その1 おっぱい少女、誕生
大木那京子(おおきなきょうこ)は貧乳だ。まったく胸に膨らみがない。とても高校1年の女子とは思えない。小学生低学年並だ。いわゆるまな板だ。
それが彼女の一番の悩みでもあった。
彼女だって大きくなるよう毎日努力している。毎日牛乳を飲み十分なカルシウムを摂り、胸をマッサージして刺激を与えたりしてる。それでも貧乳のままなのだ。いや無乳のままなのだ。
「いいじゃん、それがキョウコのチャームポイントよ」
「なっ、他人事だと思って。いいよね! アヤは胸があって、うらやましいよ!」
「いや、私もAだし」
「それでも曲線よね、私は直線なの! ブラジャーなんていらないのよ!」
「わ、悪かったわよ。謝るから落ち着いて」
帰り道。キョウコは友人の白石綾(しらいしあや)と互いのおっぱいについて熱く語るが、貧乳同士の乳談義は夕暮れ時のカラスの鳴き声とともに空しく響く。
アヤはこのままでいかんと気を遣って話題を変えてみることにした。
「そ、そういえばキョウコ、杉内にアタックするといってたじゃない。どうなのよ、進展あったの?」
女子高生なら誰でも興味のある恋の話。コイバナ! 彼女たちだって胸なくても花はある年頃の女の子なのだ。しかし、そんな彼女の気遣いもキョウコのコンプレックスの前には無意味であった。
「ダメよ……杉内くんは――だから……」
「杉内くんは、なにって?」
「杉内くんは巨乳好きだから!」
「そんなの聞いたことないわよ、どこ情報よそれー」
「掃除の時間、聞き耳立てて男子たちの会話を聞いた結果よ」
「もはや軽いストーキングね」
それは暮れなずむ頃の春の教室。下校に部活に騒ぎ立つ教室内で男子たちにより女子談義が繰り広げられていた。
「杉内は彼女とか作れねーのかよー」
「そうだぜーサッカー部でモテモテなくせになんだぜー」
「いや、俺は理想の女性が現れたら、こっちからアタックするって決めてるんだ」
「ほほぅ、果たして、お前の理想像とは?」
「理想の胸を持つ女性だ」
「ぐっほ、杉内殿はおっぱいにこだわるタイプでござるか」
「おっぱいって言うな。胸と言え」
「こ、こいつのこだわりは本物だぜー」
そして、夕日に輝く杉内は男子たちにとってのレジェンドとなったのであった。
「と言う会話があったのさ」
「別にその会話からすると杉内くんの理想のおっぱい=巨乳ってことにはならないんじゃない?」
「A~Cの胸なんて校内でもセンチ単位で揃ってるわ、それでもアタックが実行されていないと言うことはきっと遥か彼方なのよ。あとおっぱいっていうな、胸と言いなさい」
「ふぅん、でも、もう彼女いそうだけどねぇ、杉内くんジョニー・デップに似てるし」
「それを言うな、私の夢を壊さないで!」
「あんた自分で杉内くんはダメだって言ったじゃない……」
結局、コイバナは乳談義となり、空しく茜空へと響く。嗚呼、彼女たちに胸あれ!
◇
キョウコはいつもの曲がり角で貧乳同盟・アヤと別れ、寂れた商店街へと入る。この通りは彼女の帰路になる。数年前はまだ人の行き来があったこの商店街も、いまや大型スーパー、デパートに客を取られ、すっかりシャッター街と成り果ててしまった。日本のどこにでもある街の一風景だ。こんなところで胸なし少女たちが胸談義を交わした暁には空しさで世界が滅びそうだ。
キョウコにとっては通いなれた道ではあるが、その日の商店街にはひとつ特異点があった。なにやら文房具屋の閉まったシャッターの前に怪しげな占い師が座り込んでいたのだ。それが占い師とすぐに判断できたのは簡単なことだった。机に上にひとつの水晶玉が置かれているからだ。
怪しげといっても占い師は外見は若い女性で、しかもその容姿は美しい。そして巨乳であった。
しかし、どこか神秘な雰囲気と妖気が醸し出されており、キョウコは思わず足を止めた。
(この占い師は当たりそう……っ!)
なぜか心の底からそう思えた。第六感らしきものが激しくそれを告げた。悩める女子高生のキョウコにとっては相談すべき悩みが星の数だけある。そのうち2等星以下の数が胸についての悩みである。
しかし、高校生のキョウコにとって財布の中は少ないものであった。キョウコは帰宅部だがアルバイトは一切していないのだ。それに対して占いは何千円とかかるようなイメージがある。
「あら、そこお嬢さん」
そんな迷ってるところに、占い師の方から声がかかる。
「占い、興味ある?」
「い、いや、お金ないんで~」
「いいわよ、学生さんは大サービス。1回500円でどう?」
さすがにワンコインならある。思わぬ出費になるがこの占い師なら何だか安いような気がした。
「じゃあ、いいですか」
「どうぞどうぞ、この椅子に座って」
そういって若き麗しき占い師は裏から折りたたみのパイプ椅子を取り出してくる。貧乏らしさがたまらなくするが、それもまた穴場さを感じさせるのだから不思議だ。
「あの~こういうのって初めてでよくわからないんですけど」
「うん、大丈夫よ。そこに座ってくれてればいいから」
占い師が水晶玉を覗き込む。誰がやってもらしくはなるが本当に占い師のようである。そして実際彼女は占い師を名乗っている。
「うん、あなたはズバリ“胸”について悩んでるわね」
「あ、あの私の胸だけ見て言ってないですか、それ」
「心配しなくてもいいわ、まだあなたは成長期。これから伸びるから」
「伸びるって何ですか、身長じゃなくて胸が大きくなりたいんですけど」
「私からひとつアドバイスね。三丁目の古本屋さんの一番奥の棚の上から二段目の左から3冊目の本を買ってみなさい。きっとあなたに至福をもたらすわ」
なんと的確すぎるアドバイスであろうか。リアルすぎて逆に信憑性がない。まったくない。
「あ、あのう」
「はい、500円♪」
美人の占い師は可愛らしく右手を差し出す。そして小さくその巨乳が揺れた。詐欺とは言えない。だけどキョウコは胸の奥で叫んだ。小さな胸の奥で叫んだ。二度と占いなんてやるもんか!
その日、500円とともにキョウコの何かが消え去った。踏みにじられた。
◇
だけど、なんだかんだで占いを信じてしまうのが女の子というものだ。
その日の帰り道、キョウコは三丁目の古本屋に立ち寄っていた。別にはじめて来るところではなかったので抵抗なくキョウコは店内へ入っていく。
「てか500円取られて、お金少ないんだけど」
それでもいちおう指定された本を探してみる。
(えっーと、奥の棚の上から二段目の左から3冊目っと)
指定されたその場所にはもっともらしい本が置いてあった。
『簡単!1日5分であなたも理想のボディ! 巨乳エクササイズ』
作者名はクリスティヌ・カールネス・吉田。うん、よく分からない。
「つーか、あの占い師ただの宣伝じゃないでしょうね。ここの店主と繋がってるか、さては奴がクリスチーヌ何とか本人なんじゃ」
そんな疑いを抱きつつその本を手に取って裏を見てみると元の値段は薄いくせに2000円ととんでもなく高いが、古本なのでその上にシールが貼られて100円と書かれている。
「ん、安いな」
キョウコは結局その本を手に取ったままレジへと向かった。
「ありがとうございましたー」
エクササイズ本の入った袋を手に古本屋から出る。しかし、その様子は満足そうではなかった。
「あのレジの野郎、そんなに私が巨乳になる本買ってるのが面白いか、しね、占い師もついでにしね」
そんな文句を言いつつも買った本の中身が気になる。周りに人がいないことを確認してから、少しだけ内容を読んでみることにした。
「ん~なになに、肩の高さに拳を上げて、腕を前に出してぐるぐる回して秘密の呪文」
キョウコを本を読みながら片手間に実践をしてみる。そして秘密の呪文を唱えた。
「乳出る! ミラクル! 本気を出せばZカップ!」
…………。
……。
直後カラスが鳴いた。夕暮れを告げるとともに静けさを誇張する。いわゆる日本伝統の美意識、侘と寂である。
「ってアホか!」
とうとう怒りが限界突破したキョウコは買ったばかりの本を地面へと投げつけた。こんなことやってられるか。結局今日お金を搾り取られただけではないか。返せ、私の600円!
しかし、さすがにこんな道端に本を捨てて行くわけにもいかず、キョウコは仕方なく地面のエクササイズ本を拾おうと下をみてみると……。
「いてて……」
なんと、そこに若い男が倒れていた。頭にはさっきキョウコが投げつけた本が見事に乗っかている。
「えっ、うそ」
もしかして男の人が倒れていて、それに気づかず本を投げつけてしまった? しかも顔面クリーンヒット?
キョウコはもう大慌てである。そんな偶然があるわけない。てかここにいるということはキョウコの恥ずかしい実践も見られていたわけで……。
「あーマジいてぇ、いきなり投げつけるなんてひどいな君は」
そういいながら男が起き上がる。意外と高身長で着ているスーツが身に合っている。爽やかなイメージが印象的な外見である。サラリーマンかなにかなんだろうか。帰宅には少し早い気もするが。
「あ、すいません、たまたまなんです。ホントすいません」
「たまたまって、君、僕自身を投げつけておいてたまたまも糞もないだろう」
「えっ」
キョウコは意味がわからんといった表情だ。実際意味がわからないのだ。投げつけたのはただの本で、この人を投げつけたとかそんな強力はキョウコにはない。
「あー、気づいてないみたいだね。僕はチチボンです。この本の中から出てきました」
「えっ」
何を言ってるんだろ、この人。頭おかしいじゃないだろうか、もしかして本を頭に投げつけたせいでどこか頭を打ってしまったのではないだろうかとキョウコは少し心配になってくる。
「えっーと、チンポポさん?」
「チンポじゃない、チチボンだ」
何はともあれ、このときからキョウコのおっぱい少女としての生活が始まったのである。
正直、逃げたかった。
目の前の変態紳士は自分は本の中から出てきたと豪語し、チチボンなんて奇妙痛快な名をかたる。不幸三昧。まさにキョウコにとって今日がそう呼べる一日になることは間違いなしだった。
しかし、兎にも角にもあの本だけは返してもらわなければならない。もう一生開くことはないかもしれないが、帰り道のドブに投げ入れるかもしれないが、きっと内容をみられたら男もバイト店員と同じように嘲笑うに違いない。そう思い、キョウコはそれとなく本を返すよう男に声をかける。
「あの、怪我はないですか。できれば本を返して欲しいんですけど……」
あの投げつけたエクササイズ本はずっと男が手にしたままだった。顔の上にのっていたのをそのまま拾いあげたのだ。
「ん、別にいいけど僕を呼び出したんだしもう必要ないと思うよ」
「はぁ……」
男はまだ訳の分からないことを繰り返す。もうこの調子じゃいつまで経っても返してくれそうにない。キョウコは無理矢理にでも取り返そうと本に手を伸ばした、が。
「おっと、もしかしてまだ信じてくれてない? ちゃんと本はじめから読んでないの?」
そう言って男は本を高く持ち上げてしまった。あの高身長だ、キョウコの背ではジャンプしても届きそうにない。それでもキョウコはなんとか手を伸ばして取ろうとするが、まるでいじめられっ子のような構図になってしまう。こういう時も胸がないので男にあたってしまうことはない。
「いいから返してください!」
「ちょっと待ってね~」
そう言って男は本を高く持ち上げたまま捲り出した。
ああ終わった……。世界の終わりだ。バルスされた。キョウコの天空の城が急降下してくるぞ。
キョウコは絶望モードに陥り、伸ばしていた手をだらんと降ろした。もう私を馬鹿にでも何にでもするがいい。
「あ! あったあった!」
「なにがあったんですか……」
男は目的のページをみつけたらしく、キョウコとは真逆にテンションMAXだ。
あぁ、もう本なんてどうでもいいや。とりあえずこの場から去ろう。そうキョウコが思っていた矢先、男が目の前にページをどんと広げ、みせつける。
「これ! 俺! チチボン! 俺!」
外国人のような名詞連呼にキョウコが仕方なくそのページを目にすると、驚くことにたしかに本のイメージキャラクターのようなものとして「チチボンくん」がそこに載っていた。女性の胸をイメージしたゆるキャラらしきそれは、男が名乗っていたものと同じ名前だ。
男がこの名前を知っていたことに説明はつかないが、それでも本の中から出てきたなんて……。
「まだ信じられないかい?」
「当たり前です」
キョウコは踵を返して足早にその場を去ることにした。もう付き合ってられない。どいつもこいつも私をバカにして! どうせあの名前だって本をぶつけた際にたまたま目に入ったに違いない。
「その本ならもういりませんから! 気に入ったんならどうぞあげます! さようなら!」
キョウコは足を早めた。その言葉をさいごに男とは縁を切りたかったが、しつこいことに男はなおもキョウコの隣を小走りでついてくる。
「呼び出しておいて、それはないよ~。怒ってるなら謝るからさ」
「怒ってるってわかってるならついてこないでくれますか」
怒りに狂った女の子の顔ほど恐ろしいものはない。さすがの男もその表情には少し怖気付いたが、ここで引き下がるわけにもいかないのだった。少女の使命のためにも。
「いや、君にはおっぱい少女になってもらわないと……」
「セクハラですよ、ケーサツ呼びますよ」
「いや……ちょっと待って、それは」
そんなところに偶然か、いや必然か、あるいは天誅か。キョウコと男の目の前数十メートル先に警察官二人が姿を現したではないか。
「あ、ちょうどいいところに。あと十秒以内にどっか行ってくれないなら本気で呼びますよ」
直後、キョウコのカウントダウンが始まった。それは男の社会的死刑までのカウントダウン。
10
9
8……。
「ちょっと話を聞いてくれないか、君にはおっぱい……」
「おまわりさーーーーーん!!!!!!」
「ちょっ!? 十秒経ってない!」
キョウコのカウントダウンはセクハラ発言で有無を言わさずゼロになるのだ。みんなも覚えておこう。
しかし、男にとって奇跡か、天の救いか。そのキョウコの声は警察官へと届かなかった。
――パーンッ!!
警察官のひとりが放った銃声によって遮られたのだ。キョウコも男もその瞬間、あまりの出来事に身を動かすことが出来なかった。
「えっ……なに、事件?」
強盗か、あるいは殺人犯か。とにかく警察官が発泡するなんてよっぽどの大事に違いない。キョウコは少し足が震え出し、さっきまで変態としか思ってなかったチチボンと名乗る男さえ、近くにいてくれることがこころ強く思えた。
「近いぞっ」
チチボンが真剣の表情で、さっきとは聞き違えるような引き締まった声を出す。何も感じられないキョウコはただ慌てることしかできない。
「え? ……なにが?」
「もうあーだこーだ言ってる暇なんかない。君、名前は?」
「こんな時に何言ってるんですか、とにかく逃げないと」
「銃なんて利く相手じゃないよ。あいつらを倒せるのはおっぱい少女、君しかいない」
「あいつらってなんのことよ、私にそんな力ないし、胸だってないし!」
直後、銃声と違う大きな音が響き、二人は前を振り返った。
「今度はなに!」
見れば近くの家が破壊され、砂煙がたちこめ、地面には先程までの警察官が無残にも倒れている。
「えっ、嘘……」
その砂煙のあいだから垣間みえた一人の影。太い鉄柱のようなものが頭から生え、片手で車を一台を持ち上げてるではないか。
「化物……」
「そう呼べる類のものだろうな。マナを与えられた人間が暴走しているのだろう」
男はなぜか冷静であった。そして、“アレ”の正体知っているかのようだ。
危険を感じたキョウコはその場をすぐに逃げようとしたが、足がうまく動かない。どうしてこんな時に!
「君……」
男が声をかけてくる。なんでこんな状況にも関わらずこんなにも落ち着いているのか。キョウコはそれが不気味にも感じた。
「希望のバストサイズは?」
「は?」
こんな時になにを言ってるんだろう。もしかして死を覚悟でどさくさに紛れて変態するつもりか。なんなんだよ、こいつ!
「何カップになりたいと聞いているっ!」
「ひぃっ!、Hカップ!」
突然男に大声を出されて驚いたキョウコは思わず答えてしまった。大声でなにを言ってるんだ、この変態紳士は。
「Hか……ずいぶんと高望みだな」
「う、うるさい」
目の前では車が投げられ、家が破壊され、人々の叫び声が聞こえてくるというのに、なんでこんな会話をしているのだろう。あぁ、こんな会話を最期に死にたくないよ。そんな風にキョウコが項垂れていると、ふいに男から何かを投げ渡され、反射的に両手で受け取ってしまう。
「なに? これ」
男が投げてきたのは紅く光る宝石のようなものが埋め込まれたネックレスだった。
「選ばれし少女よ、運命の鼓動を感じ、戦え」
「ちょっと何いっ……ッ!」
その瞬間、キョウコに衝撃が走った。身体全体が揺れた。胸は揺れなかったけど、周りの空間に亀裂がはいったような大きな鼓動を感じたのだ。
「な、に……これ……」
それは味わったことのない感覚だった。鼓動は心臓の高まりと同調するように、連続して震える。
「何も恐れることはない」
男のその言葉が現実になるように、キョウコの足の震えは収まっていた。ただただチカラが漲ってくるような気がして、キョウコの全身を支配する。
「レットイットビー! なるがままに唱えよ! おっぱい少女よ!」
二度と口にするはずがなかった言葉が、キョウコの脳裏を過ぎった。
この言葉を唱えれば、どうなるのか、よくわからなかった。ただそのことに恐怖は感じなかった。何も怖いものはない。なにかに背中を押されるように、キョウコはその言葉を声にした。
「チチクル! ミラクル! 本気を出せばHカップ!」
目の前の変態紳士は自分は本の中から出てきたと豪語し、チチボンなんて奇妙痛快な名をかたる。不幸三昧。まさにキョウコにとって今日がそう呼べる一日になることは間違いなしだった。
しかし、兎にも角にもあの本だけは返してもらわなければならない。もう一生開くことはないかもしれないが、帰り道のドブに投げ入れるかもしれないが、きっと内容をみられたら男もバイト店員と同じように嘲笑うに違いない。そう思い、キョウコはそれとなく本を返すよう男に声をかける。
「あの、怪我はないですか。できれば本を返して欲しいんですけど……」
あの投げつけたエクササイズ本はずっと男が手にしたままだった。顔の上にのっていたのをそのまま拾いあげたのだ。
「ん、別にいいけど僕を呼び出したんだしもう必要ないと思うよ」
「はぁ……」
男はまだ訳の分からないことを繰り返す。もうこの調子じゃいつまで経っても返してくれそうにない。キョウコは無理矢理にでも取り返そうと本に手を伸ばした、が。
「おっと、もしかしてまだ信じてくれてない? ちゃんと本はじめから読んでないの?」
そう言って男は本を高く持ち上げてしまった。あの高身長だ、キョウコの背ではジャンプしても届きそうにない。それでもキョウコはなんとか手を伸ばして取ろうとするが、まるでいじめられっ子のような構図になってしまう。こういう時も胸がないので男にあたってしまうことはない。
「いいから返してください!」
「ちょっと待ってね~」
そう言って男は本を高く持ち上げたまま捲り出した。
ああ終わった……。世界の終わりだ。バルスされた。キョウコの天空の城が急降下してくるぞ。
キョウコは絶望モードに陥り、伸ばしていた手をだらんと降ろした。もう私を馬鹿にでも何にでもするがいい。
「あ! あったあった!」
「なにがあったんですか……」
男は目的のページをみつけたらしく、キョウコとは真逆にテンションMAXだ。
あぁ、もう本なんてどうでもいいや。とりあえずこの場から去ろう。そうキョウコが思っていた矢先、男が目の前にページをどんと広げ、みせつける。
「これ! 俺! チチボン! 俺!」
外国人のような名詞連呼にキョウコが仕方なくそのページを目にすると、驚くことにたしかに本のイメージキャラクターのようなものとして「チチボンくん」がそこに載っていた。女性の胸をイメージしたゆるキャラらしきそれは、男が名乗っていたものと同じ名前だ。
男がこの名前を知っていたことに説明はつかないが、それでも本の中から出てきたなんて……。
「まだ信じられないかい?」
「当たり前です」
キョウコは踵を返して足早にその場を去ることにした。もう付き合ってられない。どいつもこいつも私をバカにして! どうせあの名前だって本をぶつけた際にたまたま目に入ったに違いない。
「その本ならもういりませんから! 気に入ったんならどうぞあげます! さようなら!」
キョウコは足を早めた。その言葉をさいごに男とは縁を切りたかったが、しつこいことに男はなおもキョウコの隣を小走りでついてくる。
「呼び出しておいて、それはないよ~。怒ってるなら謝るからさ」
「怒ってるってわかってるならついてこないでくれますか」
怒りに狂った女の子の顔ほど恐ろしいものはない。さすがの男もその表情には少し怖気付いたが、ここで引き下がるわけにもいかないのだった。少女の使命のためにも。
「いや、君にはおっぱい少女になってもらわないと……」
「セクハラですよ、ケーサツ呼びますよ」
「いや……ちょっと待って、それは」
そんなところに偶然か、いや必然か、あるいは天誅か。キョウコと男の目の前数十メートル先に警察官二人が姿を現したではないか。
「あ、ちょうどいいところに。あと十秒以内にどっか行ってくれないなら本気で呼びますよ」
直後、キョウコのカウントダウンが始まった。それは男の社会的死刑までのカウントダウン。
10
9
8……。
「ちょっと話を聞いてくれないか、君にはおっぱい……」
「おまわりさーーーーーん!!!!!!」
「ちょっ!? 十秒経ってない!」
キョウコのカウントダウンはセクハラ発言で有無を言わさずゼロになるのだ。みんなも覚えておこう。
しかし、男にとって奇跡か、天の救いか。そのキョウコの声は警察官へと届かなかった。
――パーンッ!!
警察官のひとりが放った銃声によって遮られたのだ。キョウコも男もその瞬間、あまりの出来事に身を動かすことが出来なかった。
「えっ……なに、事件?」
強盗か、あるいは殺人犯か。とにかく警察官が発泡するなんてよっぽどの大事に違いない。キョウコは少し足が震え出し、さっきまで変態としか思ってなかったチチボンと名乗る男さえ、近くにいてくれることがこころ強く思えた。
「近いぞっ」
チチボンが真剣の表情で、さっきとは聞き違えるような引き締まった声を出す。何も感じられないキョウコはただ慌てることしかできない。
「え? ……なにが?」
「もうあーだこーだ言ってる暇なんかない。君、名前は?」
「こんな時に何言ってるんですか、とにかく逃げないと」
「銃なんて利く相手じゃないよ。あいつらを倒せるのはおっぱい少女、君しかいない」
「あいつらってなんのことよ、私にそんな力ないし、胸だってないし!」
直後、銃声と違う大きな音が響き、二人は前を振り返った。
「今度はなに!」
見れば近くの家が破壊され、砂煙がたちこめ、地面には先程までの警察官が無残にも倒れている。
「えっ、嘘……」
その砂煙のあいだから垣間みえた一人の影。太い鉄柱のようなものが頭から生え、片手で車を一台を持ち上げてるではないか。
「化物……」
「そう呼べる類のものだろうな。マナを与えられた人間が暴走しているのだろう」
男はなぜか冷静であった。そして、“アレ”の正体知っているかのようだ。
危険を感じたキョウコはその場をすぐに逃げようとしたが、足がうまく動かない。どうしてこんな時に!
「君……」
男が声をかけてくる。なんでこんな状況にも関わらずこんなにも落ち着いているのか。キョウコはそれが不気味にも感じた。
「希望のバストサイズは?」
「は?」
こんな時になにを言ってるんだろう。もしかして死を覚悟でどさくさに紛れて変態するつもりか。なんなんだよ、こいつ!
「何カップになりたいと聞いているっ!」
「ひぃっ!、Hカップ!」
突然男に大声を出されて驚いたキョウコは思わず答えてしまった。大声でなにを言ってるんだ、この変態紳士は。
「Hか……ずいぶんと高望みだな」
「う、うるさい」
目の前では車が投げられ、家が破壊され、人々の叫び声が聞こえてくるというのに、なんでこんな会話をしているのだろう。あぁ、こんな会話を最期に死にたくないよ。そんな風にキョウコが項垂れていると、ふいに男から何かを投げ渡され、反射的に両手で受け取ってしまう。
「なに? これ」
男が投げてきたのは紅く光る宝石のようなものが埋め込まれたネックレスだった。
「選ばれし少女よ、運命の鼓動を感じ、戦え」
「ちょっと何いっ……ッ!」
その瞬間、キョウコに衝撃が走った。身体全体が揺れた。胸は揺れなかったけど、周りの空間に亀裂がはいったような大きな鼓動を感じたのだ。
「な、に……これ……」
それは味わったことのない感覚だった。鼓動は心臓の高まりと同調するように、連続して震える。
「何も恐れることはない」
男のその言葉が現実になるように、キョウコの足の震えは収まっていた。ただただチカラが漲ってくるような気がして、キョウコの全身を支配する。
「レットイットビー! なるがままに唱えよ! おっぱい少女よ!」
二度と口にするはずがなかった言葉が、キョウコの脳裏を過ぎった。
この言葉を唱えれば、どうなるのか、よくわからなかった。ただそのことに恐怖は感じなかった。何も怖いものはない。なにかに背中を押されるように、キョウコはその言葉を声にした。
「チチクル! ミラクル! 本気を出せばHカップ!」