第二章
(0‐5)
柿田淳一は、煙草の吸殻をうちっぱなしのコンクリートの床の上で潰して、勢いよく立ち上がった。ひとまず誘拐してきた女の子のほうは置いといて、長椅子に座っている老人に視線をぶつける。
どうしてこんなことになってしまったのか――その答えは、いわずもがなこの老人だ。
なんとか通報されずに廃工場まで遁走してこれたものの、余計なものまでくっついてきてしまった。彼がランドセルを回収したことに関しては、確かに犯行現場の特定をされる危険の芽は摘みとれたかもしれないが、結果オーライで片づけられるようなことではない。そもそも、この老人がここにいること自体がランドセルうんぬんよりも何倍も重大なのだ。
計画は出だしからつまづいてしまった。これは完全なイレギュラー。想定の埒外だ。
「おい、てめえ……よくも俺の邪魔してくれやがったな」
柿田の苦情に、老人は一言も答えなかった。「聞けよクソジジイっ」と柿田は老人の胸倉をつかみ上げる。しかしすぐにつかみ返され、逆に柿田のあごが浮くはめになってしまった。所詮は老いぼれと高をくくっていた柿田は、心の中で舌打ちする――老人の目は、確実に堅気のそれではなかった。瞳の奥に、嫌なものが巣食っている。
「ちくしょうが」柿田は老人から距離をとる。「てめえ、どこのどいつだ」
老人も手を放して、セーターの下に着たシャツの襟を正しながら、「甘夏(あまなつ)」とだけ言った。それっきり唇を結んで、また長椅子に腰を下ろしてしまう。
「なんの目的であそこにいやがった」
「…………」
「てめえも俺みてえに誘拐するつもりだったんかよ」
「…………」
「その年になって犯罪しようなんざ、ヤキが回ったとしか思えねえな」
柿田がそこまで言うと、甘夏はようやく唇を開いた。ただ、言い返そうとしたわけではなく、柿田の言葉を無視した形で言った。
「とりあえず、その女の子の口だけでも解放してあげたらどうだ」
「あん? わざわざ自由にするメリットなんかあんのかよ」
「きさまはその子のことをどこまで知っているというんだ?」
言われてみれば、ほとんど……というよりまったく知らない。標的に彼女を選んだものの、下調べといったものはなに一つしてこなかった。確かに、名前や住所、家の電話番号も知らないのでは話にならない。甘夏は、それを聞き出せと教唆しているのだろう。
「ったく、しょうがねえな」
女の子に手を伸ばすと、彼女はびくりと目を瞑った。気分的にやりづらいが、ここで躊躇しても仕方がないので、柿田は口を覆うガムテープをべりべりと引き剥がした。涙声で呻いている彼女を尻目に、「これでいいのかよ?」と柿田は甘夏のほうをむく。
しかし甘夏が首肯するよりも早く、柿田の背にか細い声が触れた。
「……お、お兄さん? どうして、私……」
恐怖、不安、戸惑い、怯え――そのすべてが女の子の潤んだ黒目に内包されていた。そして、それにもまして裏切られたような感情が深く見てとれた。
「ガキ、俺を恨むんじゃねえぞ」柿田は頭を掻きながら、溜息交じりに言った。「ほかに誰を恨めっつってもできねえかもしんねえけどな」
「……おい、若造」と甘夏の声。
「わかってらあ。情報を聞き出せばいいんだろ? ……おい、ガキ。別におまえをとって食ったりはしねえよ。おとなしくしてりゃ、パパとママんとこに帰してやる。だからそのために、これからする質問に答えろ。正直にな。嘘ついたらただじゃおかねえぞ」
わきわきと動く柿田の十本の指を見て、太股をすり合わせるようにしてこくこくと頷く少女。おもしろいぐらいの反応のよさだ。柿田は携帯を取り出して、ツールからテキストメモを開きながら机の上にあぐらをかいた。
「じゃあ、おまえの名前から聞こうか」
「…………」
「ああ? 言えねえなら、まずは腋からいくか?」
「なっ! ……梨元、保奈美(なしもとほなみ)です」
「住所は?」ナシモトホナミと打ちつつ、柿田はつづける。彼女はてきぱきと質問に答えていく。思っていたよりも、パニックが解けるのが早いみたいだった。もしかしたらこの事務的なやりとりが、心を少しずつ落ち着かせているのかもしれない。
得た情報をまとめてみると――彼女の名前は梨元保奈美。市立君鳥小学校第五学年。住所の番地は柿田の予想通り、裕福な家庭が連なる住宅街だった。
「あー、次……家族について」
いい加減、指が疲れてきた柿田は気だるげに言った。
「私は一人っ子です。お父さんは会社員で、お母さんは主婦です」
「同居は? ジジババとかいんだろ」
「その、してません。お父さんのほうもお母さんのほうも、おばあちゃんは元気ですけど、おじいちゃんはどっちも私が生まれる前に亡くなってしまったそうです」
最後にためしに父親の勤め先を聞いてみたら、誰もが知っている業界大手の有名企業だった。ゴールデンタイムでコマーシャルを垂れ流しにしているのを知っている。
柿田は携帯を閉じて首をぱきぽきと鳴らした。
「……よし、一応はこれでオッケーだろ」
そう甘夏に確認を求めるように振りむいて、ふと、柿田は彼の足元にある鞄に目がいった。革製だが、ランドセルではない。年季のはいったボストンバッグだ。
「それ、てめえの荷物か? ちょっと見せやがれ」
柿田は机から下りて、ひょいと鞄を持ち上げる。ぼんやりと保奈美のほうを見ていた甘夏は反応が遅れて、腰を浮かしかけただけで奪い返そうとはしなかった。
鞄の中身は、手帳や透明な小壜、駅前に置いてある地域のパンフレットなどなど、変哲もなかった――だが、妙に小汚い茶色の封筒を発見して、柿田は首をかしげた。
これだけ時間の重ね方が違う気がした。
何度も上塗りされた糊を剥がして、中身を覗いてみる。柿田は「うおおっ」と声を上げた。そこに入っていたのは、一万円札の束だった。
「あっ、おい。なにをしているんだっ」
甘夏が血相を変えるが、柿田は気にせず枚数を数える。
ちょうど二十枚。二十万円だ。
柿田は口笛を吹いて、茶封筒を指で弾いた。
「こいつはラッキーだぜ。軍資金が舞い込んできやがった」
「ふざけるんじゃない。その金はだめだっ」
つかみかかろうとする甘夏に、柿田はずいっと額を寄せた。小悪党の顔で言う。
「俺は今、金がねえんだよ。これを使わねえ手はねえだろうが。このままだったら計画はいき詰まんぞ。俺もてめえもガキも、断食(ラマダーン)することになるんだぜ?」
甘夏はそこではじめて、うろたえたような顔を見せた。
「同じ誘拐犯じゃねえか? もうこうなっちまったら共同戦線を張るしかねえだろ。てめえがこの金を渡せば、ひとまずは仲間だと認めてやる。稼ぎだって山分けしてやるよ」
共犯関係になるしかない――それは確かにやむをえない形で思っていたことだったが、「仲間だと認める」だとか「山分けする」だとかは真っ赤な嘘だった。とりあえずは二十万を入手しておいて、そのうちどこかで蹴落とせばいいと柿田は考えていた。
「………………」
甘夏は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、やがて、わかったともらした。
「よっしゃ、決まりだな。俺は柿田淳一。よろしく頼むぜ、ジジイ」
柿田は早速、二枚ほど一万円札を引き抜くとジャケットのポケットに突っ込んで、ドアにむかって歩いていく。どこにいく、と訊ねた甘夏に対して必要なものを買出ししてくる旨を告げ、保奈美を見張っているようにと付言してから、事務所を出ていった。
壁のむこうから、カンカンカンと機嫌よさそうに螺旋階段を下りる足音が響く。それを聞きとげたあとも、柿田が監視を命じたばかりだからだろう、保奈美は口をつぐんで身動き一つとろうともしなかった。初対面の老人――しかも誘拐犯――と二人きりというシチュエーションも、手伝っているのかもしれないが。
そんな彼女は、甘夏の頬のたるんだ横顔を見る。
伏せた目の印象をどこかで見たような――そんな気がした。
一時間もかからないうちに、柿田は戻ってきた。
調達してきたものは、携帯電話の電池式の充電器、二リットルのペットボトルや日持ちするパン類など。ちゃっかり煙草も買ってきている。
腹が減っては戦はできぬということで、三人はおにぎりを頬張りはじめた。保奈美は両手が使えないので、柿田が口元に差し出してやる。与えられたものを精一杯口に含んでいる様は、どこか小学校の飼育小屋のウサギを思い起こさせた――昔の、少年だったころのことは、柿田としてはあまり思い出したくなかったけれど。
食事を終えるころには、紫色の空のむこうで日が暮れていた。川の対岸から届く街の外光のおかげで意外と明るかったりしたのだが、柿田はろうそくにライターで火をつけた。お互いの顔が判別できるくらいまで室内が淡く照らされる。
柿田はそのままくわえた煙草に火を移した。食後の一服の煙を、ゆっくりと虚空に浮かべる。携帯を開いて時間を確認すると、午後八時に引っかかるところだった。
タイミング的には悪くない。煙草を踏み潰してから、柿田は悠然と宣言した。
「今から、電話をかけるぜ」
どこに、と問うまでもない――保奈美の家だ。
三人を囲む空気が研ぎ澄まされる。
甘夏の視線を受けながら、聞きとったとおりに番号を押していく。柿田は迷わなかった。ププププと電波が繋がる先を探索する。忙しいのか、九回目のコールで運命の回線は開かれた。ただなんとなく、むこうでは夕飯の支度がされているような気がした。
『もしもし? 梨元ですけど』
軽く鼻にかかった女の声。母親だろう。
柿田は深く息を吸い込んだ。これから告げるのは、試合開始のホイッスルだ。これが響けば、すべてが終わるまで止まることはできない。定めのない試合時間の中を走りつづけなければならない。けれど、もはやいくしかない。いくしかないのだ。
(――おたくの娘は預かった)
そう言おうとして、「お」の口をつくったときだった。
「――……家に帰りたくない」
保奈美がぽつりと呟くのが聞こえた。
柿田と甘夏は同時に彼女のほうを見る。
その澄んだ瞳は、寂しげな揺らめきを湛えていた。
柿田淳一は、煙草の吸殻をうちっぱなしのコンクリートの床の上で潰して、勢いよく立ち上がった。ひとまず誘拐してきた女の子のほうは置いといて、長椅子に座っている老人に視線をぶつける。
どうしてこんなことになってしまったのか――その答えは、いわずもがなこの老人だ。
なんとか通報されずに廃工場まで遁走してこれたものの、余計なものまでくっついてきてしまった。彼がランドセルを回収したことに関しては、確かに犯行現場の特定をされる危険の芽は摘みとれたかもしれないが、結果オーライで片づけられるようなことではない。そもそも、この老人がここにいること自体がランドセルうんぬんよりも何倍も重大なのだ。
計画は出だしからつまづいてしまった。これは完全なイレギュラー。想定の埒外だ。
「おい、てめえ……よくも俺の邪魔してくれやがったな」
柿田の苦情に、老人は一言も答えなかった。「聞けよクソジジイっ」と柿田は老人の胸倉をつかみ上げる。しかしすぐにつかみ返され、逆に柿田のあごが浮くはめになってしまった。所詮は老いぼれと高をくくっていた柿田は、心の中で舌打ちする――老人の目は、確実に堅気のそれではなかった。瞳の奥に、嫌なものが巣食っている。
「ちくしょうが」柿田は老人から距離をとる。「てめえ、どこのどいつだ」
老人も手を放して、セーターの下に着たシャツの襟を正しながら、「甘夏(あまなつ)」とだけ言った。それっきり唇を結んで、また長椅子に腰を下ろしてしまう。
「なんの目的であそこにいやがった」
「…………」
「てめえも俺みてえに誘拐するつもりだったんかよ」
「…………」
「その年になって犯罪しようなんざ、ヤキが回ったとしか思えねえな」
柿田がそこまで言うと、甘夏はようやく唇を開いた。ただ、言い返そうとしたわけではなく、柿田の言葉を無視した形で言った。
「とりあえず、その女の子の口だけでも解放してあげたらどうだ」
「あん? わざわざ自由にするメリットなんかあんのかよ」
「きさまはその子のことをどこまで知っているというんだ?」
言われてみれば、ほとんど……というよりまったく知らない。標的に彼女を選んだものの、下調べといったものはなに一つしてこなかった。確かに、名前や住所、家の電話番号も知らないのでは話にならない。甘夏は、それを聞き出せと教唆しているのだろう。
「ったく、しょうがねえな」
女の子に手を伸ばすと、彼女はびくりと目を瞑った。気分的にやりづらいが、ここで躊躇しても仕方がないので、柿田は口を覆うガムテープをべりべりと引き剥がした。涙声で呻いている彼女を尻目に、「これでいいのかよ?」と柿田は甘夏のほうをむく。
しかし甘夏が首肯するよりも早く、柿田の背にか細い声が触れた。
「……お、お兄さん? どうして、私……」
恐怖、不安、戸惑い、怯え――そのすべてが女の子の潤んだ黒目に内包されていた。そして、それにもまして裏切られたような感情が深く見てとれた。
「ガキ、俺を恨むんじゃねえぞ」柿田は頭を掻きながら、溜息交じりに言った。「ほかに誰を恨めっつってもできねえかもしんねえけどな」
「……おい、若造」と甘夏の声。
「わかってらあ。情報を聞き出せばいいんだろ? ……おい、ガキ。別におまえをとって食ったりはしねえよ。おとなしくしてりゃ、パパとママんとこに帰してやる。だからそのために、これからする質問に答えろ。正直にな。嘘ついたらただじゃおかねえぞ」
わきわきと動く柿田の十本の指を見て、太股をすり合わせるようにしてこくこくと頷く少女。おもしろいぐらいの反応のよさだ。柿田は携帯を取り出して、ツールからテキストメモを開きながら机の上にあぐらをかいた。
「じゃあ、おまえの名前から聞こうか」
「…………」
「ああ? 言えねえなら、まずは腋からいくか?」
「なっ! ……梨元、保奈美(なしもとほなみ)です」
「住所は?」ナシモトホナミと打ちつつ、柿田はつづける。彼女はてきぱきと質問に答えていく。思っていたよりも、パニックが解けるのが早いみたいだった。もしかしたらこの事務的なやりとりが、心を少しずつ落ち着かせているのかもしれない。
得た情報をまとめてみると――彼女の名前は梨元保奈美。市立君鳥小学校第五学年。住所の番地は柿田の予想通り、裕福な家庭が連なる住宅街だった。
「あー、次……家族について」
いい加減、指が疲れてきた柿田は気だるげに言った。
「私は一人っ子です。お父さんは会社員で、お母さんは主婦です」
「同居は? ジジババとかいんだろ」
「その、してません。お父さんのほうもお母さんのほうも、おばあちゃんは元気ですけど、おじいちゃんはどっちも私が生まれる前に亡くなってしまったそうです」
最後にためしに父親の勤め先を聞いてみたら、誰もが知っている業界大手の有名企業だった。ゴールデンタイムでコマーシャルを垂れ流しにしているのを知っている。
柿田は携帯を閉じて首をぱきぽきと鳴らした。
「……よし、一応はこれでオッケーだろ」
そう甘夏に確認を求めるように振りむいて、ふと、柿田は彼の足元にある鞄に目がいった。革製だが、ランドセルではない。年季のはいったボストンバッグだ。
「それ、てめえの荷物か? ちょっと見せやがれ」
柿田は机から下りて、ひょいと鞄を持ち上げる。ぼんやりと保奈美のほうを見ていた甘夏は反応が遅れて、腰を浮かしかけただけで奪い返そうとはしなかった。
鞄の中身は、手帳や透明な小壜、駅前に置いてある地域のパンフレットなどなど、変哲もなかった――だが、妙に小汚い茶色の封筒を発見して、柿田は首をかしげた。
これだけ時間の重ね方が違う気がした。
何度も上塗りされた糊を剥がして、中身を覗いてみる。柿田は「うおおっ」と声を上げた。そこに入っていたのは、一万円札の束だった。
「あっ、おい。なにをしているんだっ」
甘夏が血相を変えるが、柿田は気にせず枚数を数える。
ちょうど二十枚。二十万円だ。
柿田は口笛を吹いて、茶封筒を指で弾いた。
「こいつはラッキーだぜ。軍資金が舞い込んできやがった」
「ふざけるんじゃない。その金はだめだっ」
つかみかかろうとする甘夏に、柿田はずいっと額を寄せた。小悪党の顔で言う。
「俺は今、金がねえんだよ。これを使わねえ手はねえだろうが。このままだったら計画はいき詰まんぞ。俺もてめえもガキも、断食(ラマダーン)することになるんだぜ?」
甘夏はそこではじめて、うろたえたような顔を見せた。
「同じ誘拐犯じゃねえか? もうこうなっちまったら共同戦線を張るしかねえだろ。てめえがこの金を渡せば、ひとまずは仲間だと認めてやる。稼ぎだって山分けしてやるよ」
共犯関係になるしかない――それは確かにやむをえない形で思っていたことだったが、「仲間だと認める」だとか「山分けする」だとかは真っ赤な嘘だった。とりあえずは二十万を入手しておいて、そのうちどこかで蹴落とせばいいと柿田は考えていた。
「………………」
甘夏は苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、やがて、わかったともらした。
「よっしゃ、決まりだな。俺は柿田淳一。よろしく頼むぜ、ジジイ」
柿田は早速、二枚ほど一万円札を引き抜くとジャケットのポケットに突っ込んで、ドアにむかって歩いていく。どこにいく、と訊ねた甘夏に対して必要なものを買出ししてくる旨を告げ、保奈美を見張っているようにと付言してから、事務所を出ていった。
壁のむこうから、カンカンカンと機嫌よさそうに螺旋階段を下りる足音が響く。それを聞きとげたあとも、柿田が監視を命じたばかりだからだろう、保奈美は口をつぐんで身動き一つとろうともしなかった。初対面の老人――しかも誘拐犯――と二人きりというシチュエーションも、手伝っているのかもしれないが。
そんな彼女は、甘夏の頬のたるんだ横顔を見る。
伏せた目の印象をどこかで見たような――そんな気がした。
一時間もかからないうちに、柿田は戻ってきた。
調達してきたものは、携帯電話の電池式の充電器、二リットルのペットボトルや日持ちするパン類など。ちゃっかり煙草も買ってきている。
腹が減っては戦はできぬということで、三人はおにぎりを頬張りはじめた。保奈美は両手が使えないので、柿田が口元に差し出してやる。与えられたものを精一杯口に含んでいる様は、どこか小学校の飼育小屋のウサギを思い起こさせた――昔の、少年だったころのことは、柿田としてはあまり思い出したくなかったけれど。
食事を終えるころには、紫色の空のむこうで日が暮れていた。川の対岸から届く街の外光のおかげで意外と明るかったりしたのだが、柿田はろうそくにライターで火をつけた。お互いの顔が判別できるくらいまで室内が淡く照らされる。
柿田はそのままくわえた煙草に火を移した。食後の一服の煙を、ゆっくりと虚空に浮かべる。携帯を開いて時間を確認すると、午後八時に引っかかるところだった。
タイミング的には悪くない。煙草を踏み潰してから、柿田は悠然と宣言した。
「今から、電話をかけるぜ」
どこに、と問うまでもない――保奈美の家だ。
三人を囲む空気が研ぎ澄まされる。
甘夏の視線を受けながら、聞きとったとおりに番号を押していく。柿田は迷わなかった。ププププと電波が繋がる先を探索する。忙しいのか、九回目のコールで運命の回線は開かれた。ただなんとなく、むこうでは夕飯の支度がされているような気がした。
『もしもし? 梨元ですけど』
軽く鼻にかかった女の声。母親だろう。
柿田は深く息を吸い込んだ。これから告げるのは、試合開始のホイッスルだ。これが響けば、すべてが終わるまで止まることはできない。定めのない試合時間の中を走りつづけなければならない。けれど、もはやいくしかない。いくしかないのだ。
(――おたくの娘は預かった)
そう言おうとして、「お」の口をつくったときだった。
「――……家に帰りたくない」
保奈美がぽつりと呟くのが聞こえた。
柿田と甘夏は同時に彼女のほうを見る。
その澄んだ瞳は、寂しげな揺らめきを湛えていた。
(6)
静けさの中にどこか華やかさが漂う住宅街。瀟洒(しょうしゃ)な家から生垣のある古い屋敷まで、新旧様々だが軒並み大きな家が立ち並んでいる。一台のセダンが停まったのは、そのうちの無機質な佇まいの邸宅の前だった。
「これが勝ち組ってやつか。薄給の俺たちとは雲泥の差だな」
全体を舐めまわすように眺めて、セダンから下りてきたひとりの中年男が言った。同様に運転席から出てきた青年が、のんきに同意する。
「そっすねえ。ここの人にしてみれば、独身寮なんて豚箱みたいなもんなんでしょうね」
「おい、吉見(よしみ)。我々にあるまじき発言だぞ」
「ええっ、先輩が言い出したんじゃないですか」
「俺はそんなこと言っとらん。早くいくぞ」
男は吉見を連れ、門扉をのけてポーチへと階段を上っていく。すると玄関口のところでドアが開いて、高級そうなグレーのスーツを着た男性が出てきた。
目が合ったので、中年の男はとりあえず警察手帳を開いて見せた。
「どうも。西津田署の蒲郡(がまごおり)と申します」
「部下の吉見です」
男性はじろりと二人を見やったあと、おはようございますと嫌そうに言った。眼鏡の細いフレームに、知的かつ冷たい印象を受ける。なんだかいけすかないな、と心の中で蒲郡が鼻を鳴らすと、今度は中のほうからパタパタとスリッパで走る音が近づいてきた。
「あなたっ! どこにいく気なの?」
手をつかえて身を乗り出してきたのは、三十代らしき女だった。ブラウスにギャザースカートという出で立ちに、大人の色香を感じる。これで小学生の母親だというのだから、時代は変わったなと蒲郡は思う。自分の小さいころといえば、母親はすべからくトドみたいだった。
「どこって」女の夫が答える。「会社に決まっているじゃないか」
「そんな、なにもこんなときにいかなくたって」
「プロジェクトの重要な時期なんだ。責任者の僕が休むわけにはいかないんだよ」
「でも……」
「それに、僕が家にいてなにかが好転するのかい? そうとは思えないな」
なにか言いかけた妻を無視して、夫は門扉にむかって階段を下りていく。リモコン操作によりガレージが開く機械的な音に混じって、夫の声が聞こえた。
「刑事さん」――娘を頼みます、と願いを込めるのかと思ったが、やってきたのは「このセダン邪魔なんですけど」という迷惑そうな言葉だった。吉見が慌てて乗り込みガレージの前から移動させる。その後ろからレクサスが面長の顔を出し、市街地のほうに加速をつけて走り去っていってしまった。
「勝ち組ってのも、難儀なもんだな」
白い背中を見送った蒲郡はそう口の中で呟いて、妻のほうに振り返った。
彼女は視線に気づき、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。主人のはああいう人で……私は妻の佐恵子(さえこ)です」ドアに背中を張りつけ、玄関へ誘うようにして言った。「どうぞ、中に」
通された梨元邸は開放感のあるつくりだった。入ってすぐ右に階段があり、二階の天井まで吹き抜けている。リビングに足を踏み入れると、すでに数人の同僚がいた。蒲郡は彼らと目配せしてから、ソファに腰を下ろした佐恵子に訊ねた。
「では……奥さん。お手数ですが、昨日のことをもう一度話してくださいませんか」
佐恵子は小さく頷いて、語りはじめた。
「昨日の夜……」
昨日の夜――何者かからの電話を受け、子機を手にとった佐恵子は、最初は怪訝に思った。むこうがなにかを言いかけて、直後に息を呑むような気配を感じたからだ。しかし、かけ間違いだろうかと思ったのも束の間、『おおおたっ、おたくの娘は預かった!』とやけに慌てた男の声が飛び込んできて、一瞬思考が宙をさまよった。
なにを言っているのだろう?
保奈美はちゃんと家に……――いや。
いない?
思い返せば。
思い返せば、今日は朝を最後に娘の声を聞いていない。習い事もない日なので、この時間帯は家にいるはずだった――けれど、実際の家の中は耳が痛くなるほどにしんとしている。ふと振り返ってみれば、明かりは自分のいる台所しかついていなかった。リビングの暗がりの中に、喩えようのない不気味な孤独感を覚える。
――急に呼吸がしづらくなった。どうして気がつかなかったのか。
佐恵子は娘の名前を呼びながら家の中を歩き回った。一階にはいない。階段を上り、奥にある子ども部屋のドアを開いた……そこは、真っ暗だった。震える手で天井の蛍光灯を起こすと、照らし出された勉強机やベッドは朝に見たっきり、なにも動かしていないそのままの状態で娘の姿はなかった。黒のランドセルすらも見当たらない。
娘は――帰っていない。
それを認識したとたん、胸のうずきは焦燥感に変貌し全身に延焼した。かっと内側から熱くなる。佐恵子は思い出したように子機を耳に押し当てて叫んだ。
「あのっ、娘を、保奈美を預かったってどういうっ!」
『オイ聞いてんのか――ってうわ! いきなりるっせえんだよ!』
「保奈美は、保奈美はどこに……」
『だから誘拐したっつってんだろうが!』
誘拐――。佐恵子は言葉を失った。膝から力が抜け、すとんとカーペットにお尻を下ろしてしまう。ときおり茫然とした思考の停滞をはさみながら、娘がさらわれたという事実を頭に飲み込ませていくのに、長い時間を要した。ゆっくりと再び子機を耳に当ててみても、そのころにはすでに通話は切れていた。下ろした手のひらの中から子機が転げ落ちて、そのまま佐恵子は動けなくなってしまったのだった。
それから何分、何時間経っただろうか、いきなり肩をつかまれて振り返ると、夫の義孝(よしたか)が不機嫌そうに立っていた。鍋が噴いて自動で火が止まっていたぞ、と非難する声をさえぎって、佐恵子は彼にすがりついた。しどろもどろになりながらも状況を説明すると、義孝はわずかに驚きの色を見せたものの声音は冷静だった。
「警察には連絡したのか?」
「う、ううん。まだだけど……」
「なにやってるんだ。早くするぞ」
「でも、待って。そんなことしたら保奈美がなにをされるか……」
「だからって、僕らにどうこうできる問題じゃないだろう」
そう言った義孝はすぐさま一階に下りていき、一一〇番を押して――
「――それで、今に至るというわけですね?」
「……はい」
ふむ、と蒲郡は思案する。
誘拐自体はそう珍しいことじゃない。年間の失踪者は十万人にも上るとされている。届出されていないものを含めると、それ以上。すべてがその手の犯罪の被害者というわけではないが、ある一定の割合を占めているのは確かだ。遺体の未発見、人身売買、監禁……色々あるが、犯人のほうから接触してきたということは、少なからず交渉や対話を望んでいる――身代金目的の犯行と考えていいだろう。
それなら、誘拐された娘にクリティカルな危害が及ぶ心配は、少しは薄らぐはず。
「奥さん」蒲郡は血の気の少ない佐恵子に言った。「大丈夫です」
「そんな……本当に?」
「我々の威信にかけて、娘さんは必ず助け出します。信じてください」
信じるもなにも、自分たち以外に頼れる機関は日本にはない。佐恵子が頷くのを待ってから、蒲郡はつづけた。意識して笑顔をつくりながら。
「ありがとうございます……しかしこういう場合、事件が事件ですから、公然と捜査開始とはいきません。ここをその拠点として使わせていただきます。いいですね?」
蒲郡は佐恵子を見つめた。彼女は両手を膝の上でぎゅっと握り、唇を噛むようにしたあと「よろしくおねがいします。娘を、保奈美を助けてください」と深々と頭を下げた。その動作だけで、彼女がどれぐらい娘を大切に思っているかがわかった。さきほどの夫との奇妙な温度差が、それを際立たせているような気もする。
蒲郡は、ぼんやりと義孝の顔を思い浮かべた。妻が引きとめた理由――娘の安否をもっと深く案じてほしい、という思いもさることながら、少しでもそばで不安を共有できる存在がほしい、という表面には現れない想い――それに気がつくことができなかったのだろうか。いや、気づいていてもなお、わざと無視していたのかもしれない。
(……しかしまあ、そんなこと考えている場合じゃないか)
気を取り直して、蒲郡は吉見に必要な機材の調達を命じた。その日のうちに佐恵子の見たことのない装置が次々と運び込まれ、リビングはだいぶ様変わりしてしまった。観葉植物や薄型テレビだけが、ここが生活の場であることを細々と訴えていた。
そうして――『梨元保奈美誘拐事件捜査本部』はひそかに設置された。
柿田は幾度目かもわからない「どうしてだよ」を言った。
その答えはずっと変わらず、沈黙だ。苛立った柿田が机を蹴っても、保奈美の口は震えはするが開こうとはしない。蛤(はまぐり)みたいにきゅっと薄桃色の唇を結んでいる。
ちなみに、彼女の両手両足はガムテープの縛めから解放されていた。柿田はかなり不承不承だったのだが、甘夏が提案したことだった。それは、野生に戻りたがっている獣から鎖を外すのと同じで、下手をすれば次の瞬間にはどこかへ逃げていってしまうかもしれない。しかしあのままではなにかと不便ではあったし――そもそも保奈美の言葉を信じるならば、彼女にはリードも首輪も必要ないのだった。
なぜなら、彼女は逃げないのだから。
そう、あのとき彼女は確かに言った――家に帰りたくない、と。
戯言や冗談で言っているようにも思えず、かといって状況的に即座に信じることのできることでもなかった。しかし、十全に自由になっても変わらない保奈美のおとなしさは、結果的に彼女の発した言葉の硬度を高めるもので、しだいに「なぜ?」という疑問が湧き上がってきた。両親が迎えてくれる裕福な家よりも、小汚い男と見知らぬ老人のいる狭苦しい部屋のほうがいいとは、どういうことなのだろう――?
だが、その続きを聞こうとしても、保奈美は今みたいにだんまりを貫いていた。つい唇からこぼれてしまったけれど、それより先は話したくないということだろうか……とにかく、このおかしな膠着状態は二日間つづいている。彼女の答えしだいで計画に良かれ悪かれ影響が出てくるのだが、柿田としても手は出し尽くした感じだ。
「…………」
柿田はふと、後ろに座る甘夏のほうに首を回してみた。援護を求めたつもりだったが、考え事をしているらしい彼の眼中にはみごとに入っていなかった。その瞳の奥には、やはり嫌なものが潜んでいる。
ふぅー、と溜息をついて柿田はポケットをまさぐった。しかし取り出したのは、くしゃくしゃになった空の煙草のパッケージだった。舌打ちをして立ち上がる。
「ちょっと買い出しいってくるわ」
そう言い置いて、柿田は乱暴にドアを閉めて出ていった。
静けさの中にどこか華やかさが漂う住宅街。瀟洒(しょうしゃ)な家から生垣のある古い屋敷まで、新旧様々だが軒並み大きな家が立ち並んでいる。一台のセダンが停まったのは、そのうちの無機質な佇まいの邸宅の前だった。
「これが勝ち組ってやつか。薄給の俺たちとは雲泥の差だな」
全体を舐めまわすように眺めて、セダンから下りてきたひとりの中年男が言った。同様に運転席から出てきた青年が、のんきに同意する。
「そっすねえ。ここの人にしてみれば、独身寮なんて豚箱みたいなもんなんでしょうね」
「おい、吉見(よしみ)。我々にあるまじき発言だぞ」
「ええっ、先輩が言い出したんじゃないですか」
「俺はそんなこと言っとらん。早くいくぞ」
男は吉見を連れ、門扉をのけてポーチへと階段を上っていく。すると玄関口のところでドアが開いて、高級そうなグレーのスーツを着た男性が出てきた。
目が合ったので、中年の男はとりあえず警察手帳を開いて見せた。
「どうも。西津田署の蒲郡(がまごおり)と申します」
「部下の吉見です」
男性はじろりと二人を見やったあと、おはようございますと嫌そうに言った。眼鏡の細いフレームに、知的かつ冷たい印象を受ける。なんだかいけすかないな、と心の中で蒲郡が鼻を鳴らすと、今度は中のほうからパタパタとスリッパで走る音が近づいてきた。
「あなたっ! どこにいく気なの?」
手をつかえて身を乗り出してきたのは、三十代らしき女だった。ブラウスにギャザースカートという出で立ちに、大人の色香を感じる。これで小学生の母親だというのだから、時代は変わったなと蒲郡は思う。自分の小さいころといえば、母親はすべからくトドみたいだった。
「どこって」女の夫が答える。「会社に決まっているじゃないか」
「そんな、なにもこんなときにいかなくたって」
「プロジェクトの重要な時期なんだ。責任者の僕が休むわけにはいかないんだよ」
「でも……」
「それに、僕が家にいてなにかが好転するのかい? そうとは思えないな」
なにか言いかけた妻を無視して、夫は門扉にむかって階段を下りていく。リモコン操作によりガレージが開く機械的な音に混じって、夫の声が聞こえた。
「刑事さん」――娘を頼みます、と願いを込めるのかと思ったが、やってきたのは「このセダン邪魔なんですけど」という迷惑そうな言葉だった。吉見が慌てて乗り込みガレージの前から移動させる。その後ろからレクサスが面長の顔を出し、市街地のほうに加速をつけて走り去っていってしまった。
「勝ち組ってのも、難儀なもんだな」
白い背中を見送った蒲郡はそう口の中で呟いて、妻のほうに振り返った。
彼女は視線に気づき、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。主人のはああいう人で……私は妻の佐恵子(さえこ)です」ドアに背中を張りつけ、玄関へ誘うようにして言った。「どうぞ、中に」
通された梨元邸は開放感のあるつくりだった。入ってすぐ右に階段があり、二階の天井まで吹き抜けている。リビングに足を踏み入れると、すでに数人の同僚がいた。蒲郡は彼らと目配せしてから、ソファに腰を下ろした佐恵子に訊ねた。
「では……奥さん。お手数ですが、昨日のことをもう一度話してくださいませんか」
佐恵子は小さく頷いて、語りはじめた。
「昨日の夜……」
昨日の夜――何者かからの電話を受け、子機を手にとった佐恵子は、最初は怪訝に思った。むこうがなにかを言いかけて、直後に息を呑むような気配を感じたからだ。しかし、かけ間違いだろうかと思ったのも束の間、『おおおたっ、おたくの娘は預かった!』とやけに慌てた男の声が飛び込んできて、一瞬思考が宙をさまよった。
なにを言っているのだろう?
保奈美はちゃんと家に……――いや。
いない?
思い返せば。
思い返せば、今日は朝を最後に娘の声を聞いていない。習い事もない日なので、この時間帯は家にいるはずだった――けれど、実際の家の中は耳が痛くなるほどにしんとしている。ふと振り返ってみれば、明かりは自分のいる台所しかついていなかった。リビングの暗がりの中に、喩えようのない不気味な孤独感を覚える。
――急に呼吸がしづらくなった。どうして気がつかなかったのか。
佐恵子は娘の名前を呼びながら家の中を歩き回った。一階にはいない。階段を上り、奥にある子ども部屋のドアを開いた……そこは、真っ暗だった。震える手で天井の蛍光灯を起こすと、照らし出された勉強机やベッドは朝に見たっきり、なにも動かしていないそのままの状態で娘の姿はなかった。黒のランドセルすらも見当たらない。
娘は――帰っていない。
それを認識したとたん、胸のうずきは焦燥感に変貌し全身に延焼した。かっと内側から熱くなる。佐恵子は思い出したように子機を耳に押し当てて叫んだ。
「あのっ、娘を、保奈美を預かったってどういうっ!」
『オイ聞いてんのか――ってうわ! いきなりるっせえんだよ!』
「保奈美は、保奈美はどこに……」
『だから誘拐したっつってんだろうが!』
誘拐――。佐恵子は言葉を失った。膝から力が抜け、すとんとカーペットにお尻を下ろしてしまう。ときおり茫然とした思考の停滞をはさみながら、娘がさらわれたという事実を頭に飲み込ませていくのに、長い時間を要した。ゆっくりと再び子機を耳に当ててみても、そのころにはすでに通話は切れていた。下ろした手のひらの中から子機が転げ落ちて、そのまま佐恵子は動けなくなってしまったのだった。
それから何分、何時間経っただろうか、いきなり肩をつかまれて振り返ると、夫の義孝(よしたか)が不機嫌そうに立っていた。鍋が噴いて自動で火が止まっていたぞ、と非難する声をさえぎって、佐恵子は彼にすがりついた。しどろもどろになりながらも状況を説明すると、義孝はわずかに驚きの色を見せたものの声音は冷静だった。
「警察には連絡したのか?」
「う、ううん。まだだけど……」
「なにやってるんだ。早くするぞ」
「でも、待って。そんなことしたら保奈美がなにをされるか……」
「だからって、僕らにどうこうできる問題じゃないだろう」
そう言った義孝はすぐさま一階に下りていき、一一〇番を押して――
「――それで、今に至るというわけですね?」
「……はい」
ふむ、と蒲郡は思案する。
誘拐自体はそう珍しいことじゃない。年間の失踪者は十万人にも上るとされている。届出されていないものを含めると、それ以上。すべてがその手の犯罪の被害者というわけではないが、ある一定の割合を占めているのは確かだ。遺体の未発見、人身売買、監禁……色々あるが、犯人のほうから接触してきたということは、少なからず交渉や対話を望んでいる――身代金目的の犯行と考えていいだろう。
それなら、誘拐された娘にクリティカルな危害が及ぶ心配は、少しは薄らぐはず。
「奥さん」蒲郡は血の気の少ない佐恵子に言った。「大丈夫です」
「そんな……本当に?」
「我々の威信にかけて、娘さんは必ず助け出します。信じてください」
信じるもなにも、自分たち以外に頼れる機関は日本にはない。佐恵子が頷くのを待ってから、蒲郡はつづけた。意識して笑顔をつくりながら。
「ありがとうございます……しかしこういう場合、事件が事件ですから、公然と捜査開始とはいきません。ここをその拠点として使わせていただきます。いいですね?」
蒲郡は佐恵子を見つめた。彼女は両手を膝の上でぎゅっと握り、唇を噛むようにしたあと「よろしくおねがいします。娘を、保奈美を助けてください」と深々と頭を下げた。その動作だけで、彼女がどれぐらい娘を大切に思っているかがわかった。さきほどの夫との奇妙な温度差が、それを際立たせているような気もする。
蒲郡は、ぼんやりと義孝の顔を思い浮かべた。妻が引きとめた理由――娘の安否をもっと深く案じてほしい、という思いもさることながら、少しでもそばで不安を共有できる存在がほしい、という表面には現れない想い――それに気がつくことができなかったのだろうか。いや、気づいていてもなお、わざと無視していたのかもしれない。
(……しかしまあ、そんなこと考えている場合じゃないか)
気を取り直して、蒲郡は吉見に必要な機材の調達を命じた。その日のうちに佐恵子の見たことのない装置が次々と運び込まれ、リビングはだいぶ様変わりしてしまった。観葉植物や薄型テレビだけが、ここが生活の場であることを細々と訴えていた。
そうして――『梨元保奈美誘拐事件捜査本部』はひそかに設置された。
柿田は幾度目かもわからない「どうしてだよ」を言った。
その答えはずっと変わらず、沈黙だ。苛立った柿田が机を蹴っても、保奈美の口は震えはするが開こうとはしない。蛤(はまぐり)みたいにきゅっと薄桃色の唇を結んでいる。
ちなみに、彼女の両手両足はガムテープの縛めから解放されていた。柿田はかなり不承不承だったのだが、甘夏が提案したことだった。それは、野生に戻りたがっている獣から鎖を外すのと同じで、下手をすれば次の瞬間にはどこかへ逃げていってしまうかもしれない。しかしあのままではなにかと不便ではあったし――そもそも保奈美の言葉を信じるならば、彼女にはリードも首輪も必要ないのだった。
なぜなら、彼女は逃げないのだから。
そう、あのとき彼女は確かに言った――家に帰りたくない、と。
戯言や冗談で言っているようにも思えず、かといって状況的に即座に信じることのできることでもなかった。しかし、十全に自由になっても変わらない保奈美のおとなしさは、結果的に彼女の発した言葉の硬度を高めるもので、しだいに「なぜ?」という疑問が湧き上がってきた。両親が迎えてくれる裕福な家よりも、小汚い男と見知らぬ老人のいる狭苦しい部屋のほうがいいとは、どういうことなのだろう――?
だが、その続きを聞こうとしても、保奈美は今みたいにだんまりを貫いていた。つい唇からこぼれてしまったけれど、それより先は話したくないということだろうか……とにかく、このおかしな膠着状態は二日間つづいている。彼女の答えしだいで計画に良かれ悪かれ影響が出てくるのだが、柿田としても手は出し尽くした感じだ。
「…………」
柿田はふと、後ろに座る甘夏のほうに首を回してみた。援護を求めたつもりだったが、考え事をしているらしい彼の眼中にはみごとに入っていなかった。その瞳の奥には、やはり嫌なものが潜んでいる。
ふぅー、と溜息をついて柿田はポケットをまさぐった。しかし取り出したのは、くしゃくしゃになった空の煙草のパッケージだった。舌打ちをして立ち上がる。
「ちょっと買い出しいってくるわ」
そう言い置いて、柿田は乱暴にドアを閉めて出ていった。
(7)
木曜日の五年一組の五時間目の授業は体育で、今日はドッジボールだった。
最後のひとりの必死の抵抗もむなしく、ボールが当たって勝負が決する。勝ったチームの女子がきゃあきゃあと手を叩き合ったのも一寸だけで、すぐに号令がかかって整列した。
新米教師の若杉(わかすぎ)がぐるりと見渡して言った。
「もうすぐチャイムが鳴るから、これで終わり。みんな早く着替えて、次の時間に遅れないようにしてね。あと、体育委員の人は後片づけ手伝って? じゃあ解散」
ぞろぞろと二十数名の生徒たちが、校庭を横切って昇降口にむかっていく。
そんな集団から外れて、杏藤瑠南(あんどうるな)はコートの上に転がっているボールを拾い上げた。白いショートパンツという生徒よりも露出の高い格好をした、若杉のほっそりとした背中を追って体育倉庫へと歩き出す。
体育委員の仕事はなにかと面倒だ。結構汗をかいてしまったので、早く戻ってデオドランドスプレーのお世話になりたい。ショーツのずれとかも気になるし……などと思いを巡らせていると、後ろから肩を叩かれた。
「杏藤、勝手にボール持ってくなよな。石灰のほうが重いの知ってんだろ」
係や委員会は、クラスごとに男女ひとりずつで編成される。同じく体育委員の梅村雄大(うめむらゆうだい)がローラーを牽きながらこっちを見てきた。都会的な顔立ちだが、内面の垢抜けなさは他の男子と五十歩百歩だ。
「だったらいいじゃん」瑠南はそっぽをむいて言った。「男が重いほう持つのは常識でしょ」
「ちぇ、こんなときだけ都合よく女を出すんだもんな。今日、何人倒したっけおまえ?」
「えっと、十人?」瑠南はボールを投げる真似をする。「若杉先生も入れると十一かな」
「そうだよ。そんだけやったヤツが女なわけないんだよ。男の仕業だぜ」
瑠南はとりあえず、手に持ったボールを振り下ろして雄大の頭を陥没させてから、「いってえな!」と怒りをあらわにする彼を無視してつづけた。
「私はただ運動が得意なだけだし」
「杏藤ってなんか部活入ってたか?」
「うん、今はバスケ。夏は水泳やってた」瑠南はシュートを打つようにボールを頭上に放ってから、器用にリフティングをはじめる。「あんたはサッカーだっけ?」
「おう。クラブチームだぜ。部活でぬくぬくやってる暇なんかないね」
「うわ……ウザ。ちょっと女子の前で格好つけれたからって、チョーシこきすぎ」
「今日は面子がよかったんだよ。なんせ、あのウンチがいなかったからな」
ウンチ――当然ながら運動音痴の略だが――と雄大が呼ぶのは、梨元保奈美という女子のことである。だいたい今日みたいな男女混合のチーム戦になると、なぜかいつも仲間になってしまい、雄大は彼女の危うい動きにやきもきしなければならなかった。手とり足とり教えてやっても、次の授業のときにはすっかり元に戻っているのだ。すると手を焼いてやるのが馬鹿みたいで……とにかく、彼にとってむかっ腹の立つ相手だった、梨元保奈美は。
それは、瑠南としては呆れるしかないような話だけれど。
けれど――そんな親友(かのじょ)はこの二日間、学校にきていなかった。
――梨元さんは、軽くけっこうな病気を患ってしまって、しばらくお休みになります。
二日前の朝のホームルームで、若杉がそう言った。ふだんはいかにも学生気分が抜けきっていない感じの口調で話すのが、そのときばかりは教職者らしいかための声だった。軽くけっこうな病気ってどっちなんだよ、と瑠南が思っていると男子のひとりが手を上げた。
「はい。なにかな?」
「しばらくって、どのくらいなんですか?」
「ああ、ええと……」若杉は見るからに狼狽しはじめた。なにかを捻り出そうとするかのように、胸の前で両手を握ったり組んだりした。「ごめんね、先生はわからないの。でも、みんなが応援してあげればすぐによくなると思うわ」
「じゃあ、みんなでホナちゃんを励ましにいきたいです」
「病院ってどこですか?」
男子とは逆方向から、今度は女子のひとりが挙手して、もうひとりが繋いで言った。すると若杉は完全に墓穴を掘った人間の顔になって、目が縦横無尽に白目の海を泳ぐ。さすがに不審に思って生徒たちがざわめきはじめたとき、教室のドアががらりと開かれた。
入ってきたのは教頭だった。
「えー、みなさんお静かに。梨元さんはまったくもって命に別状はありませんが、面会謝絶となっております。ご家族の方しか会えないんです。だから、みなさんはここで梨元さんの快復を祈りましょう。そうすれば、きっと願いは届くはずです」
教頭が落ち着き払ってそう言うと、教室は礼拝堂にも似た静けさに包まれた。それを満足げに見回してから、教頭は縮こまっている若杉に手招きをした。彼女は安堵の表情とともにそそくさと教頭に近づいていって、耳を貸す。何か一言二言交わしたあと、若杉がぺこりと頭を下げて、教頭は教室を出ていった。
落ち着きを取り戻した若杉は、いつもどおりに授業をはじめた。生徒たちが教科書を机から引っぱり出す中で、しかし、瑠南だけは頬杖をついて若杉の顔を見つめていた。
――教頭が事情を聞くまでもなく助け舟を出せたということは、彼はずっとここの様子をうかがっていたということだ。ドアの陰にでも隠れたりして。はたして一生徒の長期病欠の知らせに、そこまで準備するものなのか?
(なーんか変な感じ……)
と――瑠南はそのときから今日まで、どこか釈然としないものを抱えてきていた。若杉からそれとなく聞き出そうとしてみたのだが、はぐらかされている節があった。
ならば、ここは動いてみるのも一つの手なのかもしれない。足を使って確かめれば、すぐにわかることだ。彼女は前を歩く若杉に聞こえないように、雄大に囁いた。
「ねえ」
「ん?」
「今日さ、ホナちゃんちにいってみない?」
「はあ? なんでだよ。梨元には会えないんだろ」
「……へえ、会いたいんだ? だよね、心配だもんね」
「会いたくなんかねーしっ。心配なんかしてねーしっ」
無駄に声を大きくする雄大を見て、釣れたな、と瑠南は目を光らせた――と。
「杏藤さん、梅村くん。こっちだよ」
体育倉庫に着いたらしい。若杉が鍵の束を揺らしつつ、ふたりを振り返る。そして直後に「あっ」と声をもらした。その視線の先を追って、瑠南と雄大も後ろを見る。口を閉じ忘れたローラーから引かれた白線が、延々とコートから体育倉庫まで描かれていた。足跡を残すように――なんの前触れもなく教室にこなくなった親友とは正反対に。
傾きかけた日を受けて、廊下の内側に連なる教室の窓ガラスが茜色の光を反射していた。それが直射のものと溶け合って廊下を朱に染めている。
今日は雄大が日直当番で、学級日誌を若杉に渡すために職員室にむかっている最中だった。瑠南はそれに同伴している。むろん、昼の約束のためだ。
「なあ、やっぱり梨元んちいくのか」雄大が自信なさげに言った。
「当たり前じゃん」
「面会謝絶って言ってたけど」
「だから、ホナちゃんのお母さんに聞くだけだって」
瑠南がそう答えたところで、職員室が見えてくる。閉めきられたドアに手をかけたときだった。木板のすぐむこう側から先生同士の話し声が聞こえてきた。
「あのときはほんとテンパッちゃいました。教頭先生に助けられましたよお」
若杉の声だ。二日前のことであろうことがわかって、瑠南は雄大に中指を唇に当てて見せながら、ドアに耳を添える。なんとなく、この会話の内容が先日からつづく違和感を解消させてくれそうな気がした。後ろで雄大も自分に倣うのがわかった。
「若杉先生も大変ね。ふつうは低学年からなのに、初めて受け持ったのがいきなり五年生で、さらにあんなことまで起きちゃうんだものね」
「まったくですよ。森脇先生、今からでも代わって下さいませんか?」
「そんな、いやよお。……にしても、びっくりだわ。まさか梨元さんがね」
「ほんと……誘拐されたなんて、信じられないです」
梨元保奈美が――誘拐された?
瑠南は自分の耳を疑った。信じられないのはこっちのほうだと言いたかった。けれど確かに、若杉は『誘拐』という二文字を口にしたのだ。その証拠に、雄大が驚きのあまりぐんと身を乗り出すのが見えた。今にも会話に飛び込んでいきそうな体勢だったので、瑠南は片手で制する。教室で罹病という嘘をついたからには、真実を伝えるわけにはいかない事情があるはずだ。ここで生半可に関わるのは得策ではなかった。
かすかにくぐもった声で、ふたりの先生の話はつづく。
「事件の性質上、やっぱり公にはできないみたいね」
「だからって刑事さんたち、生徒にはうまくごまかしておいてくれってムチャ振りすぎますよ。アホですよ。私たちにも緘口令が敷かれちゃってるし」
「あ、そうだったわね。じゃあ、この話するのもよくないかも」
「そうですね」と若杉が頷いたあとは自然と週末の女子会についての話題に移っていったので、タイミングを見計らって、たった今やってきましたというふうに瑠南と雄大は学級日誌を若杉に提出した。手の震えが伝わるかと危惧したが、彼女は気にかける気配もなく、にこりと笑う――しかし間近で見て気づいたのが、彼女の目元に化粧で隠しきれない心労の名残があることだった。案外いい先生なのかもしれないな、と瑠南は心の片隅で思った。
昼の約束は叶わず、代わりに新しい約束がふたりのあいだで交わされた。
――梨元保奈美のことは、決して誰にも話さない。
他言無用ということは先生たちが言っていた。ならば自分たちに例外が認められるはずがない。疑問が消え、真実を知ってしまったからといっても、かえってなにかが進展することはなくなってしまった。これならまだ嘘と知らずに受け入れていたほうがましだったかもしれない。病気なんかより、よっぽど未熟な心に重くのしかかってくる。
瑠南と雄大は土手の上を下校していた。とぼとぼと、悄然と。
「……梨元のやつ、今ころどうしてるんだろ」
「そんなの知らないよ。無事を祈るしかないでしょ……」
「警察とか、ちゃんと助けてくれるんかな」
「だから……私たちには祈ることしかできないんだってば」
いささか耳に押し込めるように言うと、雄大は黙ってしまう。瑠南もこれ以上は言葉にしたくなくて、彼から顔をそらして――ふと、前方を望んだときだった。
「あ……」
遠くのほうで、土手へと伸びる石段を上ってくる人影を発見した。
ブリーチしすぎた髪とやや猫背の姿は、記憶の浅いところから浮かび上がってくる。ついこのあいだストラップをくれた男と重なった。
男の手には、スーパーの袋がぶら下がっていた。彼は周囲をちらちらと気にしながら、土手を横断していく。こちらには気づいていないみたいだったが、まるで人目を警戒しているような仕草に、瑠南はかすかに首をかしげた。
「なんだ?」目で追っているのに気づいたのか、雄大が訊ねてきた。「おまえ、あれのこと知ってるの?」
「うん。まあね」
川のほうに土手を下りていった男は、そのまま奥の建物……というより廃墟に這入っていく。そこは近所でも有名な、おばけの出るらしい廃工場だった。二階の事務所に、真綿で首を絞められるように借金に苦しめられ、しまいには本当に首を吊ってしまった社長の霊が出るのだという噂だった。今じゃ誰も近寄らない――そんなところに入っていく、あの男はなんなのだろう?
「ね、梅村」瑠南は廃工場を見つめたまま言った。「あいつのあと、つけてみよっか」
えっ、と雄大はのけぞった。
「ふざけんな。なんでそんなことしなきゃなんないんだよ」
なんで――なんでだろう? 突然あの男に興味が湧いた、と言えればいいのだろうけど、その本質的な部分は、その発想に根を張る原因自体は、もっと別のところにあると思う。たとえば、そう――気を紛らわしたかったりするのだ。大事な親友が誰かにさらわれたことは、どうしたって深刻で心配で胸がひしゃげるようだけれど、だからこそ、その痛みにまともに立ちむかって耐えきれるとは胸を張って言えなかった。
「つか、二重に怖いんだけど。幽霊も、あんなヤンキーも」雄大が怒ったように呟く。
瑠南は身をよじって、ランドセルの側面の金具を軸に揺れているストラップを見てから、小さく笑って彼にむき直った。
「大丈夫だって。あいつ、意外といいやつだと思うよ」
天窓からぼんやりと光の筋が差し込んでいた。人工の天使の梯子だ。
廃工場の中に、あの男の姿はなかった。そろりそろりと瑠南と雄大は進んでいく。鉄錆の臭いが足元から忍び寄ってくる。どこを触っても手が真っ黒になりそうだった。
奥に螺旋階段を見つけた。二階のくだんの事務所へと繋がっているみたいだ。彼がいるとしたら、あそこだろうか。忍者めいた足取りで上っていき、ドアノブに手をかけたころには、心臓がばくばくと鼓動を早めていた。
隙間程度にドアを開いて、中の様子を覗く。
すぐに老いた人影が見えて、ふたりは飛び上がりそうになった。自殺したという経営者の幽霊だと思ったのだ。だがよく見てみると、彼のからだは透けてはおらず、ちゃんと床に足をついて長椅子に座っていた。それでも、ほっと息をついたのも束の間――今度は彼の対面方向を見て、さっきとは違う意味で飛び上がりそうになった。
(えっ……ホナちゃん!?)
奥のソファの上に、梨元保奈美がいた。
彼女はいずこかに絶賛拘束中だったはず。ということは、そのいずこかはこの廃工場で、あの老人は憎き誘拐犯ということになる。とりあえずふたりは隙間から一歩下がり、しゃがみこんで、最小限の声量で作戦会議をはじめた。
「おい、どうすんだよ杏藤! 梨元のいどころつかんじゃったぞ!」
「えっと、えっと……どうする? 助けちゃう?」
「どうやってだよっ」
「ほら、名探偵コナンみたいにさ、ボール蹴って相手を倒すとか」
「おれのスニーカーは市販品だ!」
「でも、あんたクラブチームでやってんでしょっ。そんぐらいやれよ!」
「ムリムリムリ! 第一、サッカーボールがない!」
「あんたの靴飛ばせばいいじゃんっ」
「一気にダサくなったな!? 絵面を考えろ、絵面を!」
――と議論を白熱させていた、そのときだった。
「オイ、そんなとこでなにやってやがんだ、てめえら」
階下から男の声が聞こえた。
木曜日の五年一組の五時間目の授業は体育で、今日はドッジボールだった。
最後のひとりの必死の抵抗もむなしく、ボールが当たって勝負が決する。勝ったチームの女子がきゃあきゃあと手を叩き合ったのも一寸だけで、すぐに号令がかかって整列した。
新米教師の若杉(わかすぎ)がぐるりと見渡して言った。
「もうすぐチャイムが鳴るから、これで終わり。みんな早く着替えて、次の時間に遅れないようにしてね。あと、体育委員の人は後片づけ手伝って? じゃあ解散」
ぞろぞろと二十数名の生徒たちが、校庭を横切って昇降口にむかっていく。
そんな集団から外れて、杏藤瑠南(あんどうるな)はコートの上に転がっているボールを拾い上げた。白いショートパンツという生徒よりも露出の高い格好をした、若杉のほっそりとした背中を追って体育倉庫へと歩き出す。
体育委員の仕事はなにかと面倒だ。結構汗をかいてしまったので、早く戻ってデオドランドスプレーのお世話になりたい。ショーツのずれとかも気になるし……などと思いを巡らせていると、後ろから肩を叩かれた。
「杏藤、勝手にボール持ってくなよな。石灰のほうが重いの知ってんだろ」
係や委員会は、クラスごとに男女ひとりずつで編成される。同じく体育委員の梅村雄大(うめむらゆうだい)がローラーを牽きながらこっちを見てきた。都会的な顔立ちだが、内面の垢抜けなさは他の男子と五十歩百歩だ。
「だったらいいじゃん」瑠南はそっぽをむいて言った。「男が重いほう持つのは常識でしょ」
「ちぇ、こんなときだけ都合よく女を出すんだもんな。今日、何人倒したっけおまえ?」
「えっと、十人?」瑠南はボールを投げる真似をする。「若杉先生も入れると十一かな」
「そうだよ。そんだけやったヤツが女なわけないんだよ。男の仕業だぜ」
瑠南はとりあえず、手に持ったボールを振り下ろして雄大の頭を陥没させてから、「いってえな!」と怒りをあらわにする彼を無視してつづけた。
「私はただ運動が得意なだけだし」
「杏藤ってなんか部活入ってたか?」
「うん、今はバスケ。夏は水泳やってた」瑠南はシュートを打つようにボールを頭上に放ってから、器用にリフティングをはじめる。「あんたはサッカーだっけ?」
「おう。クラブチームだぜ。部活でぬくぬくやってる暇なんかないね」
「うわ……ウザ。ちょっと女子の前で格好つけれたからって、チョーシこきすぎ」
「今日は面子がよかったんだよ。なんせ、あのウンチがいなかったからな」
ウンチ――当然ながら運動音痴の略だが――と雄大が呼ぶのは、梨元保奈美という女子のことである。だいたい今日みたいな男女混合のチーム戦になると、なぜかいつも仲間になってしまい、雄大は彼女の危うい動きにやきもきしなければならなかった。手とり足とり教えてやっても、次の授業のときにはすっかり元に戻っているのだ。すると手を焼いてやるのが馬鹿みたいで……とにかく、彼にとってむかっ腹の立つ相手だった、梨元保奈美は。
それは、瑠南としては呆れるしかないような話だけれど。
けれど――そんな親友(かのじょ)はこの二日間、学校にきていなかった。
――梨元さんは、軽くけっこうな病気を患ってしまって、しばらくお休みになります。
二日前の朝のホームルームで、若杉がそう言った。ふだんはいかにも学生気分が抜けきっていない感じの口調で話すのが、そのときばかりは教職者らしいかための声だった。軽くけっこうな病気ってどっちなんだよ、と瑠南が思っていると男子のひとりが手を上げた。
「はい。なにかな?」
「しばらくって、どのくらいなんですか?」
「ああ、ええと……」若杉は見るからに狼狽しはじめた。なにかを捻り出そうとするかのように、胸の前で両手を握ったり組んだりした。「ごめんね、先生はわからないの。でも、みんなが応援してあげればすぐによくなると思うわ」
「じゃあ、みんなでホナちゃんを励ましにいきたいです」
「病院ってどこですか?」
男子とは逆方向から、今度は女子のひとりが挙手して、もうひとりが繋いで言った。すると若杉は完全に墓穴を掘った人間の顔になって、目が縦横無尽に白目の海を泳ぐ。さすがに不審に思って生徒たちがざわめきはじめたとき、教室のドアががらりと開かれた。
入ってきたのは教頭だった。
「えー、みなさんお静かに。梨元さんはまったくもって命に別状はありませんが、面会謝絶となっております。ご家族の方しか会えないんです。だから、みなさんはここで梨元さんの快復を祈りましょう。そうすれば、きっと願いは届くはずです」
教頭が落ち着き払ってそう言うと、教室は礼拝堂にも似た静けさに包まれた。それを満足げに見回してから、教頭は縮こまっている若杉に手招きをした。彼女は安堵の表情とともにそそくさと教頭に近づいていって、耳を貸す。何か一言二言交わしたあと、若杉がぺこりと頭を下げて、教頭は教室を出ていった。
落ち着きを取り戻した若杉は、いつもどおりに授業をはじめた。生徒たちが教科書を机から引っぱり出す中で、しかし、瑠南だけは頬杖をついて若杉の顔を見つめていた。
――教頭が事情を聞くまでもなく助け舟を出せたということは、彼はずっとここの様子をうかがっていたということだ。ドアの陰にでも隠れたりして。はたして一生徒の長期病欠の知らせに、そこまで準備するものなのか?
(なーんか変な感じ……)
と――瑠南はそのときから今日まで、どこか釈然としないものを抱えてきていた。若杉からそれとなく聞き出そうとしてみたのだが、はぐらかされている節があった。
ならば、ここは動いてみるのも一つの手なのかもしれない。足を使って確かめれば、すぐにわかることだ。彼女は前を歩く若杉に聞こえないように、雄大に囁いた。
「ねえ」
「ん?」
「今日さ、ホナちゃんちにいってみない?」
「はあ? なんでだよ。梨元には会えないんだろ」
「……へえ、会いたいんだ? だよね、心配だもんね」
「会いたくなんかねーしっ。心配なんかしてねーしっ」
無駄に声を大きくする雄大を見て、釣れたな、と瑠南は目を光らせた――と。
「杏藤さん、梅村くん。こっちだよ」
体育倉庫に着いたらしい。若杉が鍵の束を揺らしつつ、ふたりを振り返る。そして直後に「あっ」と声をもらした。その視線の先を追って、瑠南と雄大も後ろを見る。口を閉じ忘れたローラーから引かれた白線が、延々とコートから体育倉庫まで描かれていた。足跡を残すように――なんの前触れもなく教室にこなくなった親友とは正反対に。
傾きかけた日を受けて、廊下の内側に連なる教室の窓ガラスが茜色の光を反射していた。それが直射のものと溶け合って廊下を朱に染めている。
今日は雄大が日直当番で、学級日誌を若杉に渡すために職員室にむかっている最中だった。瑠南はそれに同伴している。むろん、昼の約束のためだ。
「なあ、やっぱり梨元んちいくのか」雄大が自信なさげに言った。
「当たり前じゃん」
「面会謝絶って言ってたけど」
「だから、ホナちゃんのお母さんに聞くだけだって」
瑠南がそう答えたところで、職員室が見えてくる。閉めきられたドアに手をかけたときだった。木板のすぐむこう側から先生同士の話し声が聞こえてきた。
「あのときはほんとテンパッちゃいました。教頭先生に助けられましたよお」
若杉の声だ。二日前のことであろうことがわかって、瑠南は雄大に中指を唇に当てて見せながら、ドアに耳を添える。なんとなく、この会話の内容が先日からつづく違和感を解消させてくれそうな気がした。後ろで雄大も自分に倣うのがわかった。
「若杉先生も大変ね。ふつうは低学年からなのに、初めて受け持ったのがいきなり五年生で、さらにあんなことまで起きちゃうんだものね」
「まったくですよ。森脇先生、今からでも代わって下さいませんか?」
「そんな、いやよお。……にしても、びっくりだわ。まさか梨元さんがね」
「ほんと……誘拐されたなんて、信じられないです」
梨元保奈美が――誘拐された?
瑠南は自分の耳を疑った。信じられないのはこっちのほうだと言いたかった。けれど確かに、若杉は『誘拐』という二文字を口にしたのだ。その証拠に、雄大が驚きのあまりぐんと身を乗り出すのが見えた。今にも会話に飛び込んでいきそうな体勢だったので、瑠南は片手で制する。教室で罹病という嘘をついたからには、真実を伝えるわけにはいかない事情があるはずだ。ここで生半可に関わるのは得策ではなかった。
かすかにくぐもった声で、ふたりの先生の話はつづく。
「事件の性質上、やっぱり公にはできないみたいね」
「だからって刑事さんたち、生徒にはうまくごまかしておいてくれってムチャ振りすぎますよ。アホですよ。私たちにも緘口令が敷かれちゃってるし」
「あ、そうだったわね。じゃあ、この話するのもよくないかも」
「そうですね」と若杉が頷いたあとは自然と週末の女子会についての話題に移っていったので、タイミングを見計らって、たった今やってきましたというふうに瑠南と雄大は学級日誌を若杉に提出した。手の震えが伝わるかと危惧したが、彼女は気にかける気配もなく、にこりと笑う――しかし間近で見て気づいたのが、彼女の目元に化粧で隠しきれない心労の名残があることだった。案外いい先生なのかもしれないな、と瑠南は心の片隅で思った。
昼の約束は叶わず、代わりに新しい約束がふたりのあいだで交わされた。
――梨元保奈美のことは、決して誰にも話さない。
他言無用ということは先生たちが言っていた。ならば自分たちに例外が認められるはずがない。疑問が消え、真実を知ってしまったからといっても、かえってなにかが進展することはなくなってしまった。これならまだ嘘と知らずに受け入れていたほうがましだったかもしれない。病気なんかより、よっぽど未熟な心に重くのしかかってくる。
瑠南と雄大は土手の上を下校していた。とぼとぼと、悄然と。
「……梨元のやつ、今ころどうしてるんだろ」
「そんなの知らないよ。無事を祈るしかないでしょ……」
「警察とか、ちゃんと助けてくれるんかな」
「だから……私たちには祈ることしかできないんだってば」
いささか耳に押し込めるように言うと、雄大は黙ってしまう。瑠南もこれ以上は言葉にしたくなくて、彼から顔をそらして――ふと、前方を望んだときだった。
「あ……」
遠くのほうで、土手へと伸びる石段を上ってくる人影を発見した。
ブリーチしすぎた髪とやや猫背の姿は、記憶の浅いところから浮かび上がってくる。ついこのあいだストラップをくれた男と重なった。
男の手には、スーパーの袋がぶら下がっていた。彼は周囲をちらちらと気にしながら、土手を横断していく。こちらには気づいていないみたいだったが、まるで人目を警戒しているような仕草に、瑠南はかすかに首をかしげた。
「なんだ?」目で追っているのに気づいたのか、雄大が訊ねてきた。「おまえ、あれのこと知ってるの?」
「うん。まあね」
川のほうに土手を下りていった男は、そのまま奥の建物……というより廃墟に這入っていく。そこは近所でも有名な、おばけの出るらしい廃工場だった。二階の事務所に、真綿で首を絞められるように借金に苦しめられ、しまいには本当に首を吊ってしまった社長の霊が出るのだという噂だった。今じゃ誰も近寄らない――そんなところに入っていく、あの男はなんなのだろう?
「ね、梅村」瑠南は廃工場を見つめたまま言った。「あいつのあと、つけてみよっか」
えっ、と雄大はのけぞった。
「ふざけんな。なんでそんなことしなきゃなんないんだよ」
なんで――なんでだろう? 突然あの男に興味が湧いた、と言えればいいのだろうけど、その本質的な部分は、その発想に根を張る原因自体は、もっと別のところにあると思う。たとえば、そう――気を紛らわしたかったりするのだ。大事な親友が誰かにさらわれたことは、どうしたって深刻で心配で胸がひしゃげるようだけれど、だからこそ、その痛みにまともに立ちむかって耐えきれるとは胸を張って言えなかった。
「つか、二重に怖いんだけど。幽霊も、あんなヤンキーも」雄大が怒ったように呟く。
瑠南は身をよじって、ランドセルの側面の金具を軸に揺れているストラップを見てから、小さく笑って彼にむき直った。
「大丈夫だって。あいつ、意外といいやつだと思うよ」
天窓からぼんやりと光の筋が差し込んでいた。人工の天使の梯子だ。
廃工場の中に、あの男の姿はなかった。そろりそろりと瑠南と雄大は進んでいく。鉄錆の臭いが足元から忍び寄ってくる。どこを触っても手が真っ黒になりそうだった。
奥に螺旋階段を見つけた。二階のくだんの事務所へと繋がっているみたいだ。彼がいるとしたら、あそこだろうか。忍者めいた足取りで上っていき、ドアノブに手をかけたころには、心臓がばくばくと鼓動を早めていた。
隙間程度にドアを開いて、中の様子を覗く。
すぐに老いた人影が見えて、ふたりは飛び上がりそうになった。自殺したという経営者の幽霊だと思ったのだ。だがよく見てみると、彼のからだは透けてはおらず、ちゃんと床に足をついて長椅子に座っていた。それでも、ほっと息をついたのも束の間――今度は彼の対面方向を見て、さっきとは違う意味で飛び上がりそうになった。
(えっ……ホナちゃん!?)
奥のソファの上に、梨元保奈美がいた。
彼女はいずこかに絶賛拘束中だったはず。ということは、そのいずこかはこの廃工場で、あの老人は憎き誘拐犯ということになる。とりあえずふたりは隙間から一歩下がり、しゃがみこんで、最小限の声量で作戦会議をはじめた。
「おい、どうすんだよ杏藤! 梨元のいどころつかんじゃったぞ!」
「えっと、えっと……どうする? 助けちゃう?」
「どうやってだよっ」
「ほら、名探偵コナンみたいにさ、ボール蹴って相手を倒すとか」
「おれのスニーカーは市販品だ!」
「でも、あんたクラブチームでやってんでしょっ。そんぐらいやれよ!」
「ムリムリムリ! 第一、サッカーボールがない!」
「あんたの靴飛ばせばいいじゃんっ」
「一気にダサくなったな!? 絵面を考えろ、絵面を!」
――と議論を白熱させていた、そのときだった。
「オイ、そんなとこでなにやってやがんだ、てめえら」
階下から男の声が聞こえた。
(8)
柿田淳一は、かすかな焦りと色濃い怒りをもって、上階を見上げた。
買出しから戻ってきて、部屋に上がる前に用を済ませておこうと思ったのだ。螺旋階段よりさらに奥まった場所に、小さな洗面所があった。しかも、水道局の杜撰な管理をすり抜けるように水が流れるのだった。保奈美がいきたいと言うときには、見張り番として柿田か甘夏のどちらかがついていくことになっていた。
そこを経由して、さて上ろうかと思った矢先に、ドアの前に二つの小さな影を見つけたのだ。閉めたはずのドアはわずかに開いており、内部を見られたことは明白だった。
「……ガキか。てめえら、そこから動くんじゃねえぞ」
ふたりを睨みつけながら、柿田は螺旋階段を進む。その途中で気づいたのが、男子のほうは初めて見る顔だったが、片方の女子の健康そうな容姿には見覚えがあることだった。
「おまえ……瑠南か?」
「ちょっと、あんた! これはどういうことなの!」
ドアのむこうを指さして、瑠南は噛みついてくる。どうして自分の名前を知っているのか、までは頭が回らないらしい。柿田は髪の毛を掻きむしった。目撃者がいるだけでも頭が痛いのに、よりによってこの少女とは。扱いづらいことこの上ない。顔を腫らさせて黙らせるには、少々気分が乗らない。
とはいえ、ここで話すのもなんだ。
「とりあえず中に入れ」
「きゃっ」
「うわっ」
柿田は尻を蹴り出すようにして、ふたりを事務所に突っ込む。甘夏は外の会話からある程度感づいていたのだろう、一瞥しただけでなにも言わなかった。
それと正反対の反応を示したのが保奈美だった。床に転げる同級生を見つめて、大きな瞳をさらに丸くして白黒させた。
「えっ……!? 瑠南ちゃん、どうしてっ?」
「ホナちゃんっ!」
瑠南は身を起こすとすぐさま駆けていって、保奈美の華奢なからだに飛び込んだ。いまだに困惑顔の保奈美をぎゅうと抱きしめる。ソファのスプリングがぎしぎしと鳴る。
――無事でよかった。
「梨元っ」瑠南に遅れて雄大もやってくる。「おまえ、大丈夫か」
「あ……梅村くんも」保奈美が気弱そうに目をむける。
「心配したんだよ? ホナちゃんが誘拐されたって、先生たちが話してて……」
瑠南は顔を離してそう言うと、後ろに鋭い流し目を送った。
年齢から雰囲気まで、なにもかもが両極端なふたりの男がそこにいる。
「誰なんだよ、あいつら」雄大が呟くと、保奈美が小さく指さして教えてくれた。
「お兄さんが柿田さんで、おじいさんが甘夏さん」
「『さん』なんかつけなくていいよ」瑠南が唇を尖らせるのと、柿田が声をかけてきたのはほとんど同時だった。柿田の顔は不機嫌さが急に増していた。
「おい、おまえ今、先生たちが話しててっつったな? もう世間にゃばれてんのか?」
「先生たちだけ。私たちはたまたま知っちゃったの。ホナちゃんは病欠扱いになってる」
「……家が警察に連絡したんだ。教師たちは表向きを取り繕うように指示されたんだろう。世間的には、あの子はさらわれたことになってない。私たちを刺激しないためにな」
ゆっくりと甘夏が言った。あのふたりを除いてだが、と瑠南と雄大を見る。
「あちゃあ。サツにチクッたら殺すぐらいのこと言っときゃよかったか?」
「無駄だろう。往々にしてそういうものだ」
「はぁん……? で、こいつらどうする?」
瑠南たちのほうを指して柿田が言う。
「さあ。殺して下の機械の中にでも隠しておくか?」
瑠南たちはびくりと肩を震わせた。
一見穏やかそうに見えるけれど、そういう老人にかぎって、腹の中ではなにを抱えているかわからないこともある。突然の猟奇的な提案に、さすがの柿田も顔をしかめた。
しかし――「冗談だ」と、すぐに甘夏は息をついた。「そういう選択肢もあるにはあるってことだ。私にはわからん。若造、判断はきさまに任せる」
冗談に聞こえねえんだよ、と柿田が独り言めいて呟くのを見てから、なかば蚊帳の外をくらっていた瑠南は沈黙を縫って口を開いた。
彼女たちにとっての本題に入るために。
願望といってもいい。
「あのさ」
「あん?」柿田が応じる。
「このまま帰してくれたり、する? ……ホナちゃんも一緒に」
「………………」柿田の顔が般若みたいになった。
「ああっ、違う違う間違えた! えっと、だったら……質問。聞いたかぎりだと、あんたはこの誘拐犯……甘夏っておじいさんの仲間なんだよね?」
「逆だ。ジジイが俺の共犯者。そこは重要だぜ」
「ふぅん……じゃあ、二つ目。どうしてホナちゃんを誘拐なんかしたの?」
「はあ? そんなん教えてどうすんだよ」
「あ……私も、知りたいです」おずおずと保奈美も手を挙げる。
柿田は考える仕草をした。
瑠南はともかく、保奈美については当事者中の当事者なわけだから、知りたいという気持ちはわからなくもない――それに、わが身に降りかかった悲しき失恋の顛末を誰かに語ってみたいという衝動もないわけではなかった。どれだけ理不尽で不条理で無理無体なことか、知ってほしかった。
柿田は一度、唇をなめた。
「かくかくしかじか――……つうわけだ。どうよ、俺ちょー不幸」
語り終えた柿田は少年少女の顔を見た。
ドン引きだった。
「……え、マジないわぁ」
「……男として最低だろ」
「……柿田さん、ひどいです」
「はぁっ!? なんだよそのリアクション! 壮絶スペクタクルじゃねえか!」
「いや、ちっさすぎて見てらんない」目をそらす瑠南。
「階段を転げ落ちるところとか、どこのセガール・アクションって感じだろうがよ!」
必死に熱弁をふるっても、沈黙の事務所である。最終的には柿田が呆然としていると、となりから低く押し殺した笑いがもれてきた。甘夏だった。
「てめっ。笑い話じゃねえぞジジイ」
「いや――似ているな、と思っただけだ」
「…………?」
誰と――どういうふうに? ――そこがわからなくて、その意味すらつかみあぐねるものだったけれど、それを問いただすのも興味を持ってしまったようでどこか癪だったので、柿田はそれ以上触れないことにした。
すると、瑠南がうなだれて言った。
「なんかがっかりした。いいやつかと思ったら、こんなダメ男だったなんてさ」
「ストラップくれてやったのに……クソガキ」
「ホナちゃんも運が悪いよね。土手で会わなかったらさらわれずに済んだのに」
だからこいつが突っかかってきたんだ、と言い返しかけて――柿田ははたと思い出した。確かあのとき、保奈美は別れたあと道を戻っていった。『寄り道』から帰るように。もしあの『寄り道』が、彼女の「家に帰りたくない」という言葉と繋がっていたとしたらどうだろう?
「そういえばさ」柿田は聞いた。「そいつが家に帰りたくないって言うんだが、どういうことだ? 瑠南、ダチならなんか知ってんだろ?」
しん、と再び沈黙の幕が下りた。
「ホナちゃん……それって、やっぱり」
瑠南が保奈美にむかう。やはり彼女だけはなにか知っているらしい。
「だんまり決め込むから、俺らも困ってんだよ。教えてくれや」
「……教えていいの?」瑠南が確かめるように聞く。すると、
「いい」
保奈美には珍しく力強い声で言った。
真相を知る者が現れて、観念したのだろうか。
自分で話すから、いい――彼女は両手を膝の上でぎゅっと握り、唇を噛むようにした。
明確なはじまりは、ちょうど一年前の秋だった。
そのころの梨元家はなんの歪みを持たない、その世代の親子としては理想的な家族像を映していた。父の義孝は幹部候補の真面目な会社員で、母の佐恵子は立ち振る舞いにそつがなく近所でも評判の淑女。そして、子の保奈美は可愛らしく品行方正な一人娘。
陰口をはさむ隙間もない、それは確かに家族の理想像だった。少なくとも娘の保奈美はそう思い、両親を誇りに感じてもいた――しかし、その『像』はやはりただの『像』でしかなくて虚像だったのかもしれない。歪みは存在し、それはいつから潜みつづけていたのか、ひょっとしたら保奈美が生まれる前からかもしれなかった。
ある夜、遅くに帰ってきた義孝が温め直された夕食をとっているときだった。テーブルのむかい側に座った佐恵子が、緊張気味に口を開いた。
「あのね、ちょっと相談事があるんだけど」
「なんだい。保奈美の習い事か?」
ううん、と首を横に振ってから佐恵子はつづけた。
「私、もう一度働いてみようかなって思うの」
義孝の箸がぴたりと止まった。まるで、佐恵子の言葉が彼の優秀な脳の処理機能を害したみたいだった。「どうして」と遅れて義孝は聞いてきた。
佐恵子は就職後しばらくして、知人の紹介で義孝と知り合った。成果主義の仕事が楽しくなりはじめたころだったが、義孝は非の打ちどころのない男性だったし、母親や同僚などの強い後押しなどもあって、婚約指輪を受け取った。それから保奈美が生まれ、主婦業に専念してきたが、彼女が小学三年生になりほとんど手をかける必要がなくなったあたりから、また仕事をしたいという意欲が芽生え、葉を広げはじめてきたのだ。それを実現する状況も、友人を通して形をなしつつあった。
それをかいつまんで話すと、義孝は言った。
「そんな。貯金は十分にあるし、君にはこの家を守っていてほしいな」
「……違うの。その、私が働きたいの」
また一瞬、義孝の動きが固まり、すぐに薄い笑みを浮かべた。それはどこか妻にむける緩やかなものではなく、冷笑の気配さえ漂わせているような気がした。
「やめろよ、佐恵子。働くなんて、家事はどうするんだ?」
「ちゃんとやる。残さない」表情とは裏腹に高圧的な夫の口ぶりに、少しムキになって彼女は返した。「女性って、家事だけが仕事じゃないと思うわ」
「それは間違いだし、勘違いだよ。近ごろは女の自立自立って、馬鹿な人が多いけど」
「ちょっと……それって差別じゃないの? なんでダメなの?」
「君も馬鹿だな。考えてみろよ。どうしてこの国が、この世界が、そういう男主体の社会になったと思う? 人間がそういうものだからだ。たとえばライオンはメスのほうが狩りを担当するけれど、それはそういう進化の過程の産物だ。人間だって同じさ。長い歴史の中でそういうシステムが必然的にできあがっているだけなんだよ」
「そんな、屁理屈よ。あなたのほうこそ、頭が古臭いんじゃないの」
「……これだから女は。どうしてわからない?」
「わかってないのはそっちでしょっ?」
――と、ふたりの応酬はやがて口論にまで発展した。その様子を、パジャマ姿の保奈美は階段の陰からじっと見ていた。どんな言い争いがなされたのかはよく覚えていない。ただ、父が母の意思を快く思っていないことや、母がヒステリーを起こしやすい性格だということがわかった。けれどそれも、次の瞬間に網膜に飛び込んできた映像がショックすぎて、その大波に跡形もなくさらわれてしまった。
義孝が、佐恵子を殴ったのだ。
利き手の拳で、ちょうど彼女の左目のあたりを殴りつけた。鈍い音とともに彼女は床に倒れ込み、そのまま動かなくなる。顔の陰からすすり泣きがもれてきて――たぶん、にわかにダイニングに訪れたその静寂は、諍いの終わりを示していたのだろう。義孝がそこから立ち去ろうとする気配を感じて、保奈美は二階の自室に駆け込んだ。
なにも考えることができなかった。ただでさえはじめて見る夫婦喧嘩なのに、立てつづけに起こる衝撃的な出来事が小さな胸を何度も揺さぶり、十才の、ことさら繊細な保奈美の心は原形を留めるのに必死だった。
翌日の朝――朝っぱらから、佐恵子は化粧をしていた。左目の下は特に濃く、けれどどこか蒼く膨らんでいた。保奈美が見ていたことはどちらも知らないらしい。いつもどおりに見える食卓は、その実、いたるところに綻びが感じられた。昨夜の事件が家族の肖像にひびを入れたことは明らかだった。
佐恵子は働くことを諦めたみたいだった。諦めたふりをしていた。表面上は以前と変わらない良妻賢母を演じていたが、やりきれない悲しみと悔しさがふと表情に滲み出ることがあった。それからも、保奈美の知らないところで両親は軋みつづけていたのかもしれない。いつしか義孝と佐恵子のあいだには深い溝が刻まれていて、その中心で保奈美は途方に暮れるしかなくなっていた。
小学生にとって、親というものは一番身近な世界だ。その軋みは、自身の軋みでもある。そうして、母といるのも父といるのも辛くなった保奈美は、家にいることさえ抑鬱的に感じるようになった。
ある日、そのことを親友である杏藤瑠南に話すと、だったら一緒に寄り道しよう、と誘ってくれた。家にいるのが嫌なら、家にいる時間を減らしてしまおう、と。
あてもなく町を歩き、コンビニで買い食いをし、ときには公園のブランコに座っておしゃべりをする――そんな柔らかな時間は、光をかたどって保奈美の胸を優しく包み込んだ。瑠南が部活で一緒に帰れないときでも、ひとりで寄り道をした。真っ赤に染まる町並みや、ちょっとだけ緩んで感じる時の流れや、人々の豊かな表情を見るのが好きだった。そのときばかりは、悲しみの底に沈殿した気持ちを紛らわせることができるのだった。
「梨元……」雄大が寂しげに呟く声が残った。
たどたどしくも語り終えた保奈美にむかって、柿田は紫煙を吐き出した。
まずはじめに思ったのは――そんなもの、どこの家庭にもあふれている類の傷ではないだろうか、ということだった。無菌の家族なんていない。どこまでもまっすぐな人間がいないのと同じように。ある程度の不和や歪曲はナチュラルでもあるのだ。
――その種の問題に一家言ある柿田にしてみれば、保奈美の痛みを推し量ることも、理解することも、できなくもないけれど。投影も、できてしまうけれど。
なまじ彼女が過ごしてきた理想的な時間を思えば、免疫体のなさを思えば、『家に帰りたくない』という言葉もわからなくはないが――とはいえ、さすがにそれは言いすぎな気がした。一方的な被害者の口にすることにしては、なにかピースが足りていない。
その疑問を瑠南が代弁した。
「だからってホナちゃん。こんなやつと一緒なんだよ? 男の腐ったやつだよ?」
私ならやだね、と指されて柿田は歯軋りをする。しかしそんな彼のほうを見て、保奈美はやんわりとした笑みを浮かべて「そんなことないよ」と言った。
「きっと、大丈夫だよ。なんだか私、柿田さんや甘夏さんがそんな悪い人のように思えないもん。こうやって自由にしてくれたし、ごはんも食べさせてくれるから」
悪い人には思えない――だから大丈夫?
柿田の顔に熱がこもった。ふいの保奈美の言葉に気恥ずかしく感じたわけでは間違ってもない。純粋に怒れた。おまえは悪党にもなりきれない半端者だと、そう揶揄されたように感じたのだ。なぜだか美月の叔父の顔が浮かんだ。美月の顔も投げかけられる。前者は蔑むように、後者は哀しむようにこちらを見ていた。たちまち惨めさが湧きかけた。
「ガキ……なめんじゃねえぞ。本気になった俺がどんなもんか、見せてやらあ。てめえの家からがっぽり金を奪いとってやるからな」
できるかぎり悪質な響きを込めて、柿田は保奈美を見下ろした。本物の悪党になってやろうと思った。ふたりの浅岡を、その表情を振り払ってやるつもりだった。
けれど。
「そんなんムリムリ」瑠南があっけらかんと手を横に振った。「今どき誘拐なんかしてうまくいくわけがないじゃん。昔のドラマじゃないんだし」
虚をつかれたように口を閉ざした柿田だったが、すぐに虚勢を張ってみせた。
「おまえも調子に乗ってんじゃねえよ。ジジイは冗談で言っても、俺は違うかもしれねえぜ? 鉄錆くせえ棺桶で我慢できんのかよ」
「もういいよ、そういうのは」
平らな眼差しをむけて、瑠南は言った。
どうやら完全に見くびられているらしい。それとも、柿田の中途半端な人間性を見抜いているがゆえの優しさだったのだろうか。いずれにせよ腹の虫の居所が悪くなったが、「そんなことよりさ」と彼女が話を変えたので柿田は反論する機会を失ってしまう。
瑠南はしたり顔で言った。
「これはひょっとしたらチャンスかもよ、ホナちゃん」
「チャンス?」保奈美が小口を開ける。
「この誘拐でさ、おじさんとおばさんに仲直りしてもらったらどうかな? 娘がさらわれたーってときなら、きっと心も寄り添うだろうし、そこにホナちゃんが帰ってきたら大団円間違いなしだよ。あの事件が家族の絆を取り戻してくれましたってさ、世界まる見えみたいになっちゃうよ」
すごいと思わない? と保奈美の両手を握る瑠南のシナリオの中には、柿田たちの大団円は含まれていなかった。勝手に書き進めていくのはやめてほしいのだが……。
「私たちも協力するから、ね?」
瑠南は雄大に目配せをする。彼は保奈美をちらりと見て、照れくさそうに頬を掻いた。
「……まあ、梨元がどうしてもっていうなら手を貸してやってもいいぜ……?」
そしてすべてが完結したかのように、瑠南が柿田にくるりとからだをむけた。
「んじゃ、そういうことだから。今日は帰るね」
「……つまり、どういうことだってばよ」
その脚本はあまりに簡単すぎる、だとか。どうしてこんな話になった、だとか。様々な思いが頭上をぐるぐると遊泳していた――けれど、小学生のちゃちな発想に文句を垂れても仕方がない。むしろここは大いに利用させてもらうべきなのかもしれない。
とはいっても、確認は必要だが。
「そんなこと言って、帰したらまっさきにサツに垂れ込んだりすんじゃねえのか?」
「なに? してほしいの?」瑠南は真顔で言った。「してもいいけど、それじゃホナちゃんが家に帰りたくないままで終わっちゃう。今じゃまだ、なんにも変わらないよ。べつにいいじゃん。目的が違うんだし。私らは私らでこの状況を利用させてもらうだけだから」
利用――どうやら、瑠南も柿田と同じ考えらしい。
彼女は、保奈美と両親のための時間の置き場としてここを使う。対して柿田にしてみれば、本来ならば致命的であったはずの目撃者の出現がほとんど無効(チャラ)になり、それだけでも僥倖と言える。しかも彼には、あるひとつの秘計が閃いていた。
「じゃあ……本当にチクらねえんだな?」
「メンドくさいなぁ。そう言ってるじゃん、バカ」
言葉づかいは脇に置いておくとして、瑠南の真剣そのものの表情は揺るがない。きっと、保奈美を思う気持ちも本物だろう。
柿田は甘夏に意見を求めた。
「ふうむ」甘夏はあまり思案する様子を見せなかった。「信じてみてもいいんじゃないか? どのみち知られてしまってるわけだし、この子らの措置にしたって妙案があるわけでもないだろう? まあ、なるようになれってところだな」
「はぁん……?」
捨て鉢――でもないのだろう。
「……わかったぜ。てめえの好きにしろや」柿田は不承不承といった感じで言った。
「はあ、やっと折れた。つかれたぁ」
息をついた瑠南は、つづいて「……ん」と右手を差し出してくる。
古典的な儀式だが、仕方なく柿田は小さな手のひらを握ってやった。
そして――ひとまず柿田誘拐犯一派と瑠南友人一派のあいだに、不思議な同盟が合意される運びとなったのだった。
柿田淳一は、かすかな焦りと色濃い怒りをもって、上階を見上げた。
買出しから戻ってきて、部屋に上がる前に用を済ませておこうと思ったのだ。螺旋階段よりさらに奥まった場所に、小さな洗面所があった。しかも、水道局の杜撰な管理をすり抜けるように水が流れるのだった。保奈美がいきたいと言うときには、見張り番として柿田か甘夏のどちらかがついていくことになっていた。
そこを経由して、さて上ろうかと思った矢先に、ドアの前に二つの小さな影を見つけたのだ。閉めたはずのドアはわずかに開いており、内部を見られたことは明白だった。
「……ガキか。てめえら、そこから動くんじゃねえぞ」
ふたりを睨みつけながら、柿田は螺旋階段を進む。その途中で気づいたのが、男子のほうは初めて見る顔だったが、片方の女子の健康そうな容姿には見覚えがあることだった。
「おまえ……瑠南か?」
「ちょっと、あんた! これはどういうことなの!」
ドアのむこうを指さして、瑠南は噛みついてくる。どうして自分の名前を知っているのか、までは頭が回らないらしい。柿田は髪の毛を掻きむしった。目撃者がいるだけでも頭が痛いのに、よりによってこの少女とは。扱いづらいことこの上ない。顔を腫らさせて黙らせるには、少々気分が乗らない。
とはいえ、ここで話すのもなんだ。
「とりあえず中に入れ」
「きゃっ」
「うわっ」
柿田は尻を蹴り出すようにして、ふたりを事務所に突っ込む。甘夏は外の会話からある程度感づいていたのだろう、一瞥しただけでなにも言わなかった。
それと正反対の反応を示したのが保奈美だった。床に転げる同級生を見つめて、大きな瞳をさらに丸くして白黒させた。
「えっ……!? 瑠南ちゃん、どうしてっ?」
「ホナちゃんっ!」
瑠南は身を起こすとすぐさま駆けていって、保奈美の華奢なからだに飛び込んだ。いまだに困惑顔の保奈美をぎゅうと抱きしめる。ソファのスプリングがぎしぎしと鳴る。
――無事でよかった。
「梨元っ」瑠南に遅れて雄大もやってくる。「おまえ、大丈夫か」
「あ……梅村くんも」保奈美が気弱そうに目をむける。
「心配したんだよ? ホナちゃんが誘拐されたって、先生たちが話してて……」
瑠南は顔を離してそう言うと、後ろに鋭い流し目を送った。
年齢から雰囲気まで、なにもかもが両極端なふたりの男がそこにいる。
「誰なんだよ、あいつら」雄大が呟くと、保奈美が小さく指さして教えてくれた。
「お兄さんが柿田さんで、おじいさんが甘夏さん」
「『さん』なんかつけなくていいよ」瑠南が唇を尖らせるのと、柿田が声をかけてきたのはほとんど同時だった。柿田の顔は不機嫌さが急に増していた。
「おい、おまえ今、先生たちが話しててっつったな? もう世間にゃばれてんのか?」
「先生たちだけ。私たちはたまたま知っちゃったの。ホナちゃんは病欠扱いになってる」
「……家が警察に連絡したんだ。教師たちは表向きを取り繕うように指示されたんだろう。世間的には、あの子はさらわれたことになってない。私たちを刺激しないためにな」
ゆっくりと甘夏が言った。あのふたりを除いてだが、と瑠南と雄大を見る。
「あちゃあ。サツにチクッたら殺すぐらいのこと言っときゃよかったか?」
「無駄だろう。往々にしてそういうものだ」
「はぁん……? で、こいつらどうする?」
瑠南たちのほうを指して柿田が言う。
「さあ。殺して下の機械の中にでも隠しておくか?」
瑠南たちはびくりと肩を震わせた。
一見穏やかそうに見えるけれど、そういう老人にかぎって、腹の中ではなにを抱えているかわからないこともある。突然の猟奇的な提案に、さすがの柿田も顔をしかめた。
しかし――「冗談だ」と、すぐに甘夏は息をついた。「そういう選択肢もあるにはあるってことだ。私にはわからん。若造、判断はきさまに任せる」
冗談に聞こえねえんだよ、と柿田が独り言めいて呟くのを見てから、なかば蚊帳の外をくらっていた瑠南は沈黙を縫って口を開いた。
彼女たちにとっての本題に入るために。
願望といってもいい。
「あのさ」
「あん?」柿田が応じる。
「このまま帰してくれたり、する? ……ホナちゃんも一緒に」
「………………」柿田の顔が般若みたいになった。
「ああっ、違う違う間違えた! えっと、だったら……質問。聞いたかぎりだと、あんたはこの誘拐犯……甘夏っておじいさんの仲間なんだよね?」
「逆だ。ジジイが俺の共犯者。そこは重要だぜ」
「ふぅん……じゃあ、二つ目。どうしてホナちゃんを誘拐なんかしたの?」
「はあ? そんなん教えてどうすんだよ」
「あ……私も、知りたいです」おずおずと保奈美も手を挙げる。
柿田は考える仕草をした。
瑠南はともかく、保奈美については当事者中の当事者なわけだから、知りたいという気持ちはわからなくもない――それに、わが身に降りかかった悲しき失恋の顛末を誰かに語ってみたいという衝動もないわけではなかった。どれだけ理不尽で不条理で無理無体なことか、知ってほしかった。
柿田は一度、唇をなめた。
「かくかくしかじか――……つうわけだ。どうよ、俺ちょー不幸」
語り終えた柿田は少年少女の顔を見た。
ドン引きだった。
「……え、マジないわぁ」
「……男として最低だろ」
「……柿田さん、ひどいです」
「はぁっ!? なんだよそのリアクション! 壮絶スペクタクルじゃねえか!」
「いや、ちっさすぎて見てらんない」目をそらす瑠南。
「階段を転げ落ちるところとか、どこのセガール・アクションって感じだろうがよ!」
必死に熱弁をふるっても、沈黙の事務所である。最終的には柿田が呆然としていると、となりから低く押し殺した笑いがもれてきた。甘夏だった。
「てめっ。笑い話じゃねえぞジジイ」
「いや――似ているな、と思っただけだ」
「…………?」
誰と――どういうふうに? ――そこがわからなくて、その意味すらつかみあぐねるものだったけれど、それを問いただすのも興味を持ってしまったようでどこか癪だったので、柿田はそれ以上触れないことにした。
すると、瑠南がうなだれて言った。
「なんかがっかりした。いいやつかと思ったら、こんなダメ男だったなんてさ」
「ストラップくれてやったのに……クソガキ」
「ホナちゃんも運が悪いよね。土手で会わなかったらさらわれずに済んだのに」
だからこいつが突っかかってきたんだ、と言い返しかけて――柿田ははたと思い出した。確かあのとき、保奈美は別れたあと道を戻っていった。『寄り道』から帰るように。もしあの『寄り道』が、彼女の「家に帰りたくない」という言葉と繋がっていたとしたらどうだろう?
「そういえばさ」柿田は聞いた。「そいつが家に帰りたくないって言うんだが、どういうことだ? 瑠南、ダチならなんか知ってんだろ?」
しん、と再び沈黙の幕が下りた。
「ホナちゃん……それって、やっぱり」
瑠南が保奈美にむかう。やはり彼女だけはなにか知っているらしい。
「だんまり決め込むから、俺らも困ってんだよ。教えてくれや」
「……教えていいの?」瑠南が確かめるように聞く。すると、
「いい」
保奈美には珍しく力強い声で言った。
真相を知る者が現れて、観念したのだろうか。
自分で話すから、いい――彼女は両手を膝の上でぎゅっと握り、唇を噛むようにした。
明確なはじまりは、ちょうど一年前の秋だった。
そのころの梨元家はなんの歪みを持たない、その世代の親子としては理想的な家族像を映していた。父の義孝は幹部候補の真面目な会社員で、母の佐恵子は立ち振る舞いにそつがなく近所でも評判の淑女。そして、子の保奈美は可愛らしく品行方正な一人娘。
陰口をはさむ隙間もない、それは確かに家族の理想像だった。少なくとも娘の保奈美はそう思い、両親を誇りに感じてもいた――しかし、その『像』はやはりただの『像』でしかなくて虚像だったのかもしれない。歪みは存在し、それはいつから潜みつづけていたのか、ひょっとしたら保奈美が生まれる前からかもしれなかった。
ある夜、遅くに帰ってきた義孝が温め直された夕食をとっているときだった。テーブルのむかい側に座った佐恵子が、緊張気味に口を開いた。
「あのね、ちょっと相談事があるんだけど」
「なんだい。保奈美の習い事か?」
ううん、と首を横に振ってから佐恵子はつづけた。
「私、もう一度働いてみようかなって思うの」
義孝の箸がぴたりと止まった。まるで、佐恵子の言葉が彼の優秀な脳の処理機能を害したみたいだった。「どうして」と遅れて義孝は聞いてきた。
佐恵子は就職後しばらくして、知人の紹介で義孝と知り合った。成果主義の仕事が楽しくなりはじめたころだったが、義孝は非の打ちどころのない男性だったし、母親や同僚などの強い後押しなどもあって、婚約指輪を受け取った。それから保奈美が生まれ、主婦業に専念してきたが、彼女が小学三年生になりほとんど手をかける必要がなくなったあたりから、また仕事をしたいという意欲が芽生え、葉を広げはじめてきたのだ。それを実現する状況も、友人を通して形をなしつつあった。
それをかいつまんで話すと、義孝は言った。
「そんな。貯金は十分にあるし、君にはこの家を守っていてほしいな」
「……違うの。その、私が働きたいの」
また一瞬、義孝の動きが固まり、すぐに薄い笑みを浮かべた。それはどこか妻にむける緩やかなものではなく、冷笑の気配さえ漂わせているような気がした。
「やめろよ、佐恵子。働くなんて、家事はどうするんだ?」
「ちゃんとやる。残さない」表情とは裏腹に高圧的な夫の口ぶりに、少しムキになって彼女は返した。「女性って、家事だけが仕事じゃないと思うわ」
「それは間違いだし、勘違いだよ。近ごろは女の自立自立って、馬鹿な人が多いけど」
「ちょっと……それって差別じゃないの? なんでダメなの?」
「君も馬鹿だな。考えてみろよ。どうしてこの国が、この世界が、そういう男主体の社会になったと思う? 人間がそういうものだからだ。たとえばライオンはメスのほうが狩りを担当するけれど、それはそういう進化の過程の産物だ。人間だって同じさ。長い歴史の中でそういうシステムが必然的にできあがっているだけなんだよ」
「そんな、屁理屈よ。あなたのほうこそ、頭が古臭いんじゃないの」
「……これだから女は。どうしてわからない?」
「わかってないのはそっちでしょっ?」
――と、ふたりの応酬はやがて口論にまで発展した。その様子を、パジャマ姿の保奈美は階段の陰からじっと見ていた。どんな言い争いがなされたのかはよく覚えていない。ただ、父が母の意思を快く思っていないことや、母がヒステリーを起こしやすい性格だということがわかった。けれどそれも、次の瞬間に網膜に飛び込んできた映像がショックすぎて、その大波に跡形もなくさらわれてしまった。
義孝が、佐恵子を殴ったのだ。
利き手の拳で、ちょうど彼女の左目のあたりを殴りつけた。鈍い音とともに彼女は床に倒れ込み、そのまま動かなくなる。顔の陰からすすり泣きがもれてきて――たぶん、にわかにダイニングに訪れたその静寂は、諍いの終わりを示していたのだろう。義孝がそこから立ち去ろうとする気配を感じて、保奈美は二階の自室に駆け込んだ。
なにも考えることができなかった。ただでさえはじめて見る夫婦喧嘩なのに、立てつづけに起こる衝撃的な出来事が小さな胸を何度も揺さぶり、十才の、ことさら繊細な保奈美の心は原形を留めるのに必死だった。
翌日の朝――朝っぱらから、佐恵子は化粧をしていた。左目の下は特に濃く、けれどどこか蒼く膨らんでいた。保奈美が見ていたことはどちらも知らないらしい。いつもどおりに見える食卓は、その実、いたるところに綻びが感じられた。昨夜の事件が家族の肖像にひびを入れたことは明らかだった。
佐恵子は働くことを諦めたみたいだった。諦めたふりをしていた。表面上は以前と変わらない良妻賢母を演じていたが、やりきれない悲しみと悔しさがふと表情に滲み出ることがあった。それからも、保奈美の知らないところで両親は軋みつづけていたのかもしれない。いつしか義孝と佐恵子のあいだには深い溝が刻まれていて、その中心で保奈美は途方に暮れるしかなくなっていた。
小学生にとって、親というものは一番身近な世界だ。その軋みは、自身の軋みでもある。そうして、母といるのも父といるのも辛くなった保奈美は、家にいることさえ抑鬱的に感じるようになった。
ある日、そのことを親友である杏藤瑠南に話すと、だったら一緒に寄り道しよう、と誘ってくれた。家にいるのが嫌なら、家にいる時間を減らしてしまおう、と。
あてもなく町を歩き、コンビニで買い食いをし、ときには公園のブランコに座っておしゃべりをする――そんな柔らかな時間は、光をかたどって保奈美の胸を優しく包み込んだ。瑠南が部活で一緒に帰れないときでも、ひとりで寄り道をした。真っ赤に染まる町並みや、ちょっとだけ緩んで感じる時の流れや、人々の豊かな表情を見るのが好きだった。そのときばかりは、悲しみの底に沈殿した気持ちを紛らわせることができるのだった。
「梨元……」雄大が寂しげに呟く声が残った。
たどたどしくも語り終えた保奈美にむかって、柿田は紫煙を吐き出した。
まずはじめに思ったのは――そんなもの、どこの家庭にもあふれている類の傷ではないだろうか、ということだった。無菌の家族なんていない。どこまでもまっすぐな人間がいないのと同じように。ある程度の不和や歪曲はナチュラルでもあるのだ。
――その種の問題に一家言ある柿田にしてみれば、保奈美の痛みを推し量ることも、理解することも、できなくもないけれど。投影も、できてしまうけれど。
なまじ彼女が過ごしてきた理想的な時間を思えば、免疫体のなさを思えば、『家に帰りたくない』という言葉もわからなくはないが――とはいえ、さすがにそれは言いすぎな気がした。一方的な被害者の口にすることにしては、なにかピースが足りていない。
その疑問を瑠南が代弁した。
「だからってホナちゃん。こんなやつと一緒なんだよ? 男の腐ったやつだよ?」
私ならやだね、と指されて柿田は歯軋りをする。しかしそんな彼のほうを見て、保奈美はやんわりとした笑みを浮かべて「そんなことないよ」と言った。
「きっと、大丈夫だよ。なんだか私、柿田さんや甘夏さんがそんな悪い人のように思えないもん。こうやって自由にしてくれたし、ごはんも食べさせてくれるから」
悪い人には思えない――だから大丈夫?
柿田の顔に熱がこもった。ふいの保奈美の言葉に気恥ずかしく感じたわけでは間違ってもない。純粋に怒れた。おまえは悪党にもなりきれない半端者だと、そう揶揄されたように感じたのだ。なぜだか美月の叔父の顔が浮かんだ。美月の顔も投げかけられる。前者は蔑むように、後者は哀しむようにこちらを見ていた。たちまち惨めさが湧きかけた。
「ガキ……なめんじゃねえぞ。本気になった俺がどんなもんか、見せてやらあ。てめえの家からがっぽり金を奪いとってやるからな」
できるかぎり悪質な響きを込めて、柿田は保奈美を見下ろした。本物の悪党になってやろうと思った。ふたりの浅岡を、その表情を振り払ってやるつもりだった。
けれど。
「そんなんムリムリ」瑠南があっけらかんと手を横に振った。「今どき誘拐なんかしてうまくいくわけがないじゃん。昔のドラマじゃないんだし」
虚をつかれたように口を閉ざした柿田だったが、すぐに虚勢を張ってみせた。
「おまえも調子に乗ってんじゃねえよ。ジジイは冗談で言っても、俺は違うかもしれねえぜ? 鉄錆くせえ棺桶で我慢できんのかよ」
「もういいよ、そういうのは」
平らな眼差しをむけて、瑠南は言った。
どうやら完全に見くびられているらしい。それとも、柿田の中途半端な人間性を見抜いているがゆえの優しさだったのだろうか。いずれにせよ腹の虫の居所が悪くなったが、「そんなことよりさ」と彼女が話を変えたので柿田は反論する機会を失ってしまう。
瑠南はしたり顔で言った。
「これはひょっとしたらチャンスかもよ、ホナちゃん」
「チャンス?」保奈美が小口を開ける。
「この誘拐でさ、おじさんとおばさんに仲直りしてもらったらどうかな? 娘がさらわれたーってときなら、きっと心も寄り添うだろうし、そこにホナちゃんが帰ってきたら大団円間違いなしだよ。あの事件が家族の絆を取り戻してくれましたってさ、世界まる見えみたいになっちゃうよ」
すごいと思わない? と保奈美の両手を握る瑠南のシナリオの中には、柿田たちの大団円は含まれていなかった。勝手に書き進めていくのはやめてほしいのだが……。
「私たちも協力するから、ね?」
瑠南は雄大に目配せをする。彼は保奈美をちらりと見て、照れくさそうに頬を掻いた。
「……まあ、梨元がどうしてもっていうなら手を貸してやってもいいぜ……?」
そしてすべてが完結したかのように、瑠南が柿田にくるりとからだをむけた。
「んじゃ、そういうことだから。今日は帰るね」
「……つまり、どういうことだってばよ」
その脚本はあまりに簡単すぎる、だとか。どうしてこんな話になった、だとか。様々な思いが頭上をぐるぐると遊泳していた――けれど、小学生のちゃちな発想に文句を垂れても仕方がない。むしろここは大いに利用させてもらうべきなのかもしれない。
とはいっても、確認は必要だが。
「そんなこと言って、帰したらまっさきにサツに垂れ込んだりすんじゃねえのか?」
「なに? してほしいの?」瑠南は真顔で言った。「してもいいけど、それじゃホナちゃんが家に帰りたくないままで終わっちゃう。今じゃまだ、なんにも変わらないよ。べつにいいじゃん。目的が違うんだし。私らは私らでこの状況を利用させてもらうだけだから」
利用――どうやら、瑠南も柿田と同じ考えらしい。
彼女は、保奈美と両親のための時間の置き場としてここを使う。対して柿田にしてみれば、本来ならば致命的であったはずの目撃者の出現がほとんど無効(チャラ)になり、それだけでも僥倖と言える。しかも彼には、あるひとつの秘計が閃いていた。
「じゃあ……本当にチクらねえんだな?」
「メンドくさいなぁ。そう言ってるじゃん、バカ」
言葉づかいは脇に置いておくとして、瑠南の真剣そのものの表情は揺るがない。きっと、保奈美を思う気持ちも本物だろう。
柿田は甘夏に意見を求めた。
「ふうむ」甘夏はあまり思案する様子を見せなかった。「信じてみてもいいんじゃないか? どのみち知られてしまってるわけだし、この子らの措置にしたって妙案があるわけでもないだろう? まあ、なるようになれってところだな」
「はぁん……?」
捨て鉢――でもないのだろう。
「……わかったぜ。てめえの好きにしろや」柿田は不承不承といった感じで言った。
「はあ、やっと折れた。つかれたぁ」
息をついた瑠南は、つづいて「……ん」と右手を差し出してくる。
古典的な儀式だが、仕方なく柿田は小さな手のひらを握ってやった。
そして――ひとまず柿田誘拐犯一派と瑠南友人一派のあいだに、不思議な同盟が合意される運びとなったのだった。
(9)
瑠南たちが帰るころに、ちょうど夕焼け空は色褪せていった。窓から望む河川はきらめきを失っていき、やがて人工の光にあふれた街を映す鏡へと変わっていくのだろう。
彼女たちには、去り際に、くれぐれも他人に見つからないようにと忠告をしておいたのだが、守ってくれているだろうか――というよりそれ以前に、本当にあの協定は正しかったのだろうか。いまだに明確な判断がつかない。
「きっと大丈夫ですよ。瑠南ちゃんは正直な子ですもん」
そんな懸念を見透かしたように、保奈美が言ってくる。彼女はにこにこと笑ってすらいた。親友との再会は、どうやら彼女の心に大きな安らぎを与えたみたいだ――しかし依然として、柿田と彼女の間柄が真っ当でないことに変わりはないはずである。それ以上も以下もなく、瑠南たちとの関係もただの利害の一致でしかない。そこを履き違えてもらっては困る。ましてや親近感などお門違いもいいところだ。
それなのに、笑っている。
金持ちのくせに能天気というか、こちらの居心地が悪くなるくらいきれいな子どもだ、と柿田は思った。なにが、金持ちのくせに、なのかはわからないが。
「ったく……そうであることを祈るぜ」
――こんな感じでこの先大丈夫なのだろうか?
柿田は胸ポケットから煙草を取り出した。
翌日の金曜日。
柿田の心配はあっさりと杞憂に終わった。
午後四時をすぎたあたり――カンカンと外の螺旋階段を上る音が聞こえて、瑠南と雄大が軽快に入ってきたからだった。まるで、遊ぶ約束をした友人の家にやってきたときみたいだった。ふたりともランドセルを背負っていた。
「瑠南ちゃん。梅村くんも。直接きてくれたんだ」
保奈美が表情を輝かせて立ち上がる。
「やっほー、ホナちゃん」気さくに手を挙げた瑠南だったが、柿田の視線に気がつくと嫌そうな顔で言った。「なに? キモいんだけど、見ないでよ」
「いや……マジでくるとは」
柿田は驚きを隠せなかった。彼女たちが宣言どおりに来訪したこともそうだったが、通報されずに、裏切られずに済んで思いのほか安堵している自分がいることに驚いた――裏切られずにだなんて、そんな言葉を使ってしまうほど、彼女たちを信じたいと思っていたのだろうか?
「ふぅん? 疑ってたんだ?」
「……たりめーだろ」
簡単に信用はできない――正論のはずだと自覚しつつも、柿田はどうしてか目をそらしたくなった。しかし瑠南は特になじってくるようなことはせず、ランドセルから連絡帳のようなファイルを取り出した。一枚のプリントを保奈美に差し出す。
「はい、今日もらったの。一応ホナちゃんにもあげるね」
「あ、もうそんな時期だったね」受け取ったプリントを興味深そうに眺める保奈美。「でも、私の分は配られてなかったんじゃないの?」
「こっそり二枚とっておいたんだよ」雄大がなんでもなさそうに答えた。
自分を差し置いてなんの話だろう。気になった柿田は三人に近づいていって、保奈美の手からプリントを奪いとった。なにすんのよ、と手を伸ばしてくる瑠南には煙を吐きかけて応戦してから、プリントに目を落とした。
上部に『第四十五回君鳥小学校運動会のお知らせ』と印刷してあった。どうやら保護者むけのものらしい。簡単なプログラムと日時が記してある。
柿田は鼻で笑った。「こんなもんいらねえよ。わりいが今年は『病欠』だぜ、ガキ」
しゅんとする保奈美。しかし、煙を振り払った瑠南が言った。
「それはわかるけどさ、ホナちゃんは毎年楽しみにしてるのっ」
「そんで毎年、徒競走でビリになってやがんの」雄大がまぜ返す。すると、「あんたはちょっと黙っててよ」と瑠南が彼の胸を押して、雄大も反射的に肩を押し返した。ふたりのあいだに、今にも取っ組み合いに発展しかねないぴりぴりとした空気が生まれる。
「うるせえなてめえら。今は内輪揉めしてる場合じゃねえんだよ」柿田はとりあえず近くのテーブルを蹴り上げて、注意を引かせた。
「じゃあ、なにすんのよ」
瑠南が八つ当たり気味に口を尖らせる。柿田は答えた。
「せっかく協定結んだんだ。まずは作戦会議をはじめようぜ」
テーブルの周りにソファや長椅子を寄せ集めて、今後の作戦会議がはじまった。
左に柿田と甘夏、それに対面する形で瑠南と雄大、そしてその中立の位置に保奈美がどぎまぎしながら座っている。
「んで、てめえらはどうするつもりなんだ?」柿田は言った。
「どうするって、どういうこと?」瑠南が足を組んで返す。
「俺らには身代金ゲットっていうわかりやすい終着点がある。でもそっちにはねえだろ」
「……終着点って、なんか難しいけど」
「簡単にいえば、まあ、ゴールだわな。要するに、ガキの親がどんなふうに、どんなレベルにまで仲直りすりゃあいいんだ? 毎晩セックスするくらいにか?」
「セッ……!」瑠南は顔を真っ赤にしてから、ごにょごにょとつづけた。「そんなのわかんないけど……とにかく、ホナちゃんが笑えるようになればそれでいいのっ」
「瑠南ちゃん、ありがとう」保奈美が目を細める。
その一方で柿田は鼻で笑った――やはり所詮は小学生の浅知恵。具体的な案を求めるほうが間違いだったのかもしれない。それがあったところで、邪魔なだけだけど。
「なによ、悪い?」気に障ったらしく、瑠南が声に棘を立てる。
「別に悪いとは言ってねえだろ。でもまあ、問題は――どういうふうに、だろうな」
「方法ってこと?」
「具体的に仲直りをさせる方法はあんのかよ。それとも、ただ待ってるだけか?」
考えていなかったのだろう、瑠南はぐっと言葉をつまらせる。
「だったら、この淳一お兄さんが迷える子羊にアドバイスをくれてやってもいいぜ。特別にな」
「ふぅん、なんなの」
興味薄げな声音とは裏腹に、瑠南が少し身を乗り出してきた。魚が餌に食いついてきた、と柿田は内心で口の端を吊り上げた。「そうだな。まずは敵を知るところからはじめてみたらどうよ? 百聞は一見にしかずってな、話だけじゃあわからねえモンもあんだろ」
そこで、柿田は甘夏の視線に気づいた。どうやら柿田の意図を察したらしい。柿田は子どもたちに気づかれないように目だけでおどけて返しておいた。
「えっと、つまり?」
「ちょっとガキん家までいって、様子とか見てこいや。とりあえずは動かねえことには、なにもはじまんないんじゃねえのか?」
「まあ、そうかもしんないけど」瑠南は一寸迷ったみたいにからだを揺すってから、雄大のほうを見た。「ねえ、梅村はどう思う?」
「おれは……そいつの言うことは一理あると思う。確かにさ、動かないことにはなにもはじまらないだろうし、あれこれ考えるの得意じゃねえんだよな」
雄大の言葉がうまく背中を押したみたいだ。瑠南はどこか満足げな顔になって、そうだねと保奈美に向きなおった。
「ホナちゃんにも教えてあげたいし、いってこよっかな!」
威勢のいい瑠南を眺めながら、柿田は煙草に火を添わした。安い葉を燻らしながら思う。
(これで、うまく機能してくれりゃいいんだけどな)
柿田のひそかな目論見――それは、瑠南たちを言いくるめて、偵察隊として梨元家に派遣することだった。
ふつう誘拐犯にとって、警察の動向は喉から手が出るくらいほしい情報だろう。しかし、家のすぐ近くに監視カメラを設置するわけにもいかないし、事前に盗聴器を家の内部に隠すことはもっと難しい。つまるところ、もっとも望んでいてもっとも望み薄なものなのだ。
それが変則的とはいえ、どうにか手に入れられる経路をつくり出した。疑うことが仕事の警察でも、まさか被害者のクラスメイトがスパイに利用されているなど思わないだろう。理想は千里眼がごとき働きだが、少しでもむこうの様子がわかれば万々歳だった。
「そうと決まれば、さっそく今からいく?」
瑠南が窓の外を見ながら言った。すでに日が暮れかけている。事務所全体が灯籠の内部のように淡い光の色に染まっていた。
柿田は口をはさんだ。
「そんなに急ぐなよ。学校帰りに寄ってみましたを装うにしても、今日はもう遅いぜ。できるだけ不自然は生みたくないからな、明日……は土曜で休みか。来週にしろよ」
「んん? なんかあんた本位になってない?」
ぎくりとした柿田だったが、瑠南はそれ以上追及してくることはなかった。「ま、明日でもいいけどね」と息をついて、帰る意思表示なのだろう、水色のランドセルを羽根みたいに背負った。
瑠南たちがいなくなったあとで、柿田は携帯電話を開いた。
「あれ? 柿田さんなにするんですか?」
親友に会えたことでまた上機嫌になった保奈美が、声を若干弾ませて聞いてくる。
「決まってんだろ。てめえん家だ」柿田はディスプレイを見たまま答えた。
「えっ」
保奈美が、思いもよらないことを言われたときみたいに顔をこわばらせた。
「二回目の接触だ。ごたごたしたせいで少し間が空いちまったが」
「それって、お母さんとお父さんを脅すってことですよね?」
「犯罪者がお願いしてどうすんだよ」柿田はするどく保奈美を見た。「あのな、勘違いしてんじゃねえぞ。こちとら児童養護施設の真似事をやってるわけじゃねえんだ。猿じゃあるめえし、そんぐらいはわかるだろ」
「あ、はい……」
さっきの上機嫌はどこへやら、保奈美は悲しそうに目を伏せる。ようやく念を押すことに成功したみたいだった――が、そんな小さな横顔を一瞥してから、柿田は溜息をつきながら言った。「つっても、まあ。ちっとは働いてもらうけどな」
「え?」
「少しだけ代わる。親に声を聞かせてやれ」
「その……いいんですか?」
「だから、勘違いすんじゃねえよ。精神的な揺さぶりをかけるためだ。てめえだって、声も聞きたくねえってほど嫌ってるわけじゃねえんだろ?」
すると、保奈美の表情に光が差した。やはり親と離れ離れになるのは、どうしたってこたえるものがあるのだろう。別段、この年ごろの子どもにとっては。
「は、はいっ。ありがとうございます、柿田さん」
「ジジイのほうは異論はねえな?」
柿田は甘夏のほうに視線を逃がす。甘夏は軽く頷くだけだった。本当に誘拐犯としてやる気があるのかよ、と柿田はなじりたくなったが、今はやるべきことをするほうが先だった。電話帳で検索すると、すぐに先日登録したばかりの番号が出てくる。
瑠南と雄大に即日の行動を思いとどまらせたのは、不自然さを回避するためだけではなかった――もう一つの理由は、今から実行する二度目の接触である。
きっと、この前後では状況は一変しているだろう。どうせ密偵を遣わすのなら、変わったあとの最新情報を持ってこさせるほうがいい、と柿田は考えていた。ちなみに、このことを瑠南に知らせなかったのは、単に面倒な展開が嫌だったからだ。保奈美のためだとか言って反論してくるのは、予知能力のない柿田でもわかっていた。
「……もうてめえら付き合っちまえよ」
「? なにか言いました?」独り言を拾われ、柿田はなんでもないと手を振った。気を取り直して、ゆっくりと親指をコールのボタンに重ねていく。
だが、かすかに震えていることに気づいた。
考えてみれば、一回目はイントロダクションみたいなものだった。今回からは素人の母親が相手じゃない。捜査のプロである警察だ。これからが本当の闘いになっていくのだろうと思うと、緊張感がじわりとにじむ。
柿田は親指に力を込めた。奇しくも一回目と同じく、九回目のコールで繋がった。
瑠南たちが帰るころに、ちょうど夕焼け空は色褪せていった。窓から望む河川はきらめきを失っていき、やがて人工の光にあふれた街を映す鏡へと変わっていくのだろう。
彼女たちには、去り際に、くれぐれも他人に見つからないようにと忠告をしておいたのだが、守ってくれているだろうか――というよりそれ以前に、本当にあの協定は正しかったのだろうか。いまだに明確な判断がつかない。
「きっと大丈夫ですよ。瑠南ちゃんは正直な子ですもん」
そんな懸念を見透かしたように、保奈美が言ってくる。彼女はにこにこと笑ってすらいた。親友との再会は、どうやら彼女の心に大きな安らぎを与えたみたいだ――しかし依然として、柿田と彼女の間柄が真っ当でないことに変わりはないはずである。それ以上も以下もなく、瑠南たちとの関係もただの利害の一致でしかない。そこを履き違えてもらっては困る。ましてや親近感などお門違いもいいところだ。
それなのに、笑っている。
金持ちのくせに能天気というか、こちらの居心地が悪くなるくらいきれいな子どもだ、と柿田は思った。なにが、金持ちのくせに、なのかはわからないが。
「ったく……そうであることを祈るぜ」
――こんな感じでこの先大丈夫なのだろうか?
柿田は胸ポケットから煙草を取り出した。
翌日の金曜日。
柿田の心配はあっさりと杞憂に終わった。
午後四時をすぎたあたり――カンカンと外の螺旋階段を上る音が聞こえて、瑠南と雄大が軽快に入ってきたからだった。まるで、遊ぶ約束をした友人の家にやってきたときみたいだった。ふたりともランドセルを背負っていた。
「瑠南ちゃん。梅村くんも。直接きてくれたんだ」
保奈美が表情を輝かせて立ち上がる。
「やっほー、ホナちゃん」気さくに手を挙げた瑠南だったが、柿田の視線に気がつくと嫌そうな顔で言った。「なに? キモいんだけど、見ないでよ」
「いや……マジでくるとは」
柿田は驚きを隠せなかった。彼女たちが宣言どおりに来訪したこともそうだったが、通報されずに、裏切られずに済んで思いのほか安堵している自分がいることに驚いた――裏切られずにだなんて、そんな言葉を使ってしまうほど、彼女たちを信じたいと思っていたのだろうか?
「ふぅん? 疑ってたんだ?」
「……たりめーだろ」
簡単に信用はできない――正論のはずだと自覚しつつも、柿田はどうしてか目をそらしたくなった。しかし瑠南は特になじってくるようなことはせず、ランドセルから連絡帳のようなファイルを取り出した。一枚のプリントを保奈美に差し出す。
「はい、今日もらったの。一応ホナちゃんにもあげるね」
「あ、もうそんな時期だったね」受け取ったプリントを興味深そうに眺める保奈美。「でも、私の分は配られてなかったんじゃないの?」
「こっそり二枚とっておいたんだよ」雄大がなんでもなさそうに答えた。
自分を差し置いてなんの話だろう。気になった柿田は三人に近づいていって、保奈美の手からプリントを奪いとった。なにすんのよ、と手を伸ばしてくる瑠南には煙を吐きかけて応戦してから、プリントに目を落とした。
上部に『第四十五回君鳥小学校運動会のお知らせ』と印刷してあった。どうやら保護者むけのものらしい。簡単なプログラムと日時が記してある。
柿田は鼻で笑った。「こんなもんいらねえよ。わりいが今年は『病欠』だぜ、ガキ」
しゅんとする保奈美。しかし、煙を振り払った瑠南が言った。
「それはわかるけどさ、ホナちゃんは毎年楽しみにしてるのっ」
「そんで毎年、徒競走でビリになってやがんの」雄大がまぜ返す。すると、「あんたはちょっと黙っててよ」と瑠南が彼の胸を押して、雄大も反射的に肩を押し返した。ふたりのあいだに、今にも取っ組み合いに発展しかねないぴりぴりとした空気が生まれる。
「うるせえなてめえら。今は内輪揉めしてる場合じゃねえんだよ」柿田はとりあえず近くのテーブルを蹴り上げて、注意を引かせた。
「じゃあ、なにすんのよ」
瑠南が八つ当たり気味に口を尖らせる。柿田は答えた。
「せっかく協定結んだんだ。まずは作戦会議をはじめようぜ」
テーブルの周りにソファや長椅子を寄せ集めて、今後の作戦会議がはじまった。
左に柿田と甘夏、それに対面する形で瑠南と雄大、そしてその中立の位置に保奈美がどぎまぎしながら座っている。
「んで、てめえらはどうするつもりなんだ?」柿田は言った。
「どうするって、どういうこと?」瑠南が足を組んで返す。
「俺らには身代金ゲットっていうわかりやすい終着点がある。でもそっちにはねえだろ」
「……終着点って、なんか難しいけど」
「簡単にいえば、まあ、ゴールだわな。要するに、ガキの親がどんなふうに、どんなレベルにまで仲直りすりゃあいいんだ? 毎晩セックスするくらいにか?」
「セッ……!」瑠南は顔を真っ赤にしてから、ごにょごにょとつづけた。「そんなのわかんないけど……とにかく、ホナちゃんが笑えるようになればそれでいいのっ」
「瑠南ちゃん、ありがとう」保奈美が目を細める。
その一方で柿田は鼻で笑った――やはり所詮は小学生の浅知恵。具体的な案を求めるほうが間違いだったのかもしれない。それがあったところで、邪魔なだけだけど。
「なによ、悪い?」気に障ったらしく、瑠南が声に棘を立てる。
「別に悪いとは言ってねえだろ。でもまあ、問題は――どういうふうに、だろうな」
「方法ってこと?」
「具体的に仲直りをさせる方法はあんのかよ。それとも、ただ待ってるだけか?」
考えていなかったのだろう、瑠南はぐっと言葉をつまらせる。
「だったら、この淳一お兄さんが迷える子羊にアドバイスをくれてやってもいいぜ。特別にな」
「ふぅん、なんなの」
興味薄げな声音とは裏腹に、瑠南が少し身を乗り出してきた。魚が餌に食いついてきた、と柿田は内心で口の端を吊り上げた。「そうだな。まずは敵を知るところからはじめてみたらどうよ? 百聞は一見にしかずってな、話だけじゃあわからねえモンもあんだろ」
そこで、柿田は甘夏の視線に気づいた。どうやら柿田の意図を察したらしい。柿田は子どもたちに気づかれないように目だけでおどけて返しておいた。
「えっと、つまり?」
「ちょっとガキん家までいって、様子とか見てこいや。とりあえずは動かねえことには、なにもはじまんないんじゃねえのか?」
「まあ、そうかもしんないけど」瑠南は一寸迷ったみたいにからだを揺すってから、雄大のほうを見た。「ねえ、梅村はどう思う?」
「おれは……そいつの言うことは一理あると思う。確かにさ、動かないことにはなにもはじまらないだろうし、あれこれ考えるの得意じゃねえんだよな」
雄大の言葉がうまく背中を押したみたいだ。瑠南はどこか満足げな顔になって、そうだねと保奈美に向きなおった。
「ホナちゃんにも教えてあげたいし、いってこよっかな!」
威勢のいい瑠南を眺めながら、柿田は煙草に火を添わした。安い葉を燻らしながら思う。
(これで、うまく機能してくれりゃいいんだけどな)
柿田のひそかな目論見――それは、瑠南たちを言いくるめて、偵察隊として梨元家に派遣することだった。
ふつう誘拐犯にとって、警察の動向は喉から手が出るくらいほしい情報だろう。しかし、家のすぐ近くに監視カメラを設置するわけにもいかないし、事前に盗聴器を家の内部に隠すことはもっと難しい。つまるところ、もっとも望んでいてもっとも望み薄なものなのだ。
それが変則的とはいえ、どうにか手に入れられる経路をつくり出した。疑うことが仕事の警察でも、まさか被害者のクラスメイトがスパイに利用されているなど思わないだろう。理想は千里眼がごとき働きだが、少しでもむこうの様子がわかれば万々歳だった。
「そうと決まれば、さっそく今からいく?」
瑠南が窓の外を見ながら言った。すでに日が暮れかけている。事務所全体が灯籠の内部のように淡い光の色に染まっていた。
柿田は口をはさんだ。
「そんなに急ぐなよ。学校帰りに寄ってみましたを装うにしても、今日はもう遅いぜ。できるだけ不自然は生みたくないからな、明日……は土曜で休みか。来週にしろよ」
「んん? なんかあんた本位になってない?」
ぎくりとした柿田だったが、瑠南はそれ以上追及してくることはなかった。「ま、明日でもいいけどね」と息をついて、帰る意思表示なのだろう、水色のランドセルを羽根みたいに背負った。
瑠南たちがいなくなったあとで、柿田は携帯電話を開いた。
「あれ? 柿田さんなにするんですか?」
親友に会えたことでまた上機嫌になった保奈美が、声を若干弾ませて聞いてくる。
「決まってんだろ。てめえん家だ」柿田はディスプレイを見たまま答えた。
「えっ」
保奈美が、思いもよらないことを言われたときみたいに顔をこわばらせた。
「二回目の接触だ。ごたごたしたせいで少し間が空いちまったが」
「それって、お母さんとお父さんを脅すってことですよね?」
「犯罪者がお願いしてどうすんだよ」柿田はするどく保奈美を見た。「あのな、勘違いしてんじゃねえぞ。こちとら児童養護施設の真似事をやってるわけじゃねえんだ。猿じゃあるめえし、そんぐらいはわかるだろ」
「あ、はい……」
さっきの上機嫌はどこへやら、保奈美は悲しそうに目を伏せる。ようやく念を押すことに成功したみたいだった――が、そんな小さな横顔を一瞥してから、柿田は溜息をつきながら言った。「つっても、まあ。ちっとは働いてもらうけどな」
「え?」
「少しだけ代わる。親に声を聞かせてやれ」
「その……いいんですか?」
「だから、勘違いすんじゃねえよ。精神的な揺さぶりをかけるためだ。てめえだって、声も聞きたくねえってほど嫌ってるわけじゃねえんだろ?」
すると、保奈美の表情に光が差した。やはり親と離れ離れになるのは、どうしたってこたえるものがあるのだろう。別段、この年ごろの子どもにとっては。
「は、はいっ。ありがとうございます、柿田さん」
「ジジイのほうは異論はねえな?」
柿田は甘夏のほうに視線を逃がす。甘夏は軽く頷くだけだった。本当に誘拐犯としてやる気があるのかよ、と柿田はなじりたくなったが、今はやるべきことをするほうが先だった。電話帳で検索すると、すぐに先日登録したばかりの番号が出てくる。
瑠南と雄大に即日の行動を思いとどまらせたのは、不自然さを回避するためだけではなかった――もう一つの理由は、今から実行する二度目の接触である。
きっと、この前後では状況は一変しているだろう。どうせ密偵を遣わすのなら、変わったあとの最新情報を持ってこさせるほうがいい、と柿田は考えていた。ちなみに、このことを瑠南に知らせなかったのは、単に面倒な展開が嫌だったからだ。保奈美のためだとか言って反論してくるのは、予知能力のない柿田でもわかっていた。
「……もうてめえら付き合っちまえよ」
「? なにか言いました?」独り言を拾われ、柿田はなんでもないと手を振った。気を取り直して、ゆっくりと親指をコールのボタンに重ねていく。
だが、かすかに震えていることに気づいた。
考えてみれば、一回目はイントロダクションみたいなものだった。今回からは素人の母親が相手じゃない。捜査のプロである警察だ。これからが本当の闘いになっていくのだろうと思うと、緊張感がじわりとにじむ。
柿田は親指に力を込めた。奇しくも一回目と同じく、九回目のコールで繋がった。
(10)
梨元家のリビングは静まり返っていた。
蒲郡はソファに浅く腰かけ、テーブルの上に設置された電話機をじっと見つめている。むかい側で吉見があくびを噛み殺していたが、叱咤する気になれなかった。ここ数日は、電話機の前にへばりついているような生活がつづいているのだ。疲れたからだが眠気を断りきれないのも無理なかった。
台所から陶器が擦れ合うような音が聞こえた。トレイを持った佐恵子が蒲郡たちのもとへやってきて、マイセンらしきカップを置いていく。
「どうぞ、みなさん。少し休んでください」
「ありがとうございます。助かります」蒲郡は淹れたてのコーヒーを口に含んだ。舌の痺れるような感覚のあとに、署にあるインスタントのものでは味わえない高級感あふれる深みが広がっていく。他の刑事もほっと一息ついているのがわかった。
「旦那さんは、今日も遅いんですか」吉見がなにとなしに佐恵子に聞いた。
「ええ、たぶん……」
佐恵子は申し訳なさそうに答えた。彼女はなにをするにしても、そういう目をする。
それとは対照的なのが、話題に上がった夫の義孝だった。彼は蒲郡たちと話すときであっても、眉ひとつ動かさなかった。いちおうは捜査に協力してくれているみたいだったが、きっとクライアントを相手にするときのほうが親身なのだろうと思える。出社と退社の時間もふだんどおりらしく、生活サイクルにはなんの変化も見られなかった。一人娘がいないことなど気にも留めていないように――まるで、一人娘などはじめからいないかのように。
「あの、蒲郡さん」佐恵子が言った。「娘は、無事なのでしょうか」
「それは……わかりません。犯人が接触してこないので、なんとも言えんのです」
「いったい、野郎はなにを考えてるんでしょうね」吉見は一口コーヒーを啜った。
彼の言葉には同意せざるをえなかった。自分たちがここにきてからというもの、犯人からの連絡はない。そこが、解せないといえば解せなかった。
自分たちの存在に気づかれたのだろうか? はたまたなにかの作戦なのか? どちらにしても、むこうから動いてくれなければ後手ですら打ちようがない。
蒲郡は腕時計を見た。そろそろ日が落ちる。今日も接触はなしか、と思った。
そのときだった。
静寂を切り裂くように、電話機の着信音が響き渡った。
「きたか……!?」蒲郡はヘッドホンを装着した。他の刑事もそれに倣い、みな一様に真剣な面持ちになる。突然張りつめた空気に戸惑いながらも受話器を手にとろうとした佐恵子を、蒲郡は無言で制した。犯人の意思を見極めるためだ。もどかしそうな佐恵子をさらにとどめる。しかし、一定の時間を越えてもコールはつづいている……犯人はこちらと真に対話したがっていると判断していいだろう。蒲郡はゴーサインを出した。
佐恵子はすばやく深呼吸をしてから受話器を耳に当てた。「……もしもし?」
『あぁ? 誘拐犯だけどさ、梨元さん家であってるか?』
若い男の声だ。ボイスチェンジャーは使っていない。
「はい……梨元保奈美の母です」
『聞くまでもねえと思うが、もうサツにはちくってんだろ?』
佐恵子が蒲郡を見やった。彼は首を横に振る。
「そんな、してません」
『嘘つくんじゃねえよ。わかってんだ。どうせ横にゴルゴみてえなオヤジがいんだろ』
「信じてくださいっ。ゴルゴなんていませんっ」佐恵子が必死に否定する。蒲郡は、腹を抱えて笑いをこらえている吉見を拳で沈めてから、少し落ち着くようにと佐恵子にジェスチャーを送った。彼女は胸に手を当てて付加した。「……本当ですから」
『そうだといいんだけどなあ?』
そこで、刑事のひとりがフリップで指示を出した――佐恵子は目で頷いて、再び受話器に意識をむかわせ、読み上げる。「あの……貴方たちの目的はなんですか?」
『知ってどうすんだよ。黙って言うこと聞いてろや』
刑事がすばやく「犯人はふたり以上」と書く。“たち”を否定しなかったからだ。
「その……娘は、保奈美は無事なんですか?」
『知りてえか?』
「はい、保奈美さえ返してくれれば、なんでもしますから。保奈美だけはっ」
『それは自分で確かめるんだな』
すると、かすかに物音が混じってから、薄い吐息がマイクににじんできた。
『……お母さん?』明らかに先ほどの男の声とは違う、小学生くらいの女の子の声。それは紛れもなく、無事を祈ってやまなかった娘のものだった。
「ほなみ? 保奈美なの?」佐恵子はよりいっそう、受話器を耳に押し当てた。
『うん、お母さんだね。そっちは大丈夫?』
「なに言ってるのっ? あなたこそ殴られたり、変なこととかされてない?」
『されてない』
「食事とかは……」
『ちゃんともらってるよ。今日はお昼にコロッケサンド食べたの。ちょっと物足りなかったけど、学校の給食よりもおいしかったよ』
梨元保奈美は、蒲郡の予想よりもずっと冷静だった。声質は刃物をあてがわれているふうでもなく、特に衰弱しているような気配もない。不安を隠しきれない佐恵子とどちらが母親なのかわからなくなるほどだった。この精神状態は、いったいどこからくるのか?
「……保奈美」佐恵子は姿勢を正した。「お母さんが絶対、助けてあげるからね」
その言葉には、一寸の揺らぎもなかった。しかし、
『はいはいどーもぉ? ママのこと信じてるからねぇー?』
「っ!?」
佐恵子が表情を歪めた。最初の男の声だ。タイミング悪く交代されてしまったらしい。軽薄な口前に思わず怒鳴りたくなったが、ぐっとこらえた。下手に相手を刺激したくない。自分の言動の正否は、そのまま娘の運命に直結するのだから。
「あの、娘は本当に――」
プツリ、と。そこで唐突に通話が切れた。
二回目の接触が終了した――その事実を認識するのに数秒かかった。
脱力してしまう佐恵子に「おつかれさまです」と言ってから、蒲郡はノートパソコンにむかっている吉見を見た。「逆探知のほうはどうだ?」
「だめです。でも、声紋データは取れました。回しておきます」
「ふざけた野郎ですね」刑事のひとりが苦々しそうに口を開いた。
蒲郡は大きく頷く。慌てふためく被害者家族を小ばかにした態度、わざわざ娘に受話器を握らせる手法、そして追いすがる佐恵子の気持ちを振り払う引き際――どこかこの状況を、梨元親子の生殺与奪の権を自分が有していることを楽しんでいるふうに思えなくもない。身代金目的の犯行だと踏んでいたが、視野を狭くしていただけなのかもしれなかった。
「愉快犯の線も考えなくちゃなりませんかね」
「ああ、そうだな」蒲郡は頭を掻きむしった。「厄介な野郎だ。ちくしょうが」
「あっ、ちくしょう。ミスったぜこりゃあ」
柿田はいきなり通話の途切れた携帯電話を見て、舌打ちを鳴らした。
「どうしたんですか?」となりの保奈美が、手元を覗き込んでくる。あっと声を出した。「『充電してください』……電池が切れちゃったんですね」
「ちゃんと満タンにしとけばよかったな」
「それより、柿田さんひどいです」保奈美は頬を膨らませた。「いきなり取り上げるなんて。もう少し話させてくれてもよかったじゃないですか」
「なんだよ。ホームシックか?」
「……いえ、ただお母さんを安心させてあげたかったなって」
「はっ、仲のいいこった」
皮肉のつもりで柿田は言った。机の上にある携帯充電器を引き寄せて携帯に挿す。
今回は不意に通話が切れたために、話を進め足りない部分はあったが、かといってもう一度接触を試みるのも危険なにおいがする。今のところは、来週あたりに瑠南たちが持ってくるであろう梨元家の情報を待つくらいしかすることはないだろう。
チャイムが鳴る。週末は秋雨が降っていたが、週明けの月曜日には青空が広がっていた。グラウンドの乾き具合は上々と言っていいものだろう。給食をかけ込み終えると、五年一組の男子生徒たちは自宅待機をしいられていた週末の鬱憤を晴らすかのように喚声を上げながら、サッカーボールを持って外へと繰り出していく。
「待てよ! おれがいなくちゃはじまんねえだろ!」
梅村雄大もそれにつづこうとして、いきなり服の襟首を誰かに引っつかまれて転び、尾てい骨を床に強打した。涙目で振り返ると、そこには瑠南がいた。
「杏藤! おまえ、ふざけんな!」
「ちょっと梅村」瑠南はずいっと雄大に顔を近づける。額を人差し指で小突いた。「あんたなんか新規のモブキャラみたいな言動してるけど、忘れていないでしょーね?」
「なにをだよ。宿題なら出したぞ」
「バカ。ホナちゃん家の様子を教えてあげるミッションのこと」
「ああ……今日いくのか?」雄大は声をひそめた。
「うん」瑠南は雄大を引っぱり上げつつ首肯した。「やっぱり早いほうがいいもんね」
「そっか。ていうか、おまえ梨元の住所知ってんの?」
「遊びにいったことあるから。まかせなよ」
そう言ったあとは、雄大にそのままサッカーに誘われたので、瑠南も参加した。そこでハットトリックの活躍を見せたおかげか、満腹感にほどよい疲労が重なってきたために最後の五時間目は夢の中だったので、放課後は目を覚ますと同時にやってきた。
ふたりは一度ばらけたあと、学校近くのコンビニで落ち合うことにした。
「誰にも変に思われてないよな」先に着いて待っていた雄大が言う。
「たぶん大丈夫。さっ、いこ?」
瑠南の案内で二十分ほど歩くと、高級感の漂う住宅街に入る。梨元と刻まれた表札の家はすぐに見つかった。近代的なつくりの二階建て。冷たい家だ、と瑠南は思った。前にきたときも思ったことだけれど、今はさらにそういう印象が強い。
とりあえずは電柱の陰から全体をうかがうことにする。さすがにパトカーが何台もとまっていたりだとか、物々しくキープアウトされていたりだとか、いかにも事件発生中という感じの様相は呈していない。しいて違和感があるとすれば、カーテンが閉めきってあることぐらいか。それもプライバシーのことを考えれば、ふつうなのかもしれない。
しかしこれでは、保奈美に報告する内容が空っぽになりそうだった。
「うーん。梨元に家の様子を伝えるなんて、ハナから無理だったんじゃね?」雄大が腕組みをしながら唸った。「中に入るわけにもいかないしな」
「というより、おばさんにうまく嘘をつかれて帰されると思う」
「梨元の母さんか……やっぱあいつと似てるん?」
「似てる似てる。梅村好みの」
「誰がおれの好みだよ! おれはもっとなあ、あんなトロくさいやつじゃなくて……!」雄大は顔を赤くしてから、強引に話をもどした。「とにかく、どうするんだ?」
「もうちょっと近づいてみてもいいんじゃない?」
ふたりは門扉のところまで歩いていった。
――そのとき。
玄関からガチャリと、見知らぬ中年男が出てきた。
塀の裏側のほうから、見知らぬ青年が小走りでやってきた。
ちょうど玄関と道路という位置から、門扉の前にいる瑠南と雄大ははさまれる形になる。しかし青年のほうは手元のメモに目がいっていて、ふたりの小学生に気がつかないまま――あるいは認知と発言が同時に起きて――ポーチにいる男に言った。
「先輩。梨元保奈美は学校が終わってから誘拐されるまでの姿が知られていませんね」
「吉見っ」
瞬間的に――四人の中に緊張が走った。
面倒くさいことになった、と瑠南は内心で大きく舌を弾いた。おそらくこのふたりは刑事だろうが、よりによって『誘拐』という核心的なワードを聞かされてしまったのはよくない。自分たちがこっそりと情報を集めるためには、事件に関してまったくの無関係という立ち位置が肝要なのだ。だが、これだと表向きにも事件に引きずり込まれて、動きづらくなる。確実にその可能性は跳ね上がる。
とはいっても、ここで変な対応を見せてもメリットはないので、瑠南としてはできるだけはじめて知ったふうを装うしかない。目を丸めて、心の底から驚いたように。
「え……っと、誘拐ってなんですか?」
「そ、それは」吉見というらしい刑事が動揺する。
「梨元保奈美って、ホナちゃんのことじゃないんですか?」
「ホナちゃん? きみらは彼女の友だちかい?」中年刑事が寄ってくる。
瑠南がはいと答えると、彼はゆっくりと嘆息をもらした。それから膝を折って目線を合わせると、言い聞かすように、ともすれば有無を言わせぬ声で言った。
「よく聞いてくれよ。その……梨元保奈美ちゃんは、病欠だって言われているかもしれないが、本当は違う。彼女は誘拐されてしまったんだ。私たちは刑事で、犯人を追っているところなんだよ。今日、君たちはたまたま本当のことを知ってしまったが、どうか他の人には言わないでほしい。きみが友だちのことを思うのなら、彼女を無事に助け出したいと思うのなら、黙っていてくれるね?」
ごまかしは効きそうにないと判断したのだろう、あえて真正面から攻めてきた。妙な迫力に瑠南は頷かざるをえない――それでも、手ぶらで保奈美のところへ帰りたくはなかった。たったひとつでも、たいして有益でなくてもいいから、なにかしらの情報を入手しなければ。
「あの」瑠南は口を開いた。「お母さんとお父さんはどうしているんでしょうか」
「梨元保奈美ちゃんの?」
「はい、友だちとして心配なんです」
中年刑事は困ったみたいに唇を曲げた。吉見のほうを見る。「佐恵子さんは本当に心配しているよなあ? やはり保奈美ちゃんのことが大事なんだろうね」
「そうですね」吉見が引き継ぐ。「でも、義孝さんのほうはあんまり熱が入っていないっていうか、僕たちに丸投げっていうか……なんだか意識が噛み合ってないっすよね。まあ、それが捜査の進んでいない原因ってわけじゃないっすけど」
「ふぅん……聞いてた以上かも」
「ん? なにか言ったかい?」
「あっ、なんでもないです」瑠南は慌てて言った。口元が緩くなっていたことを反省しつつ後ろの雄大に「私なにか言った?」と話を振るが、彼は液晶の中の虚構ではない刑事を前にしてかたまってしまっていて、ぶんぶんと首を横に振るだけだった。
最後に中年刑事は蒲郡と名乗ってから、瑠南の肩に手を置いた。
「さあ、もう安心して帰っていいよ。保奈美ちゃんのことは私たちに任せなさい。必ず教室にいけるようにしてあげるから。その代わり、今日のことは本当に誰にも言ってはいけないよ。約束だ」
やわらかな口調のわりに低い声には、ここから先の関与をはねのける厚みと、許さない重みがあった。ほとんど命令のようなニュアンスをひしひしと感じた。
もうこれ以上は望めそうにない――。
瑠南と雄大は、追い返されるように梨元邸から離れた。振りむけば、すでにふたりの刑事の姿は梨元邸の中に消えようとしていたので、瑠南は「バーカ」と中指をそちらにむけて天を突く勢いで立ててやった。
「やめろよ、見つかんぞ」雄大が疲れた顔をむけてくる。
瑠南はふんと鼻を鳴らした――誰を助けるだって? と刑事に問いただしたかった。ホナちゃんの救いがどこにあるのか知らないくせに、よく言うよ。彼女はきびすを返して大またで歩き出した。日暮れには、まだ時間がありそうだ。
梨元家のリビングは静まり返っていた。
蒲郡はソファに浅く腰かけ、テーブルの上に設置された電話機をじっと見つめている。むかい側で吉見があくびを噛み殺していたが、叱咤する気になれなかった。ここ数日は、電話機の前にへばりついているような生活がつづいているのだ。疲れたからだが眠気を断りきれないのも無理なかった。
台所から陶器が擦れ合うような音が聞こえた。トレイを持った佐恵子が蒲郡たちのもとへやってきて、マイセンらしきカップを置いていく。
「どうぞ、みなさん。少し休んでください」
「ありがとうございます。助かります」蒲郡は淹れたてのコーヒーを口に含んだ。舌の痺れるような感覚のあとに、署にあるインスタントのものでは味わえない高級感あふれる深みが広がっていく。他の刑事もほっと一息ついているのがわかった。
「旦那さんは、今日も遅いんですか」吉見がなにとなしに佐恵子に聞いた。
「ええ、たぶん……」
佐恵子は申し訳なさそうに答えた。彼女はなにをするにしても、そういう目をする。
それとは対照的なのが、話題に上がった夫の義孝だった。彼は蒲郡たちと話すときであっても、眉ひとつ動かさなかった。いちおうは捜査に協力してくれているみたいだったが、きっとクライアントを相手にするときのほうが親身なのだろうと思える。出社と退社の時間もふだんどおりらしく、生活サイクルにはなんの変化も見られなかった。一人娘がいないことなど気にも留めていないように――まるで、一人娘などはじめからいないかのように。
「あの、蒲郡さん」佐恵子が言った。「娘は、無事なのでしょうか」
「それは……わかりません。犯人が接触してこないので、なんとも言えんのです」
「いったい、野郎はなにを考えてるんでしょうね」吉見は一口コーヒーを啜った。
彼の言葉には同意せざるをえなかった。自分たちがここにきてからというもの、犯人からの連絡はない。そこが、解せないといえば解せなかった。
自分たちの存在に気づかれたのだろうか? はたまたなにかの作戦なのか? どちらにしても、むこうから動いてくれなければ後手ですら打ちようがない。
蒲郡は腕時計を見た。そろそろ日が落ちる。今日も接触はなしか、と思った。
そのときだった。
静寂を切り裂くように、電話機の着信音が響き渡った。
「きたか……!?」蒲郡はヘッドホンを装着した。他の刑事もそれに倣い、みな一様に真剣な面持ちになる。突然張りつめた空気に戸惑いながらも受話器を手にとろうとした佐恵子を、蒲郡は無言で制した。犯人の意思を見極めるためだ。もどかしそうな佐恵子をさらにとどめる。しかし、一定の時間を越えてもコールはつづいている……犯人はこちらと真に対話したがっていると判断していいだろう。蒲郡はゴーサインを出した。
佐恵子はすばやく深呼吸をしてから受話器を耳に当てた。「……もしもし?」
『あぁ? 誘拐犯だけどさ、梨元さん家であってるか?』
若い男の声だ。ボイスチェンジャーは使っていない。
「はい……梨元保奈美の母です」
『聞くまでもねえと思うが、もうサツにはちくってんだろ?』
佐恵子が蒲郡を見やった。彼は首を横に振る。
「そんな、してません」
『嘘つくんじゃねえよ。わかってんだ。どうせ横にゴルゴみてえなオヤジがいんだろ』
「信じてくださいっ。ゴルゴなんていませんっ」佐恵子が必死に否定する。蒲郡は、腹を抱えて笑いをこらえている吉見を拳で沈めてから、少し落ち着くようにと佐恵子にジェスチャーを送った。彼女は胸に手を当てて付加した。「……本当ですから」
『そうだといいんだけどなあ?』
そこで、刑事のひとりがフリップで指示を出した――佐恵子は目で頷いて、再び受話器に意識をむかわせ、読み上げる。「あの……貴方たちの目的はなんですか?」
『知ってどうすんだよ。黙って言うこと聞いてろや』
刑事がすばやく「犯人はふたり以上」と書く。“たち”を否定しなかったからだ。
「その……娘は、保奈美は無事なんですか?」
『知りてえか?』
「はい、保奈美さえ返してくれれば、なんでもしますから。保奈美だけはっ」
『それは自分で確かめるんだな』
すると、かすかに物音が混じってから、薄い吐息がマイクににじんできた。
『……お母さん?』明らかに先ほどの男の声とは違う、小学生くらいの女の子の声。それは紛れもなく、無事を祈ってやまなかった娘のものだった。
「ほなみ? 保奈美なの?」佐恵子はよりいっそう、受話器を耳に押し当てた。
『うん、お母さんだね。そっちは大丈夫?』
「なに言ってるのっ? あなたこそ殴られたり、変なこととかされてない?」
『されてない』
「食事とかは……」
『ちゃんともらってるよ。今日はお昼にコロッケサンド食べたの。ちょっと物足りなかったけど、学校の給食よりもおいしかったよ』
梨元保奈美は、蒲郡の予想よりもずっと冷静だった。声質は刃物をあてがわれているふうでもなく、特に衰弱しているような気配もない。不安を隠しきれない佐恵子とどちらが母親なのかわからなくなるほどだった。この精神状態は、いったいどこからくるのか?
「……保奈美」佐恵子は姿勢を正した。「お母さんが絶対、助けてあげるからね」
その言葉には、一寸の揺らぎもなかった。しかし、
『はいはいどーもぉ? ママのこと信じてるからねぇー?』
「っ!?」
佐恵子が表情を歪めた。最初の男の声だ。タイミング悪く交代されてしまったらしい。軽薄な口前に思わず怒鳴りたくなったが、ぐっとこらえた。下手に相手を刺激したくない。自分の言動の正否は、そのまま娘の運命に直結するのだから。
「あの、娘は本当に――」
プツリ、と。そこで唐突に通話が切れた。
二回目の接触が終了した――その事実を認識するのに数秒かかった。
脱力してしまう佐恵子に「おつかれさまです」と言ってから、蒲郡はノートパソコンにむかっている吉見を見た。「逆探知のほうはどうだ?」
「だめです。でも、声紋データは取れました。回しておきます」
「ふざけた野郎ですね」刑事のひとりが苦々しそうに口を開いた。
蒲郡は大きく頷く。慌てふためく被害者家族を小ばかにした態度、わざわざ娘に受話器を握らせる手法、そして追いすがる佐恵子の気持ちを振り払う引き際――どこかこの状況を、梨元親子の生殺与奪の権を自分が有していることを楽しんでいるふうに思えなくもない。身代金目的の犯行だと踏んでいたが、視野を狭くしていただけなのかもしれなかった。
「愉快犯の線も考えなくちゃなりませんかね」
「ああ、そうだな」蒲郡は頭を掻きむしった。「厄介な野郎だ。ちくしょうが」
「あっ、ちくしょう。ミスったぜこりゃあ」
柿田はいきなり通話の途切れた携帯電話を見て、舌打ちを鳴らした。
「どうしたんですか?」となりの保奈美が、手元を覗き込んでくる。あっと声を出した。「『充電してください』……電池が切れちゃったんですね」
「ちゃんと満タンにしとけばよかったな」
「それより、柿田さんひどいです」保奈美は頬を膨らませた。「いきなり取り上げるなんて。もう少し話させてくれてもよかったじゃないですか」
「なんだよ。ホームシックか?」
「……いえ、ただお母さんを安心させてあげたかったなって」
「はっ、仲のいいこった」
皮肉のつもりで柿田は言った。机の上にある携帯充電器を引き寄せて携帯に挿す。
今回は不意に通話が切れたために、話を進め足りない部分はあったが、かといってもう一度接触を試みるのも危険なにおいがする。今のところは、来週あたりに瑠南たちが持ってくるであろう梨元家の情報を待つくらいしかすることはないだろう。
チャイムが鳴る。週末は秋雨が降っていたが、週明けの月曜日には青空が広がっていた。グラウンドの乾き具合は上々と言っていいものだろう。給食をかけ込み終えると、五年一組の男子生徒たちは自宅待機をしいられていた週末の鬱憤を晴らすかのように喚声を上げながら、サッカーボールを持って外へと繰り出していく。
「待てよ! おれがいなくちゃはじまんねえだろ!」
梅村雄大もそれにつづこうとして、いきなり服の襟首を誰かに引っつかまれて転び、尾てい骨を床に強打した。涙目で振り返ると、そこには瑠南がいた。
「杏藤! おまえ、ふざけんな!」
「ちょっと梅村」瑠南はずいっと雄大に顔を近づける。額を人差し指で小突いた。「あんたなんか新規のモブキャラみたいな言動してるけど、忘れていないでしょーね?」
「なにをだよ。宿題なら出したぞ」
「バカ。ホナちゃん家の様子を教えてあげるミッションのこと」
「ああ……今日いくのか?」雄大は声をひそめた。
「うん」瑠南は雄大を引っぱり上げつつ首肯した。「やっぱり早いほうがいいもんね」
「そっか。ていうか、おまえ梨元の住所知ってんの?」
「遊びにいったことあるから。まかせなよ」
そう言ったあとは、雄大にそのままサッカーに誘われたので、瑠南も参加した。そこでハットトリックの活躍を見せたおかげか、満腹感にほどよい疲労が重なってきたために最後の五時間目は夢の中だったので、放課後は目を覚ますと同時にやってきた。
ふたりは一度ばらけたあと、学校近くのコンビニで落ち合うことにした。
「誰にも変に思われてないよな」先に着いて待っていた雄大が言う。
「たぶん大丈夫。さっ、いこ?」
瑠南の案内で二十分ほど歩くと、高級感の漂う住宅街に入る。梨元と刻まれた表札の家はすぐに見つかった。近代的なつくりの二階建て。冷たい家だ、と瑠南は思った。前にきたときも思ったことだけれど、今はさらにそういう印象が強い。
とりあえずは電柱の陰から全体をうかがうことにする。さすがにパトカーが何台もとまっていたりだとか、物々しくキープアウトされていたりだとか、いかにも事件発生中という感じの様相は呈していない。しいて違和感があるとすれば、カーテンが閉めきってあることぐらいか。それもプライバシーのことを考えれば、ふつうなのかもしれない。
しかしこれでは、保奈美に報告する内容が空っぽになりそうだった。
「うーん。梨元に家の様子を伝えるなんて、ハナから無理だったんじゃね?」雄大が腕組みをしながら唸った。「中に入るわけにもいかないしな」
「というより、おばさんにうまく嘘をつかれて帰されると思う」
「梨元の母さんか……やっぱあいつと似てるん?」
「似てる似てる。梅村好みの」
「誰がおれの好みだよ! おれはもっとなあ、あんなトロくさいやつじゃなくて……!」雄大は顔を赤くしてから、強引に話をもどした。「とにかく、どうするんだ?」
「もうちょっと近づいてみてもいいんじゃない?」
ふたりは門扉のところまで歩いていった。
――そのとき。
玄関からガチャリと、見知らぬ中年男が出てきた。
塀の裏側のほうから、見知らぬ青年が小走りでやってきた。
ちょうど玄関と道路という位置から、門扉の前にいる瑠南と雄大ははさまれる形になる。しかし青年のほうは手元のメモに目がいっていて、ふたりの小学生に気がつかないまま――あるいは認知と発言が同時に起きて――ポーチにいる男に言った。
「先輩。梨元保奈美は学校が終わってから誘拐されるまでの姿が知られていませんね」
「吉見っ」
瞬間的に――四人の中に緊張が走った。
面倒くさいことになった、と瑠南は内心で大きく舌を弾いた。おそらくこのふたりは刑事だろうが、よりによって『誘拐』という核心的なワードを聞かされてしまったのはよくない。自分たちがこっそりと情報を集めるためには、事件に関してまったくの無関係という立ち位置が肝要なのだ。だが、これだと表向きにも事件に引きずり込まれて、動きづらくなる。確実にその可能性は跳ね上がる。
とはいっても、ここで変な対応を見せてもメリットはないので、瑠南としてはできるだけはじめて知ったふうを装うしかない。目を丸めて、心の底から驚いたように。
「え……っと、誘拐ってなんですか?」
「そ、それは」吉見というらしい刑事が動揺する。
「梨元保奈美って、ホナちゃんのことじゃないんですか?」
「ホナちゃん? きみらは彼女の友だちかい?」中年刑事が寄ってくる。
瑠南がはいと答えると、彼はゆっくりと嘆息をもらした。それから膝を折って目線を合わせると、言い聞かすように、ともすれば有無を言わせぬ声で言った。
「よく聞いてくれよ。その……梨元保奈美ちゃんは、病欠だって言われているかもしれないが、本当は違う。彼女は誘拐されてしまったんだ。私たちは刑事で、犯人を追っているところなんだよ。今日、君たちはたまたま本当のことを知ってしまったが、どうか他の人には言わないでほしい。きみが友だちのことを思うのなら、彼女を無事に助け出したいと思うのなら、黙っていてくれるね?」
ごまかしは効きそうにないと判断したのだろう、あえて真正面から攻めてきた。妙な迫力に瑠南は頷かざるをえない――それでも、手ぶらで保奈美のところへ帰りたくはなかった。たったひとつでも、たいして有益でなくてもいいから、なにかしらの情報を入手しなければ。
「あの」瑠南は口を開いた。「お母さんとお父さんはどうしているんでしょうか」
「梨元保奈美ちゃんの?」
「はい、友だちとして心配なんです」
中年刑事は困ったみたいに唇を曲げた。吉見のほうを見る。「佐恵子さんは本当に心配しているよなあ? やはり保奈美ちゃんのことが大事なんだろうね」
「そうですね」吉見が引き継ぐ。「でも、義孝さんのほうはあんまり熱が入っていないっていうか、僕たちに丸投げっていうか……なんだか意識が噛み合ってないっすよね。まあ、それが捜査の進んでいない原因ってわけじゃないっすけど」
「ふぅん……聞いてた以上かも」
「ん? なにか言ったかい?」
「あっ、なんでもないです」瑠南は慌てて言った。口元が緩くなっていたことを反省しつつ後ろの雄大に「私なにか言った?」と話を振るが、彼は液晶の中の虚構ではない刑事を前にしてかたまってしまっていて、ぶんぶんと首を横に振るだけだった。
最後に中年刑事は蒲郡と名乗ってから、瑠南の肩に手を置いた。
「さあ、もう安心して帰っていいよ。保奈美ちゃんのことは私たちに任せなさい。必ず教室にいけるようにしてあげるから。その代わり、今日のことは本当に誰にも言ってはいけないよ。約束だ」
やわらかな口調のわりに低い声には、ここから先の関与をはねのける厚みと、許さない重みがあった。ほとんど命令のようなニュアンスをひしひしと感じた。
もうこれ以上は望めそうにない――。
瑠南と雄大は、追い返されるように梨元邸から離れた。振りむけば、すでにふたりの刑事の姿は梨元邸の中に消えようとしていたので、瑠南は「バーカ」と中指をそちらにむけて天を突く勢いで立ててやった。
「やめろよ、見つかんぞ」雄大が疲れた顔をむけてくる。
瑠南はふんと鼻を鳴らした――誰を助けるだって? と刑事に問いただしたかった。ホナちゃんの救いがどこにあるのか知らないくせに、よく言うよ。彼女はきびすを返して大またで歩き出した。日暮れには、まだ時間がありそうだ。
(11)
どこからか、カラスの鳴く声が聞こえてきていた。街が明かりに彩られはじめる気配がある。帰るべき場所をめざして歩く人々の息づかいがわかるような、そんな光の褪せ方を空に感じる。カラスが鳴くから帰りましょ――と、柿田はまどろみの中で無意識に口ずさんでいた。そして、どこにだろうと思った。自分はどこに帰ればいいのだろう。
すると、螺旋階段を上る音がふたり分聞こえてきた。ソファに寝転がっていた柿田は、目を開けてからだを起こした。保奈美も耳ざとい小動物のように顔を上げる。
「今日はふたつ報告があります!」
瑠南がドアを勢いよく開けて言った。そのまま水色のランドセルを下ろして、保奈美のとなりに一直線に飛び込み、お気に入りのぬいぐるみを抱くみたいにした。保奈美がくすぐったそうに顔を寄せる。背景になにやらユリ科の多年草が咲いていそうだった。
「あん? ふたつってどういうことだ?」起きぬけの頭で柿田は聞いた。
「まあ、両方よくないことだよな」雄大が頭を掻く。
「おいおい、なんだよそれ。とりあえず言ってみろや」
柿田が報告をうながすと、瑠南が梨元邸の前で起きたことを話しはじめた。
ひとつめの、刑事と関係を持ってしまったという話に関しては、柿田は「なにやってんだ」と怒鳴りたい気持ちになったが、しかしぐっとおさえた。あくまで瑠南たちは、彼女たちだけの理由で動いていることになっている。
ふたつめの、保奈美の母と父のあいだの問題うんぬんについては、あまり真剣に聞く気にならなかった。つい耳を傾けてしまうといった程度だ――その「つい」ですら、柿田には解せないものだったけれど。本当なら、ただの誘拐犯としてなら、右から左へ素通りさせるべきものだったけれど。
一方、保奈美は柳眉を寂しげに下げた。
「そうなんだ……。お母さんとお父さん、あんまりなんだね」
「はっ、親父はてめえのことなんとも思ってねえんじゃねえの」
「そんな、ことは、ないです」
花が萎れるように保奈美は俯く。瑠南が立ち上がって柿田をにらんだ。
「ちょっと、適当なこと言わないでよ。ホナちゃんの気持ちも考えろっ」
「ガキのご機嫌をうかがう義理はねえよ」
「そういうことじゃなくって。あんただって、そんなこと言われたら嫌でしょ」
柿田は含み笑いを見せた。「どうだかな」
「なにカッコつけてんの? キモ」瑠南は吐き捨ててから、話の落としどころを探るようにして言った。「とにかく、ホナちゃんを傷つけたら許さないから」
「わかったわかった。割れもの注意だな」
柿田はなおざりに合わせて、煙草くわえた。瑠南はさらになにか言い返そうと口を開きかけたが、口論をぶり返しても無意味だと思ったらしい。不機嫌そうに唇を結んだ。
沈黙のあいだに柿田は考えた――できればもう少し瑠南たちが持ってきた情報を詳らかにさせたい。断片的なものでは十分とはいえない。とはいっても、時間的に今日は厳しそうだ。じきに夕焼けの色も部屋に入らなくなる。瑠南たちは早めに帰したほうがいいだろう。
「おい。明日ってこれるか?」
瑠南は頭上に思案の雲を浮かべてから答えた。「あー、たぶん無理」
「なんでだよ」
「運動会が近いんだ」雄大が横から言った。「その準備をしなきゃいけないんだよな」
柿田は先日の出来事を思い出す。吸殻のつまった空き缶や、食べ終わった包装容器がテーブルの上に散乱していたが、その中から一枚のプリントを引っぱり上げた。瑠南が保奈美に渡した、保護者むけの運動会の告知だ。
「ふたりともか?」柿田は聞いた。
「うん。私たち体育委員だからさ、強制参加」
「サボるとかできねえのかよ――」柿田は言ってから気づいた。それは不自然を生み出すことに繋がりかねなかった。瑠南たちの話では、学校にも警察の手が伸びている。ましてや彼女たちは蒲郡に目をつけられているかもしれないのだ。用心をするに越したことはないだろう。「――まあ、それはやめたほうがいいな」
「つうか、サボれないし」
若杉先生はあれでなかなか鋭いんだ、と瑠南は唇を突き出した。
「運動会はあさってだよな」柿田はプリントに目を落としながら言った。「それが終わるまではこれないってことか。ちくしょう、また待ち時間だぜ。ここは病院かよ」
すると、保奈美が瑠南のほうをむいて、寂しそうに頬を緩ませた。
「いいなあ瑠南ちゃんたち。運動会楽しんできてね。私はここで応援してるから」
柿田は、体操服を着て保奈美がトラックを走っている姿を想像してみた。最下位に沈みながらも、楽しそうにゴールテープを切る姿が浮かんだ。そのあいだに四回はこけていた。
「ホナちゃん……」
瑠南も似たイメージを描いたのだろうか、労わるように呟いた。そして急に、なにかを思いついた顔になり「あっ、私いいこと閃いちゃった」と言った。
「なんだよ」柿田は嫌な予感がした。保奈美好き好き人間の彼女が考えつくことは、なかば予想できてもいた。
「あんたさ、記録係やってよ」
「記録係だあ? いったいなにすんだ、そりゃあ」
「ケータイのカメラ使って運動会の様子を記録するの」瑠南は鼻高々といった感じだ。「それをあとでホナちゃんに見てもらって、少しでも参加してる気持ちになってほしいんだ」
「いいかもな、それ」雄大が賛同する。
保奈美は期待の眼差しを柿田にむけた。
だが――「ふざけんな」柿田は一蹴した。「なんでそんなハイリスクノーリターンなことしなきゃなんねえんだよ。クソ面倒くせえ。そういうのは学級会でやれ」
「ホナちゃん面会謝絶ってことになってるんだけど」
「うるせ」根元まで吸い終えた煙草を潰して、柿田はソファにからだを深く預けた。断固として腰を上げない意思表示だ――しかし、すると、横から声が聞こえた。
「若造、携帯電話を貸せ」
全員の視線が甘夏に集中した。
「おうジジイ、久々に喋ったじゃねえかよ。ボケたかと思ってたぜ」
「聞こえなかったか? 電話を貸せ」甘夏はゆっくりと立ち上がる。「きさまがいかないのなら私がいこう。運動会の記録係は、私が引き受ける」
「本当ですか?」保奈美の期待が回れ右する。
「ずっとこの狭苦しい部屋にいたからな。からだが鈍ってしかたがなかったんだ。ついでに外の空気でも吸って、健康をとりもどさなくちゃならん」
瑠南が力強く言った。
「よっし決まり! 甘夏さんを記録係に任命!」
だが、柿田は認めることができなかった。自分の思惑から外れて物事が進んでいくのは我慢できない。甘夏に近づいていき、頭に指を立てた。
「正気かてめえ」
「正気だ。ボケてない」不敵に口の端を吊り上げる。「貴様はそんな風貌だからな。どうしたって怪しまれる。それが怖いんだろう? それに比べて私はしがない老人だ。十中八九、誰かの祖父だと思われるぐらいで済むだろうな。心配ない」
だろう? と子どもたちに聞くと、全員が同じタイミングで頷いた。
みごとに四面楚歌だ。柿田の中で反抗心が萎んでいき、言いようのない倦怠感が膨らんでいった。どうせ運動会が閉幕するまでは瑠南たちを動かすことはできないし、現時点以上の情報を望むこともできないのだから、今一度じっくりと作戦を練るのもいいかもしれない――そういう理屈を倦怠感にかぶせて、柿田はソファに再びからだを投げ出す。
「ちくしょうが。勝手にしろや。いいか? ヘマだけはこくんじゃねえぞ」
そう言って、携帯電話をテーブルの上に放った。
君鳥小学校の運動会は午前の部が終わって、昼休みに入っていた。
親子で弁当を広げる姿が目立つ中、瑠南はひとりで本部近くの青いビニールシートにむかった。両親が共働きなどで都合の合わない子どもは、ひとかたまりになって教師と一緒に昼食を囲むしきたりなのだ。面倒くさいかぎりだが、そこ以外に腰を下ろす場所がないのも事実だった。適当なスペースを見つけて、彼女は座った。
「やたっ。杏藤さんゲット」
声のしたほうを見ると、担任の若杉が笑っていた。
「なにをそんなに喜んでるんすか」
「だって、みんな森脇先生とかのところにいっちゃうんだもん。寂しかったよっ」
瑠南は周りを見渡してみた。確かに職歴の長い人のところには、たくさんの生徒が寄り集まっている。もろに求心力というか教師力の差が浮き彫りになるこういう場面では、新米の若杉は分が悪いだろう。だからといって、かわいそうとも思わないが。
「別に。なんかムダに空いてるところがあったから、きただけですけど」
「ううっ。やっぱり私、人気ないのかなあ」若杉がカロリーメイトをかじりながら言う。
「まあ」瑠南はコンビニ弁当を取り出しつつ返した。「もしかしたら高学年の男子とかがいっぱいくるかもですね」
「え? なんで?」きょとんとする若杉。
瑠南は溜息をついて言った。「先生の格好ですよ」
「私の格好?」若杉は自分の胸から下を見下ろした。いつもと変わらず、はいているのは白いショートパンツだ。ポロシャツはからだの線が浮き出るタイプだが、シンプルな色味のものを選んだつもりだった。「変なところないよね?」
「先生は露出度が高すぎるんですよ。ほかの女の先生は地味なのに、そんな格好して」
「えっ。そう、かもしんないけど……」若杉は不安そうに周囲を見た。森脇がまさにそれだった。長袖ジャージ姿の完全防備で、肌を可能なかぎり見せていない。
「先生的にそういうのってどうかと思いますけどね。太ももとかみんな見てましたよ。男の先生とか保護者の人とか、あと――あ、やっぱきた」
瑠南が目をやったほうを若杉も見る。十数人ほどの高学年の男子が、一糸乱れぬ動きで彼女にむかって行進していた。まるでひとつの意思のもとに統一されているかのように。
瑠南は立ち上がった。「私、ほかのとこいきますね。面倒くさいのヤなんで」
「な、なにあれ?」若杉は怯えた表情で瑠南を見上げる。「なんであの子たち一斉にくるの? どうしてクロマティ高校みたいな顔してるの?」
「グラビア雑誌没収したこと覚えてないんですか?」
瑠南はさらりとそう残し、男子の集団と入れ替わりにビニールシートを去った。
「えっ、えっ? ま、待って! 杏藤さぁんっ!」
男子のかたまりの中から、生き埋めに遭う寸前のような悲痛な叫びが聞こえる。
「あっ、梅村くん! もうちょっと広がってっ。うあっ、ひぅっ! ら、らめえええええええええええええええええええええええええええええっ!」
瑠南は青空に響く悲鳴を無視しながら、若干一名ほど聞きたくない名前が出てきたことも無視しながら、ほかに落ち着けられそうな場所を探した。しかし、どこもかしこも親子の輪が占領していて、ぽつんと立ち尽くすはめになってしまう。
「……ま、いいけどね」
瑠南は校舎のほうにきびすを返した――と。
振りむいた先に甘夏が立っていた。
彼は苦笑いをもらして言う。
「なんか中途半端な時間にきてしまったな」
「別にいいじゃん。きちゃったものはしょうがないんだし」瑠南は、どうしてか声が弾むのを感じた。「ちょうどいいや。私のお昼につきあってよ、甘夏さん」
甘夏が承諾したので、瑠南はグラウンドから離れた場所に連れていき、並んで腰を下ろした。改めてコンビニ弁当の蓋を開ける。ソースの冷えてかたまったハンバーグをつつく。
「親御さんはきてないのかい」甘夏が聞いてきた。
「ふぅん? やっぱり誘拐犯の身としては人目が気になる?」
「それもあるが」コンビニ弁当を見た。「運動会なのに、と思ってな」
「別に、ザラだよ。ふたりとも忙しいし」
「寂しくはならないのかな?」
「どうだろ。でも、私のためでもあるからね。不満なんて言ってらんないよ」
「きみは……いい子だな。純粋にそう思う」
「やめてよ。照れるじゃん」笑ってから、甘夏さんはそういう経験あるの? と瑠南が聞くと、彼は肯定とも否定ともとれないどっちつかずの反応をした。
「百八十度違う。けど、似てるかもな」
「? わけわかんない」
「わからなくてもいいことだ」と、甘夏は笑みを枯らした。
それから三十分ほどして、午後の部がはじまった。午前よりも断然見どころが多いので、携帯のカメラ機能を常に開いておくようにと甘夏に厳命してから、瑠南はクラスメイトのところにもどった。椅子に座ると、友人の萌々子(ももこ)が言ってきた。
「瑠南ちゃんどこいってたの? 森脇先生おかずくれたよ」
「学校抜け出してジュース買いにいってた」瑠南は適当な嘘をついた。
「あー、いっけないんだあ」
「そうですねいけない子ですからね」
「ぜったい瑠南ちゃんヤンキーになるよお」
「まあまあ、いいじゃん」また適当に笑っておくと、ちょうど選手を召集するアナウンスが入ったので、これ幸いにと入場門を指さした。「それより次、あんたが出る種目だよ」
「え? 私もう、クラス対抗リレーまで出番ないはずだけど」
「なに言ってんの。萌々子がホナちゃんの代役に決まったじゃん」
萌々子は「あっ、そうかあ」とのんきに言ってから、椅子から立ち上がった。瑠南のほうに顔をむけてつづける。「ホナちゃん、なかなか病気が治んないんだね」
そう言われ、クラスでは保奈美は罹病のため入院中という話になっていることを改めて意識する。実際は廃墟の一室に監禁されているわけだけれど、それはあながち間違っていないのかもしれないと瑠南は思った。むしろ、病気という言葉が妙に胸の中でフィットした。
自分はただ両親が忙しいだけで、目につく不和なんてない。保奈美みたいに絆に疾患を抱えているわけではない。今は家庭という病巣から離れているけれど、いつになったら彼女は快復するのだろうか。いつになったら寄り道なんてしないでまっすぐ家に帰られるようになるのだろうか――わからない、わかるはずもないけど。
「いつかは治るよね、きっと」
そう呟いて、ふと視線を校門のほうに投げたときだった。
――蒲郡と吉見が会場に入ってきていた。
「……ったく、どこのヒマ人かっての」瑠南は席を立った。
どこからか、カラスの鳴く声が聞こえてきていた。街が明かりに彩られはじめる気配がある。帰るべき場所をめざして歩く人々の息づかいがわかるような、そんな光の褪せ方を空に感じる。カラスが鳴くから帰りましょ――と、柿田はまどろみの中で無意識に口ずさんでいた。そして、どこにだろうと思った。自分はどこに帰ればいいのだろう。
すると、螺旋階段を上る音がふたり分聞こえてきた。ソファに寝転がっていた柿田は、目を開けてからだを起こした。保奈美も耳ざとい小動物のように顔を上げる。
「今日はふたつ報告があります!」
瑠南がドアを勢いよく開けて言った。そのまま水色のランドセルを下ろして、保奈美のとなりに一直線に飛び込み、お気に入りのぬいぐるみを抱くみたいにした。保奈美がくすぐったそうに顔を寄せる。背景になにやらユリ科の多年草が咲いていそうだった。
「あん? ふたつってどういうことだ?」起きぬけの頭で柿田は聞いた。
「まあ、両方よくないことだよな」雄大が頭を掻く。
「おいおい、なんだよそれ。とりあえず言ってみろや」
柿田が報告をうながすと、瑠南が梨元邸の前で起きたことを話しはじめた。
ひとつめの、刑事と関係を持ってしまったという話に関しては、柿田は「なにやってんだ」と怒鳴りたい気持ちになったが、しかしぐっとおさえた。あくまで瑠南たちは、彼女たちだけの理由で動いていることになっている。
ふたつめの、保奈美の母と父のあいだの問題うんぬんについては、あまり真剣に聞く気にならなかった。つい耳を傾けてしまうといった程度だ――その「つい」ですら、柿田には解せないものだったけれど。本当なら、ただの誘拐犯としてなら、右から左へ素通りさせるべきものだったけれど。
一方、保奈美は柳眉を寂しげに下げた。
「そうなんだ……。お母さんとお父さん、あんまりなんだね」
「はっ、親父はてめえのことなんとも思ってねえんじゃねえの」
「そんな、ことは、ないです」
花が萎れるように保奈美は俯く。瑠南が立ち上がって柿田をにらんだ。
「ちょっと、適当なこと言わないでよ。ホナちゃんの気持ちも考えろっ」
「ガキのご機嫌をうかがう義理はねえよ」
「そういうことじゃなくって。あんただって、そんなこと言われたら嫌でしょ」
柿田は含み笑いを見せた。「どうだかな」
「なにカッコつけてんの? キモ」瑠南は吐き捨ててから、話の落としどころを探るようにして言った。「とにかく、ホナちゃんを傷つけたら許さないから」
「わかったわかった。割れもの注意だな」
柿田はなおざりに合わせて、煙草くわえた。瑠南はさらになにか言い返そうと口を開きかけたが、口論をぶり返しても無意味だと思ったらしい。不機嫌そうに唇を結んだ。
沈黙のあいだに柿田は考えた――できればもう少し瑠南たちが持ってきた情報を詳らかにさせたい。断片的なものでは十分とはいえない。とはいっても、時間的に今日は厳しそうだ。じきに夕焼けの色も部屋に入らなくなる。瑠南たちは早めに帰したほうがいいだろう。
「おい。明日ってこれるか?」
瑠南は頭上に思案の雲を浮かべてから答えた。「あー、たぶん無理」
「なんでだよ」
「運動会が近いんだ」雄大が横から言った。「その準備をしなきゃいけないんだよな」
柿田は先日の出来事を思い出す。吸殻のつまった空き缶や、食べ終わった包装容器がテーブルの上に散乱していたが、その中から一枚のプリントを引っぱり上げた。瑠南が保奈美に渡した、保護者むけの運動会の告知だ。
「ふたりともか?」柿田は聞いた。
「うん。私たち体育委員だからさ、強制参加」
「サボるとかできねえのかよ――」柿田は言ってから気づいた。それは不自然を生み出すことに繋がりかねなかった。瑠南たちの話では、学校にも警察の手が伸びている。ましてや彼女たちは蒲郡に目をつけられているかもしれないのだ。用心をするに越したことはないだろう。「――まあ、それはやめたほうがいいな」
「つうか、サボれないし」
若杉先生はあれでなかなか鋭いんだ、と瑠南は唇を突き出した。
「運動会はあさってだよな」柿田はプリントに目を落としながら言った。「それが終わるまではこれないってことか。ちくしょう、また待ち時間だぜ。ここは病院かよ」
すると、保奈美が瑠南のほうをむいて、寂しそうに頬を緩ませた。
「いいなあ瑠南ちゃんたち。運動会楽しんできてね。私はここで応援してるから」
柿田は、体操服を着て保奈美がトラックを走っている姿を想像してみた。最下位に沈みながらも、楽しそうにゴールテープを切る姿が浮かんだ。そのあいだに四回はこけていた。
「ホナちゃん……」
瑠南も似たイメージを描いたのだろうか、労わるように呟いた。そして急に、なにかを思いついた顔になり「あっ、私いいこと閃いちゃった」と言った。
「なんだよ」柿田は嫌な予感がした。保奈美好き好き人間の彼女が考えつくことは、なかば予想できてもいた。
「あんたさ、記録係やってよ」
「記録係だあ? いったいなにすんだ、そりゃあ」
「ケータイのカメラ使って運動会の様子を記録するの」瑠南は鼻高々といった感じだ。「それをあとでホナちゃんに見てもらって、少しでも参加してる気持ちになってほしいんだ」
「いいかもな、それ」雄大が賛同する。
保奈美は期待の眼差しを柿田にむけた。
だが――「ふざけんな」柿田は一蹴した。「なんでそんなハイリスクノーリターンなことしなきゃなんねえんだよ。クソ面倒くせえ。そういうのは学級会でやれ」
「ホナちゃん面会謝絶ってことになってるんだけど」
「うるせ」根元まで吸い終えた煙草を潰して、柿田はソファにからだを深く預けた。断固として腰を上げない意思表示だ――しかし、すると、横から声が聞こえた。
「若造、携帯電話を貸せ」
全員の視線が甘夏に集中した。
「おうジジイ、久々に喋ったじゃねえかよ。ボケたかと思ってたぜ」
「聞こえなかったか? 電話を貸せ」甘夏はゆっくりと立ち上がる。「きさまがいかないのなら私がいこう。運動会の記録係は、私が引き受ける」
「本当ですか?」保奈美の期待が回れ右する。
「ずっとこの狭苦しい部屋にいたからな。からだが鈍ってしかたがなかったんだ。ついでに外の空気でも吸って、健康をとりもどさなくちゃならん」
瑠南が力強く言った。
「よっし決まり! 甘夏さんを記録係に任命!」
だが、柿田は認めることができなかった。自分の思惑から外れて物事が進んでいくのは我慢できない。甘夏に近づいていき、頭に指を立てた。
「正気かてめえ」
「正気だ。ボケてない」不敵に口の端を吊り上げる。「貴様はそんな風貌だからな。どうしたって怪しまれる。それが怖いんだろう? それに比べて私はしがない老人だ。十中八九、誰かの祖父だと思われるぐらいで済むだろうな。心配ない」
だろう? と子どもたちに聞くと、全員が同じタイミングで頷いた。
みごとに四面楚歌だ。柿田の中で反抗心が萎んでいき、言いようのない倦怠感が膨らんでいった。どうせ運動会が閉幕するまでは瑠南たちを動かすことはできないし、現時点以上の情報を望むこともできないのだから、今一度じっくりと作戦を練るのもいいかもしれない――そういう理屈を倦怠感にかぶせて、柿田はソファに再びからだを投げ出す。
「ちくしょうが。勝手にしろや。いいか? ヘマだけはこくんじゃねえぞ」
そう言って、携帯電話をテーブルの上に放った。
君鳥小学校の運動会は午前の部が終わって、昼休みに入っていた。
親子で弁当を広げる姿が目立つ中、瑠南はひとりで本部近くの青いビニールシートにむかった。両親が共働きなどで都合の合わない子どもは、ひとかたまりになって教師と一緒に昼食を囲むしきたりなのだ。面倒くさいかぎりだが、そこ以外に腰を下ろす場所がないのも事実だった。適当なスペースを見つけて、彼女は座った。
「やたっ。杏藤さんゲット」
声のしたほうを見ると、担任の若杉が笑っていた。
「なにをそんなに喜んでるんすか」
「だって、みんな森脇先生とかのところにいっちゃうんだもん。寂しかったよっ」
瑠南は周りを見渡してみた。確かに職歴の長い人のところには、たくさんの生徒が寄り集まっている。もろに求心力というか教師力の差が浮き彫りになるこういう場面では、新米の若杉は分が悪いだろう。だからといって、かわいそうとも思わないが。
「別に。なんかムダに空いてるところがあったから、きただけですけど」
「ううっ。やっぱり私、人気ないのかなあ」若杉がカロリーメイトをかじりながら言う。
「まあ」瑠南はコンビニ弁当を取り出しつつ返した。「もしかしたら高学年の男子とかがいっぱいくるかもですね」
「え? なんで?」きょとんとする若杉。
瑠南は溜息をついて言った。「先生の格好ですよ」
「私の格好?」若杉は自分の胸から下を見下ろした。いつもと変わらず、はいているのは白いショートパンツだ。ポロシャツはからだの線が浮き出るタイプだが、シンプルな色味のものを選んだつもりだった。「変なところないよね?」
「先生は露出度が高すぎるんですよ。ほかの女の先生は地味なのに、そんな格好して」
「えっ。そう、かもしんないけど……」若杉は不安そうに周囲を見た。森脇がまさにそれだった。長袖ジャージ姿の完全防備で、肌を可能なかぎり見せていない。
「先生的にそういうのってどうかと思いますけどね。太ももとかみんな見てましたよ。男の先生とか保護者の人とか、あと――あ、やっぱきた」
瑠南が目をやったほうを若杉も見る。十数人ほどの高学年の男子が、一糸乱れぬ動きで彼女にむかって行進していた。まるでひとつの意思のもとに統一されているかのように。
瑠南は立ち上がった。「私、ほかのとこいきますね。面倒くさいのヤなんで」
「な、なにあれ?」若杉は怯えた表情で瑠南を見上げる。「なんであの子たち一斉にくるの? どうしてクロマティ高校みたいな顔してるの?」
「グラビア雑誌没収したこと覚えてないんですか?」
瑠南はさらりとそう残し、男子の集団と入れ替わりにビニールシートを去った。
「えっ、えっ? ま、待って! 杏藤さぁんっ!」
男子のかたまりの中から、生き埋めに遭う寸前のような悲痛な叫びが聞こえる。
「あっ、梅村くん! もうちょっと広がってっ。うあっ、ひぅっ! ら、らめえええええええええええええええええええええええええええええっ!」
瑠南は青空に響く悲鳴を無視しながら、若干一名ほど聞きたくない名前が出てきたことも無視しながら、ほかに落ち着けられそうな場所を探した。しかし、どこもかしこも親子の輪が占領していて、ぽつんと立ち尽くすはめになってしまう。
「……ま、いいけどね」
瑠南は校舎のほうにきびすを返した――と。
振りむいた先に甘夏が立っていた。
彼は苦笑いをもらして言う。
「なんか中途半端な時間にきてしまったな」
「別にいいじゃん。きちゃったものはしょうがないんだし」瑠南は、どうしてか声が弾むのを感じた。「ちょうどいいや。私のお昼につきあってよ、甘夏さん」
甘夏が承諾したので、瑠南はグラウンドから離れた場所に連れていき、並んで腰を下ろした。改めてコンビニ弁当の蓋を開ける。ソースの冷えてかたまったハンバーグをつつく。
「親御さんはきてないのかい」甘夏が聞いてきた。
「ふぅん? やっぱり誘拐犯の身としては人目が気になる?」
「それもあるが」コンビニ弁当を見た。「運動会なのに、と思ってな」
「別に、ザラだよ。ふたりとも忙しいし」
「寂しくはならないのかな?」
「どうだろ。でも、私のためでもあるからね。不満なんて言ってらんないよ」
「きみは……いい子だな。純粋にそう思う」
「やめてよ。照れるじゃん」笑ってから、甘夏さんはそういう経験あるの? と瑠南が聞くと、彼は肯定とも否定ともとれないどっちつかずの反応をした。
「百八十度違う。けど、似てるかもな」
「? わけわかんない」
「わからなくてもいいことだ」と、甘夏は笑みを枯らした。
それから三十分ほどして、午後の部がはじまった。午前よりも断然見どころが多いので、携帯のカメラ機能を常に開いておくようにと甘夏に厳命してから、瑠南はクラスメイトのところにもどった。椅子に座ると、友人の萌々子(ももこ)が言ってきた。
「瑠南ちゃんどこいってたの? 森脇先生おかずくれたよ」
「学校抜け出してジュース買いにいってた」瑠南は適当な嘘をついた。
「あー、いっけないんだあ」
「そうですねいけない子ですからね」
「ぜったい瑠南ちゃんヤンキーになるよお」
「まあまあ、いいじゃん」また適当に笑っておくと、ちょうど選手を召集するアナウンスが入ったので、これ幸いにと入場門を指さした。「それより次、あんたが出る種目だよ」
「え? 私もう、クラス対抗リレーまで出番ないはずだけど」
「なに言ってんの。萌々子がホナちゃんの代役に決まったじゃん」
萌々子は「あっ、そうかあ」とのんきに言ってから、椅子から立ち上がった。瑠南のほうに顔をむけてつづける。「ホナちゃん、なかなか病気が治んないんだね」
そう言われ、クラスでは保奈美は罹病のため入院中という話になっていることを改めて意識する。実際は廃墟の一室に監禁されているわけだけれど、それはあながち間違っていないのかもしれないと瑠南は思った。むしろ、病気という言葉が妙に胸の中でフィットした。
自分はただ両親が忙しいだけで、目につく不和なんてない。保奈美みたいに絆に疾患を抱えているわけではない。今は家庭という病巣から離れているけれど、いつになったら彼女は快復するのだろうか。いつになったら寄り道なんてしないでまっすぐ家に帰られるようになるのだろうか――わからない、わかるはずもないけど。
「いつかは治るよね、きっと」
そう呟いて、ふと視線を校門のほうに投げたときだった。
――蒲郡と吉見が会場に入ってきていた。
「……ったく、どこのヒマ人かっての」瑠南は席を立った。
(12)
考えてみれば、今まで保奈美とふたりきりになる場面なんてほとんどなかった。
昼前に甘夏が運動会へ出かけてからは、言葉を交わした記憶などいっさいなく、具合の悪い沈黙だけが事務所の中を行き来していた。柿田は煙草に火をつけようとして、やめた。さっきから、気まずさをまぎらわすために何本も吸いつづけている。正直、味気なくなっていた。
すると、保奈美がくすくすと笑いながら言った。「記録は十一本ですね」
「あ? なにがだよ」
「柿田さんの連続して吸ったたばこの本数です。どこまでいくのかなーって見てたんです」
なにを考えていたのかと思ったら、そんな交通量調査のアルバイトをはるかに凌ぐ退屈極まりない作業をしていたのか。逆に疲れたような気分になる柿田だったが、一方の保奈美は会話のきっかけをつかんで楽になったらしく、つづけて言った。
「今ごろ瑠南ちゃんたち頑張ってるかな。寂しい思いをしてなきゃいいんだけど……」
「はあ? どういうことだよ、それ」
「瑠南ちゃん家って共働きなんです」保奈美は優しげに答えた。「だから、運動会にもなかなか応援にこれなくて……去年は私と一緒にお昼を食べたんですよ?」
「よ? じゃねえけどな。ま、ありがちな話だろ。即ボツの脚本だぜ」
「柿田さんの両親は、運動会にきてくれましたか?」
柿田の答えは小さな間をはさんだ。「まあな、きたよ。ふたりで。毎年」
「へえ」驚いた顔をつくったあと、保奈美は眼差しを陰らせた。「仲良しだったんですね」
「ちげえよ」
「仲良しですよ」
「ちげえっつってんだろ」
「そんな、嘘でしょう?」
「うるせえなっ。なにが言いてえんだてめえはっ」
柿田は手短なゴミをはたき飛ばした。保奈美の妙にしつこい態度が気に障ったのは事実だったが、仲良しという言葉に対する嫌悪感に突き動かされた部分がほとんどだった。
「ごめんなさい。羨ましくて」彼女は目を伏せて言った。「なんだか、今の私が持っていないものを持っているような気がしたから。それが見えた気がしたから……いじわるだと思います」
持っていないもの――家族のあるべき姿。かつての理想像。砕け散った虚像。
「つべこべうるせえよ」柿田は唾を吐き捨てた。「悲劇のヒロインみてえな面しかできねえのか。そんなもんクソの役にも立ちゃしねえ。生まれちまったらそこで終わりだ。なにもかもが決定済みだ。人間はな、自分の命を選択できやしねえんだよ」
「人は親を選べないってことですか?」
「ああ」柿田は区切ってから、言葉を噛みしめるように呟いた。「おかしな話だぜ」
「? どういうことです?」
すると、保奈美の声でようやく自分が言ったことに気がついたらしく、柿田は不機嫌そうにソファに横になった。うずめた顔の陰から「なんでもねえよ」とくぐもった声が聞こえた。
蒲郡たちの姿を発見した瑠南は、雄大の紅白帽を手前に引っぱった。ゴム紐が首にめいっぱい食い込み、「ぐええっ」と彼は椅子から後ろに転げ落ちる。尾てい骨を強打した。
「杏藤! おまえはおれの尾てい骨になんか恨みでもあんのかっ!」
雄大が涙目で猛抗議してくる。瑠南はそれを人差し指を唇に添えることで制して、彼の視線を校門のほうに導いた。
「気づかれないように見てよ、あそこ」
「うげっ。刑事たちじゃんか。なにしにきたんだ?」
「のんきに参観ってわけでもなさそう、だけど」
「だけど、なんだよ」
「……私、ちょっといってくる」
「ええっ」雄大は身を引いた。「おれはいかないかんな」
まかせといて、と雄大を席に座らせて、瑠南はトラックを迂回して蒲郡たちに近づいていった。白熱する競技風景を眺めていた彼らだったが、彼女の姿に気がつくと反射的に口元が笑みをつくった。ただし、目は笑っていない。
「こんにちわ」ちょこんと瑠南は蒲郡の前に立つ。「なにしてるんですか?」
「んん? たまたま通りかかったから、先生たちにあいさつしておこうと思ってね。君は運動会楽しんでるかい、杏藤瑠南ちゃん? 梅村雄大くんはいないのかな?」
どうやら、しっかりと名前は調べ上げられているらしい。クラス名簿がその手に渡っていることは容易に推測できた。もしかしたら、教師陣にあいさつしにきたというのも、自分たちがおかしな行動をとっていないかチェックする目的があるのかもしれない――などと考えを巡らせていたときだった。
蒲郡の背後に、甘夏の姿が見えた。
じっとこちらを見ている――きっと、瑠南と対面しているのが刑事だと気づいている。
(まずっ……甘夏さんっ。ちょっとむこういっててっ)
最低限の手の動きで、そこから離れるように伝える。
しかし吉見がそれに気づいた。「どうしたの? なにかあった?」
「あっ、いや」
瑠南はなんとかごまかそうとするが、吉見はふり返る。心臓が跳ね上がった――が、甘夏がいたところにはもう保護者の群れがあるだけだった。どうやらうまくまぎれ込んだらしい。コホンと気をとり直して、彼女は刑事のコンビを見上げた。
「その、捜査は進んでいますか?」
「うーん、それがね……」と答えかけた吉見だったが、そのつづきは横から伸びてきた手によってさえぎられた。蒲郡だった。
「進んでいるよ」彼は言った。「実はね、目撃証言が出たんだ。怪しい人物がよくこのあたりをうろついているっていうね。私たちはそいつが犯人だとにらんでいる」
「えっ……そう、なんですか。怪しい、男が……」
瑠南は言葉をつまらせた。可能性としては確実に潜んでいたはずのに、いざとなるとなぜか驚いてしまう。柿田のやつ、ヘマするなとか言っておいて自分がしてるじゃんか。
「そう。だから、保奈美ちゃんが戻ってくるのも時間の問題だ」
「それって……もうすぐ犯人がつかまるってことですよね」
「うまくいけばだけどね」
「えっと、たとえば誘拐っていうのはどのくらいの罪になるんですか?」
「ケースにもよるが」蒲郡は思い出すように言う。「刑法二二四条の規定を引用すれば、三ヶ月以上七年以下の懲役に処する……ってところかな」
最悪だと七年――人生を失うには十分な期間のような気がした。
「で? なんでそんなことを聞くんだい?」彼は瑠南を見下ろした。心理を見透かそうとしている目だった。
「いえ、ちょっと気になっただけです」
「そうか。なら、これで話は終わりだ。君は引きつづき楽しんでくるといい」
「あ……は、はい」
なにを言うべきか定まらず、瑠南は言われるがままにきびすを返した。そして、蒲郡の言うとおりだと思った。どうして自分は誘拐犯の末路なんかを聞いたのだろう? わからない。
彼女の背中が遠くなってから、吉見が蒲郡の顔を見た。その目にはとがめるような色がにじんでいる。「なに言ってるんですか、先輩」
「なにってなんだ」
「とぼけないでくださいよ。どうしてあの子に嘘ついたんですか? 目撃証言なんかとれてないじゃないですか……あ、もしかして安心させてやりたかったとか?」
「吉見」蒲郡は彼を見ずに言った。「誘拐犯ってやつは、ふつう外をうろつくだろうか」
「? いや、どちらかというと籠もるんじゃないんですかね。変に姿を見られてもまずいし、なにより誘拐した人を見張ってなきゃいけませんから」そこまで答えて、吉見は思い出した顔になった。「そういえば今回は、犯人はふたり以上かもしれないんですよね。それなら出られないこともないと思いますけど」
「そうだな。だが、はじめからそう考えるのは珍しいほうじゃないか?」
「はあ、確かに」吉見は頷いてから、はっと表情を険しくした。「まさか」
「そのまさかだ。杏藤瑠南は俺の話に瞬時に反応した。今みたいな疑問をまったく抱かずにな。それがなにを指すのか? ――彼女は、犯人が外に出ることを、出られるシチュエーションにあることを知っているのかもしれない」
「関与……ですか?」
「それに、あの子は怪しい『男』だと言った。俺は性別を断定していないにもかかわらずだ。それはなんだかな、考えすぎだろうか?」――思えば、瑠南たちが梨元邸にきたのだってどこかできすぎな気がする。今回のことと無関係だと切り捨てるのは早計かもしれない。蒲郡の刑事としての勘がそうささやいていた。いや、通告していた。
「そんな……」信じられないといったふうに吉見が呟く。「でも、どうして」
「わからん。それに、これはあくまで可能性の話だ」
だが、と蒲郡は虚空をにらみつけてつづけた。
「もうちょい追ってみる価値はあるかもな」
どういうわけか最近、気に入らないことばかりだ。
柿田は煙草を吹かしながら、周囲をにらみ回した。先週の運動会が終わったあたりから、なにかが変わっていた。微妙な疎外感を感じるのだ。
事務所には瑠南たちがきていた。保奈美が授業についていけなくなるとかわいそうだからと、ノートを見せて一緒に宿題やら教科書の問題やらを解いている。ときどき談笑をしているのが、柿田の耳を嫌味なふうにかすめていく。
しかし、それにも増して癪に障ることがあった。
その勉強会に、甘夏も参加しているのだ。
運動会で瑠南となにかあったのか、特に彼女との距離が近くなっているような気がした。それが連鎖的に作用して、保奈美や雄大とも仲良くなりつつあるみたいに思える。なに馴れ合ってんだよクソジジイ、と忌々しそうに呟いて、柿田はソファに深くからだを預けた。苛立ちが蓄積していく過程をリアルに感じる。
「…………」
そんな柿田の様子を横目で見ながら、瑠南は溜息をついた。
彼女は迷っていた。運動会で蒲郡たちに会ったこと、彼の目撃証言が出たこと――それらの出来事を伝えるべきかどうか、先日から考えているが結論は出ない。てっきり甘夏が言うかと思っていたのだが、言わなかった。むしろ秘匿しているような気配さえある。前々から思っていたことだが、彼の考えは読めなかった。
だが――自分は保奈美のために動いている。疑いようのない信念がある。それに従うのならば、柿田のことを気にかける必要などまるでなく、つまり情報を提供する義理もない。むしろ、彼を下手に刺激して変なアクションを起こさせる危険を考慮すれば、黙っておいたほうが自分たちの理にかなっているのかもしれなかった。
「瑠南ちゃん。ここってどうやるかわかる?」
保奈美が訊ねてきて、意識が手元の鉛筆に引き戻された。授業で出た算数の問題だった。応用がかなり求められていて、ダメ教師の若杉はもちろんこと、クラス一の秀才でもお手上げという、誤植かなにかとささやかれる難問だった。
「ううん、わかんないや。梅村は?」
「おれに振るかよ。バカにしやがって。じいさんはわかる?」
「そうだな……」甘夏は目を凝らして教科書を見る。しかし、それで答えが浮き出てくるわけもなかった。「ちんぷんかんぷんだ。元々、私には学がない」
頼みの綱の甘夏も撃沈され、万事休す。沈黙が下りかけたときだった。
「なにくだらねえことしてんだよ」柿田が立ち上がって近づいてきた。「たかが算数の問題なんざ三秒で解けるじゃねえか」
瑠南は疑わしげに言った。「ガチで言ってんの? 激ムズだよ?」
「貸せや」
柿田は瑠南の手から鉛筆を奪い、問題文を見た。すぐに青褪めた顔になって放り出すに違いないと予想していた彼女だったが、瞳に映ったのは驚異的な光景だった。
柿田の手はスラスラと動き、きれいな解答を弾き出したのだ。
「こんなもんだろ。後ろのページで答えを確認してみろ」
「すごい……正解です」保奈美が教科書片手に目を丸くした。「柿田さん、頭いいんですね」
「いいや、俺はバカだよ。てめえらが思ってるとおりのな」
自嘲気味に言う。
「ふうん? じゃあバカで寂しがりやなんだね、あんたって」
「なんだと」柿田は瑠南を見下ろした。
「自分だけ話に加われなくて寂しかったんでしょ。それで絡んできたんでしょ」
柿田の顔が歪んだ。だが、瑠南のほうも意思と言葉が空中分解しているのを感じていた。彼に対する迷いがそうさせているのだと思った。
「図星かよ」雄大がのんきに笑った。「しかしまあ、平和だよなあ」
「……平和だぁ?」
柿田の瞳孔が雄大をとらえる。ふいに瑠南は嫌な気配を感じた。
それでも、彼は気づかずにつづける。「平和だろ平和。あの刑事たちさ、保奈美ちゃんは助けてあげるからね、とかドヤ顔で言っちゃってよ。いやいやそんな不自由してないですからっ。つうか秘密基地みたく楽しんでますからっ――」
「ふざけんじゃねぇぞッ! このクソガキィッ!」
いきなり柿田の口から怒号が飛び散った。雄大の胸ぐらを両手でつかみ上げる。机上の教科書などがばさばさと雪崩れ、保奈美が小さな悲鳴をもらした。
「誰が寂しいだと? 誰が楽しんでるだと? なに勝手に調子こいてんだカスが! 俺は犯罪者だぞ! てめえらなんかすぐにブッ殺せんだよ! 俺の計画をめちゃくちゃにしやがって、ナメてんじゃねえ! ナメてんじゃねぇよッ!」
胸の澱を一気に吐き出すように叫ぶと、雄大を足元に投げ倒して、柿田は事務所から出ていった。ドアが壁と衝突する音が響く。その余韻の中で、雄大が呆然と呟いた。
「えー……なんだよ、あいつ。いきなりキレやがって、意味わかんねー」
「いじめすぎたかな。このまま帰ってこないなんてことはないだろうけど……」
なんだかなあ、と彼を助け起こしながら瑠南は思う。流れで甘夏のほうを盗み見てみたが、今の騒動になんの感想も抱いていないようだった。本当にわからない老人だ。
「あっ」
コンクリートの床に散らばった文房具を片づけていた保奈美が、小さく声を上げたのはそのときだった。計算用紙として裏面を使っていた、A4サイズの紙を眺めている。
「ホナちゃんどうしたの?」
「これ、履歴書なんだけど。たぶん柿田さんのだよね」
なるほど確かに、書きかけの履歴書だった。例の柿田の元彼女がキャリーケースに詰めてくれたものだろうか――と、そこまで考えて瑠南の思考は軽くストップした。
「え、ウソ……」
柿田淳一の学歴。
「あいつ、西大の学生だったの?」
「西大ってあの西央(さいおう)大学?」雄大が身を乗り出してくる。
西央大学とは、西日本で最難関の国立大学だった。末は弁護士か政治家か――が冗談じゃなくささやかれるほどの雲の上のような場所だ。身なりや言動から相当のバカだと思っていたのだが、さきほどの問題のことといい、詐称とは考えにくかった。
が、しかし――大学名の横に『中退』とつづいていた。
(柿田、あんた……いったい何者なの?)
瑠南は、蝶番の軋むドアを見た。
コンビニから出て時間を確認すると、夜の八時を回っている。
柿田は、廃工場を飛び出してきてから、ずっと街で時間を潰していた。そのあいだ、ガラにもなく反省をしていた――ついカッとなって、わざわざ瑠南たちとの溝をつくってしまった。今後の計画のことを考えれば、明らかに失策だ。同盟関係の危機かもしれない。
それでも、寂しいのかと言われたことや、先日保奈美とした家族の話が頭の中をぐるぐると旋回していて、憤りや後悔を投下していた。もやもやが晴れない。
だから、とりあえず今日のところは瑠南たちと顔を合わせたくなかった。今は、もうとっくに彼女らは帰っているだろうと踏んで、廃工場にむけて歩を進めている最中である。
住宅地に入り、明かりが少なくなってきたころだった。
「ん?」
前方の十字路を横切っていく、ふたり組の姿があった。体格差からして男女のようだが、ちょうど街灯の光に照らされた女の横顔を見て、柿田はとっさに電柱に身を隠した。
(美月っ)
確かに浅岡美月だった。となると、となりの男は件の塾の支部長というやつか。どちらも柿田の存在には気づいていないみたいだ。
「……ずいぶんと楽しそうじゃねえか」柿田は独り言を残し、ふたりを尾行しはじめた。
肩同士の距離が近い。柿田は様々な想像が浮かぶのをとめられなかった――食事の誘いを美月はどう受け入れたのか。どこのホテルで食べたのだろうか。男に対して、彼女はどんなふうに話すのか。男の名前は? もう寝たのか? くそ、なにが優しくて向上心があるだよ。たかが塾の社員じゃねえか。馬みてえなツラしやがって。女慣れしてないのバレバレだっての。美月も嬉しそうに笑ってんじゃねえよ。俺だったらそいつの千倍は笑わせられるぜ。
そこまで考えて、柿田は黙った。愚にもつかない遠吠えだ。美月はもう自分の女じゃない。捨てられた犬には、嫉妬心ですら抱く資格はないのだ。
すると、ちょうど美月と男は別れようとしていた。なにか小さく言葉を交わして、別々の道を歩いていく。塀の陰から、柿田はその様子をぼんやりと眺めていた。そして、自分はなにをしているのだろうと思った。みじめにもほどがある。喩えようのない虚無感を引きずるようにして、彼は廃工場にもどろうと歩き出した――そのときだった。
「ジュンちゃん」
「ぎゃあああああああああああああっ!」
柿田は道路を転げた。見れば、美月が腰に手を当てて角に立っていた。あいかわらず黒のスーツスカートに白い肌が映えているが、首元には知らないネックレスが光っている。
「なによ、私って幽霊みたい?」むっすりして言う。
「あ、あれ? おまえ美月? いや、こんなところで会うなんてキグーキグー」
「ほんと、嘘ばっかり。私と馬場(ばば)さんのことつけてたくせに」
あの男は馬場というのか。知ったところでどうすることもできないが。
「……わかってたんなら無視してくれよ。わざわざ話しかけなくてもいいじゃねえか」
「先手だよ先手」美月はわざとらしくあとずさった。「ジェラシーの鬼と化したジュンちゃんが夜道でいきなり私を襲うことを考えてね、それなら先にアタックしちゃおうって」
「んなことしねえよ……傷つくぜ」
顔を見上げると、「冗談冗談」と美月は笑った。久しぶりに見る彼女の笑顔に郷愁じみた感情を覚えたが、柿田はそれを振り払う。
「じゃあなんなんだよ」
「うん、ちょっとね。話したいことがあったから」
そう言う美月の表情は、かすかに哀しそうだった。
とりもあえず――道端で立ち話もなんだということで、ふたりは自販機でコーヒーを買い、横にあるベンチに座った。見栄を張って柿田がおごった。
美月は驚いたみたいだった。「ずっと私のお金で生活していたジュンちゃんが……なんか泣きそうだよ。どうしたの? 定職につけた?」
さあな、とはぐらかしてから柿田はつづける。
「そういえば、なんであんな道を? おまえのアパートってこっちじゃねえだろ」
「うん、引っ越したんだ」柿田のくわえかけた煙草を指さして言った。「そのにおいが壁に染みついちゃってたの。それはジュンちゃんのにおいだから。部屋にいると色んなところにジュンちゃんが現れるから、辛くなっちゃって」
「……そうかい」
「ジュンちゃんは、どこに住んでるの? この町だよね?」
時代に見放された工場で小学生と一緒に寝泊りしてます、なんて言えるはずもなく、柿田はさっさと本題へ進めさせることにした。
「まあ、それより、話ってなんだよ」
「そうだね」美月は、コーヒー缶を手の中で転がしながら告げた。「私、ジュンちゃんに謝らなくちゃいけないことがあってさ」
「おまえも謝ってばっかだな」――自分を追い出したことを後悔しているのだろうか、と一瞬だけ考えた柿田だったが、それはないと即座に否定した。美月はそういう女だ。彼女はたぶん、今の生活に幸せのつぼみを見出しているのだろう。「で、それは?」
「ジュンちゃんにひどいこと言っちゃったから。どこにでもいけって、実家に帰れって。ほんとひどいよね。ジュンちゃんのことは、私がよく知っているはずなのに」
ごめんなさい。美月はそう呟いた。
「そんなことか」柿田は煙草に火をつける。「別にかまわねえよ。オールライトだ」
あはは、と美月は笑った。「懐かしいね。オールライト」
柿田はコーヒーを一口すすり、煙を深く吸い込んだ。白い影が夜空に溶けていき、そのむこうに洋風の家がぼやけながら浮かぶ。重なって見えるのは――真っ白な小さな家だった。
考えてみれば、今まで保奈美とふたりきりになる場面なんてほとんどなかった。
昼前に甘夏が運動会へ出かけてからは、言葉を交わした記憶などいっさいなく、具合の悪い沈黙だけが事務所の中を行き来していた。柿田は煙草に火をつけようとして、やめた。さっきから、気まずさをまぎらわすために何本も吸いつづけている。正直、味気なくなっていた。
すると、保奈美がくすくすと笑いながら言った。「記録は十一本ですね」
「あ? なにがだよ」
「柿田さんの連続して吸ったたばこの本数です。どこまでいくのかなーって見てたんです」
なにを考えていたのかと思ったら、そんな交通量調査のアルバイトをはるかに凌ぐ退屈極まりない作業をしていたのか。逆に疲れたような気分になる柿田だったが、一方の保奈美は会話のきっかけをつかんで楽になったらしく、つづけて言った。
「今ごろ瑠南ちゃんたち頑張ってるかな。寂しい思いをしてなきゃいいんだけど……」
「はあ? どういうことだよ、それ」
「瑠南ちゃん家って共働きなんです」保奈美は優しげに答えた。「だから、運動会にもなかなか応援にこれなくて……去年は私と一緒にお昼を食べたんですよ?」
「よ? じゃねえけどな。ま、ありがちな話だろ。即ボツの脚本だぜ」
「柿田さんの両親は、運動会にきてくれましたか?」
柿田の答えは小さな間をはさんだ。「まあな、きたよ。ふたりで。毎年」
「へえ」驚いた顔をつくったあと、保奈美は眼差しを陰らせた。「仲良しだったんですね」
「ちげえよ」
「仲良しですよ」
「ちげえっつってんだろ」
「そんな、嘘でしょう?」
「うるせえなっ。なにが言いてえんだてめえはっ」
柿田は手短なゴミをはたき飛ばした。保奈美の妙にしつこい態度が気に障ったのは事実だったが、仲良しという言葉に対する嫌悪感に突き動かされた部分がほとんどだった。
「ごめんなさい。羨ましくて」彼女は目を伏せて言った。「なんだか、今の私が持っていないものを持っているような気がしたから。それが見えた気がしたから……いじわるだと思います」
持っていないもの――家族のあるべき姿。かつての理想像。砕け散った虚像。
「つべこべうるせえよ」柿田は唾を吐き捨てた。「悲劇のヒロインみてえな面しかできねえのか。そんなもんクソの役にも立ちゃしねえ。生まれちまったらそこで終わりだ。なにもかもが決定済みだ。人間はな、自分の命を選択できやしねえんだよ」
「人は親を選べないってことですか?」
「ああ」柿田は区切ってから、言葉を噛みしめるように呟いた。「おかしな話だぜ」
「? どういうことです?」
すると、保奈美の声でようやく自分が言ったことに気がついたらしく、柿田は不機嫌そうにソファに横になった。うずめた顔の陰から「なんでもねえよ」とくぐもった声が聞こえた。
蒲郡たちの姿を発見した瑠南は、雄大の紅白帽を手前に引っぱった。ゴム紐が首にめいっぱい食い込み、「ぐええっ」と彼は椅子から後ろに転げ落ちる。尾てい骨を強打した。
「杏藤! おまえはおれの尾てい骨になんか恨みでもあんのかっ!」
雄大が涙目で猛抗議してくる。瑠南はそれを人差し指を唇に添えることで制して、彼の視線を校門のほうに導いた。
「気づかれないように見てよ、あそこ」
「うげっ。刑事たちじゃんか。なにしにきたんだ?」
「のんきに参観ってわけでもなさそう、だけど」
「だけど、なんだよ」
「……私、ちょっといってくる」
「ええっ」雄大は身を引いた。「おれはいかないかんな」
まかせといて、と雄大を席に座らせて、瑠南はトラックを迂回して蒲郡たちに近づいていった。白熱する競技風景を眺めていた彼らだったが、彼女の姿に気がつくと反射的に口元が笑みをつくった。ただし、目は笑っていない。
「こんにちわ」ちょこんと瑠南は蒲郡の前に立つ。「なにしてるんですか?」
「んん? たまたま通りかかったから、先生たちにあいさつしておこうと思ってね。君は運動会楽しんでるかい、杏藤瑠南ちゃん? 梅村雄大くんはいないのかな?」
どうやら、しっかりと名前は調べ上げられているらしい。クラス名簿がその手に渡っていることは容易に推測できた。もしかしたら、教師陣にあいさつしにきたというのも、自分たちがおかしな行動をとっていないかチェックする目的があるのかもしれない――などと考えを巡らせていたときだった。
蒲郡の背後に、甘夏の姿が見えた。
じっとこちらを見ている――きっと、瑠南と対面しているのが刑事だと気づいている。
(まずっ……甘夏さんっ。ちょっとむこういっててっ)
最低限の手の動きで、そこから離れるように伝える。
しかし吉見がそれに気づいた。「どうしたの? なにかあった?」
「あっ、いや」
瑠南はなんとかごまかそうとするが、吉見はふり返る。心臓が跳ね上がった――が、甘夏がいたところにはもう保護者の群れがあるだけだった。どうやらうまくまぎれ込んだらしい。コホンと気をとり直して、彼女は刑事のコンビを見上げた。
「その、捜査は進んでいますか?」
「うーん、それがね……」と答えかけた吉見だったが、そのつづきは横から伸びてきた手によってさえぎられた。蒲郡だった。
「進んでいるよ」彼は言った。「実はね、目撃証言が出たんだ。怪しい人物がよくこのあたりをうろついているっていうね。私たちはそいつが犯人だとにらんでいる」
「えっ……そう、なんですか。怪しい、男が……」
瑠南は言葉をつまらせた。可能性としては確実に潜んでいたはずのに、いざとなるとなぜか驚いてしまう。柿田のやつ、ヘマするなとか言っておいて自分がしてるじゃんか。
「そう。だから、保奈美ちゃんが戻ってくるのも時間の問題だ」
「それって……もうすぐ犯人がつかまるってことですよね」
「うまくいけばだけどね」
「えっと、たとえば誘拐っていうのはどのくらいの罪になるんですか?」
「ケースにもよるが」蒲郡は思い出すように言う。「刑法二二四条の規定を引用すれば、三ヶ月以上七年以下の懲役に処する……ってところかな」
最悪だと七年――人生を失うには十分な期間のような気がした。
「で? なんでそんなことを聞くんだい?」彼は瑠南を見下ろした。心理を見透かそうとしている目だった。
「いえ、ちょっと気になっただけです」
「そうか。なら、これで話は終わりだ。君は引きつづき楽しんでくるといい」
「あ……は、はい」
なにを言うべきか定まらず、瑠南は言われるがままにきびすを返した。そして、蒲郡の言うとおりだと思った。どうして自分は誘拐犯の末路なんかを聞いたのだろう? わからない。
彼女の背中が遠くなってから、吉見が蒲郡の顔を見た。その目にはとがめるような色がにじんでいる。「なに言ってるんですか、先輩」
「なにってなんだ」
「とぼけないでくださいよ。どうしてあの子に嘘ついたんですか? 目撃証言なんかとれてないじゃないですか……あ、もしかして安心させてやりたかったとか?」
「吉見」蒲郡は彼を見ずに言った。「誘拐犯ってやつは、ふつう外をうろつくだろうか」
「? いや、どちらかというと籠もるんじゃないんですかね。変に姿を見られてもまずいし、なにより誘拐した人を見張ってなきゃいけませんから」そこまで答えて、吉見は思い出した顔になった。「そういえば今回は、犯人はふたり以上かもしれないんですよね。それなら出られないこともないと思いますけど」
「そうだな。だが、はじめからそう考えるのは珍しいほうじゃないか?」
「はあ、確かに」吉見は頷いてから、はっと表情を険しくした。「まさか」
「そのまさかだ。杏藤瑠南は俺の話に瞬時に反応した。今みたいな疑問をまったく抱かずにな。それがなにを指すのか? ――彼女は、犯人が外に出ることを、出られるシチュエーションにあることを知っているのかもしれない」
「関与……ですか?」
「それに、あの子は怪しい『男』だと言った。俺は性別を断定していないにもかかわらずだ。それはなんだかな、考えすぎだろうか?」――思えば、瑠南たちが梨元邸にきたのだってどこかできすぎな気がする。今回のことと無関係だと切り捨てるのは早計かもしれない。蒲郡の刑事としての勘がそうささやいていた。いや、通告していた。
「そんな……」信じられないといったふうに吉見が呟く。「でも、どうして」
「わからん。それに、これはあくまで可能性の話だ」
だが、と蒲郡は虚空をにらみつけてつづけた。
「もうちょい追ってみる価値はあるかもな」
どういうわけか最近、気に入らないことばかりだ。
柿田は煙草を吹かしながら、周囲をにらみ回した。先週の運動会が終わったあたりから、なにかが変わっていた。微妙な疎外感を感じるのだ。
事務所には瑠南たちがきていた。保奈美が授業についていけなくなるとかわいそうだからと、ノートを見せて一緒に宿題やら教科書の問題やらを解いている。ときどき談笑をしているのが、柿田の耳を嫌味なふうにかすめていく。
しかし、それにも増して癪に障ることがあった。
その勉強会に、甘夏も参加しているのだ。
運動会で瑠南となにかあったのか、特に彼女との距離が近くなっているような気がした。それが連鎖的に作用して、保奈美や雄大とも仲良くなりつつあるみたいに思える。なに馴れ合ってんだよクソジジイ、と忌々しそうに呟いて、柿田はソファに深くからだを預けた。苛立ちが蓄積していく過程をリアルに感じる。
「…………」
そんな柿田の様子を横目で見ながら、瑠南は溜息をついた。
彼女は迷っていた。運動会で蒲郡たちに会ったこと、彼の目撃証言が出たこと――それらの出来事を伝えるべきかどうか、先日から考えているが結論は出ない。てっきり甘夏が言うかと思っていたのだが、言わなかった。むしろ秘匿しているような気配さえある。前々から思っていたことだが、彼の考えは読めなかった。
だが――自分は保奈美のために動いている。疑いようのない信念がある。それに従うのならば、柿田のことを気にかける必要などまるでなく、つまり情報を提供する義理もない。むしろ、彼を下手に刺激して変なアクションを起こさせる危険を考慮すれば、黙っておいたほうが自分たちの理にかなっているのかもしれなかった。
「瑠南ちゃん。ここってどうやるかわかる?」
保奈美が訊ねてきて、意識が手元の鉛筆に引き戻された。授業で出た算数の問題だった。応用がかなり求められていて、ダメ教師の若杉はもちろんこと、クラス一の秀才でもお手上げという、誤植かなにかとささやかれる難問だった。
「ううん、わかんないや。梅村は?」
「おれに振るかよ。バカにしやがって。じいさんはわかる?」
「そうだな……」甘夏は目を凝らして教科書を見る。しかし、それで答えが浮き出てくるわけもなかった。「ちんぷんかんぷんだ。元々、私には学がない」
頼みの綱の甘夏も撃沈され、万事休す。沈黙が下りかけたときだった。
「なにくだらねえことしてんだよ」柿田が立ち上がって近づいてきた。「たかが算数の問題なんざ三秒で解けるじゃねえか」
瑠南は疑わしげに言った。「ガチで言ってんの? 激ムズだよ?」
「貸せや」
柿田は瑠南の手から鉛筆を奪い、問題文を見た。すぐに青褪めた顔になって放り出すに違いないと予想していた彼女だったが、瞳に映ったのは驚異的な光景だった。
柿田の手はスラスラと動き、きれいな解答を弾き出したのだ。
「こんなもんだろ。後ろのページで答えを確認してみろ」
「すごい……正解です」保奈美が教科書片手に目を丸くした。「柿田さん、頭いいんですね」
「いいや、俺はバカだよ。てめえらが思ってるとおりのな」
自嘲気味に言う。
「ふうん? じゃあバカで寂しがりやなんだね、あんたって」
「なんだと」柿田は瑠南を見下ろした。
「自分だけ話に加われなくて寂しかったんでしょ。それで絡んできたんでしょ」
柿田の顔が歪んだ。だが、瑠南のほうも意思と言葉が空中分解しているのを感じていた。彼に対する迷いがそうさせているのだと思った。
「図星かよ」雄大がのんきに笑った。「しかしまあ、平和だよなあ」
「……平和だぁ?」
柿田の瞳孔が雄大をとらえる。ふいに瑠南は嫌な気配を感じた。
それでも、彼は気づかずにつづける。「平和だろ平和。あの刑事たちさ、保奈美ちゃんは助けてあげるからね、とかドヤ顔で言っちゃってよ。いやいやそんな不自由してないですからっ。つうか秘密基地みたく楽しんでますからっ――」
「ふざけんじゃねぇぞッ! このクソガキィッ!」
いきなり柿田の口から怒号が飛び散った。雄大の胸ぐらを両手でつかみ上げる。机上の教科書などがばさばさと雪崩れ、保奈美が小さな悲鳴をもらした。
「誰が寂しいだと? 誰が楽しんでるだと? なに勝手に調子こいてんだカスが! 俺は犯罪者だぞ! てめえらなんかすぐにブッ殺せんだよ! 俺の計画をめちゃくちゃにしやがって、ナメてんじゃねえ! ナメてんじゃねぇよッ!」
胸の澱を一気に吐き出すように叫ぶと、雄大を足元に投げ倒して、柿田は事務所から出ていった。ドアが壁と衝突する音が響く。その余韻の中で、雄大が呆然と呟いた。
「えー……なんだよ、あいつ。いきなりキレやがって、意味わかんねー」
「いじめすぎたかな。このまま帰ってこないなんてことはないだろうけど……」
なんだかなあ、と彼を助け起こしながら瑠南は思う。流れで甘夏のほうを盗み見てみたが、今の騒動になんの感想も抱いていないようだった。本当にわからない老人だ。
「あっ」
コンクリートの床に散らばった文房具を片づけていた保奈美が、小さく声を上げたのはそのときだった。計算用紙として裏面を使っていた、A4サイズの紙を眺めている。
「ホナちゃんどうしたの?」
「これ、履歴書なんだけど。たぶん柿田さんのだよね」
なるほど確かに、書きかけの履歴書だった。例の柿田の元彼女がキャリーケースに詰めてくれたものだろうか――と、そこまで考えて瑠南の思考は軽くストップした。
「え、ウソ……」
柿田淳一の学歴。
「あいつ、西大の学生だったの?」
「西大ってあの西央(さいおう)大学?」雄大が身を乗り出してくる。
西央大学とは、西日本で最難関の国立大学だった。末は弁護士か政治家か――が冗談じゃなくささやかれるほどの雲の上のような場所だ。身なりや言動から相当のバカだと思っていたのだが、さきほどの問題のことといい、詐称とは考えにくかった。
が、しかし――大学名の横に『中退』とつづいていた。
(柿田、あんた……いったい何者なの?)
瑠南は、蝶番の軋むドアを見た。
コンビニから出て時間を確認すると、夜の八時を回っている。
柿田は、廃工場を飛び出してきてから、ずっと街で時間を潰していた。そのあいだ、ガラにもなく反省をしていた――ついカッとなって、わざわざ瑠南たちとの溝をつくってしまった。今後の計画のことを考えれば、明らかに失策だ。同盟関係の危機かもしれない。
それでも、寂しいのかと言われたことや、先日保奈美とした家族の話が頭の中をぐるぐると旋回していて、憤りや後悔を投下していた。もやもやが晴れない。
だから、とりあえず今日のところは瑠南たちと顔を合わせたくなかった。今は、もうとっくに彼女らは帰っているだろうと踏んで、廃工場にむけて歩を進めている最中である。
住宅地に入り、明かりが少なくなってきたころだった。
「ん?」
前方の十字路を横切っていく、ふたり組の姿があった。体格差からして男女のようだが、ちょうど街灯の光に照らされた女の横顔を見て、柿田はとっさに電柱に身を隠した。
(美月っ)
確かに浅岡美月だった。となると、となりの男は件の塾の支部長というやつか。どちらも柿田の存在には気づいていないみたいだ。
「……ずいぶんと楽しそうじゃねえか」柿田は独り言を残し、ふたりを尾行しはじめた。
肩同士の距離が近い。柿田は様々な想像が浮かぶのをとめられなかった――食事の誘いを美月はどう受け入れたのか。どこのホテルで食べたのだろうか。男に対して、彼女はどんなふうに話すのか。男の名前は? もう寝たのか? くそ、なにが優しくて向上心があるだよ。たかが塾の社員じゃねえか。馬みてえなツラしやがって。女慣れしてないのバレバレだっての。美月も嬉しそうに笑ってんじゃねえよ。俺だったらそいつの千倍は笑わせられるぜ。
そこまで考えて、柿田は黙った。愚にもつかない遠吠えだ。美月はもう自分の女じゃない。捨てられた犬には、嫉妬心ですら抱く資格はないのだ。
すると、ちょうど美月と男は別れようとしていた。なにか小さく言葉を交わして、別々の道を歩いていく。塀の陰から、柿田はその様子をぼんやりと眺めていた。そして、自分はなにをしているのだろうと思った。みじめにもほどがある。喩えようのない虚無感を引きずるようにして、彼は廃工場にもどろうと歩き出した――そのときだった。
「ジュンちゃん」
「ぎゃあああああああああああああっ!」
柿田は道路を転げた。見れば、美月が腰に手を当てて角に立っていた。あいかわらず黒のスーツスカートに白い肌が映えているが、首元には知らないネックレスが光っている。
「なによ、私って幽霊みたい?」むっすりして言う。
「あ、あれ? おまえ美月? いや、こんなところで会うなんてキグーキグー」
「ほんと、嘘ばっかり。私と馬場(ばば)さんのことつけてたくせに」
あの男は馬場というのか。知ったところでどうすることもできないが。
「……わかってたんなら無視してくれよ。わざわざ話しかけなくてもいいじゃねえか」
「先手だよ先手」美月はわざとらしくあとずさった。「ジェラシーの鬼と化したジュンちゃんが夜道でいきなり私を襲うことを考えてね、それなら先にアタックしちゃおうって」
「んなことしねえよ……傷つくぜ」
顔を見上げると、「冗談冗談」と美月は笑った。久しぶりに見る彼女の笑顔に郷愁じみた感情を覚えたが、柿田はそれを振り払う。
「じゃあなんなんだよ」
「うん、ちょっとね。話したいことがあったから」
そう言う美月の表情は、かすかに哀しそうだった。
とりもあえず――道端で立ち話もなんだということで、ふたりは自販機でコーヒーを買い、横にあるベンチに座った。見栄を張って柿田がおごった。
美月は驚いたみたいだった。「ずっと私のお金で生活していたジュンちゃんが……なんか泣きそうだよ。どうしたの? 定職につけた?」
さあな、とはぐらかしてから柿田はつづける。
「そういえば、なんであんな道を? おまえのアパートってこっちじゃねえだろ」
「うん、引っ越したんだ」柿田のくわえかけた煙草を指さして言った。「そのにおいが壁に染みついちゃってたの。それはジュンちゃんのにおいだから。部屋にいると色んなところにジュンちゃんが現れるから、辛くなっちゃって」
「……そうかい」
「ジュンちゃんは、どこに住んでるの? この町だよね?」
時代に見放された工場で小学生と一緒に寝泊りしてます、なんて言えるはずもなく、柿田はさっさと本題へ進めさせることにした。
「まあ、それより、話ってなんだよ」
「そうだね」美月は、コーヒー缶を手の中で転がしながら告げた。「私、ジュンちゃんに謝らなくちゃいけないことがあってさ」
「おまえも謝ってばっかだな」――自分を追い出したことを後悔しているのだろうか、と一瞬だけ考えた柿田だったが、それはないと即座に否定した。美月はそういう女だ。彼女はたぶん、今の生活に幸せのつぼみを見出しているのだろう。「で、それは?」
「ジュンちゃんにひどいこと言っちゃったから。どこにでもいけって、実家に帰れって。ほんとひどいよね。ジュンちゃんのことは、私がよく知っているはずなのに」
ごめんなさい。美月はそう呟いた。
「そんなことか」柿田は煙草に火をつける。「別にかまわねえよ。オールライトだ」
あはは、と美月は笑った。「懐かしいね。オールライト」
柿田はコーヒーを一口すすり、煙を深く吸い込んだ。白い影が夜空に溶けていき、そのむこうに洋風の家がぼやけながら浮かぶ。重なって見えるのは――真っ白な小さな家だった。