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Trampled over…C

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「!?」

 兵士達が狼狽し騒然となる。

 ヘルメットに装備された暗視スコープのセンサーが暗闇を感知し、コンマ八秒とかから

ずに状況に対応した。

 しかし、タカハシのプランに滞りをきたすには、その時間では不足だった。

 確保された視界で兵士達が初めに目にした光景は、弾けるように床に倒れれこむ多数の

黒い物体とその間をピンボールの球のように跳び周る何かであった。その何かは、視界に

入ってから“それが何か”を認識させるまでの時間を彼等に与えなかった。復旧した彼等

の視界は、機械的に光を増幅させて捉えた光景を最後に再び闇へと次々に落ちていった、

それは自らをも道連れにして。

「弾幕を張りながら十分に距離を取れ!中途半端な距離は危険だ、常に移動しながらよく

狙え!こちらが数的に圧倒的に有利だ!」

 暗闇に慣らされたタカハシの右目が、張りのある声で全体に指示を送る隊長を捉えた。

未だ自分を狙う数多の兵士達の後方で仁王立ちしている様は、状況にまったく動じていな

いようにも窺える。

 兵士達は平静を取り戻して指示に従い一斉に横方向への移動を始めた。さならがらそれ

はタカハシを中心に広がっていく半円を二重に描くように、段々とだが確実に距離を取っ

ていった。

「正解……だぜ、隊長」

 タカハシの脚が、一瞬の間止まる。ごくわずかに開かれた唇から、少しだけ呼気が漏れる。

「だけど……」

 再び、タカハシの脚が動き出す。隙間の無い銃撃がタカハシの体を貫こうとした。タカ

ハシは真正面へと突進していった。

 タカハシは、射線の延長を己の身の中心部分からずらそうと、思い切り奥歯を食い縛り

素早く身をよじらせた。純粋な殺意はタカハシの逆立った後ろ髪をかすめ、盛り上がった

肩の筋肉を穿ち、太腿をカーゴパンツごとえぐった。

 それでもタカハシの猛進は止まらなかった。

 銃口から無数に発射される銃弾は初弾が当たりこそすれ、身をよじらせ揺らし突撃する

タカハシの身を捉えられなかった。暗視スコープという多大なストレスを負い、極めて高

速に移動する対照の中心線を、銃器で捉える事などほぼ不可能である。

 後退する対面している兵士が、己の理解をはるかに超える速度と、イリーガルドラッグ

でも服用しない限りは銃弾を少しでも喰らってしまった人間ならありえないリアクション

を取る、目の前の少年の行動に俄かに焦燥に駆られる。

「あの、隊長」

 隊長の傍らを代わって守る男の、力のこもらない声。

「言ってみろ」

「後退する……というのは」

 男の人差し指は、トリガーにもかかっていない。

「良い案だ。確かにこの状態ではそれが正解だろう」

 隊長の周りには、彼を含めて四人。踊り狂ったように兵士達に襲い掛かるタカハシとは

ほぼ対角の位置にいた。

「合図を待て……」

 むせ返るような血臭と硝煙臭が辺りを支配していた。血飛沫と銃声、薬莢が床に擦れる

音が止むと、タカハシを取り囲んでいた兵士は、例外なく対象に近づきすぎた代償を負い、

床に臥していた。ウージェーヌ・ドラクロワの絵画の風景の中、ただ独りで立っている。

民衆を従えた自由の女神ではなく、ただ独りのうな垂れた少年。そんな光景だった。

 タカハシは隊長以下四人に対して斜に構えるように力なく肩をだらりと落とし、目線は

真っ直ぐ足下の床を眺めていた。ただそこの何かがあるかのように一点を。

「隊長……」

「まだだ……待つんだ」

 隊長の前に並び、三人が銃を構えた。

 実際は目をまったく合わせていない睨み合い、膠着状態が永遠と思えるように続いた。

「こちらの殺気の行使を感じ取れば、奴は仕掛けてくるだろう……タイミングを読んで、

あくまでカウンターだ」

 窓の外で吹き荒ぶ風が、ごうごうとガラスを揺らした。


「それってどういう事?」

 サナエは首を、床とほぼ水平に傾いでいる。

「え、あぁつまりですね……」

 言い辛そうな表情でこめかみを掻きながら、部下である青年が続けた。アース・スピアー

から程近い、喫茶店の個室で二人は向かい合っている。

「あのビルはドコが建てたかはご存知ですよね……」

「大工さん」

「大阪城の意地悪クイズじゃないんですがね」

「とりあえずは日本政府……ね。まぁ物凄い善人のとあるオジサンがほぼ全額を出資して

いるけど。そこの繋がりに関してはよく知らないけどね……ルーツ・オブ・トレバリーだっけ」

 サナエが、カプチーノを口に運ぶ。唇の先にわずかに泡が付着すると、それを舌先で舐

めとった。

「それに加えて、現在与党本部への献金をしている大口もそこです。……始めはまったく

どういった事なのか理解に苦しみましたが」

「裏があったの?」

「えー……実はですね、先程ぉ……例のモノの分析の結果が出まして」

 そこまで言ってから、彼は声を自重した。代わりに発せられたのは細かい舌打ちと吐息

で、それらを組み合わせた唇の動きが報告を引き継いだ。

「ナノマシン?」

「えぇ、まぁ構成していたタンパク質が非常に、現在医療の現場でも使用されているモノ

に近いので、詳しい分析は結局のトコロはクラタさんのサイコメトリー頼りなのですが」

 サナエは一度、周囲を一瞥してから

「指紋が一致しましたかぁー……」

 そんなセリフを口にした。その右手の人差し指は絶えずテーブルを叩いている。

(えぇ、そのナノマシンの働きですが……)

(まぁ大体想像は出来るけど……やっば~いかなぁ、ちょっと)

「あー……仕事明けで眠いわぁ」

 サナエの生あくびを、カウンターを拭いていた店員が横目でちらりと窺い、目だけで微

笑んだ。

(しかし、ナノマシンとは想定外でした)

(考えられていたのはミラクリンみたいな物質だったの?)

(さすが理系ですね)

(良いから報告を)

「それにしても部長は遅いのねぇ……」

 そう言って入り口の方を窺うサナエの様は、非常にわざとらしい。

(えぇ……味覚受容体の抑制っていう事では同じです。ただ、ナノマシンですので)

(確かに我等でなければ気付けませんなぁ)

(……一次感覚ニューロンから中枢神経までの部分で作用し、どうやら味覚に対する異常

な執着を見せる、と報告書には書かれています)

(おそらくは……それに加えて嗅覚や味覚の反応精度すらも変えてしまうのでしょうね。

でも、今回は何故、鳥の報告しか……)

(そこで話は戻りますが……)

(ルーツ・オブ・トレバリーとあのビルの事ね。そんでもってクラタ自身が爆弾だって事?)

(その通りですよ、サナエさん)

(まず、考えられる事は、アース・スピアー建設に当たってルーツ・オブ・トレバリーが

何かを日本政府に交換条件として突きつけた。おそらくは「金を出してやるから今からや

る事を黙認しろ」とかね)

 先程からサナエはテーブルに突っ伏して狸寝入りをしている。人差し指は相変わらず忙

しなく動いている。

(それとアース・スピアーとの関係は……おそらくクラタ爆弾の事かしらね)

(えぇ……それは未だこの事件はROTにとっては実験段階であるという事を物語ってい

ると思われます)

(実験、それはどういう事?)

(鳥への例しか報告されていないのもそれで頷けるのですが)

(それってまさか……)



                   *



 もうすぐ、一年が経つのだ。

 すぐにでも終わってしまいそうでいながら、永遠に続くのではないのだろうかとも思え

てしまう、文字通りの血塗られた毎日が始まったあの日から……。

 皮肉だった。

 出会いさえなければ、それまでは無感動にこなしていた事を、ただ続けていくだけだっ

たのだろう。何かの義務感を負うことも無く。それへの嫌悪感と、必死に抜け出そうとす

る為の希望を見付けてしまったから……どちらが良かったかは言い切れない。

 夢というモノをはっきりと見るようになったのも、一年前だ。それまでも、おそらくは

見ていた。でもきっと、携帯のアドレス帳のデータを消すのと、さほど変わらないような

無意識で夢という概念ごと頭から消去していたのだろう。

 時々、おびただしい寝汗をかいている状態で明け方頃に目が覚める。その時は、決まっ

てひどく喉が渇き、胸の辺りに狂いそうになる程の不快感が居座っている。

 終わっている夢を見る。

 俺にとっての“世界”が容赦なく終わっていて、何もかもが消えている。

 勿論、そこには彼女はいない。

 存在の証明を失ってしまっている。それ以外の何事も感じられず、ただ立っているだけ

で、その夢の中では無感動のままで時が過ぎていって、いつの間にか朝陽に連れ戻される。

 事実、ひどく臆病な自分がいるのを感じる。これっぽっちも自分が信じられなくなる時

も多々ある。その度に、彼女という存在を、あの言葉を思い出す。

 王冠に、二人で力を合わせれば、それはきっと届くだろう。



 何処かの作家の小説に書かれていた文句と一緒になってしまった、使い古されたフレー

ズではある。

 どのような影響を与えていても、真実が生きている力を与えていて……その真実はひと

りひとりの、存在が辛うじて繋ぎとめているモノで……今の俺にとっての真実は彼女に他

ならない。不可能という嵐に揺られていても、俺達……“人間”は立ち止まる事だけは出

来ない、しちゃいけないし、みんな立ち止まる事が怖くて仕方ない。真実にすがり付いて

いく。彼女が俺にとっての真実で、俺の世界でそれを繋ぎ止めているのは……俺だ。

 俺という存在が変われれば……きっとそれは、俺のあの時のような些細なキッカケや、

わずかな勇気が必要なのだろう、世界も……真実もきっと変えられる。

 信じている。変えられない世界なんて、ない。

 俺は彼女に繋ぎ止められていて……変わってやるんだ、これ以上彼女といて惨めな気持

ちにならないよう。


59, 58

  



 背中に……うすらどころじゃない、寒気を感じ出した。

「まさか、あいつ……」

 鉄の臭いが酷い。

エレベーターのゴンドラを吊っているワイヤーをよじ登っている。

「………いつ感じても、体に悪いな」

 もはやゴンドラも見えなくなった下の方から、上昇気流のような殺気が俺の体を舐めて

きた。少しでも集中力を解けば、体は俺の統制下を離れるだろう。全身の筋肉が恐怖で硬

直しかねない。

「奴等には気の毒かもしれないが……もっと気の毒なのは、あぁくそ!」

 タカハシと出会い、あの女から念を押すようにじっくりと説明された。

 “家庭の事情”とやらで、タカハシは生まれてからずっとあの女に殺人マシンとしての

教育を受けてきた。結果、殺意を感じ取るとその主を、学んだありとあらゆる殺人術を駆

使して徹底的に倒すという、そういった専門家である俺でも文句無く合格点を与えられる

程の殺人鬼に育った。これまでに、訓練と称して世界中のあらゆる紛争の現場におけるゲ

リラ作戦に雇われ兵として参加しているらしい。

 おかげで、以前のタカハシには殺しの是非といったモノへの頓着が存在しなかった。

 それがどうだろう。

 タカハシが持つ殺人鬼の顔、一年前のある出来事をきっかけにアイツはそれを封印した

という。

 だが、そういった環境に育ってしまったアイツが、守るべき存在を見つけてしまったア

イツには、その存在を守る方法が殺し屋以外には見付からなかった。

 いわゆる理性に目覚めてしまったアイツにとって、一年前の決意の時にどれ程の葛藤が

あったか、現在もジレンマにどれ程苦しんでいるか、言動ひとつひとつ取っても想像に難

くない。

 それでもアイツは周囲にその苦しみを見せる事がない。現実に対する純粋な怒りを覚え

たアイツは、親から譲り受けた血のせいか、あの女が物心ついてすぐに施した殺人術以外

でのあらゆる知恵がそうさせるのか、大人以上にアンガーマネージメントに優れている。

今までにアイツが何かに揺らいだトコロなど見た事がない。ルーツは定かではなくとも、

間違いなくそういった強さが、逆に殺人鬼である一面を見事に抑制している。



 しかし、決心が固かろうとも、鬼の子として育てられたとしても、三つ子に宿った魂と

の戦いに常勝出来るわけではなかったようだった。

 それこそが、あの女がタカハシとの付き合いの上で俺に一番心に留めて置いて欲しい事

だった。



                    *



 ゆったりと、タカハシは首を起こして、薄暗い天井を仰いだ。

「あぁ……なりゆきとは言え」

 すぅっと、肺一杯に息を吸い込んで

「非常に不本意だっ!!!」

 獅子の雄叫びのように、叫んだ。

 耳が痛くなるような静寂を、空間が取り戻すと、天を仰いでいたタカハシが首の角度を

そのままに、顔を隊長の方へと向けた。

 向かい合った彼等の五感全てに届いた。空間が、関節を鳴らした時のような、筋張っ

た音を放った。

「ひ……っ!!ひィッ……」

 戦いの場には縁遠い人間にもはっきりと分かる程に、場の空気の密度が一変した。満た

しているものは

「くそっ……殺気に当てられたか」

 依然膠着状態のままであったが、最前線に構える二人の兵士は、タカハシに向けて構え

たP-90TRの銃口をぶるぶると上下させ、指先をバネのように震わせていた。もはや、射撃

の出来る様子ではなかった。タカハシの放つ禍々しい殺気が、戦場における“シェルショ

ック”パニック症状を兵士達の体に引き起こした。感じた事のない強さの殺気に、大脳そ

のものが混乱をきたし、瞬時にあらゆる対処法を各筋肉に伝達させてしまった。

 タカハシが床を這うような低さで、弾丸の如きスピードで兵士達へと突進した。

「あ……あゥ………あ」

 一人の兵士は、指にかかってもいないトリガーを力一杯絞り、もう一人は見当違いの方

向へと射撃した。二人の奥歯はカチカチと音を鳴らし、瞳孔は開き切っていた。

「どけぇッ!!」

 後方で構えていた兵士が一人、著しい混乱状態に陥った同僚を突き飛ばすようにして身

を前に出した。その次の瞬間

 ごちゅっ

 突き飛ばされ尻餅を突くような形で、タカハシの突進を横へと回避した兵士が見たものは

「ひ………ひィィィィィ!!」

 前方に飛び出した仲間が出会い頭、タカハシの拳を顔面に受けた。ヘルメット内で人間

の頭が爆ぜた。ヘルメットや頚部プロテクターの隙間からは、血液や何だかよく分からな

い色の肉片が勢いよく飛び出した。

「あああああっぁぁぁ!!」

 尻餅を突いて、トリガーにかかっていない指をお辞儀させまくる兵士を、タカハシが見

下ろす。目付きの具合など、まるで確認出来ない暗視スコープ越しの光景は、地べたに張

り付く兵士の恐怖によってデフォルメされて、彼の網膜に、光も映さず温度など感じられ

ない、自分を見下ろすタカハシの瞳を届けた。

 ほんの一秒程のそれが、実際はそれ程の高低差はなくとも、埋められ得ぬ差に等しい差

の向こうで自分を見下ろす、彼には絶望的な場面で時が止まったのではないかと思えた。

隊長の傍らを護る兵士が、口を開いた。

 その言葉が、音として発せられるその直前

「!?」

 すっ、とタカハシの手が、恐怖のあまり口から奇声を発する兵士の手元に伸びた。その

仕草は、記述の誤りを直そうと消しゴムに手を伸ばすような、あまりに自然な仕草であっ

たので、周囲の行動そのものへの反応を遅らせた。抜けてしまい動かない腰を動かして必

死にタカハシと距離を取ろうとしていたのにも関わらず、タカハシの動きには支点となる

肩に現れる、おこりの動作が確認出来なかった。見事にタカハシの行動を許した。

 タカハシの指が、尻餅を突く兵士のバネのように動く人差し指を摘んで、そっと優しく

シグザウエルのトリガーに添えてやった。指の震えが一瞬止まる。

 一瞬の出来事だった。

「動くなァ!!」

 そして、隊長を背後に立たせて銃を構える兵士の口から言葉が発せられた時には、恐怖

が再び降り立っていた。

「!!?」

 銃口よりも冷たい目を持った少年は、既に兵士達との距離を脱兎のような移動で確保し

ていて、そして

 タタタタタタタタタ………

 恐怖で腰が抜け、前後不覚に陥った兵士の銃から、弾丸が発せられた。その銃口の先に

あったのは、機械的に増幅された光の風景が見せる

「ぐぁっ」

 展示施設用の貼り付け資材もない裸の、とても強固な床だった。おびただしい数の跳弾

は、ポジションの定まっていない銃口のお陰で四方八方に飛び散り、友軍を、そして発し

た者自身の膝を、捉えた。

(このガキ……これを予測していたのか………?まさか!)

 隊長の背筋を、温度の感じられない汗が伝った。

 やっと自分自身の制御に成功したといった感じだった。

 まだイケるはずだ。

 “死神”を発動させてしまうと、ほぼ無意識に体が殺気に反応してしまう。この状態が

長引けば長引く程、自我を取り戻す事が困難になってしまう。己の力だけで俺を取り戻せ

る限界を超えると、そこから先は誰かの実力行使で取り押さえてもらわなければならない。

おそらくは両脚の腱が断裂でもしない限りは死ぬまで暴れ続けるだろう。

 問題なのは、そんな風になってしまった俺を止めるのに足る実力を持った人物の心当た

りが……現在ほとんどない、いない。

「くっ……」

 “隊長”の横を任された兵士が、なかなか優秀なのは予想外だった。距離的には跳ねた

弾を喰らい戦闘不能ないし機動力を失っても良かったのだが。俺の動作に瞬時に反応して

一歩身を引いていた。お陰で右腕とヘルメットを少しだけ穿っただけに被害を留めていた。

 残された兵士が、辛そうな声で銃を構えた。

「いや、お前はもう良い。下がっていろ」

 焦燥に駆られる兵士の肩に、隊長が手を置いて、そう言った。

「で、ですが隊長」

「二人で戦っていても無駄な被害を増やす可能性が高い。サシでやらせてもらう」

「しかし」

「上官命令だ。お前は今すぐ上層部に状況を報告し、もう一人の賊の所在を確認しろ」

「………はっ!!」

 どっしりと落ち着いたその態度で命令している隊長には、顔を背けて俺と相対している

にも関わらず、殺気が感じられやしないし、一分の隙も見付けられなかった。

 胸の前で銃を構えてから踵を返した兵士の背中に、隊長が

「行動は迅速かつ確実に、戦いたければ私を手伝いに戻ってこい」

 声をかけた。

 バーナーで空けた防火扉の穴に消えていった兵士を確認すると、彼は俺の方へ向き直った。

 とても参った。

 焦燥に駆られる助手を従えた隊長とのハンディマッチの方が、この暗闇の中では幾分都合が

良かった。煙に巻いて逃走というプランも出来たというモノだ。全てはこれ以上の戦闘、つ

まり殺気を向けられる事を避けるためだ。

 雑魚一人いれば冷静に戦えた。

「……と、またせたな。背を向けていながら何もしてこんかったのは……まぁすまん」

 言うに事欠いて、とは言えなかった。

 少し無理をしてでも不意打ちにもならない攻撃をするべきだったのだろうか。これ以上

奴を覚醒させているのは、危険過ぎる。

「………ちっ」

 隊長が逆手に持ったアーミーナイフを胸の前で構えて腰を落とした。今まで装備してい

た暗視スコープは既に外していた。この暗闇で全方位からの殺気に、即座に反応する為の

行動だろう。ゲリラ戦ならまだしも、タイマンである場合なら殺気に敏感な戦士にとって

暗視スコープは実に邪魔な代物だろう。

 やめてくれ。

 今、殺気を向けられたら奴は確実に俺と繋がるカラビナを捻り切ってしまう。

 目の前にいる男は……勝負を早々と終わらせてくれそうになかった。

「部下を大切にするんだな……野球の監督なら出世しただろうに」

 軽口。少しでも冷静になって、それから俺として俺の戦いをしたかった。ここには彼女

はいない。トモハラさんもいない。もう彼女の声が聞こえない所に行きたくはない。

 今は闇がとても怖い。



                   *



 あれは、大戦が終わったにも関わらず落ち武者達が悪あがきする暫定的敵国の討伐を請

け負った、自分の所属する傭兵部隊が遭遇した三十八度線付近での出来事だった。

 狂信的な一般市民による、人の壁とも言える行為を制圧する部隊の、自分はその最前線

にいた。

 斃しても斃しても顔を現す武装勢力の殆どは、何の訓練も受けていない子供や女性、そ

の祖父母であろう者達で、奇声を上げながら無謀な突進をするだけだったが、その内に自

分の部隊も一人、また一人とシェルショックや誤射によって精神を病むか負傷して戦闘不

能に陥っていった。

 この時点で自分達はノルマンディー上陸作戦での失敗を連想していた。

 狂信的に政府を信頼する住民達に、骨董品と化した銃器と当時日本に密輸していた脱法

ドラッグを大量に渡し、後の判断を任せたのだった。後の判断は、シナリオ通りだった。

 双眼鏡越しに、大型トレーラーが市民達のキャンプを絶えず出入りしている。コンテナ

の中身はきっと、歩兵と彼等への“支援物資”だろう。歩兵に“と金”への夢を吹き込ん

でいるのが容易に想像出来た。

 一佐、これは一体…と自分を昔の肩書きで呼ぶ彼は、陸自を抜け傭兵部隊へと志願した

自分についてきた変わり者だった。彼の始めて派兵された現場がここだった。初めの任務

では、三十八度線付近の集落を前線基地としている部隊を制圧、民間人を保護せよ、と言

い渡されたのだが…現実はどうだろう。彼は先程からカラシニコフを握る手が覚束ない。

聞いた話では、彼には今自分達を殺そうと目を血走らせている少女とさほど変わらない歳

の妹がいた。

 ひどい状況だった。テレビ放送では包み隠される程の惨状である。集落は、土壌は貧し

くとても固い、生命感に乏しい。住居も豊かな環境で育った我々から見ればバラック壊れ

る途中……と言って適切だった。

 本来であれば、この惨状から民間人を救い出して、支援するというコンセプトで始まっ

た三十六度線作戦だった。過去の失敗もあるので米帝の介入は一切ない。

 だが、慢性化した社会問題は危機として受け入れられないというのを痛感した。

 叩くべき場所を間違えたな…隣で部隊長が呟いた。

 辺りは漆黒の闇に包まれている。こちらが大人しいのもあり、向こうからの攻撃は止ん

でいるモノの、痛い程に不器用な無数の殺気が向けられているのを、未だ精神を病まずに

タフに臨戦態勢を維持している、わずかな人員は感じていた。

 相手は素人、数があるとは言え奇襲攻撃で抑えてしまえば被害は最小限に食い止められ

ると推して、自分達は機会を待った。やたらと緊張感が漂う、やたら感傷的な猥談がだら

だらと続いた。

 そんな、ぎりぎりと張った糸を切ったのは一本の緊急連絡だった。

 各自撤収、使う前より綺麗にがモットー…意訳すればそんなトコロだろう。約数分、そ

の連絡が信じられずポカンとした状態で、自分達は眼下に見える集落を見ていた。

 風がそよとも吹かない、水面に一石が投じられた。突如として無数の銃声と爆発音が、

きん、と張り詰めた空気に響き渡った。

 一佐、これは一体…狼狽していたのは部隊全体だった。それまではこちらに向けられて

いた殺意のベクトルが、急にあさっての方向へと移ってしまった。

 本部からの応答にこの事態への説明はなく、ただ撤退せよ、の繰り返しだった。

61, 60

ウド(獅子頭) 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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