Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 ○

 以前、どこかで聞いたことがある。
 うちの学校の屋上は扉が固く施錠されていて、職員室にある鍵を借りなければ扉を開けることはできないが、扉横にある窓から入ろうと思えば入れるらしい。
 しかし、俺が階段を一番上まで駆けのぼり、最後の踊り場に着いたときには、その窓は閉まっていて、鍵までかかっていた。当然窓の外からは鍵はかけられないし、扉の方だってがっちり閉まっている。
 もしかしてもう屋上にいないのか?
 しかし、窓から外の屋上をのぞき込んでみると、まだ鈴村の姿はそこにあった。それも汚い屋上の床で大の字で仰向けになって、ひなぼっこでもしているようだった。なにやってんだ、こいつは。
 ここまで来て放っておくわけにもいかず、窓を開けて屋上にはいる。窓を越えるにはそれなりの高さがあるためか、窓の下には入りやすいよう丁寧に椅子が置かれている。誰かがよく使うのだろうか、少しだけ椅子の表面ははげていて、載ると少し軋む音がした。
 とうっと華麗に窓を乗り越え屋上に着地。やっぱりそれなりに高さがあって足がしびれた。
「そんなところで寝てると汚いぞ」
 鈴村は窓を開ける音や足音で誰かが入ってくるのに気づいていたためか、俺がそんな風に声をかけても大して驚くことはなかった。少しだけ首を持ち上げて視線をこっちを向けて、俺のことを確認するとまただらんと頭を下につける。だから汚いって。
「授業はどうしたの? さぼり?」
「さぼりはお前だ。俺はいちおうトイレということで抜けてきた」
「屋上でトイレなんて、変なの」
「しねーよ」
「もしかして汚いってそういう意味だったの? いま私が寝てるところでいつも……」
「しねーよ! いままでしたこともないから! トイレっていうのは嘘だ。嘘をついて授業抜けてきたんだよ」
「なんだ、やっぱりさぼりじゃない」
「お前もな」
 俺は生まれてはじめて屋上という場所に来た。小学校も中学校も扉は施錠されていて、この学校みたいに抜け道もなかったから入る機会なんて一度もなかったからだ。よくドラマとかじゃ屋上で弁当を食べたりしてるシーンがあるが、たいていの学校は転落とかの危険性を考えて簡単にははいれないようになっているだろう。
 この学校の屋上も、四方を囲む緑のフェンスは簡単には越えられそうにもないほど高い。
 俺は鈴村みたいに汚い床に体をつけるのはごめんだったので、そのフェンスにもたれることにした。さっきの鈴村のように教室から見られないように、ちゃんと反対側のフェンスに。
 遮るものがないからだろうか、屋上は風がよく通って涼しかった。少し風が強すぎるくらいだ。
「窓の鍵閉まってたんだが、どうやってここに入ったんだ?」
「窓から入ってきたのよ」
「じゃあ、誰かに閉められでもしたのか?」
「そう」
 しばらく白い雲の浮かんだ空で見上げて、考え込む。すぐに鍵をかけたやつは思い当たったが、わざと長く考え込むふりをする。
「もしかして……天原、か?」
「そう」
 どんな感じで閉められたかはわからないが、鈴村がまだ外にいることを知らずに閉めたという事故ではないんだろうな。ひどいな話だ。いちおうとは言え彼女だった相手をひとりでこんなところに閉め出して、自分は悠然と教室に戻ってきて。
「それで平気なのかよ、お前」
「最初は二人で屋上で話してたんだけど、別れの理由を訊かれて、ちゃんと話したら先に窓から出られて閉められた」
「理由って、昨日言ってたあれか?」
「そう。別れたくなったから別れよって言った。たぶん悔しかったんだと思う、天原くん。彼、自信家だから、私にふられたっていうのが」
 たしかにその理由では漠然としていて納得がいかないのはわかる。天原もどうして別れたくなったのかを聞きたかったんだろうし。でも、だからってこんなの、男のやるようなことじゃないだろ。
 そこでようやく鈴村がむくりと起きあがった。相変わらず小さい。広い屋上の真ん中にちょこんといるから余計そう見えるのかもしれない。少し広げた太股の間に両手を置いて、行儀よく座らされた人形のようだった。突き抜ける屋上の風が、その短くなった黒髪を揺らした。
「ところで、どうしてここに来たの? よく来るの?」
「いや、ここに来るのははじめてだ」
「そう。じゃあ、あの窓の下の椅子は違う誰かが置いたものなのね」
 本当にあの便利な椅子は誰が置いたものなんだろう。あれだけ古い椅子だから、もう置いた生徒は卒業してしまってるかもしれない。それとも使わなくなった古い椅子を誰かが持ってきたのだろうか。どっちにしても、その生徒にとってこの屋上は特別な場所なのかもしれない。たしかに広くて風が心地いいが、少し寂しい場所だ。
「お前はあの椅子がないと絶対に窓を越えられないだろうな」
「う、うるさい。別にこんなところ来たくて来たわけじゃない」
 そう言う割には、気持ちよさそうに寝ていたがな。
 こいつは体のことを言うといつも怒る。コンプレックスというやつなんだろうか。それ以外の容姿は完璧だと言うのに。
「俺がここに来たのは、教室からここにいるお前が見えたからだよ」
「えっ……見えるの」
 驚くような声をあげられる。やっぱり気づいていなかったのか。
「お前、さっきフェンスの向こう側に立ってたろ」
「んっ……」
 そう、あのとき鈴村はフェンスの外側に立っていた。決して視力がいいわけではないが、それはたしかに確認できた。
 フェンスは結構な高さがあって、俺でも乗り越えるのは大変そうだったが、よく見てみると端の方に抜け穴がある。これなら鈴村が簡単に向こう側に行けたのにも納得がいく。それにしてもこの学校の屋上の管理はずさんなんだな。屋上には窓から入れるし、フェンスは意味をなしていない。
「だからここに来たの?」
「そうだ」
「授業さぼってまで?」
「そうだ」
「どうして……」
 どうしてだろうなと、一度考え込む。だいたいはとっさの行動だった。席を立ったのも、教室を抜け出したのも。
 ただあのとき、屋上に立つ鈴村を見て、俺は――

「お前が死のうとしてるのかと思った」

 俺は人が死ぬ瞬間というのを、いままで見たことがない。小学校のころ、母方のじいちゃんが脳梗塞で死んだが、それは突然のことだったし、葬式に行ったのもそれが人生でまだ一度きりだ。
 四国に住んでいたじいちゃんに会うのは年に一度あるかないかくらいで、葬式も悲しいという気持ちよりは好奇心に満たされていた覚えがある。
 だから新谷や鈴村のように近しい人間を亡くしたことはまだない。それがどれほどショックなことなのか、わからない。わからないから、目の前で起きようとしたことが怖くて仕方なくて、ここまで来てしまった。
 結果は、この箱庭で猫みたいにひなたぼっこをしているこいつがいたのだけれど。
 暢気な姿の鈴村を見ていると視線が合ってしまって、あわてて空を見上げた。さっきより少しだけ雲が山の方へ流れていた。
「命を大事にしろ、とか怒りにきたんじゃないの」
「まだフェンスの向こう側にいたらいってやろうと思ってた」
「じゃあ……もし地面に倒れてたら?」
 再び鈴村の方に目をやると、今度は鈴村がうつむいて視線をずらした。
「あのとき、死のうとしてたのは当たってる」
「なんで、そんなこと」
「死んだら、天原くんも一生後悔すると思った。私を殺したっていう罪悪感を一生背負わせてやることができるって」
「そんなしょうもないことに、命捨てようと思ったのか」
「そんなしょうもないことでも、しなければ相手に一矢を報えないことだってあるの。私にはやっぱりできなかったけど」
 それが紗季さんのことを言っているのだと、すぐにわかった。
 きっと新谷の言っていたことは当たっている。それは一番近くで鈴村のことを見てきたからわかったことなんだろう。
 鈴村はひとりになりたがった。それは自分を追い込むため。自殺しなければいけないような、孤独に。
 やっぱり、この話につながるだよな。どう話せばいいものか、面倒だなと頭を掻いてみる。結局は新谷の頼みを、俺は諦めきれないんだ。
「それは、紗季さんに対する償いのつもりか」
 予想どおりの鈴村の驚いた表情。でもそれも一瞬だけだった。すぐにどこか納得したように口の端が少しあがる。
「陽子に聞いたのね」
 陽子というのが新谷の下の名前だと気づくのにしばらく時間がかかる。たしかそんな名前だったような気がする。新谷陽子。なんとなくあいつに合った名前だ。
 そういえば新谷も鈴村のことを下の名前で呼んでいたんだっけ。本当に、それくらいの仲だったわけだ。
「あんな自己紹介したのも、ずっとぶっきらぼうな態度を取ってるのも、ぜんぶ人を寄せ付けないためだったんだろ。でも結果的には注目を集めるだけでさ、下手くそだよな、お前。俺ならもっと人に嫌われるようなことできる。第一お前はその……天性というかさ、人に嫌われないような人間なんだって、いい加減気づけよ。お前のやってることは全部無駄だ。もうあきらめてさ……」
 俺は頷く代わりに言いたいことを言ってやる。だいたいは新谷から教えてもらったことなんだけれど。俺の少ない国語力じゃうまくまとまらなかったけど、伝わるには伝わったような気がする。
 きっといまの鈴村は俺の中学三年のときよりずっと無駄なことをしている。きっとそれは三年間続けてもなんの成果もあがらないような無駄なことだ。
 しかし、俺のそんな言葉も、途中で止まってしまう。なにか思いっきりぶつけられたのだ。しかも顔面。
 鼻のあたりが猛烈に熱くなって、あわてて鼻の下を手で押さえてみたが、血は出ていなかった。ただただ痛い。
 前を向いてみると鈴村はいまにも泣きそうな表情で、でもまだ強気な表情で、俺に向かってなにかを投げましたよと言わんばかりのポーズを決めていた。
 足下にはひとつの文庫本が落ちている。そりゃこんなもの当てられたら痛いわ。
「お前は言ってたよな、自分とジョバンニは似た境遇だから共感できるって」少し鼻声になりながらも言葉を続ける。
「うるさい」
「どこがだよ、全然似てねえじゃねえか。お前は親友の死を受け入れてないしさ、紗季さんだってカムパネルラみたいに他人のために死ねたわけじゃないだろ」
「うるさいっ、だまれ!」
 もう投げるものがなくなった鈴村は立ち上がって自分の足で俺に向かってくる。そうだ、俺を黙らせたかったら自分の手足で殴るなり蹴るなりすればいい。
 目の前まで来た鈴村は潤んだ双眸で見上げて俺を睨むが、まったく威圧感がない。
「私のなにを知ってるって言うの、なにも知らないくせにわかったような口を利かないで!」
「わかるわけないだろっ!」
 大きな声で言われたので、さらに大きな声で返す。それでも目の前の鈴村は怯むことなく一心に俺を睨み続けた。
「お前がなに考えてるとか、なにがしたいとか、まったくわからない。でもな、これだけは言える」
 死者の言葉を代弁する力なんて、俺にはない。それでも――
「紗季さんが自分と同じ苦しみをお前に味わってほしいと思ってるわけないだろ。新谷だって、俺だって、みんな思ってる」
 それでも言ってやる。ジョバンニにも、ハルヒにも、ひとりにもなれない少女に。

「いい加減、お前は、お前らしく生きろよ」

 その言葉だけは大きな声でも、怒鳴るようにでもなく、優しく言い聞かせるように言った。ちいさな体の、ちいさな頭にぽんと手を置いて。柔らかい、軽い頭。
 ちょうどその時チャイムが鳴って、五時間目が終わったんだとわかる。結局教室には戻れなかったなあ、どれだけ長いうんこだよ。
 鈴村は、それ以上なにも言い返してこなかった。少し心配だったが、俺は先に屋上を出ることにする。
「窓、開けとくから早く戻ってこいよ」
「……待ってよ」
 帰ろうとする俺の背中に鈴村がそう言ったが、これ以上屋上で話すようなことはない。あまりにも弱々しいその言葉を俺は無視することにした。

「待てこらっ! シバノン!」

 無視するはずだったのに、思わず立ち止まって、振り返ってしまう。
 振り返った先の鈴村の目はまだ潤んでいて、ちいさく震えるチワワみたいだ。とても弱々しい。それでも強い口調で吠えるように。
 ――シバノンって、いまこいつが言ったのか?
 はじめて俺の名前を呼んだと思ったら、そのあだ名かよ。でも、こいつから言われるとそれはやはり他人とは違い、端的に響く。はじめてこのあだ名も悪くないかもなって思えるくらいに。
「あのな、そのあだ名あんまり気に入ってないんだが……」
「うるさい、言いたいことだけ言いやがって何様のつもり? そこまで言うんならちょっとは手伝いなさい! シバノン!」
「はああああああ!?」
 いきなりキャラが豹変しただけじゃなく、なに言ってんだ。しかもこいつ絶対わざともう一度“シバノン”って言いやがったよ。
 ちょっと待てって。次の時間は化学で移動教室なんだぞ、もう一時間さぼらすつもりですか。
「手伝うってなんだよ。たしかにさっきのは言い過ぎたかもしれん、それは謝るからさ……」
 いつのまにか鈴村はすたすたと歩き、窓から俺より先に屋上から出ようとしたが、無理だった。
 屋上の外側にはあの便利な椅子は置かれていなかったのだ。あの窓を当然鈴村の身長で越えられそうにもない。
「あの……」
「てっ、手伝いなさい!」
「手伝うって、このことかよ……」
「それだけじゃない!」
 なんでこいつはさっきからずっと怒り口調なんだよ。
 仕方なく言われたとおり鈴村の窓越えを手伝うことにした。鈴村が上履きを脱いで、俺の肩の上に乗る。上を見たら絶対にスカートのなかが見えそうだったので、ちゃんと汚い屋上の床をみつめながら。
「上履き忘れてんぞ」
 先に窓の向こうへ行った鈴村に忘れ物を渡そうとしたが、なぜか手で止められる。
 そして、鈴村はにやっと笑った。
 いつのまにか目の端の涙は拭ったようだった。さっきまで泣きそうだったくせに、おもしろい顔すんじゃねえか。釣られて俺まで笑ってしまいそうだった。
「もうちょっと手伝いなさい」
 そこで一度深く俺は溜息をついた。
 そう言えば鈴村はハルヒをほとんど知らないんだったな。お前に言ってやりたいよ、前より今の方が涼宮ハルヒっぽい感じだって。
「これ以上なにを手伝えと?」
「私が、私らしく生きるためのスタートよ」
 

       

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