Neetel Inside ニートノベル
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 今日はクラブに顔を見せる気分にもなれず――僕だってギャンブルしたくない日ぐらいある――ひとりで家路についた。
 僕の帰り道には一本の十字路がある。
 桜の木が街路樹として植えられていて、春になるとあまりの花びらに車がワイパーを使って通るほどだ。
 よく十字路には魔が出る、といういわれがあるが、首藤が首なしライダーになってから三ヶ月くらい、実際の死亡現場と離れているにも関わらずこの辻にあいつの幽霊が出るという都市伝説が伝染病のように流行した。
 地元の小学生があまりにも怯えるので(実際、見たという子どもが何人もいたらしい)、通学路として使用されなくなったほどだった。
 そんな噂もすっかり雪と一緒に溶けてなくなってしまったように思えるけれど、世に心配性の絶えた試しはなし、いまだに人気は少なく閑散としたままだ。
 まあ、どんな噂や迷信が蔓延しようと、べつに首藤が生き返るわけでもなし。もし本当にあいつの亡霊がいるなら、見世物にしたいところだ。
 我ながら不届きなことを考えているのにも飽き、ふと横断歩道の向こう側を見やった。
 赤信号から、青信号へと切り替わる。電子音のとおりゃんせが横断歩道に流れ出す。
 木から溢れかえった桜の花が、風に煽られて僕の顔をしたたかに打つ。子供の手にまとわりつかれているようでうっとうしいその風の向こうに、誰かがいた。
 背が高く、精悍な顔つきで、どこか子どもっぽく輝く両目。
 思わず右手を伸ばした。
 あいつは向こう岸で、にやにや笑っている、ように見えた。
 どうして……。
 そのとき、象の鳴き声を聞いた。
 とうとう頭がおかしくなったのか、と横を見ると、突っ込んできたのはインド象でもなんでもなく、青いトラック。
 運転席で、うとうとと船を漕ぐ運転手。
 あッ




 五メートル下で僕が死んでいた。
 白と黒の縞模様のど真ん中に、ひしゃげた卍のようになって倒れている。
 轢かれたときの衝撃で学校指定のローファーが両方とも見知らぬ明日に向かってぶっ飛んでいた。
 鴉色のブレザーから、じわじわと血だまりが広がっていく。アスファルトに血の気を吸われて、顔色はどんどん白くなっていく。
 もう助からないのは間違いない。
 そんな自分自身をどういうわけか僕は見下ろしているのだった。横を見ると青く点った信号機が顔のまん前にあった。複眼のようなシグナルが目に痛い。
 まだ足があるか心配になって身体を見下ろすと、腹のあたりから血が滲み出していた。手で撫でてみたが痛みはない。
 トラックが横転して、その余波で波のような桜吹雪が巻き起こっていた。
 午後の白い日差しを浴びて、花びらは気持ちよさそうにひらめいている。
 ああ、もし来世があるなら花になるのも悪くない。桜は嫌だから、あやめにでもなろうか。
 そのとき、名前を呼ばれたような気がした。振り返る。
 きょろきょろした挙句に、眼下の死体を僕よりも近い距離で見下ろしているやつがいた。
 紙島詩織だった。
「門倉――くん」
 囁き声は本当に幽かで、そこから感情の色は何一つ読み取れない。
 まさか悲しむわけはあるまい。できれば救急車でも呼んでほしいところだけれど、手遅れなのが実に残念だ。
 桜に似た薄い唇が、何か言っている。
 だがその言葉は、小さすぎて聞き取れない。
 いや。
 僕の耳が、何も聞き取らなくなっているのだ。
 視界が四隅から、白くなっていく。
 ゆっくりと鈍く、なまくらになっていく感覚。
 ああ、やっぱり死ぬのね。
 やり残したことが、何もないっていうのも、寂しいかな。
 まあそれもひとつの人生。そうそう上手くもいかないさ。
 僕が万感の思いを籠めて死を受け入れようとして――
「おい」
 鈴の鳴るような声に、邪魔された。



 赤に点った信号機をベンチ代わりにして、妙な女の子が座っていた。
 そんじょそこらの女子じゃないことは一目瞭然で、彼女は昭和を終えて二十余年を経たこの無明の時代に、武者か忍者のように古風な格好をしていた。青い衣を着て、すらりと伸びた手足を手甲、篭手、すね当てがそれぞれ守り、鉄と革でできた胸当てが胸元を覆っていた。青い衣と赤い武具をまとった姿は、動脈と静脈が絡み合ったようだ。
 腰には朱鞘の太刀を佩いている。気分次第では斬ってやってもいいんだぞ、と言いたげに左手が柄に置かれていた。
 格好こそ時代錯誤だが、その目つきは戦士のそれだ。腰の太刀で斬ってつけたかのような眼光炯々とした双眸、筆で引いたように細く整った眉、すっと通った柔らかそうな鼻筋――そんな怪少女が、信号機に足を組んで座っていた。
 一度見たら焼きついてしまって、二度と忘れられない記憶になりそうな予感がした。もったいないことに人生にセーブデータは一つしかない。どんなに消したい跡でも、リセットは効かないのだった。
 眠気はとうの昔に吹っ飛んでいた。
 地上五メートルで、ふわふわ浮いたまま、僕は少女と見つめあった。
「……なんだよ」
 眉をひそめて少女が居心地悪そうに信号機に座りなおすが、それはこっちのセリフだ。
「きみ、そんなところに座ってたら、信号が見えなくて下の人が困」
「そんなに太ってやしねぇッ!」
 ガァンと篭手に覆われた拳が僕の顎を撃ち抜いた。一発で頭ん中に火花が炸裂した。見事なアッパーカットだ。できれば受ける側ではなく見る方に回りたかったけれど。
 身体をくの字に折って顎をさすりながら苦悶に呻いていると、まだ怒り足りないのか殴り足りないのか、少女は拳をぶんぶん振っている。
「人間のくせに生意気なやつだ」
 心なしか、肩口で乱雑に切られた髪が怒気を孕んで膨らんでいるように見えた。まるで鬼だ。
「人間……って、なんだ、じゃきみは人間じゃないっていうのか」
 僕が疑問を口にすると、少女は信号機に再び腰を下ろし、少し得意気な顔をした。ドヤ顔が様になっている。これは間違いなく親に甘やかされて育ったタイプだ。
「あたしは死んだてめえら人間をあの世に連れて行ってやる心優しい妖怪だよ」
「ふうん」
 妖怪だか老害だか知らないが、心優しい人はすぐ人を殴ったりはしないはずだ。
 僕の反応が期待値に比べて鈍かったのが気に入らないのか、少女はぐっと顔を突き出して、下から鋭く見上げてきた。スカートの長いセーラー服を着せたらスケバンが絶滅から再生するだろう。彼女はぴっと手甲に覆われた手で眼下の死体を指差した。
 いつの間にか救急車がやってきて、ぐったりした僕の体は担架に乗せられている。そばには紙島が付き添っていた。どうやら彼女の手配らしい、お礼を言いたいが、あいにく死んでいる。
「てめえはトラックにドカーンされてバターンなったからそれを見てたあたしがぴゅーってやってきたわけだ」
 夕方頃に三チャンネルでやってる子ども向け番組のガキどもがこんな喋り方をしていたような気がする。
「よくわかる説明だ」
「だろ?」
「で」
 ドヤ顔を華麗にスルーして、
「僕はどうなるんだ?」
 死んだら心は消えるものと思っていたので、正直この状況にはいささか面食らっている。空中にあぐらをかいてあくびをかみ殺しながら答えを待った。
 妖怪は、びっと僕の眉間を指し示した。
「おまえら人間は最近、科学とかいうわけわからんモノを信仰するようになって忘れちまったらしいが、人間ってのはな、死ぬと魂がぽこっと出てくる。その魂は、死んでから七日間、あの世をウロウロした後、記憶と自我をなくして魂だけになる」
「魂が、魂だけになる?」
「うん」少女はうなずき、「おまえらが生まれてくる前に『だったもの』、そいつに戻る。もうその頃にゃあ何の苦しみも悩みもない。自分が誰だったのかさえわからない。永遠に記憶喪失さ。魂だけになった人間は、やがて転生してまた生き物として生まれる。気楽なもんさ」
「へえ」
「なんだおまえ」
 妖怪が不服そうに目をすがめる。
「ホントにわかってんのか?」
「わかってるよ」
「嘘つけ、ぜんぶ説明してないんだからわかるもんか」
「おおよそ把握していれば大抵はなんとかなる。これからきみにあの世に連れていってもらって、七日間経ったら僕は消える。その後のことはわからない、野となれ山となれ人となれ、ってんだろ」
「う、うん」と彼女は目を瞬かせる。たぶん、これ以上一気にまくし立てるとフリーズする。
 勢いをつけて、ブランコから飛び降りるようにして赤い少女は信号機から宙に降り立った。足場なんてなにもないのに、少女は恐れもせずに宙に足をつく。
「それだけわかってりゃあいいや。わかってなくても連れて行くしな。ま、百戦は一撃にしかずだ」
「百戦もしてればね」
「あん? なんか言ったか?」
「いいや。じゃ、いこうか。ところであの世ってここから何分くらい?」
「歩いて十分くらいだな。駅から近いぞ」
 あの世は意外と身近にあった。

       

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