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第二十二話 夢の鼓動

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 背負った風止がしきりに、殺される、殺される、とうわごとを繰り返すので、誰に、と聞くと、自分にだと言う。
 たしかにいま、風止を傷つけようとしているやつは世界中のどこにもいない。いるとしたら本人だけだ。だが、世の中には見えない流れというものがあって、それが風止を苦しめているのも、また事実だ。
 世界の最小基本原子は『苦痛』である。
 おれには関係ないが、ゲロまみれの制服もゲロぶちまけた半死体も放っておくわけにはいかなかったので、ひとまず保健室に搬送した。
 幸か不幸か、保険医は外出していて姿がなかったので、引き戸には鍵がかかっていた。なので校庭側の窓から侵入した。ここの鍵はいつでも開けておくことが生徒間の協定で義務付けられている。保険医が昼飯食いにマックいってる間にごろちゃらできるからだ。
 いま、保健室には誰もいない。ラッキーだ。まだおれの悪運も尽きちゃいない。
 デスクの上の時計を見る。まだおれの七月八日に猶予は残っている。
 風止をビニール椅子に腰かけさせてみた。焦点の合わない目はぐらぐらしているし身体も落ち着かずゆらゆらしている。しかしいますぐ倒れこむ様子はない。
 おれはスッカスカになったジェンガを心配するように風止を見守ったが、大丈夫そうだ。
 まずゲロまみれの制服をなんとかしなければならない。おれは誰が読むのかまったくもって不明な学生向けの医療に関する書籍が並んだ棚、その下の戸を開けた。
 埃にまみれた雑多なもののなかに、比較的新しいダンボールが一箱ある。
 張り紙には『リサイクル』と角ばった字。卒業生が残していった制服やジャージ、上履き類だ。
 そこからLサイズの夏服を一そろい、そしてちょっと迷ったが、女子用のブラウスとジャージの上着も引っ張り出した。
「おいゲロ女、とっとと着替えろ」
 着替えを床に放り投げてみたが、風止は反応しない。なにか呟いているがあまりにも小さくて声が聞き取れない。
 おれはとりあえずベッドのカーテンレールを引いてそこでせせこましく着替えた。べつに風止の着替えなんぞ見たくもない。
 何年か前の、いまはもうどこかへ吹き飛んでしまったにおいがする制服に着替えてカーテンを引くと、やっぱり風止はそのままの姿勢で、ゲロまみれだった。
 スカートは無事だがブラウスがひどい。変色しているし異臭がする。おれは校庭側のカーテンを全部閉めた。
「おい、着替えられないのか」
 風止は答えない。ちょっと迷った。だが、べつに気にすることじゃない。
 おれは風止の前に屈んで、ブラウスのボタンを外した。男子のワイシャツとはボタンをかけるのが逆だというのは本当だった。
 はらりとブラウスがはだけると、白いブラが現れる。なにも感じないし、なにも思わない。
 それは、べつに風止の胸が貧しかったからじゃない。そのときのおれの頭は、欲求や刺激よりも、すぐに訪れるであろう自分の未来に待ち受ける暗い穴ぼこのことで一杯だったのだ。
 それに、欲情なんてとてもできる身体じゃなかった。青あざと打ち身でいっぱいの裸身なんてものは、いくら女子のものとはいえ好みじゃない。
 誰のものともわからないブラウスを着せ、吐いたあとで寒気がするかと思いジャージを肩から羽織らせる。ときおり、風止の首はかくんと落ちた。眠いのかもしれない。
 おれは、ゆっくりと、本来は保険医が座るべき椅子に座った。患者と医師のように、風止と向き合う。
 わかると思うがおれは医者じゃない。だが、その真似事をすることになりそうだ。
 第一声を考えあぐねた末に、出てきたのは、
「なにがあった?」
 そんな当たり障りのないセリフだった。
「……」
 風止がわずかに視線をあげた。
「わたし、おかしいの……おかしくなっちゃったの……」
「安心しろ。おまえは最初から十分おかしいよ」
 何気なく言った言葉だったが、風止は、おれの見間違えでなければ、少しだけ笑った。
 だが、スポンジに染み入る水のようにそれはすぐに消えてしまった。
「クロくん。わたし、わたし」
「おう」
 無理に急ぐなとか、ゆっくりでいい、とかは言わない。ふつうに、手を膝の間で組み合わせて、気楽なポーズで。
 おれ自身がリラックスしていなければ、風止も落ち着かない。おれは、慌てふためくポーズが人への善意の伝え方であると勘違いしているバカどもとは違う。
 風止は言った。
「わたし、二重人格かもしれない」
 おれは、頬が引きつるのを抑え切れなかった。風止が俯いていたのが救いだ。
「へえ。それで?」
 なんとか平静を保てたと思うが、どうだろう。
「おかしいの。わたし、わたしなにもしてないのに。こんなこと今までなかったのに。あの日から……疲れてるだけだと思ったのに、でも、でも、こんな」
「うん」
「こんな…………」
 風止は、身体を揺らすのをやめた。が、今度は小刻みに震え始めた。冷房は十分に効いているし嘔吐した後だが、それは原因ではないだろう。
「なにがあった?」
 長い長い間があった。
「…………黒板を消してたの。日直だったから」
「へえ、偉いな」
「――――。わたし、確かに見たの。確認したの。間違いなんかじゃないの」
 間。
「なにが?」
 間。
「七月四日」
 おれの背筋になにか冷たいものが走った。なぜだろう。七月四日がなんだというのだ。
 ただ、おれが蒼葉を殴って停学になっただけの日だ。べつにおかしなことなんてなにもない。
 それだけの、つまらない日だ。
「確かに見たの……」
 おれは改めて風止を見た。俯き、前髪がその目を隠している。おれは唐突にその場を逃げ出したくなった。
「四日だったのに」
「やめろ…………」
「四日だったんだよ」
「――――――っ!」
 最後の自制心だった。
 おれは、風止に怒鳴り散らし、わき目も振らずに逃げ出す、という欲望を全力で鎮めた。
 手の平が勝手に、膝の上で拳を作る。
 風止は言った。
「わたしの目の前で、七月四日が、七月八日になったの」
 ああ。
 終わった。
 もう逃げられない。なかったことにはできない。
 どうにもできないことが、どうすることもできないことが、おれの前にやってきた。
 とうとう、ようやく。
 ぶつぶつと、きっと四日からのわたしは違う人格だったんだとか、あの日からずっとぼうっとしてるだけだと思いたかったとか、てんで的外れなことを言っている風止の声が遠く聞こえる。
 眼球というテレビを通して、風止を見ているような気がした。
 なにもかもが遠い。
 だが、現実だ。
 現実からは逃げられない。蒼葉はいった。社会的に生きる、秩序に沿って生きる、所詮あんたもいつかはそうなるしかないんだ、駆郎。
 黙ってろ。
「風止、お願いがあるんだ……」
 自分でもびっくりするくらい弱弱しい声が出た。風止もそう思ったらしい、ぽかん、と、そのときばかりは正気に戻ったような顔になった。
「おまえが、意識があった時間と日にちを、教えてくれないか」
 風止がそれを記録していたことは、幸運だったのだろうか。
 それは結局、最後までわからないことなんだろう。
 人生と選択が吉であったか凶であったか、それは死ぬまで生きなければきっとわからないことなのだ。
 おれは、風止が書き起こした日付を見た。おそるおそる渡されたそれを、穴が開くほど見る。
 間違いなかった。詳しく確かめる必要もなくわかってしまった。













 風止美衣子は、おれがここにいる間だけ生き、

 それ以外のときは、死んでいる。

 そして、死んでいるときの記憶と行動の補完は、ない。

 神様の見えない糸が、聡志やカツミやリカやエンやマナがここにいるときの風止を紡いで繋げてくれるなんて

 夢物語は、期待逃れは

 そんな奇跡は初めから、起こってなんかいなかった。

 死人がそう易々と生き返るはずもない。

 風止は飛び飛びの意識で、自分の心と存在に確かな自信を持てないまま、

 学校に来て、青あざを作って、そして、ときどき強くなろうとしていた。

 誰にも合わずに落ち込むこともできる時間を、身体を鍛えることに使い、そして心もそれに引き合うように強くなろうとしたんだ。

 よくわからないことが自分の身に降りかかったのに、それを誰にも相談できないまま。

 たったひとりで。

 ずっと戦い続けていた。

 気のせいかもしれない、疲れているのかもしれない。

 そんなありえない幻想も、そんな痛々しい虚勢も

 目の前に叩きつけられた恐怖の暴力で壊れてしまった。

 ああ。















「おまえはすげえよ、風止」














 おれに、ほかになにか言えただろうか。
 そのときは、それしか言うことが思いつかなかった。
 それを聞いて、風止はほんの一瞬、疲れたように笑ってから、おれに飛びついてきて声も出さずに泣いた。
 袖を掴む力は、おれのシャツを上から突き破って、血を噴出させそうなくらい強かった。
 風止は声をあげて泣かない。
 静かに胸に沁みていくやつの涙が、おれの心臓にまでやつの悲しみを伝えてきた。
 しかし、この涙も、この震える身体も、時が来れば、また死ぬ。
 おれは、あの日から、今日まで、いったい何回風止を殺してきた?
 何回、こいつの意識は死の切断に切り刻まれてきたんだ?
 なんで誰も助けてやらない?
 それは、この世に、誰かの助けなんてものはないからだ。
 この世は、奪うか奪われるかだからだ。
 それがすべてだからだ。
 なにもかもが、風止からすべてを奪ってきた。
 心も身体も時間も生命も。
 このまま、こいつは、わけもわからず、点いたり消えたりする気まぐれなガキの見るテレビみたいな一生を送るのか?
 なにもかも奪われたままで。
 なにひとつ自由にできずに。
 おれが、このおれが、こんなことを思うのは、間違っているかもしれない。
 いまさらなにを、と言われても仕方ないと、自分でも思う。
 ずっと自分勝手に生きてきた。
 他人なんぞどうなろうが知ったことじゃないと思ってきた。
 個別に生きて各自で死ぬ、それが普通で、助けを期待されても困ると思った。
 おれは、逃げていた。
 期待されても応えられないかもしれない、そのことから。
 おれには、荷が重過ぎる。そう思っていた。
 でも。
 もう逃げられない。
 どうにもできないことを、どうにかしなければならない時が来た。
 なんの理由もなく、なんの見返りもいらない。
 手の平返しも甚だしいのはわかってる。
 嗤ってくれてもいい。
 おれは、この震える怯えた生き物を助けたい。


「風止」

「――なに?」

「鼻水をふけ」




 おれから離れた風止は恥ずかしそうに、鼻紙でチーンと鼻をかんだ。
 それがおれにとってのゴングみたいなものだった。
 かならず風止を助けてみせる。
 人生は、勝負でできている。
 おれは、負けなかったが、勝ちもしない人生をここまで送ってきた。
 吼えては噛んで牽制し、戦いになる前に撤退してきた臆病者だ。
 おれなんかより、負け続けても戦いをやめなかったやつの方が何千倍も偉い。
 神様、世界、現実。なんでもいい。
 ずいぶん長いこと延期にしていた決勝戦だ。
 もう逃げも隠れもしねえ。
 なにもかも、このおれが、おれの思い通りにしてみせる。
 珍しく、スケベでも下品でもねえ夢を見たんだ。
 悪いが今回ばかりは叶えさせてもらう。
 おれは、今度こそ、てめえを潰す。
 てめえだけは絶対に許さねえ。
 風止が許してもおれが許さねえ。
 覚悟しろ。











 このゲーム。

 勝つのは、おれたちだ。

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