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【一章 一節】

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 その日は目覚ましでなく、心臓の音で目を覚ました。
「……っ!」
 仰向けにみつめた天井には、蛍光灯から伸びた細い紐が一本、垂れ下がっているだけだ。側にある窓からは、朝日が僅かに差し込んでいる。
(……もう、朝?)
 枕元にある時計を見た。いつも目を覚ます時間には、まだ幾分の余裕があったけれど、もう一度眠る気にもなれなかった。
「――」
 目覚ましを止めて起きあがる。畳を踏んで窓枠に寄り、少し立てつけの悪くなってきた窓を、どうにか開く。
「……あら、良いお天気ですね」
 初夏の候、六月。
 ここ数日続いていた雨の気配は消え、朝焼けに眩しい世界が広がっていた。隣家の庭から顔を出す、先夜の露に照らされた紫陽花が瑞々しい。
「久しぶりに、洗濯物が干せそう」
 冷たく、四肢に感じていた不快な痺れが消えていく。いつのまにか、逸る鼓動は落ち着いていた。
「……兄さん、起きているかしら?」

 窓をほんの少し開けたままにして、部屋を出た。居間に続く廊下の中央に、人がうつ伏せに倒れている。
「……え?」
 思考が、止まる。倒れている人の背中を見て、それが草一郎(そういちろう)兄さんに、とてもよく似ているようなと思ったり。
「弐……乃……」
「に、兄さんっ!? どうされたんですかっ!?」
「あぁ……もう俺は……駄目だ……し、ぬ……」
 隈が浮かんだ生気のない瞳、口元にはびっしり無精髭が満ちていて、頭はぼさぼさに『鳥の巣』と化している。乾いた唇を震わせながら、何かを必死に告げようとしていた。
「弐乃……せめて、最期に……」
「喋らないで兄さん! 今すぐに救急車を呼びますからねっ!」
「……いや……むしろ、出前を呼んでくれ……」
「は?」
「ぐぅ~」
 思わず首を傾げた私に対し、返事はお腹の空いた音。
「……兄さん……」
「かつ丼か、もしくは鰻が食べたいのだ」
「家にそんな余裕はありません」
 言うと、兄はとても悲しそうな顔をした。
「おぉ……なんという、なんという……ぐぅ~」
 目の前に、心底切ない音を響かせる、駄目な大人が転がっていた。
「兄さん、今朝まで書斎に篭ってらしたんですね?」
「……あぁ。創造の神が、つい今しがた帰られたところだ……文学で名を遺した偉人の霊がこの十指に宿り、己(おれ)もまた歴史に残る作品を、書きあげんとおぉぉぉぉっ……!」
「しっかりしてください」
「すまん」
 廊下の端にある部屋を振り返れば、転々と、黒墨の跡が続いていた。それは兄の指先から滴り落ちているのと同じものだろう。 兄が書斎と呼ぶ部屋への扉は開いたまま。ここから室内が見渡せたけれど、あまりの惨状っぷりに、すぐに目を背けた。
「……五日前に掃除をしたばかりなのに……。兄さん、次はご自身で掃除をしてくださいね」
「了解した。それにしても腹が減ったぐぅ」
「いい加減にしないと叩きますよ。それより、執筆活動は一段落ですか?」
「なんとかな」
「お疲れ様でした」
 私の兄は、売れない物書きをしている。
 一日の大半を書斎に籠っているか、自宅に籠っているかの違いがある程度で、外出することはほとんど無い。
「しかし、うーむ、肩こりが半端ないな」
「それから、少し変な匂いがしてますよ。今すぐお湯を浴びてきてくださいね」
「あぁ、丸三日近く、篭っていたものなぁ」
「湿布と塗り薬は脱衣所に置いてありますので。湯を浴びた後で貼り付けてください」
「すまんな、助かる」
 兄は笑みを浮かべて浴室へと向かっていった。
「さてと」
 朝ごはんの支度をしなくては。

 *

 食卓に二人分の食事が並んだところで、兄が戻ってきた。ちゃぶ台を挟んだ向かい側に、胡坐をかいて座り込む。
「さっぱりした」
「綺麗になりましたね」
「うむ、久々に浴びる風呂は快適だな」
 兄が半端に濡れた髪をかきあげる。
 輝くお湯の雫が僅かに散った。色白でいて、すっきりと細くて長い手。子供みたいに髪の毛を弄ぶ。 
「どうした? まだなにか匂うか?」
「い、いえっ! なんでもありませんっ。兄さんは相変わらず、割と残念な人だなと思っただけですっ」
「……ん?」
 ほんの少し、動悸が早くなってしまう。
 兄は率直に言って、見栄えがよろしい人なのだ。
 身だしなみさえ整っていれば、少なくとも外見だけは、格好いいのに勿体ないと、心底そう思う。
 そして今、ただでさえ湯上りのうえ、半袖一丁、短パン一丁なので目のやり場に困ってしまう。
「兄さん、せめてズボンを履いてくれませんか」
「断る」
「ズボンを履かないと、今日の夕飯が切干大根のみになりますよ?」
「しばし待て! ちょっとズボン履いてくる!」
「はい」
 兄が颯爽と部屋をでて戻ってくるまで、おおよそ一分かからなかったと思う。本当に残念な人だった。

「弐乃、朝刊と昨日の新聞はあるか?」
「隣の棚にまとめてありますよ」
「これか、有難う」
 新聞を手に取り、床に広げる。兄が活字中毒の性癖があるせいで、わが家では地元誌、全国誌、経済誌と、三誌もの新聞を購入しているのだった。
「ふむ……」
 そして反対の手は、ちゃぶ台に乗った味噌汁の椀を取り上げて、音を立てて口付けいく。
「兄さん、行儀が悪いですよ」
「一面を読むだけだ。見逃してくれ」
 誌上に目を落としたまま告げた兄の眼が、ふと険しくなった。
「……またでたか。これで三件目だな」
「 "切り裂き魔" の事件ですか?」
「あぁ」
 渇いた音を立て、地元誌の新聞が閉じられた。
 兄が口にしたのは、ここ一月の間に地元で起きている傷害事件だった。
 乳母車に乗せられた赤ん坊が二人、別の日に、それぞれ左手首と右手首を切断されたという、痛ましい事件だ。
 平日の昼間、母親が少し眼を離した隙に、公園内で犯行が行われたらしい。ちょうど人通りが絶えていたらしく、目撃証言はなし。その時点では、犯人の詳細は不明。
 赤ん坊の手首自体も残っていなかったことから、切り取られた手首は、未だに犯人が持っていると推測されている。
 悪い意味で話題性があったせいだろう。猟奇的な事件として、全国誌でも、小さく取り上げられていた。
「――しかし、三件目の事件は未遂に終わる、か……」
 昨日の新聞を食い入るように見つめながら、兄が呟いた。
「今度は証言も沢山あったらしいですよ。犯人は男性で、被害者の女性は、顔も見たらしいですから」
「……ふむ……また、手首を狙った犯行だったのか?」
「……さぁ、そこまでは……」
「少々気になる点もあるが、まぁよい。後は糞たわけの阿呆に、警察が引導を渡すのを待つばかりだな」
「えぇ、はやく捕まると良いですね」
「うむ」
 兄が不機嫌そうな顔をして、ご飯の入った椀を手に取った。
「……」
「……」
 それから、黙々と食事を続けた後で、再び表情が険しくなる。
「……そういえば……今日は何曜だ……?」
「第一土曜日です。可燃ごみの日ですよ、兄さん」
「土曜日!? しまった締め切りがっ!」
 兄が突然立ち上がり、私に向けて手を差しだす。
「弐乃っ! 風呂敷っ!」
「……夜逃げでもする気ですか?」
「うむ!」
 冗談で言ったのに、真面目に返された。
「一昨日。兄さんが書斎に籠った後で、電話がありましたよ」
「おぉ! 不治の病だと伝えてくれたかっ!?」
「いえ、在宅中だと答えておきました」
「ひーーーっっ!!」
 絶叫し、畳みの上をだんご虫のように転がる兄。
 とても残念だった。
「奴が、くる……っ! 今度こそ己は死ぬ! 不甲斐ない兄ですまん……弐乃っ!」
「同意しておきます。まぁ、今日には書斎から出て来るだろうと思っていたので、そのようにお返事しておきました。編集さんも、打ち合わせができる程度に完成していれば、ひとまず命は取らないとおっしゃっていましたよ」
「おぉ!」
 兄の表情が、天啓を受けたように明るく輝いた。
「よくできた妹を持って嬉しいぞ! 恩にきる!」
「私は大変ですけどね。それよりも、ご飯が冷めないうちにどうぞ」
「そうしよう。はっはっは。いやはや、一件落着した後の飯は、実に美味だな。編集のところに顔をだす前に、己からも一報入れておいてやるか」
「そうした方がいいですね。でも上から目線は止めた方がいいですよ」
「なに、今回の作品は万人が認める大傑作だからな。連中を待たせておくのも忍びあるまい。ふははははっ!」
「……兄さん……」
 ため息を隠し、呟きかけた【コトノハ】も、そっと胸にしまい込んだ。

 <――もう少し、しっかりしてくださいね――>


「ご馳走さまでした」
 食事を終えて、後片付けをしようと席を立ちあがった時だ。
「皿なら片付けておく。お前は学院へ行く支度をしろ」
「珍しいこともありますね」
「余計なことを言うと、仕事が増えるぞ」
 兄が苦笑して、二人分の椀を重ねていく。
「失礼しました。ではよろしくお願いします。私は洗濯物と、ついでにお布団を干しておきますね」
「あぁ、それも俺が片しておこうか?」
「いいえ。これ以上、兄さんのお手を煩わせると、また雨が降りかねませんからね」
 そう言うと、兄が少し不貞腐れた顔をする。そんな顔を見るのは、少し楽しい。

 溜まっていた洗濯物と、自室の布団を干した後で、部屋に戻ってきた。女学院の制服に袖を通してから時計を見れば、いつも通りの、家を出る時間帯になっていた。 
 学生鞄を手に、廊下を出て台所に向かう。そこには桃色の前掛けをした兄が、不器用な手付きで鍋を磨いていた。
「おっ、弐乃、もういくのか」
「……似合いますね」
「む?」
 もやしっ子で、顔立ちが良く、どちらかと言えば中性的な兄は、女性の小物や衣装などが、地味に似合う人だった。
「兄さんがもう少し器用で、愛想が良くて、常識があれば、御給仕の働き口がありそうなのに……」
「さらっとひどい事を言ってくれるな」
「事実ですから。それでは私は、学院の方へ行って参りますね」
「うむ。近頃は物騒だから気をつけろ。遅くならんようにな」
 水道の蛇口を絞めて、少し憂いのある表情を浮かべる。もしかすると、今朝に話した "切り裂き魔" の事を考えていたのかもしれない。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。今日は土曜日ですから、お昼過ぎには帰ってこれますし」
「そうか。己は夕方過ぎまで、編集の奴と打ち合わせだな。そうだ、あと、家を出るまで時間が余っているのでな。買い物の手間を省きたければ、今の内に言っておけ」
「まぁ、兄さんが珍しく優しいわ」
「己はいつだって優しいぞ。ははは。さっき、台所周りを少々確認したところ、醤油と味噌が切れる頃合いと見たのだが」
「はい、その通りです」
「そうだろう! ここは男手を頼って、買い出しは己に任せておくが良い! 醤油とか重かろうしな!」
 もやし腕で、誇らしげに薄胸を叩く兄。
 その堂々とした様に、私も笑顔で応えた。
「頼みません」
「よしきた―――って、頼まんのかっ!?」
「はい。兄さんにお金を持たせると、余計な物まで買ってくるので、頼みません」
「余計な物!?」
「具体的に言うと、お酒、です。特にお醤油とお酒を売っているお店は同じですから。後で言い訳した風を装って、無駄遣いをするのが目に見えてます」
「うっ!?」
 動揺した表情を、露骨に浮かべる兄だった。
 とても素直で、単純で、率直に言えば、
「……馬鹿、ですよね」
「真顔で言われた!」
 兄の口元からぽつぽつと、虹色の【コトノハ】が零れ落ちていく。それは床に落ちると同時に、音なく割れて。

 <――いかんな、どう誤魔化したものか――>

 <――最近、禁酒をすると誓ったばかりだからな――>

 <――あー、弐乃、己は違うぞ。
 そういう邪な想いを抱いているわけでは――>

 <――三日間籠っていたせいで、なんというか、
 もう、浴びるほど飲みたいわけではなくてだな――>

 <――いかん、これではいかんぞ――>

 <――書斎に隠してある一升も、残り少ないのに――>

「では兄さん、私はそろそろ、」
「弐乃っ!」
「なんですか」
 兄が危機迫るような表情で、私に告げてくる。
「……甘酒なら、いい……?」
「駄目です。無駄遣いです。あっ、台所にある生ごみも出しておいてくださると嬉しいです。うっかりご自身を持っていかれないように、気をつけてくださいね」
「ひどいぞ弐乃! 兄をなんだと思ってるんだ!?」
「ふふ。兄さんったら。そんな分かりかったことを聞かないでください。では、行って参ります」
 そして私は、今日もいつも通り、家を出た。
3, 2

  

 
 心地良い雨の音は、気がつけば止んでいた。
 四畳の空間に、朝の光が射しこんでいる。

(……………………)

 一晩の間に、すっかり温った布団から出るのが、惜しい。
 狭い空間に淀んでいた空気に重なり、静謐な朝の気配が混じり込む。臓腑の底に墜ち、ほんの少し、噎せそうになった。

 叶うことならば、いつまでも、永遠に、横になっていたいと思うのだが、そうもいかない。
(はぁ……)
 まどろみに耽っている。真綿と、腐食液を詰め込んだ箱の中。
 緩慢に腐敗していく赤子の手。居並ぶ十指を、いつまでも愛でていたいと願ってしまう。
(寝るより楽は、なんとやら……)
 布団に包まれ、指を詰め込んだ箱を抱いていれば、母と抱き合うように眠っていた日々を思いだす。あの部屋も、この場所と同じ四畳の空間であり、父と呼べる人の存在は無かった。

 私と、母の、二人きりであった。
 夜になれば、僅かに点在していた家具を壁に寄せ、一組だけの布団を、二人で敷いた。
 私と母の間には、必要以上の物は、なにも無かった。
 たまたま同じ生き物が隣合っており、自然に身を寄せて、暖を取るような関係を築きあげていた。

 言葉も、想いも、多くを交わした記憶がない。
 それで充分だった。
 私達は同一だと理解していれば、それで良かった。

「――綺麗ね――」

 十指を閉じ込めた箱を、抱えたまま起きあがる。部屋に唯一存在する、収納棚へと持ち運び、鍵穴のついた二段目を開く。

『ばいばい、ばいばい』

 指先が、そんな風に告げたような気がした。幻聴なのかもしれないが、それでも私の心は、確かに満たされていく。
「またね」
 ひとつ、ふたつ、手を振り返す。
 引き出しを閉じ、鍵をかけて覆い隠した。

 と、その時、

『 お は よ う 』

 小さな、馴染んだ囁きが聞こえてきた。
 声は、棚の上に並べた箱から聞こえてくる。
 それが、今では形見となってしまった母の遺品である。中には、色とりどりの蝶の羽が閉まってあった。
「おはよう」
 胴体はなく、色鮮やかな、対となる蝶々の羽。
 赤と青。黄と緑。白と黒。
 母は亡くなる前に、これらを愛でながら、一度だけ私に告げた。
 
『ここが、一番、綺麗だったのよ』

『だから、いらない物は、千切って捨てたわ』

『これだけが、私の心を安らぎに誘う、
 たった一つの、音色だと、想ってた』

『でも――』

 母は、愛おしそうに箱を撫でた。
 なんども、なんども、くりかえし、なでた。
 蝶々の羽に取り囲まれて。
 腐った目玉が、二つ在る。

『……あぁ、あの人の瞳は、本当に、本当に、綺麗……』
 
 箱を撫でる、母の手。てのひら、ゆびさき。

 ほしくて、ほしくて、たまらなかった。

 恋焦がれる【収集欲】が、私の内にも眠っている。
 この欲情は異端であると知っていて、止めることはできなかった。

 気がつけば "切り裂き魔" などという、不粋な呼称で呼ばれていた。自分のことを指しているのだと気がつくまでに、随分な時間を要したものだ。

 しかし、それは、言うなれば、少し、愉快、でも、あっ、た。

 いこう。

 きょうも、また、

 はこ の そと がわ へ 。

 ほしい。ほしい。ほしい。

 あの、この、ゆび、が、ほし、い 。

 ――さぁ、切り落とせ。

4

五十五 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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