Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 ○

 その日の午後の授業は、前の席も横の席もあまり見ることはできなくて、授業終わりのチャイムが鳴る度に逃げるように席を離れた。
 今日は高校生活始まって以来、もっとも楽しくない一日になりそうだ。
 人間はいろんなことを知って、そうやって前へ進んでいく生き物だけれど、なかには知らない方がいいことだってあるに決まっている。ただ今回のことが知らない方がよかったことなのか、それは自分ひとりじゃ判断できそうになかった。きっとこれから先の俺の行動で、その答えは変わるものなんだろう。
 一度聞いたことは簡単に忘れられることができない。人間の頭はそんなに簡単にはできてないからだ。いや、そういう機能を持っていないだけなのかもしれない。どっちにしたって、今更なかったことになんかできやしないのだから、俺は授業中、頭のなかを整理するとともに「逃げる」という選択肢を黒いマジックペンで塗りつぶして消した。
 新谷はその日、それ以上話しかけてくることはなかった。周りにはいつものように、何もなかったように振舞ってはいたけれど、俺だけはいつものように彼女を見れなかった。
 だって、あんな表情の新谷を見たのははじめてだったんだ。
 普段の彼女からまったく想像もできないけれど、あのときの新谷の表情はいまでも俺の脳裏にくっきりと焼きついている。
 前も横もリラックスして見れない俺は逃げるように窓の外に目をやる。いつのまにか外はぱらぱらと雨が降っていた。天気予報どおりの“晴れ後雨”だ。
「シバノン帰ろうぜ、さかもっちゃん今日部活だってよ」
「悪い、今日は先帰るわ」
「えっ……」
 放課後、押見の誘いを断って、あらかじめ持ってきていてた紺のレインコートを、鞄から取り出して羽織る。
 こんな天気の日に、急いで帰ったって下手に濡れるだけだが、それでも坂を駆け下りるように自転車で走った。

 ○

 新谷は鈴村にとって『銀河鉄道の夜』の物語の意味は変わってしまったとあの時言っていた。姉貴は『銀河鉄道の夜』は親友が死ぬ話だと簡単に説明した。
 それは、鈴村が物語の主人公に自分を重ねあわせたということなんだろうか。だから作品の見方が変わってしまった?
 そんなことを確かめるには自分で一度読んでみるのが一番手っ取り早い。そう思い、姉貴の部屋に勝手に忍びこみ、本棚から『銀河鉄道の夜』を取り出す。部屋にはいろんなものが散らかっていたが、一気にそれらを片付けたいという条件反射的衝動を押さえて、居間に戻る。
 勝手にはいったことは申し訳ないが、姉貴もよく俺の部屋に勝手にはいってくるから、まあ許されるだろう。本以外には別になにも持ち出していないし(ベッドの上の下着らしきものとか)。
 姉貴の持っていた本は学校の図書館に置いてあったものや、鈴村の持っていたものとは違う表紙だったが、おそらく内容は同じ『銀河鉄道の夜』だろう。
 軽くページを確認してみると、短編とは言え、それなりにページ数があって、少し不安になる。
「今日中に読み切れるか? これ」
 断片的に読んでみようとも思ったが、意味がわからなすぎてやめた。諦めて最初から読もう。
 俺は遅いスピードながらも文字を追った。不慣れながらも必死で文字を追った。


 いつのまにか眠ってしまっていたらしく、目を開けると俺を起こす姉貴の姿があった。
 服装を見る限り、いま帰ってきたところらしい。相変わらず化粧は薄いけれど。
 固い机の上で腕を枕にして寝てしまっていたためか、ものすごく腕が痺れている。動かすのさえ大変だ。ああ、変な寝方したなあ。
「シュウジ、夕飯は?」
「……ごめん、つくってない」
「なっ……」
 その時見せた姉貴の表情は、世界が滅んでしまったんじゃないだろうかと思うような絶望的な表情だった。
 夕飯もつくらず本を読み始めて、そのまま寝てしまったから、夕飯は本当になにも準備していない。
「慣れない読書なんてするから居眠りしてしまうんだよ……シュウジは黙っておいしい料理だけつくってればいいんだよ、このバカ……」
 それはどういう侮辱だよ。確かに慣れないことして疲れてしまったけどさ。本当に姉貴は一日を飯のために生きているんだなと少し申し訳ない気持ちになる。
「悪かったって、いまからつくるから」
「いまからじゃ遅いよ、その前にお姉ちゃんは死にます」
「じゃあ、台所下にU.F.O.あるから」
「オッケー!」
 ぐったりとなりかけていた姉貴が蘇生したようにパッと起き上がり、慣れた手つきでお湯を沸かし始めた。どれだけ好きなんだ、カップ焼きそばが。これでは自分の手料理に価値を感じられなくなるじゃないか。
 それにしても俺も随分と姉貴の扱いに慣れたもんだ。なにもかもこれくらい単純だったらいいのに。

 ○

 翌朝、長らく続いていた俺の約15分前登校記録がついに大きく崩れた。
 とは言っても、遅刻をしてしまったわけじゃない。なぜかその日いつもより大幅に早い、30分前に学校に着いてしまった。
 いつもより少しだけ早く家を出ただけなのに、こんなにも早く着いてしまったのは通学路にも慣れてしまったからだろうか。いまではもう多少の考え事をしながらでも道を辿れるようになった。自転車だからぼっーとするのは危ないのだけれど。
「おっ、シバノン今日は珍しく早いな」
 早く学校に着いてしまったけれど、押見や坂本の姿はすでに教室にあった。押見にこんなことを言われ方をするのはちょっぴり屈辱だ。というか、こいつら、いつもこんな時間に来ているのだろうか。
 いつもより少し早く着いても、特にやることは変わらず、いつものように三人で席を固める。
「なあ、もしも俺が死んでもさ、お前らふたりは友達のままか?」
 三人でいつものように話をしていて、少し話のネタも尽きてきた頃、ふとそんなことを聞いてみた。
 それは昨日、新谷から話を聞かされてから気になっていたことだったが、そんな事情を知るはずもない押見と坂本にとっては、ただただ不自然な質問にしか聞こえなかっただろう。
 それも、いつもはバカな話ばかりをしているのだから、こんな深刻な“もしも”の話はおかしすぎる。それでも俺は聞いてみたかった。
「なんだよ、シバノン急に。余命何ヶ月とでも申告されたのか? 昨日だって一人で帰っちゃうしさ」
「いや、そういうわけじゃないんだが、その、なんとなく気になっただけだ」
 押見にあまり深い疑いはかけられないように適当にはぐらかす。それで一応の納得はしてくれたみたいだった。
「別に俺はさかもっちゃんとは友達のままだと思うぜ」
「えー、僕はちょっと距離取るよー」
「なんでだよっ」
「だって、一緒にいたら死んだシバノンのこと思い出してしまって悲しくない?」
「バカ、逆だよ、逆。死んでしまったシバノンのこと一番話し合えるのはさかもっちゃんくらいなんだから、俺は一緒にいるね」
 ふたりの意見はまったく逆だったけれど、それでもこいつららしいな、と聞いてて思った。でもこいつらの“もしも”は、きっと俺の思っている“もしも”とは違うんだろうな。あくまで病死や、事故死の想定だ。
 やっぱりいつまでもこんな話をするのは俺たちらしくないと思い、またテキトーな話でもしようかと思っていると、一気に教室が騒がしくなった。
「なんだ?」
 まだチャイムまでは時間もあるし、特に慌てだす時間ではない。気になって周りを見てみると、後戸の方にクラスメートたちの視線が集まっていた。
 その注目の的は鈴村だった。まあ、こいつなら納得というかなんというか。
 いまさら鈴村が入ってきたくらいでべつに騒ぎ立てることはない。しかし、その日鈴村に注目がいくのには納得できるちゃんとした理由があった。
 鈴村があの長かった黒い髪を、バッサリと切っていたのだ。
 それも本当に刀で斬られたかのように後ろ髪がきれいに直線に揃っている。後ろ姿だけでは一瞬で鈴村だと判断できないほどの変わり様だった。
「しかし、まあ、あれもアリだな」
 押見がこぼすようにそう口にする。
 それにはいちおう同意はするが、なんであいつはまたあんな大胆な行動するんだろうか。

 ――彼女、きっと“ひとり”なりたいんだよ。

 新谷の言葉が一瞬思い出されたが、すぐに頭のなかで打ち消す。これでは全然逆じゃないか。鈴村の行動は注目を集めるばかりだ。
 昨日のことを思い出すと気になって、新谷の席に目をやったが、新谷はまたいつものように笑みを浮かべていた。少しでも心配した俺がアホだったのか。
 いったいなにが楽しいっていうんだ。

 ○

 次の日も、新谷とはいままでのように話すことはできなかった。
 そして今日も、空は雨模様だった。本格的に梅雨にはいったらしい。自転車通学者にとっては結構な困り物だ。
 新谷とギクシャクしてしまったのはお互いの間にいろいろな考えや思いが交錯しすぎてしまっているからだ。そのことはお互い理解しているのだけれど、解決方法がわからないから、どうしようもない。それが余計にもどかしい。
 新谷は俺に鈴村を救うヒーローになってくれと頼んできた。きっとそれにきっちりと答えれば、いっそのこと断ってしまえばいいのだろうけれど、不思議と変に俺自身が諦めきれないんだ。
 そんな複雑な思いに似たものを、俺は鈴村に対しても持っているが、それは新谷とは違って一方的なものだから、鈴村の俺に対する態度はいつもと大して変わらなかった。
 だからこそ、こいつに話しかけにくいんだ。それでも伝えない要件ができてしまった。俺たちは共通の役目を背負っているからな。
「なあ、鈴村」
 放課後。天原が鈴村になにか話しかけているところ申し訳ないが、後ろから呼び止める。
「なに?」
「今日、クラス委員会あるんだって」
「いつもと曜日が違うじゃない」
「そうなんだけど、今日は緊急かなんかで。文化祭のことでなんかあるみたいなんだ。いま連絡来てさ」
 北高の文化祭は一学期末にある。受験生に配慮した時期なのかもしれないが、俺たち1年生にしてみれば忙しいだけだ。そもそも俺はクラス委員になったとき、文化祭の仕切りまでやらされるとはまったく聞かされていなかった。
 俺はついさっき前坂から送られてきたメールの内容を鈴村に説明する。あいつ、鈴村のメアドも知ってるんだからそっちにも送ればいいのに。なんで、わざわざメールの最後に「鈴村さんにも伝えてね」なんて書いてあるだよ。
「そうなんだ」
「文化祭か、もうそんなこと考えないといけないとか大変だな」
 一緒に話を聞いていた天原が感心するようにそう言う。いまから、鈴村と帰りところだったかもしれないから、少し申し訳ない気がしないこともないが、鈴村に用事ができたということを説明する手間が省けてよかったということにしようか。
「ねえ、委員会まで、もう時間ない?」
 いつもならパパっと委員会に直行する鈴村が、はじめて開始時間を気にした。
「いや、まだ時間あると思うぞ」
 集合時間は特に聞いていなかったが、いつも遅刻だらけの委員会だから、あまり時間を気にすることもないだろう。
「そう、よかった。天原くん、少し話があるの」
 鈴村がそう言った瞬間、天原だけじゃなく周りにいたやつらまでもが反応した。もちろん俺も目の前のふたりを瞠目して見つめた。
 鈴村は天原のこと「くん」付けで呼ぶんだな。俺は苗字すら呼ばれた覚えがないけれど。
 しかし、こいつにあまり期待しても、たいていはとんでもないことになる。そんなこと、頭のなかではある程度理解できているのに、いつも忘れてしまうんだ。
「な、なんだ? 鈴村から話なんて、はじめてだな」
「私たち、別れましょう」
 やっぱり、こいつに期待したらダメだ。
 2週間ほど前に告白をしてきた相手に、鈴村はあっさりと別れを告げた。いつもの喜怒哀楽のよくわからない整然とした表情で。


 呆然としながらも納得のいかないような声をあげていた天原に、鈴村は「委員会があるから」とだけ言って、やっぱりパパっと教室を出て、視聴覚室に直行した。
 委員会まではまだ時間があるはずだったが、俺がふたりのあいだを引き止めることもできるわけなく、仕方なく俺はそのちいさな背中と短くなった後ろ髪を追いかけて視聴覚室にはいった。
「あら、今日も一組は一番ね」
 視聴覚室にはすでに、いつものように資料をそれぞれの机にならべている先輩の姿があった。なぜかいつもの俺達はクラス委員のなかで一番にこの視聴覚室に入る。それは最初のときも、鈴村がわざわざ少し時間をとって別れ話をしてきたときも、変わりはしないらしい。
 ほら、やっぱり今日だってまだまだ時間に余裕はあったって言うのに。新谷の言うとおり、元々鈴村は天原に興味がなかったのかもしれないが、あれではいくらなんでも天原が可哀想すぎるだろ。
 俺はいつのまにか顔馴染みになってしまった先輩に軽く会釈をして、鈴村と一緒にいつもの席に座る。またこいつがあの本を取り出す前にいろいろと訊いてみよう。
「髪を切ったのは、別れ話をするためだったのか?」
 なんとなくそんな話をどこかで聞いたことがある。女にとって髪っていうのは男が思っているよりも大事なもので、それをばっさりと切る時は強い覚悟を決めた時だ、と。
「髪は長くなったから切りたくなっただけ。別れを切り出したのは別れたくなっただけ」
「そ、そうか。さいきん蒸し暑いもんな」
 別に、そういうわけでもなかったわけだ。というかなにテキトーなこと言ってんだ、俺。
 それ以上は話すこともなく、机に肘でもついていると「本、読んでいい?」と鈴村が尋ねてきた。
 俺に読書の許可を求めているわけではないだろう。ただ単に本を読むからこれ以上話しかけるなってことなんだろう。
「いや、もうひとつだけ聞いていいか?」
「なによ……」
 鈴村にあからさまに嫌な顔をされる。いや、それでも昨日からひとつ聞いておきたかったことがあるんだ。
「その本、好きなのか?」
 鈴村がずっと持っている本、『銀河鉄道の夜』。そのストーリーは俺の頭のなかにまだ残っている。昨晩読んだばかりだからだ。
「この本?」
「ああ、さいきんいつも読んでるだろう。俺も読んだことあるからさ」昨日読んだのだけれど。
「別に……好きとかそういうわけじゃない」
 そう言って、言葉に詰まるように鈴村は少し目を伏せた。好きというわけではない、それでも読むのはやっぱりいまの鈴村にとって大きな意味を持っているからなんだろうか。
「カムパネルラはさいご、死んでしまうでしょ」
「ああ」
「私もね、昔、親友が死んだの」
 その瞬間、一瞬にして自分の肩に力がはいったのがわかった。思わず声をあげてしまいそうなほどの圧迫感が全身を襲う。
 まったく理解できなかった。
 どうしてこいつは、こいつらは、そんな簡単に他人に話せることができるんだ。過去の出来事と決めつけているからか? それでも、いまでもお前らはそれを背負ってるんだろ。苦しんでるんだろ。そんな軽いもんなのかよ、それって。
「だから、なんとなく思うところがあるのよ。考えさせられるというか……」
「なんでっ」
 力のはいった身体から絞り出すように声を出したためか、少し大きな声が出て鈴村の言葉を遮ってしまう。少し興奮してしまった俺を、鈴村が不思議そうにみつめていた。
「なにが?」
「なんで、そんな大事なこと、簡単に話せるんだよ、おかしいだろ」
「なんでって……」
 また鈴村は目を伏せた。同時に両手のなかにあった文庫本を、机のうえに倒すように置く。
「あなたがきいたからよ」
 そのときの鈴村の表情には、少しだけ哀しみがあったが、やっぱりこいつのことはなにもわからなかった。

       

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