猫町はシャッターの蛇腹に背中を預けて、魂を抜かれたように俯いていた。
もう外からシャッターを叩く者も、話をしようと呼びかけてくる者もない。
いづるたちは、もう何刻前だったか思い出せないが、猫町たちが立てこもる倉庫を解放することを諦めて帰ってしまっていた。
俯いて、視界を隠す髪の向こうから、気遣わしげないくつもの視線を感じる。ここにいるあやかしは女子供や老人のあやかしが多かった。一番腕っ節があるのは猫町か、黄泉ノ湯で掃除夫として勤めている垢なめだったろう。つまり大した連中ではないということだ。
大したことなくて結構だと思う。全然恥ずかしいなんて思わない。
恥じ入るべきは、勝手に始めた戦争に、勝手に巻き込もうとしてくる方だ。
「だいじょうぶ? 猫町」
背丈が猫町の半分ほどしかない猫童の少年が、セーラー服の袖をついと引いてきた。猫町は無理やり口だけで笑って、
「うん。だいじょうぶ。あんたは気にしなくていいから。ほら、向こうでみんなと遊んでおいで」
「うん……」
「だいじょうぶだから」
やっとのことで猫童を追い立てて、猫町は自嘲気味に顔を歪めた。
なにがだいじょうぶなのか、詳しく言えと突かれたら猫町はおそらく泣き出しただろう。そんなものは自分が教えて欲しかった。
あの世はもはや世紀末か黙示録の到来のごとき混迷ぶりをさらしていた。志馬による魂の独占は、まだみんな気づいていないが、力の弱い妖怪に餓死者を出し始めている。野良犬が減った程度のその変化を皆が知るのはもっと後のことだろう。だが、いずれはそれだけじゃ済まなくなる。志馬は、いつかあの世そのものを喰らい尽くしてしまうだろう。
いづるにつこう、と言うあやかしが倉庫内にもいないわけではなかった。が、猫町は徹底的にそれを拒んだ。
確かに、門倉いづるは夕原志馬と同じ博打撃ちだ。味方をすれば、志馬を倒してくれるかもしれない。それはその通り、
だが、
いづると志馬が違うものだと、誰に言える?
いづるが勝ったところで、また新しい暴君が玉座に座って気取った足を組むだけではないのか。
だったら、どちらにも与しなければいい。
ひょっとすると勝手に食い合って相打ちになってくれるかもしれないし、あの世中を巻き込む大戦争になったらいつも偉そうにどくろ亭で冷え酒をかっ喰らっている男衆がいまこそ無駄飯喰らいの汚名を返上するべきなのだ。
強いやつが、頑張ればいいじゃないか。
そこに自分たちを巻き込まないで欲しい。
猫町はその場にしゃがみこんだ。
頭の中で自分が組み立てた論理を解こうとする自分の声がする。それを止めたがって猫町は頭を抱えた。
いづると出会った時、自分は言った。
応援する、と。
その気持ちに嘘はなかった。
でも、
生命まで賭けて味方をするなんて、一言だって、言ってない。
言ってないのだ。
塩辛いあまえが目尻から垂れてくる。
それでも猫町は怖かった。
ニンゲンが、怖かった。
子供の頃、陰陽師の話を聞きに、よく大人たちの足を縫ってどくろ亭に忍び込んだ。
ヤンや飛縁魔と知り合ったのもその頃だ。二人は猫町と出会う前から、剣術道場で知り合っていたらしく、時折二人でちゃんばらを演じているのを猫町はよく見かけていた。
あの世には映画も漫画もない。だから、死人や陰陽師が語る噂や体験談だけが博打を知らない子供たちにはたったひとつの娯楽だった。
陰陽師、と言うと妖怪退治が本業のようだが、それほど妖怪を相手にしている風ではなかった。だいたいが競神で喰っていたが、武闘派はよく人間を相手にするために現世へ繰り出していた。
あやかしや死人を見ることのできる人間は生まれつき、そういう目を持って産まれる。そしてまたその中の一握りが、あやかし相手に悪事を働いた。捕まえて服従させ、使役してしまうのだ。そういった悪党を退治するのも、陰陽師の務めだった。
金井という陰陽師がいた。血筋は定かではない。野良上がりの術者だったのだろうが、陰陽連にその時手配されていた悪党の首を十個送りつけて、正式な陰陽師として登録された。古風に言うなら賞金稼ぎのようなもので、だから子供たちにはことさらに人気があった。
ざんばらな癖毛を櫛も通さず流して、若いのに無精ひげを伸ばした男だった。
もう顔のつくりも、語ってくれた物語の大半も、猫町には思い出せない。
だが、いつも最後に金井は言うのだ。
――猫っこ、向こうへ行ってみたいか。一つ目、飛の、おまえらはどうだ。ん?
その頃から怖いもの知らずで鳴らした飛縁魔は不敵に笑ってこう言った。――いつか絶対行くんだ。怖くなんてないぞ。あたしは最強だからな! なにがあるのか、見てきてやる。
その頃は、今より少し生意気だったヤンはこう言った。――俺だって怖くなんかない。先生に剣の目録をもらったら、すぐにでも行ってやる。
猫町は、どうしようか迷ったが、金井の暗い瞳を見ているうちにふいに意気が殺がれて、首を振った。
金井はいつも満足そうに笑って、ぐい飲みを煽った。
――そうだそうだ、向こうになんて無闇に渡るもんじゃない。いいかおまえら、人間はな、おっかねえぞお。
その後は大抵、金井がお決まりの嘘っぱちを酒の勢いでまくし立てて、その話はもう何千回も聞いたのだと怒った飛縁魔が殴る蹴る叫ぶ噛みつくの大立ち回りを演じるのがお決まりだった。それを横目で見ながら、猫町はいつも、金井の言葉を噛むように考えていた。
人間はおっかない。
――どう、おっかないんだろう。
今。
猫町には、金井が言った言葉の意味がよくわかる。
志馬も、いづるも、恐ろしい。何を考えているのかわからない。
ケセランパセランたちの噂で、ヤンが志馬に挑んだ、というのはその後の顛末まで猫町にも伝わってきていた。驚いたのは、ヤンが負けたことよりも、挑んだことだった。
あのヤンが志馬に仕掛けたというのなら、きっとあらん限りの策を持って挑んだのだろう。
そのヤンが、負けた。
志馬には届かなかった。
命は拾ったようだが、それだって偶然そうなっただけで、死んでいておかしくなかった。
死ぬ。
死なんて、
彼岸の――向こう側にしかないものだったはずなのに。
いつからこんな風になってしまったのだろう。
世紀末、と猫町は確かめるように呟いた。
救世主なんてどこにもいない。
生き残るのは悪鬼か羅刹か、どちらかひとり。
もう馬鹿馬鹿しいとすら思う。勝手にしろというのだ。
自分たちには、関係ない。
猫町は、倉庫に隠れ潜むあやかしたちを見た。
この子たちを死地へ追いやる権利が、どこのどいつにあるというのだろう。
金井に、
金井に聞いてみたことがある。
どうして頑張るの、と。
そうしたら彼はこともなげにこう答えた。
――困ってるやつらがいたからさ。
猫町は、自分の小さな身体を強く抱いた。
今だ。
あたしたちが困ってるのは、今なんだ。
今どうにかしなきゃいけなくて、それはきっと、誰かが代わりにやってくれるようなことじゃない。
だったら自分たちでやるしかないじゃないか。
それのどこが悪いっていうんだ。
これは、あたしの闘い。
誰も守ってくれないというなら、あたしが守ってみせる。
志馬もいづるも、関係ない。
逃げもする、隠れもする、這い蹲りもすれば命乞いだってしてみせる。
それで生き延びられるなら。
――あたしは全然、構わない。