もが我が目を疑う程に至り、 事
態の異常さは、園庭の中心で保育士を囲んでいた一部の園児までも感じ取るに及んだ。
園児らの視界を埋め尽くした鳩達が次に取った行動は、最初の鳩の鳴き声が決して嘆き
ではなかった事を気付かせた。
仲間を呼んでいた。
黒山の鳩だかりが力を合わせて、カラス避けネットを突破するのには然程時間を必要と
しなかった。一羽、また一羽、アスファルトの地面とネットとの隙間にくちばしを突き入
れると、申し合わせたように一斉に身をよじり出して、遂には垂れていた頭が上がり、カ
ラスを避ける為の防護壁は、鳩達によってその役割を奪われてしまった。
アーチの上がりきるのを待ち望んでいた鳩達が、我先にその向こうへと突進していく。
オイルショック時のような狂気の沙汰が再現されていて、その当人達は脇目も振らずに回
収されなかったゴミ袋を包囲した。
*
「で、宿敵カラスを撃退する程の防護壁を突破した鳩軍団は……その後何を?」
サナエはアイスバーの棒を加えながら訊ねる。極めて聞き取り辛い言い方だったが
「回収されなかったゴミ袋の中にあった台所ごみを貪り始めたそうです」
ハンドルを握る男はそれを気にかける事なくバックミラー越しに彼女を見ながら答えた。
「で、こう言っちゃ悪いけど……その程度の事で何故わざわざ我々ミステリー研究会が捜
査に乗り出さなきゃいけないのか、教えてもらいたいんだけどね」
ミステリー研究会、とは二人が所属する組織の俗称である。
「いえ、発生から六時間と二十二分が経過しているので、現場状況や周囲にいた諸々の視
覚情報、証拠品の数々は確保出来てはいるんですがねぇ……」
「熟考を重ね、結果わざわざ早退させてまであっしにお声をお掛けになったワケですかい」
芝居掛かった口調でそう言う彼女の格好は、表向き彼女が所属する組織、いわゆる学校
という場所の制服だった。
「えぇ……まぁ本来はカラスが取るだろう行動を鳩がやった……ってだけなら国立科学博
物館の職員にでもあてがうべきなんですけど、今回はこの異常な現象が……クローブボッ
クスに資料が入ってます」
「………?」
サナエが怪訝そうに身を乗り出してグローブボックス内を物色する。
「何これ?」
「えぇ、それを捨てた人間の検討は早い段階でついていたので、一番に当たってみたのですが」
「近所にある料理店の店員……なの?これどういう事かよく分からないんだけど」
「中華料理屋で、近頃話題だったそうですよ。ここ最近で雑誌に掲載された情報を検索し
ましたけど、なかなかですね」
サナエがボーっと資料を眺めながら、そう言えばお昼ご飯はまだだった、と気付いて溜
息を浅く吐いた。
「そうですね、特務機動課のオフィスに着いたらご飯にしましょうね。なので今は仕事に
集中してくださーい」
先手を取るかのように、運転手の男がバックミラーに移る女子高生を諭した。彼が今の
セクションに配属されたての頃の教育係がサナエで、一年が経過した今日では彼女の扱い
方に関しては組織内でも高い評価を頂戴している。取り立てて二人の関係が噂の的になる
のだったが、お互い仕事での絶対的な信頼では結ばれていても、人と人との付き合い方な
る概念が通用しないようであった。例えて言うならお互いが相棒の事を“潤沢な資金”と
思っているようであり、また“金はあくまで手段”といった考えがあるからこそ、熟成が
必要とされる関係にもならないのである。
「……それで、回収した鳩の胃袋から検出されたモノと店主から聞いたゴミの内容を照合
した結果、アナタにこの一件を任せる事になったワケでして」
「勿体ぶらずに早く言いなさい。アナタはとても有能だけど何を言いたいのか回りくどい
悪い癖があるのだよ」
「これは失礼いたしました。さて、検出されたモノを分析した結果、如何にも鳩が好みそ
うな大豆」
「遺伝子組み換えの激安商品ね」
「それから胡麻、料理の肥大化に一役買ったパンの耳……あ、これは近所の商店街のパン
屋から入手したそうです。それ等のモノには一切口を付けず、あるモノだけを貪ったそうです」
「ふ~……ん。でも鳩ってそんなに嗅覚が良くないんじゃなかったっけ?」
取り出したファイルを一枚一枚めくりながら、サナエはこの件について関心を持てない
という気持ちをこれっぽっちも隠さず態度に表している。生返事はもはや聞き飽きている
彼にとっては然程珍しい事でもないのだが。
「で、鳩の好きな食べ物が変わった、という事だけ?今すぐ日本野鳥の会事務局に急行し
て頂けるかしら、上司命令なら行ってくれる?」
仕事場が特殊でなかったら、誰でも今すぐ車を加速して急ブレーキをかけてやりたい衝
動に駆られていただろう後部座席でシートベルトを利用していないサナエの態度に、別段
気を悪くした様子も見せずに
「本当に事件性がないか、それを調べるのも仕事だ……との課長の命令でして」
わざとらしく、やや中継役の苦労を感じさせる溜息混じりの口調で対応した。
「まったく」
そんな彼の手綱さばきは、サナエも十分承知しているのだった。
「で、今回こんな現象が起きた、または起きたと思われる現場は全部で何箇所確認されたの?」
「今のトコロ、透視チームからの報告はお手元にございます資料の通り。それと、何より
耳よりなのは今朝未明、歌舞伎町で多数確認された野鳥の死骸、鳩やカラスを回収して解
剖に回した所、どうやら歌舞伎町上空ではカラスが幼稚園前で目撃されたゴミ袋の役目を
果たした疑いが強いようです」
「はっ……?」
「歌舞伎町では明け方になると、たっぷりと肥えたカラス達が生ゴミの奪い合いしている
のをご存知ですよね?」
サナエがぼんやりと夕方六時台のニュース番組が好んで特集する暇な企画の一場面を記
憶の中から検索して、それが終わったのを確認してから彼は続けた
「回収したカラス達は全身がヒドイ有様であったようで……あ、ファイルの最後にコピー
した写真がありますよ」
「見たくない……ちょっと待って、カラスが負けたの?」
サナエの関心が、わずかに傾いた。
「そのようですね、当然鳩にも犠牲が出ていますが。現場を念視させたトコロ、カラスの
通常業務である残飯の回収を集団で強引に奪った……との事です」
「はいはい、それで?」
「あるモノとはですね、実は調味料なんですよ」
サナエは片眉を上げて訝しい顔をしながらも、手の平を上に差し出して“どうぞ、続け
て”と促した。
「最近、業界に参入してきて、類を見ないスピードで最大手に躍り出た……ルーツ・オブ・
トレバリー社の販売している調味料、色々と諸説があるまする……しかぁし、製造に関わ
る話は全て謎と言って遜色ありません」
「憶測の域は出ないにしても、原因はそこにあると考えられるってワケか」
「はい、しかしこのルーツ・オブ・トレバリー、実は大戦後の日本経済を支えた救世主企
業でありまして、各科学的な調査機関が登場せずに我々が首を突っ込むのは」
「まぁ関連性が出て来たところで、“鳩にも大人気!先を争う程の美味さ!”って宣伝すれ
ば良いだけで……どちらにせよ骨折り損みたいねぇ。どう考えても、この一件は何処かの
組織への破防法の適用を決断させるキッカケになるのかどうか……」
「いえ、対象が鳩であるというだけで……人間がどうのこうのとなれば」
サナエのズルズルと後部座席のシートに沈み込んだ。そして
ググゥ
「何だかツチノコ捜索企画番組に真剣に参加する義務みたいですねぇ……」
苦笑混じりに彼がそう言った。
「実際ツチノコ探すよりも徒労に終わりそう。あー誰か鯵【トレバリー】に命を狙われる
ような大事件を持ってきてくれないかなぁ……」
「不穏当な発言ですが……そうですね、誰かが企業の内部でもスッパ抜いてくれりゃぁ楽
しくもなりそうですね」
「さて……クラタさん、どうしましょうか?」
壁を背に、タカハシが壁一枚を隔てた向こうを顎で示してそう言った。
「スンゲェなーあのセキュリティ……」
「いえ、クラタさん……僕が聞きたいのは後ろから仕事熱心な方々がガッチャガッチャ鳴
らして迫っていている事なのですが」
ふぅ、と溜息を吐いて、クラタは残弾数を確認した。節約はしたつもりだが、二人共そ
の数はかなり心許ない。
クラタの流儀に忠実な暴力が気に召したのか、仕事熱心な武装した警備員達は二人を呆
れさせる程に物量で、フロアを上がる毎に誠実に二人を出迎えてくれた。
「まったく……何処の誰か分からないけど、自分のビルをボロボロにしていいのかよ」
二人が階段やエレベーターを用いて四階上がるまでに、二人をもてなす銃弾のほとんど
は、このバベルの塔の内壁を穿つ結果となっている。
二人が今、立てこもっているのは最上階施設に存在する、アース・スピアー公式ホーム
ページによれば世界一高い位置にある美術館になる予定の一画である。オープンを翌々月
に控え、彩りの何も無い簡素な壁、天井は空調設備の配管が剥き出しになっている。前情
報がなければ、脚立が壁に立て掛けてある以外には何も目に止まる物のないこの場所が、
美術館になろうとは誰も思わないだろう。
気休め程度のバリケードであろう防火扉越しに、二人の鼻に鼻の曲がりそうな異臭が届
く。高出力のバーナーで防火扉を焼こうとしている。制御コンピュータの端末はタカハシ
の念入りな蛮行で見る影もなく壊されている(クラタがコンピュータの機能にとても関心
していた)。程無くすれば高濃度の放射能すら遮断出来る防火扉にトンネルが開通するだろう。
「……ここから上の階は?」
ある種の怒号のような音を立てる扉を前に、やる気のない立ち姿のタカハシが訊ねた。
「えっと……確か実質ここが最上階で……上は免震の為の巨大な制御装置だったっけな?」
首を後ろに反らして、クラタが配管の剥き出しになった薄暗い天井を眺めながらそう答
え、タカハシの方へと顔を向きなおした。
「その上は屋上のヘリポートだな」
「じゃぁ何かが隠されているならば……クラタ」
「あぁ、この階までに見付けた隠し施設は仕事熱心な控え選手の方々のロッカールームし
か見当たらなかったワケだし……」
今度は二人で天を仰ぐ。
「退路は確保しておく。だから……行け、クラタ」
今度は唸りを上げる非常扉を睨みつけながら、タカハシが言った。
クラタが言葉も出ない程の驚愕の表情でタカハシに詰め寄る。
「これはアンタの仕事だろう?アンタにしか出来ない」
「………」
「ビビッてるワケじゃねぇンだろ?」
「………」
無言で睨み合う。やがて、押し黙っていたクラタが痰を吐き出すように
「多分……どっかの有能な方々は俺達の行動に気付いているだろうよ」
そう言う。そして、軽やかな靴音を立てて、彼は天井に張り巡らされたダクトの中へと
消えていった。
「さて……と」
タカハシは踵を返して、もはや風の前の塵に同じである防火扉を背にした。
「さて、とりあえずは……」
サナエは独り、現代のバベルの塔と云われる超高層雑居ビル“アース・スピアー”の麓
に佇んでいた。完璧な変装による潜入・内偵調査を得意とする彼女は、鳥達の凶暴化の原
因の所在を突き止めるべく、その最有力候補である企業“ルーツ・オブ・トレバリー”社
の日本支社がオフィスを構える、このビルに潜入せよとの命令を受けた。
「とは言え……」
現場は騒然としている。閉鎖中の展望台フロアでガス爆発が起こり、そのフロアから上
に存在する施設が現在危険な状態にあるのだが、二次災害も考えられオフィス区画フロ
ア上層階にある多数の企業に避難命令が出された、とアナウンスされている。
「これじゃぁ入れない……よね」
一階ロビーは関係者、マスコミ、野次馬でごった返している。警察がその対応に負われ
ているが、秩序の喪失と情報の錯綜は時間の問題である事が火を見るよりも明らかだった。
サナエが瞬時に全身を迷彩化させる。人混みの中での行動であるが、誰かがそれを悟る
事はない。尾行をしている探偵は自らを環境と同化させる術を持っている。街中であれば
それは自らを人混みにカムフラージュさせる事になる。サナエの場合、それを物理的な迷
彩効果と併せて活用しているのだ。
「!?」
サナエの懐で通信端末が振動する。
「結果は?」
単刀直入に、サナエが端末に向かって訊ねる。
「ビンゴ……でしたね」
「あまり嬉しく無さそうに。技術屋が考察から証明まで思い通りにいったんじゃないの?」
サナエは眉をしかめる。
「えぇ……ですが、事態は思い通りにいかなそうです。申し訳ありませんが、今すぐその
場を離れて帰ってきてください」
「何があったの?」
「どうやらクラタさんが現場にいるようで……目撃情報が」
「それが?」
「あのルーツ・オブ・トレバリー……かなりヤバいですよ。そのビルが国家主導で建てら
れると決まった時、気前良く出資したのがルーツ・オブ・トレバリーなんですが……お陰
でかなり太いパイプが上の方にあるようです。与党議員に毎年かなりの額を献金している
のもそこなのですが」
端末の向こう側から、根の深そうな溜息が聞こえてきた。
「サナエさん、詳しい事は帰ってきてからにしましょう。突発的な事態での犠牲は最小限
にしなくちゃいけない」
「それは隊長の支持?」
「えぇ……クラタさんがきっと“爆薬”を発見しますから」
*
ホール全体に響いたのは分厚い鉄板が打ちっ放しの床に倒れる音だった。武装した男達
が体を丸めずに通れる程度に風穴が開けられた。
男達は慎重に、内部の状況を確かめながら三人ずつが等間隔に入っていく。
「いるか……?」
入ってきた男達は、それぞれ銃を構えながら周囲を警戒する姿勢をとる。そんな男達に
遅れてホールに姿を見せた一人の男が訊ねた。周囲で各々が異なる最新鋭の銃器を構える、
重装備の男達とは一線を画しているのは、カーゴパンツにTシャツというその格好だけで
はなく、何か重火器の類を携帯している様子も見えない。一見しただけでは、殺気の漂う
ような現場にいて然るべき人材とは思えない。しかし、その男の放つ雰囲気からは油断と
いうモノが漂う事はなく、忙しなく周囲に目配せするその目は、有事に慣れていない人間
をひどくゾッとさせるだろう。誰の目にもこの男が、この一団のリーダーであるという事
が明らかだった。
「いえ……何処かに隠れているようですね、隊長」
「こんな場所だ、隠れられる場所なぞ限られている」
「はっ」
隊長と呼ばれた男の傍らで銃を構える男が周囲を見回す。そして、指先の合図で目に付
く障害物を、前線で構えていた武装兵に確かめるように指示した。
「あとは……」
隊長がゆっくりと、ほぼ決まっている事に対して気付かないふりをするような、そんな
物腰で、目線を天井へと向けた。
「!!」
その次の瞬間、隊長が己の傍らの兵士の腕を鷲掴みにして強引に引き寄せるのと、天井
に広がる闇から影が躍り出てきたのは、ほぼ同時であった。
突然に腕を引かれ狼狽した兵士の視界に、暗闇から飛び出した影が入った。目があった
のを兵士が感じる。
対象が、そこにいた。
隊長以外の兵士が事態の急変に気付いたのは、アスファルトに落石したかのような衝撃
音が耳に届いてからだった。そして彼等の目に入ったのは、前身にまんべんなく返り血を
貰った、左手にコンバットナイフを握るタカハシと、数瞬前まで隊長の傍らを守っていた
男の、右肩から左の腰まで、逆袈裟にバッサリと切り落とされた姿だった。
「くっ……!」
兵士達は隊長を囲むように配置されていた。が、目の前に広がる狂気の沙汰と奇襲で彼
等は大いに狼狽した。照準が定まり得ない一瞬の間に、タカハシは配置バランスが比較的
に手薄になっている兵士の方へと突進した。
対面した兵士が、ほぼ反射動作で銃を構え、タカハシを迎えた。突如としてタカハシの
姿が彼の視界から消えた。
次の瞬間、彼の頭上を友軍による十字砲火が襲った。が、彼がそれを感じ取る事はなか
った。正面から銃を構えられ、タカハシはその身を再び宙に躍らせた。そして、兵士の肩
を支点にして、側転のように頭上を取り、延髄に深々とナイフを突き立てた。
ぶちっ、というロープが弾け切れるような音と共に、兵士の体がコンクリート打ちっ放
しの床に崩れ落ちた。周囲を囲む兵士達が銃を構え、殺気の射線は今度こそとタカハシを
貫いていた。
トリガーに指を掛け構えた兵士の一人とタカハシの目が合う。それは兵士の目の錯覚と
も思えたが、血糊でべったり汚れた顔に望んだ少年の目は……片方が閉じられていた。
兵士達の機関銃が火を噴かんとしたその時だった。
突如としてホールの照明が落ち、闇が空間を支配した。