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1.Lento -緩やかに、遅く-

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「……どしたん? 顔、赤いけど」
 かけられた、声を。
「ついでに、息も荒いけど」
 青ざめた、僕は。
 実にシンプルかつ分かり易いシチュエーションだが、しかしシンプルイズザベストが常に正しいとは限らない。
 夕刻の教室。
 机には僕一人、隣には女子一人。
 耳から漏れ出るは、いろんな意味でギリギリな何か。
 BGMには、遠い蝉の声。
「お、今度は青くなったね」
 おそらく同じ状況下におかれれば、ルドルフの情熱的な鼻だって瞬く間に真っ青になるだろう、間違いなく。しかしながら、ここで固まったり、変に焦ったりしてはいけないことを、僕は知っている。今取り乱すことはすなわち終わりを意味するからだ。
「だいじょーぶ?」
 三度、降りかかった声に、んん? などと一見間の抜けた返事を返しつつ、僕は平時と何ら変わりのない緩慢な動作でイヤホンを取り外した。茜色に染まった世界が、再び夏を取り戻す。未だ性懲りもなく不埒な音声を垂れ流すプレーヤーを電源ボタンでやや乱暴に黙らせてから、僕は声のほうへと目を泳がせた。いいぞ、不自然なくらい自然な動作だ。しかし。
「いや、ちょっと音楽を聴い……て」
 聴いていただけさ、とそう続けるつもりだった、その薄っぺらい嘘っぱちの切れ端は、開きかけた口の中へもごもごと吸い込まれてしまう。そして僕は言葉というものを失った。なぜならば。
「状況によっては、そのごまかし方はいかにも一般の学生然としているけどさーあ」
 目前に立つ彼女が。
「今は放課後で、しかも時刻は五時半で、だぁれもいない教室で一人、窓際の机にひじ突いて、西日に射されてニヤニヤしている学生ともなると、どうもぐらついてくるよ、その証言の真偽ってやつが。ね、えーちゃん」
 僕の良く知る顔だったからである。
「……ニヤニヤは、していない」
 言い返してみた、かなり弱弱しく、かなり目を見開きながら。
 いや、確かにしていなかった、と思う。思いたい。
「どうだかねー」
 僕の横で、そうしてふんわりと笑う彼女の名は、夜野花火。
 昔馴染みの顔馴染み。
 線の細い身体は、その肌に夏服のブラウスを少し透かせる程度の水分をにじませていて、ドキリとする。肩にかかるかかからないくらいのショートヘアは、色素が薄くてほんのりと明るい。その髪の毛はしっとり汗に濡れていて、弾力を感じさせる頬に二、三本が張り付いていた。
 有体に、かつ控えめに言って、彼女は美人の部類に入る。顔立ちは整っていて、目元には強気の色。そんな彼女の透き通った視線は、真っ直ぐ目の前のものを見る。あまりに真っ直ぐすぎて、自分の罪を見透かされているような、心当たりなど何もないのに、自分の存在の間違いを正されるような気持ちさえしてしまう。それでもなお人を惹きつけてやまない、そんな魅力的な瞳が、今は僕の眼前で橙色だった。
 こいつとは、ほんの昔、ちょっとしたいざこざがあって、多分それが原因で疎遠になっていた。それ以前までは、それなりに仲の良い幼馴染をやっていたと思うのだけれど。僕も花火も、程よい距離感を保って宜しくやっていたし、これからも多分そんな関係が続くのだろうと、ぼんやり思っていた。
 だけど、この世界に、ずっと続くものなんてない。
 そんなものだったんだ、僕と花火の関係だって。
 そんなわけで彼女と直接話をするのは久しぶりだし、そしてだからこそ意外だった。ぶっちゃけ、今かなり驚いている。どうしてこのロック好きの女は今更、放課後の不審人物に話しかけてきたのだろう?
「私の顔、何かついてる?」
「い、いや! 別に」
 僕は慌てて、視線をあさっての方向へ放り投げた。さすがに直視しすぎたか。
 すると別のものが目に留まる。彼女の手だった。
「お前、それ!」
 学生鞄を持っている、彼女の右手。バンドエイドが合わせて三枚、人差し指と中指にしおらしく巻いてある。
「ああ、これ? ちょっとぶつけちゃっただけ。大丈夫だよ」
 彼女は少しだけ鞄を持ち上げて見せて、笑顔を作った。
「大丈夫って……」
「なぁに? 心配してくれるの? 久しぶりなのに男前だね、えーちゃん」
 ちょっと悪戯っぽく頬を上気させる彼女に、僕はたじろぐ。
「そういうアレじゃ……その、だってお前」
「だっても明後日も明々後日もないの。ところでえーちゃんさ」
 大きな黒目をこちらに向けて、花火はにんまりと口の端を釣り上げる。
「音楽は、あん! あん! って言わないものだよ」
「……」
 最悪だ。
 どうやら聞かれていたらしい、最悪だ。彼女の目に映った僕は、さぞかしピエロ然としていたに違いない。そりゃ、無駄に演技の上手い花火の無駄に洗練された無駄な喘ぎ声は最高か最悪かどちらかと聞かれれば勿論最高だったけれど、しかし状況としてはどこまでも最悪だった。
「そんなことより!」
 そんな最悪の気分にいつまでも浸っていられるはずもなく、僕は声を張って強引に話のハンドルを切る。
「何でこんな時間帯まで教室なんかに残ってるんだ?」
 それに、僕と花火はクラスも違う。本来なら、あり得るはずのない邂逅だ。
「いやあ、だって私、生徒会だもん」
「それがどうしてここにいる理由になるんだよ」
「電気と戸締りの確認。こういう雑務だって生徒会のお仕事なんだよ」
「そうなのか?」
「そうなの」
 もっとも彼女が生徒会役員であることは以前より知っていた。ただの生徒会役員であるどころか、生徒会副会長である。入学早々華々しく生徒会選挙に立候補し、そして華々しく当選したのは、記憶に新しい。
 しかしこういう雑用までやらされるのか? 副会長が? もっとも、それを面倒な顔一つせずにやってのけるこの娘もまた、副会長らしいといえばらしいのかもしれない。
「そしたらドアの鍵が閉まってないどころか、誰かさんが教室に残ってた、ってわけ」
「で、その誰かさんが僕だったっというわけだ」
 花火が、そういうこと、と首を縦に振る。僕はふうん、と相槌を打った。
 そしてそこでふと、会話が途切れる。
 黄金色の空気を振るわせるのは、蝉の声だけ。意外にも、彼女は僕が何をしていたか、突っ込んではこなかった。見当がついているのか、はたまた単純に興味がないのか。ついさっきまで顔に張り付いていたニヤニヤ笑いも、今は影を潜めていた。
 見えない何かが、僕と花火の間に積みあがっているのだ。そして二人とも、それを崩そうとはしない。
 それにしても、いつの間に、こんなに高くなってしまったのだろう。今の僕には分からない。
 唯一つ分かることがあるとすれば、花火は僕を見ているけれど、僕は花火を見たくない、ということだけだ。
 何だか、身体の内側から針でつつかれたような心地がした。
「……まあ、帰るよ。戸締りご苦労さん」
 僕は唐突に立ち上がる。そして特に引きとめようともしない花火とすれ違って、早足で夕闇に溶けかけた教室を後にしようとした。しかし僕がドアに手をかけた途端。
「ねえ!」
 花火は僕の背中越しに声をあげたのだった。
「幽霊に会いに行くの?」
 幽霊。それは実に夏らしい響きではあるけど、しかしこれまた唐突に、話が現実から離陸してしまう。六月下旬の熱気を頬に感じながら、一応振り返って僕は眉をひそめた。
「ついに頭のネジの二本目が飛んじまったか?」
「違うよ。まー、実際私の頭のネジは何本飛んでるか分からないけど」
 ほんの少しだけ間をあけて、花火は続けた。
「私聞いちゃったんだ、ここのところ音楽室に幽霊が出るって噂」
「その噂なら、僕も知ってるさ、今流行りだからな」
「毎日毎日、入れないはずの放課後の練習室から、吹奏楽部でも合唱部でもない誰かの、ピアノの音が聴こえてくる。ってさ。それでもって、演奏を聞く限りだと、どうも片手しかない幽霊らしいよ。ああ、怖い怖い」
「馬鹿馬鹿しい。幽霊なんて、存在しない。するはずがないし、第一してもらっては困る」
「人の話は最後まで聞く! 何よりも恐ろしいのはね、幽霊の奏でるピアノの音色を聞いちゃったら最後、その人間は」
 花火はやおら、そこで声のトーンを落とした。
「ピアノが弾きたくて弾きたくて堪らなくなっちゃうんだってさ」
「……」
「どう、怖くない?」
「……、それを伝え聞いた友人にこう伝えておいてくれ。一回死んで、幽霊になってから出直してこい、ってな」
「ちぇ、えーちゃんってば、そのノリの悪さは変わってないなー」
「第一幽霊というなら、そんな馬の骨にもならない話じゃなくてベートーヴェンの」
 そこまで言いかけて、やめた。
 いや、続けられなくなった、というほうが正しい。
 花火が僕を見ている。
 懐かしい顔で僕を見つめる彼女が、僕におかしな錯覚をさせたから。
 本当は変わってないんじゃないか、今も昔も。なんて。
 なぜか、泣きそうになった。そんな情けない顔を見られるのはなんだか堪らなく嫌で、僕は再び花火に背を向ける。
「ねえ、続きは?」
「ないよ、続きなんか」
「……そっか」
 蝉の声がえらくやかましかった。たぶん、蜩だ。夏だけを生きる命の大半が、何かを終わらせる為に鳴いていた。
 昔とは違う。僕も、彼女も。
 そういうことだ。
 僕は一歩踏み出して、廊下に出た。
「ねえ!」
 そして、再び呼び止められる。まだ、何かあるのか。僕はもう振り返らなかった。振り返らずに、無言のまま足だけを止める。
「明日のお昼休み、食堂にいるから!」
 その台詞に内心少し驚いたけど、やはり僕は何も言えなかった。
「待ってるから!」
 声がフェードアウトしていく。僕が、歩を進めたからである。
 それと同時に、耳に飛び込んできたものがあった。
 聞こえるはずのないピアノの音色、だった。
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