第十八話 Irony Browneis
ショッピングモールを抜けるとそこは廃墟だった。
題名をつけるのならば雪国ならぬ亡国といったところか。
おれ、実はいま結構うまいこと言わなかった? なにそんなことない? ふむ。まァいい自画自賛は無銭でできる。
総合百貨店がスイスアーミーナイフみたいな万能感を演出し始めた近代において、系列も違うサービスも違う店主の性格も店から店への距離も愛想もまったく違う商店街などというものは文明人気取りの民衆から見放され、あっという間に閉店のドミノ倒し。
おとなしく隠居できた靴屋もいれば一家まとめて首くくったプラモ屋もいる。
共通しているのは、おれがガキだった頃は、どの店も青息吐息ながらも生き永らえて、店を覗けば見慣れたツラをさらしていたということだ。
いまではもう、冷たいシャッターがそんな記憶の絵画の展示を終了せしめて久しい。
蒼葉は、おれなどいないかのように、一軒の店先の前にしゃがみ込んだ。
アーチ天井からの狭い採光のせいでモールは薄暗く、蒼葉がなんだか悪いことをしているかのように見える。
が、蒼葉はすぐにするするとシャッターを開けてしまったので、本当に悪いことをしていたのだった。
シャッターには『まちるだプラモ』と書いてある。
「鍵は?」
「壊した」
これである。我が国の義務教育は一人の幼女を素敵な女子高生にすることはとうとうできなかったのである。
おれは天を仰いだ。天国にいたる道には埃が拡散していた。
太ももあたりまで引き上げられたシャッターをくぐって蒼葉が中へと消えた。
おれは、屈む労力とささやかな好奇心を天秤にかけてぐらつかせてみたが、好奇心がやや重そうな按配だったので、頭をシャッターの下にくぐらせた。
同じように屈んで店を出ようとしていた蒼葉と、ゼロ距離で見詰め合った。
蒼葉はやはり美人だ。
しかしずっとその顔を眺めていることはできなかった。
馬の足蹴りのような頭突きを喰らっておれはかよわい乙女のようにしりもちをついた。
「なにするの!」
「邪魔」
ごもっともとしか言いようがない。
おれはそそくさと立ち上がってズボンについた葉っぱやら泥の欠片やらを払い落とした。おれたちの住む町にボランティア精神はない。
いくつかスプレー缶を抱えて店から出てきた蒼葉は、適当に缶をばら撒いた。
カンカンカン……と缶がばらばらに転がっていく。
蒼葉は手に持った青いスプレーひとつを携えて、閉じたシャッターの前に立った。
シャッターには『おはな麻倉』と書いてある。
シューッ。
蒼葉はそれを上から青い噴射マーカーで塗りつぶした。おはな麻倉はこの世のどこにもなくなってしまった。
「駆郎、赤取って」
足元に赤スプレーがどっちに転がろうか迷うように揺れている。
おれはそれを拾って蒼葉に放った。
やつはパシッとそれを掴むと、青と赤を使って落書きを始めた。
シューシュー音がするたびに、手馴れた様子の蒼葉の手が鮮やかにラインを描いていく。
おれは素直な感想を述べた。
「熊か」
「ネコ」
それはどう見ても耳が大きすぎたし、目は獲物を狙う獰猛さに溢れていたし、とても子どもが枕に印刷されているのを見て喜ぶタイプの生き物じゃなかった。
が、おれは「にこ……」と例の紳士スマイルを浮かべて蒼葉の自尊心をそのままにしといてやった。
蒼葉は、楽しいのかつまらないのかよくわからない表情のまま、灰色のキャンパスをカラフルにしていった。
ドラゴンのようなペンギンを描きながら、蒼葉はこちらを見もせずに言った。
おれがなにも聞かずに棒立ちだったので気を回したのかもしれない。
「あんたも描けば?」
「へ?」
「テキトーにそのへんのスプレー使っていいよ」
清算どころか間違いなく領収書のツケさえしてないだろうに蒼葉はとても偉そうだった。
「でも生き物縛りね。ここは動物園にする予定だから」
ペンギンの眉(!)を描いていた蒼葉の手が、そのときはたっと止まった。
そおっと振り返って、おれを恐れるように盗み見る。
「……なによ」
「えっと……」
おれは頬をかいて、大変申し訳なさそうな気配を出した。
「もっかい言って? なににするって?」
蒼葉はちょっと口ごもったあと、動物園、と繰り返した。
確かに聞こえた。でもおれは聞こえなかったことにした。
「え、どうぶ……え? なに? もっかい! お願いもっかい言ってみて! わんもあ!」
「――うるさいっ!」
蒼葉はスプレー缶を投げてきた。
それは難なく受け止めたが、おれは呆気に取られて、軽口も出てこなかった。
あの蒼葉が、顔を赤くしていた。
悔しそうに下唇を小さな前歯で噛み締めている。
なんだこいつおれのこと好きなのか? おれとこいつじゃツンデレとツンデレだから反発しちゃうと思うのだが、まァそれもいいか……。
妄想するだけならタダだ。
おれは怒り狂ってポイポイ缶を投げてくる蒼葉をやり過ごしながら、テキトーな灰色のキャンバスに落書きを始めた。
ゴキブリもこのスプレーで死ぬのだろうか。
仮に殺せても台所の床とか洗面所の壁とかが真っ赤に染まっていたら、うちの母親はパニックを起こしてうっかりおれを殺すかもしれない。
前、捨て猫を一ノ瀬に頼まれて飼い主が見つかるまで預かる約束をしたことがあるが、それが母にバレたときは夕食にネコが出た。
添えてあったしょうゆの小皿がなかなか笑える配置だった。
うちの母はお分かりの通り、そろそろ入院した方がいいのだが、よその目があるときはネコを被ってやがるのだ。
ツギハギだらけの薄っぺらいネコの着ぐるみだってことを本人だけがわかっていない。
狂人は空気が違う。
隠そうとしたって無駄だ。
おれやエンのように諦めるのが一番なのだ。自分をやめられるやつはいない。
五人のなかでおれだけがこんな暮らしをしてるのだから、性格が小さじいっぱいぐらい捻くれていたって文句を言われる筋合いはないはずだ。
おれの絵が佳境に入ったとき、あらかた理想通りの展示動物を配置し終えた蒼葉園長が眉をひそめて聞いてきた。
「これ、なに? 猿?」
「おまえ」
思い切りぶっ叩かれた。見なくてもわかる、背中に紅葉マークがついたはずだ。
なんてひどい野郎だ。おれは涙目になって抗弁した。
「なんだよ! せっかく動物たちのなかに混ぜてやったのに」
「じゃあ、どうしてあたしはバナナ持って小首傾げてるわけ? 猿にエサやる順番を忘れでもしたっての?」
「仕事はまじめにやらないとな。細かいことでもメモ取るくらいで丁度いいんじゃないかなテテテテテテテ」
耳を引っ張られてしかもねじられたので、おれはあっけなくその場に倒れ伏した。ヘタに抵抗したら千切られる。
「いや園長はいなきゃダメだと思ったんすよ、蒼葉さん園長になったら一生ついてくっすよ」
パッと蒼葉はおれの耳から手を離した。
おれはガサササッと素早くシャッター際まで退避しおおせた。
続く攻撃をノーガード戦法で待ち構えたが、蒼葉は急にぼんやりしてしまって、動く気配を見せなかった。
「あの、蒼葉さん?」
「……」
「おーい」
「……」
ドスッ。
たいへん失礼な擬音かもしれないが蒼葉がその場に腰を下ろした音である。
体重を乗せて腰を下ろしたため音が重たく聞こえたのだと信じよう。蒼葉の見た目で体重が深刻なレベルに達しているのだったら、おれはもうどんな女子も素直な目で見れなくなってしまう。
「動物園の園長ね」
蒼葉は、今度はずるずると身体を伸ばして、とうとう汚いモールのど真ん中に大の字になって寝転がってしまった。
「なれたらいいね」
自分だけ立っているのもおかしいかと思い、おれもその場にあぐらをかいた。
「なりたきゃなれば?」
ちらっと蒼葉が、眠そうな目を向けてくる。
埃に曇ったアーチ天井の採光ガラスが、太陽の猛威を和らげている。
横たわった蒼葉は綺麗だった。
「簡単に言うじゃん」
「他にどう言えってんだよ。向いてんじゃねえの? おまえ小学校んときとか生き物係やってたじゃん。ウサギにエサあげたりとかよ」
「ああ……」
そういえば、とおれは記憶を空中に投射する。
あのウサギは、卒業する直前に、病気にかかって死んだのだった。
蒼葉はそのとき、どうしていただろう。
思い出せない。
「そんなこともあったね……」
「冷たいやつだなァ。忘れてたのか?」
「いや……でも、忘れてたかもね。あたしはひどいやつだから」
「ふうん」
おれは手近にあったスプレーを手に取り、その構成物質を読み上げるようにしていった。
「今日は珍しくしおらしいな」
「殴られたしね。衝撃で気弱になったかも」
「ふん。人を殴ってきたやつが殴られたぐれえでメソメソするなィ」
「ふん」
蒼葉はおれそっくりに鼻を鳴らした。
「おまえなら、そう言うと思った」
「でも、人間にはひどいやつでも、おまえは動物には優しいからな。園長ぐらいにはなれるさ」
「はは」
眩しそうに、蒼葉は日差しから目を庇った。
「そういうことじゃ、ないんだよ……」
傷ついたり弱ったり人間はするが、同胞にしてやれることは、驚くほど少ない。
ヘタクソでカラフルな動物園の真ん中で、蒼葉はぴくりとも動かず、おれは視界の端っこにやつを捉えたまま、ぼおっとしている。
おれになにかを期待しても無駄だということに蒼葉が気づくまで、もう少し時間がかかりそうだ。