Neetel Inside ニートノベル
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 バックステップを取っていればいつまでも逃げ切れると思ったら大間違いだ。差があるのなら詰めればいいだけのこと。
 相手が下がるよりも速く進めば、ボディはまだそこにある。
 業斗はその一歩を踏み込んだ。手を伸ばせば抱き締められるような距離から、横裂きのブローを打ち込む。心臓部を狙わなかったのは残った右腕が逆手に防御していたからで、頭部を見逃してやったのは首を逸らしてかわされるかもしれなかったから。だが面積の大きい胴体はそうそう容易く動かせない。
 喰らえ。
 躊躇なく打った。
 肋骨にめり込む指先に、米俵にでも手を突っ込んだような感触。指が食い込んだところから、さざ波のように魂貨が溢れる。そのまま右手を一閃。
 宙を舞う砕けた魂の欠片。
 ようやっと勢いのついたバックステップで、いづるの身体が後方へと吹っ飛んでいく。業斗は振り抜いた腕越しにその顔を見た。
 あの目だ、と思う。
 いま自分が攻撃を受けたことを本当にわかっているのだろうか? まるで塵芥が風に乗って飛んでいくのを見送るように、二の腕から千切れた左腕と、胸に刻まれた赤い金属の傷跡を見下ろしている。そして顔を上げ、水の底にいるかのような気だるい時間の中で、業斗を見てくる、
 あの目。
 責め立てるような、失望しているような、呆れ返っているような、惜しんでいるかのような、目。
 あの目が胸の中の怒りを無性にかき立てる。自分が何か間違ったことをしている気がしてきて、自分の足元をしっかりと支えてくれていたはずのいろんなものが、音もなく崩れ落ちていくような幻覚。
 そんなものがあっていいわけもない。
 撃ち砕かなくてはならない。欠片ひとつも残さずに。
 振り抜いた右腕を引き戻しながら、さらにもう一歩踏み込み、左のストレート。今度は顔面を狙う。いや、それより少し下、首のあたり。首は魂貨の重積率が高くなかなか刎ね飛ばすわけにもいかないが、負傷し残高を減らした今の門倉いづるの首なら落とせるかもしれない。落とせば終いだ、決着だ。
 これで決める。
 左貫手を放つ。
 もしいづるが右(いづるから見て左)に避けたとしても、そのまま横ブローの追い討ちへと変化させる。いや、そもそも右にかわせばブロー云々以前にどこかへ攻撃が当たるだろう。かといって左(いづるから見て右)へかわすには身体が追いついてこない。
 貫手がいづるへと迫る。刻一刻とその距離を零へ近づける。
 業斗はいづるが逃げると思っていた。回避を取ると思っていた。
 違った。
 いづるは、その場で足を捻った。くん、と左足首を内側に旋転、身体が沈みこみ、業斗の貫手はいづるの左肩をさらに短くして、流れた。
 右から来る攻撃を、右へとかわした。
 零距離。
 あっと思ったが間に合わない。
 いづるの残った右手がほとんど抱き合うような近さから業斗の胸へと打ち込まれた。どよめく観衆、呻く業斗、吐き出される呼気、
 だが、
 その掌は大して業斗の胸にめり込むこともなく、ほとんど魂貫もできずに、その身体を吹っ飛ばしただけで終わった。それはほとんどもう、いじめられっ子が最後の抵抗に相手を突き飛ばしたようなものだった。まるで力が感じられないその一打に観客は悟った。
 門倉いづるには、もうそんな魂も残ってはいないのだと。
 そして、花村業斗もそれを悟った。
 勝った。
 もはや防御する必要さえない。
 刀で言うなら、欠けたのだ。刃こぼれしたのだ。斬れなくなったのだ。もう何もできなくなったのだ。
 そして自分は、まだまだ闘える。そうとも、こんなところで愚図愚図してはいられない。自分の足元には道があり、その道は遥か遠く、まだまだ先まで続いている。こんなところで木っ葉のような小鬼ごときにてこずらされている暇はない。
 交差気味になっていた腕を引き、覆っていた視界を開く。だが、その目が獲物を見つけることはなかった。
 正面に照明があった。その光が一瞬、目を焼く。素早く瞬き、
 いづるがいない。
 咄嗟に左へ首を回す。それが仇となった。内壁まで続く距離のどこにもいづるの姿はなく、屠殺台が散らかった玩具のように点在するだけ。
 振り向く。
 いた。
 ちょうど景品を満載した吊り船の真下にいづるはいた。左腕は再生しておらず、残った右腕を腰の後ろへ回している。斜めに傾いだ身体が重力に沿って倒れこんでいかないように見えるのは業斗の時間がとっくのとうに沸騰しきっていたからだ。
 二歩で詰められる距離。
 業斗は一歩を踏み出しかける。いづるの右手が制服の裏から戻って来る。ゆっくりと。何か握っている。
 紐、紐、紐、紐、麻袋。
 ブラックジャック。
 息を呑む業斗を目がけて、待ったなしに、
 ありったけの魂を詰め込んだブラックジャックが紐の唸りと共に解き放たれた。




 仕込みブラックジャックを見た瞬間、業斗の胸に零したインクのように絶望感が広がっていった。まったく予想していなかった。あらかじめブラックジャックを用意して隠し持っていたなんて考えもしていなかった。いや、当たり前だ。考えるわけがない。業斗はここに何も準備しては来なかった。勝って当たり前、むしろ相手が可哀想、ぐらいの気持ちでやってきたのだ。門倉いづるが何を考えているのか、何を思っているのか、何をやろうとしているのか、まったく眼中に入っていなかった。さすがに思う、馬鹿だった。だが、それ以上に、この門倉いづるが特別だった。門倉は、喧嘩慣れしているわけでも、格闘技を下地に敷いた動きをしているわけでもない、だが、こいつは『守銭』を知っている。知り尽くし、もっとも効果的な戦法を取り入れてきている。おそらくは、何人か、味方の知恵も動員して。こいつの動きには洗練さがある。相手(じぶん)を殺しにかかってくる気迫がある。
 もし、これが普通の喧嘩だったら、秒殺できる。だが、守銭では無理だ。
 こいつは、守銭を知っている。
 自分が何をするべきかを知っている。
 そして、目的のためにズルをして、ただ勝ちを求め続けた自分には『ノウハウ』が、ない――
 それでも、最後の最後に、間に合った。
 門倉の投げたブラックジャックは弧を描いて業斗の左側頭部めがけて飛来して来ている。が、ギリギリで、そのガードのために左腕を辛うじて上げることができた。奇跡だった。とてももう一度やれと言われてできるとは思えない。最初で最後の超反応だった。
 これさえ防げば、勝ちだ。
 これが頭部にでも当たらない限りは、勝ちなのだ。
 これさえ、
 防げば――!!
 ブラックジャックが緩やかな軌道を描いて迫る。だが、軌道は収束するものだ。そのラインは必ず読める。ただ速すぎて気づけないだけ。しかし今の業斗になら、全身全霊を賭して突き進む今の業斗になら見える。足でも腕でも胸でもない。あのぎっしり詰まった凶器の行く末は、自分の左側頭部。他にはない。
 もう手を伸ばせばブラックジャックに触れられる、そんな間近でようやっとガードが間に合った。腕を二本交差させて左側頭部を守る。どれほど魂貨を詰めていたとしても腕二本を貫通して頭部まで破壊させられはしない。間に合った。
 これさえ凌げば自分の――
 だが、
 いつまで経っても一撃がやってこない。衝撃に備えて細めていた目を開けた。
 交差越しに紐が見える。
 紐だけが、
 自分の後頭部の方へと――
 目の端が、いづるの手の先を捉える。いづるは右手を振り切っていた。
 開かれた掌には、二重に絡みついた紐。
 もし、今手首を捻れば、絡みついた紐はほどけて、
 距離は、
 伸びる、

「!」

 間に合わない。
 凶悪な風切音が聞こえたと思った時にはもう、射程を誤魔化された紐が腕から首筋へと絡みつき弧を描いた軌道が、
 衝撃。
 右側頭部で魂貨が弾ける。
「………………」
 いづるの右手から、解けた縄がはらりと落ちる。
 掌には青い痣。瞳には空虚な光。まるで痛みでも堪えているような面構えで、ふらつく敵を見る。

 ぐらり、と。
 業斗の身体よろめいて、倒れこみ、
 踏み出した足が、
 身体を支える。
 花村業斗は倒れなかった。

       

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