Neetel Inside ニートノベル
表紙

あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
08.The Enemy

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 スタジアムの中から火澄と赤ブレザーが肩を並べて戻ってきた。二人とも手に神券を握っている。赤ブレは一枚、火澄は三枚。何か話しているようだがいづるからは場内の蜂の巣のようなざわめきが邪魔をして聞き取れない。赤ブレが肩を揺らす。笑っているらしい。火澄が怒ったように頬を膨らませて何かまくし立てている。赤ブレは何もかも承知しているとばかりにうんうん頷いている。とても初対面とは思えない。時々小突き合っている様子は、もう何年も前からの付き合いに見える。
 ――博打でほかの魂を奪い続ける幽霊と、魂の稼ぎ方がへたっぴな妖怪の女の子。
 なんだかお話の主人公とヒロインのようなハマリ具合。
 それなら、さしずめ自分はなんだ。かませ犬か。主人公の強さと魅力を観客に見せつけるためのサクリファイス。かませ犬にくっついている肩書きも、実績も、すべて後から颯爽とやってきた主人公に奪われるためだけにある。そしてそういうのが人が思い描く理想のシナリオというものだ。みんなが幸福だったら幸福なんてなんのありがたみもありはしない。誰かがどん底の不幸でくすぶっているから幸福がある。光のないところに影はできないし、影だけだったら退屈だ。
「なに難しい顔してるんですか?」
 いづるは火澄から顔を背けてそっけなく言う。
「わかるわけないじゃん、僕仮面してるのに」
「それは……」
「門倉おまえわかってねーなー火澄さんの心眼にかかればおまえが物欲しげな目でいたいけな女の子をねめつけていることなどお見通しなのだよ」
 赤ブレザーがいづるの隣に座る。火澄がその向こうに。
「おお、見ろよ。出てきたぜ」
 赤ブレザーの指差した先で、トラックの途中に設置されたハッチが開き、金属の棒で組まれた長方形の檻がせり上がってきた。檻の中では十二人の陰陽師たちが区切られた枠の中で、それぞれカラフルな狩衣を着て立っている。場内のざわめきに拍手が混じる。
 それにしても仰々しい登場の仕方もあったものだ。恥ずかしくないのだろうか。紅葉杯に出走する陰陽師たちはみな老齢で、綺麗な黒髪を残しているものはほとんどいなかったが、その皺の刻まれた顔には張り詰めた緊張とそれに馴染んだ穏やかさが浮かんでいた。
「土御門とか芦屋とかっていうのは誰?」
 火澄が身を乗り出して目を細め、
「土御門老はあの真っ白いのです。土御門家の宗家――あ、直系の子孫ってことですけど――はみんな白い狩衣を身に着けるのがならわしなんです。光明もそうだったでしょ?」
「みんなその家柄に則ったのを着てるの?」
「ええ。芦屋一族は茶色、凪原一族は黄色、みたいに。まァ基本的にはフリーダム。べつに有名な家系とかじゃなくても陰陽師にはなれるから、適当に空いてる色を呉服屋さんで見繕ってもらったりしてるみたいです」
 火澄が身振り手振りを交えて説明してくれている間に、陰陽師たちは示し合わせたように腰に吊り下げたケースから札を取り出して構えた。戦いを前にした冷たい気配が、スタジアムをほぼ横断する距離を貫いて、いづるの胸にまで届く。観客が息を呑む。火澄が神券を握り締めるくしゃっという音、赤ブレの喉がごくっ、と上下し、陰陽師たちが札を構えたまま、ゆっくりと、ゆっくりと前のめりになって、




 鐘が鳴った。
 客席の歓声が空を満たす。あまりにうるさくて音が消失した。
 初めて味わう体験が、何が起こるかわからない未知が、時間を無限に引き延ばす。
 それから後に起こったことは、とても長いようでも、まばたきするほどの一瞬の出来事だ。




 スパァン、と何もない空間に陰陽師たちが札を叩きつけた。まるでガラスに貼りついたようにパドックの中に静止した札から、原色のどろどろした色が溢れ、そこに透明な枠があるかのように満ちていく。老人たちとは思えぬ健脚さで、あるいは何かしらの呪的ないんちきで、陰陽師たちが跳ね上がってそれにまたがる。
 札があった場所を中心にして溢れた色は、十二頭の異なる色の馬の形になって、そして五通りの変化をした。
 煌々と燃える馬、スライムのような液状の馬、ねじくれた木の幹でできた馬、子供が粘土で作ったような馬、そして銀色の鋼でできた馬と、骸骨の馬。
 手綱をぎゅっと握り締める音さえ聞こえてきそう。
 陰陽師たちは馬の背に這うように身を低くして、パドックから剥き出しの土のコースを弾丸のように突っ込んでいく。だが、横一列にではない。式神に乗った陰陽師たちの列は不規則にでこぼこしている。
 先頭は、木の幹でできた馬。乗っているのは禿頭の老人。そのすぐ後ろにスライム状の馬に乗った痩せた男。あれが<青龍>芦屋銀乃介とその手下の<玄武>漆野だろう。なるほどサポートに回っている。<玄武>が<青龍>に近づけば近づくほどに、<青龍>の木でできた胴体にツタが絡みついていく。あれが五行相生の効果だろう。五行の影響を受けると馬体に変化のサインが表れるらしい。芦屋はぐんぐん速度を上げていく。後方集団から五馬身ほどの差をつけて悠々トップだ。このまま四つあるコーナーを無駄なく回ってケリをつけてしまいそうである。
 ここまでは赤ブレと火澄が予想した通りだ。しかし、この先もそうなるとは限らない。芦屋の<青龍>を漆野の<玄武>が五行相生して援護するというのなら、逆に漆野の<玄武>を衰退させる五行が仕掛ければいい。
 <水>の玄武に有効な五行はその水を汚す<土>、その式神は三柱。<勾陣>と<久遠>と<天空>だ。式打はそれぞれ七爪安江、土御門仁、心林映。
 その三柱は、後方の馬群の中に埋没していた。みな果敢に<玄武>めがけて飛び出そうとするのだが、そのたびにコースラインに割って入る式神がいた。
 芦屋の義弟、凪原鉄磨の<白虎>だった。凪原は黄色の狩衣を着ていて、小柄な、黒と白のアンバランスに混ざり合った髪をした男。その顔は無表情で、とても八百長に手を貸している最中とは思えない。
 <土>の式神たちが前へ繰り出せないのも無理はない。<白虎>の<金>は<土>を相克こそしないが、相生される関係にある。つまり、<土>の式神が近づけば近づくほど<白虎>は速度を増し、抜かれる前にその馬体をスライドさせて妨害できるのだった。その手際もぬかりなく、あたかも前をちらつく式神を追い抜こうとして追い抜けず、といった体を装って後方の三柱の進路を塞いでいる。赤ブレが「ナギーの調整力はぱねえ」と言っていただけはある。凪原は生粋のアシスト役であり、それを完膚なきほどに体現していた。
 第一コーナーを回るまでその状況が続き、もはやそのままゴールまで凍りついたままなのかと、うなだれる観客もいた。が、そこで一柱の式神が、じわり、じわりと後方集団から抜け出て、漆野の<玄武>に肉薄し始めた。
 幸崎花の<稀人>である。その属性は<上>と呼ばれる。五行相関に唯一影響を受けずに走れる式神。
 ということは、簡単な話。
 芦屋銀乃介の技術と能力を、ぶっちぎりで幸崎花が上回っていれば、なんの問題もなく、勝つのは――幸崎花の方ということ。
 幸崎花は、凪原よりももっと小柄で、雪原のような髪を赤いリボンでくくっている、どこか子供っぽさを残す陰陽師だった。もっと若い頃に出会いたかった、と思わず言いたくなるような老いた淑女。
 いまだ輝きを失わないどんぐりのような目が、ぴたりと<青龍>を駆る芦屋の禿頭を捉えている。
 第二コーナーを回る。
 <稀人>が動いた。
 ほとんど<玄武>に体当たりをするほどコーナー内側の狭い空間に突っ込み、膝が折れんばかりにその馬体が斜めに傾ぐ。追い越しにかかっている。<玄武>は<稀人>の煽りを受けてやや後退。芦屋の<青龍>からツタが剥がれ落ち、勢いがやや軽減した。
 木と骨の馬の鼻面が横一線に並んだ。観客が大きくどよめく。そのまま抜かすか――しかし、<稀人>はその線を越えなかった。どころか、少しずつ後退し始める。そうこうしているうちに<玄武>が復活してきて<青龍>に寄り添う。再び<青龍>を緑色のつややかなツタが守るように覆い尽くす。
 幸崎花は悔しそうに唇を歪ませる。これもまた、単純な話。
 同条件に持ち込んでも芦屋が彼女を上回っていた。<玄武>を抜くのに力を注ぎ込んだ幸崎花は、思ったよりも速いスタミナの限界に見舞われ、トップ争いから脱落した。それ以後、まるでしぼんでいくように勢いをなくし、トップ集団の巻き上げる土ぼこりに隠れるようにして、幸崎花は後退していった。事実上のリタイヤだ。
 だが、彼女の意地は無為にはなっていない。
 狭苦しい馬群を半ばこじ開けるようにして、幸崎花の<稀人>は道を開けていた。そしてその隙間が閉じる前に、わずかな隙を逃さずに凪原の<白虎>の前に抜け出た式神と陰陽師がいる。
 白い狩衣を着た蓬髪の老人、土御門家現党首――――土御門仁の<久遠>が、その泥でできた身体を玄武に寄せていた。<玄武>を駆る漆野がじれったそうな顔で後方を何度も振り返る。
 <玄武>の液状の身体に、土が混ざり始めていた。もっとも<久遠>が<玄武>に体当たりをかましたわけではない。
 五行相克、その影響が視覚化したものだ。じわり、じわり、とその身体を土で汚染された<玄武>がゆっくりと、何かに引っ張られたかのように走行中の流線世界から落ちていく。それと比例して、<青龍>に絡みついていたスピードシンボルのツタもまたパラパラと土の地面に砕けて零れ落ちる。
 芦屋銀乃介が、初めて後方を振り返った。
 土御門仁の薄茶色をした鋭い瞳と、芦屋の濁った漆黒の眼が交錯する。言葉なしに交わされる、老いてなお死なない闘志。


 ――勝つのは、俺だ。


 第三コーナーを回り終えた。残るは第四コーナーと最終直線。
 だが、いま、このスタジアムを埋め尽くしている観客たちの見解は一致している。
 土御門仁と芦屋銀乃介の技術と能力はほぼ互角。
 ただ、今回は割り振られた式神に難がある。
 芦屋銀乃介は<木>の<青龍>。そして土御門仁は<土>の<久遠>。
 木は土に根を張り、やがて砕くほどにもなる。五行相克。
 だが、もし、もしも、その不利不備不具を跳ね返すことできたのなら――
 それが純然たる疑いの余地なき本物の『強さ』、なのだ。



 第四コーナーの目前。順位は以前、芦屋、土御門のまま。後方では<白虎>の凪原が依然として義兄のリードに横槍が入らぬように調整している。
 しかし、その正確さ、忠義が仇となる。
 土御門仁は、その厳つい顔をほんの少しだけ和ませて、
 <久遠>の速度を一気に落とした。
 芦屋がちょうどインからコーナーに入るところだった。
 誰もがまったく予期していなかった。いったい誰が、もう少しでトップを差せるというところで速度を落としたりするだろう。そんなことにはなんの意味もない、はずだった。
 <久遠>が速度を落とし、すぐ後ろにつけた式神の騎手が驚愕に目を見開いて振り返る。
 凪原鉄磨。その式神、<白虎>の五行は<金>。
 金属は、土の中から現れる。<久遠>に近づかれた<白虎>が、その鋼色のボディを濡れたように輝かせる。
「しまっ――!」
 どんっ、と<久遠>が<白虎>の尻に体当たりをかました。そのまま、<白虎>は第四コーナーめがけて暴走気味のスピードで突っ込んでいく。後方には下がれない、<久遠>がつけている。
 凪原が前に向き直ったとき、すでに主の<青龍>は目前にいた。禿頭の芦屋がカッと目を見開き、何か言いかけた。
 遅かった。
 白虎はイン・コーナーに入ろうとしていた<青龍>に斜めからぶつかり、二柱はそのまま転倒こそしなかったものの大幅にアウトラインまですっ飛んでいった。
 そして、がら空きになったインコースに、垂涎もののゴールへと続く誰もいない第四コーナーに、
 土御門仁と、その式神である<久遠>が、
 悠々と、
 突っ込んで、
 いかなかった。
「――――っ!?」
 おかしい、土御門仁は手綱を振るって<久遠>を鼓舞する。
 なぜ速度が上がらない。なぜ――
 ハッとして振り返る。
 土御門仁は<白虎>を押しのけて<青龍>にぶつけた。我ながらいい作戦だった。これで明日は寝覚めがいい、そこまで思っていた。
 だが、<白虎>がいなくなったということは、
 それまで<白虎>が五行相克で押さえ込んでいた式神も、つかえを外されて飛び出してくるということ。
 実力的にはトップを取れる可能性はあまりない、と評価されていたし、事実トップは取れないだろう。
 それでも競神では、走っている馬すべての意味がある。
 たとえば、土御門仁に比べて格下の、家柄も悪く、才能も薄い、綿貫芯の<木>の式神、<陽炎>が最後の悪あがきで伸びてきて、五行相克の射程内に、仁の<久遠>を捉えてしまう、なんてことも――
 意味があることなのだ、すべての馬に。
 格下なんていないのだ。それを土御門仁は最後の最後で失念して、そして思い出した。
 手綱を握る手から力が抜ける。
 経てきた勝負の経験が仁に告げる。
 俺は負けた、と。

 久遠のはるか前方で、体勢を整え直した<青龍>と<白虎>がゴール目指して突っ走っていくのを、仁は遠い目で見送った。
 誰もが勝負はついたと思った。観客席ではやっぱり芦屋の鉄板だったと喜ぶ子泣きじじいもいれば、二着が漆野から凪原に変わった結果にアタマを抱える死装束の少女もいた。
 しかし喜ぶのも悲しむのもまだ早い。
 まだ何も決まっていない。
 ゴールに<青龍>が飛び込むまであと数秒。
 芦屋は禿頭を紅潮させてにんまりと微笑みながら、悠々と手綱を振るった。




 ――その横を。
 銀色の流星が駆け抜けた。

















 結果発表

 一着 <白虎>凪原鉄磨
 二着 <青龍>芦屋銀乃介
 三着 <久遠>土御門仁

 オツカレサマデシタ



 

 結果の表示された電光掲示板を、火澄がぽかんと見上げた。
「どうして……凪原は今まで一度も義兄の芦屋を裏切ったことなんかないのに……」
 赤ブレは頭のうしろで両手を組んで言った。
「意外と知られてないんだよな」
「え?」
「凪原と幸崎花のこと」
「幸崎……え? なんで幸崎花の話になるんです? 幸崎はなにもできずに後退したのに……」
「凪原は今まで一度も、幸崎花と芦屋と一緒に参加するレースに出たことがないんだよ」
「だから、なんだっていうんです? 何か裏があったとでも?」
「いんや。たぶん偶然だろう。偶然、縁がなかったんだ。いろんな意味で」
 赤ブレは組んでいた手を解いて、食いつくように前のめりになり、トラックをいまだ惰性で流している凪原に仮面を向けて、
「凪原と幸崎花は、五十年前、同じ高校に通ってたんだ。凪原が一個下の後輩だった」
「だから?」
 火澄は小首を傾げていたが、いづるには見当がついた。
「凪原は幸崎花が好きだった、とか?」
「アタリ」
「ちょ、ちょっと待ってください! それじゃなんですか、え、凪原は幸崎花の前で――『かっこつけたくて』義兄を裏切ったっていうんですか?」
「そうだよ」赤ブレはあっけないほど素直に肯定した。
「そんな……あんなに芦屋に忠実だった凪原が、どうしていまさら……」
「さァな。引退でもするつもりなんじゃねえか。そんでもって、いままで含むところがないわけじゃなかった義兄と、高校時代の届かなかった高嶺の花が同じレースに出るってなった。運命だとでも思ったんだろうよ。そして一世一代の『どんでん返し』をやってみせた。後々で芦屋と取り巻きにどんな目に遭わせられるかも考えずにな」
「そんな……信じられない……下手したら、凪原、生きてあの世から出られないですよ?」
「不思議なセリフだな、それ。でもそんなもんだろ。人間の心なんて摩訶不思議。理屈も筋も時にはあったものじゃない。だけど、それを読み解くのが俺の生業」
 そう言って、赤ブレは制服のポケットから握り拳を出して、ぱっと開いて見せた。レースの名である紅葉杯、赤ブレの本名と思しき名前、そして彼が買ったラインが印刷されていた。




 凪原鉄磨――芦屋銀乃介




 へへっと赤ブレは笑って、呆然として神券を覗き込んでいる火澄を仰いで、言った。
「さァ――清算の時間だ」
「え?」
 赤ブレが仮面を剥ぎ取り、片手で火澄を抱き寄せた。
 あっ、と火澄が何か言おうとした。
 その唇を、
 いづるの目の前で、
 赤ブレザーの唇が塞いだ。



 時が止まった。



 無くしたはずの心臓がどこか遠くで鼓動している。
 脈打つ。でも、その心臓は自分の中にはもはやない。
 やめろ。
 その手を放せ。
 声は出ない。
 ただ座って見ているだけ。
 火澄が足を滑らせて、身体が流れる。赤ブレザーは崩れ落ちかけた火澄をしっかり引き寄せて、上から唇を奪い続ける。
 火澄の赤い眼がいっぱいに開かれて、栓が抜かれたように涙が溢れ出す。白くて傷ひとつない手が赤ブレザーの胸を何度も叩く。赤ブレザーの身体がそのたびに揺れる。それだけ。
 奪い続ける。執拗に、丹念に、やさしく。
 火澄を、
 なにもできずに、
 いづるは、見ている。
 無くしたはずの神経が悲鳴を上げる。
 落としたはずの感情が擦り切れる。
 軋むほど手にした刀の鞘を握り締めて。
 それだけ。
 なにもできずに、
 いづるはただ、そこにいる。
 幽霊、みたいに。



 そのとき、眼下のトラックと鉄柵の前でキスし続ける二人のうしろで、いきなり噴水があがった。
 いづるにはそう見えただけで、実際のところそれは競神の<清算>が起こっただけだった。
 神券を買うときに魂は供託せず、いくら賭けるのかだけ受付に伝える。そして渡された神券が『トリガー』となって、レース終了後に持ち主から魂を奪うか、あるいはどこかから与えられてくる魂貨のマーカーになる。
 そんなもの、そのときのいづるには関係のないことだった。
 いづるが見たのは、吹き上がる噴水のような天に昇る無限の魂貨。
 そしてそれは、二人を祝福しているようで、
 おまえの居場所など、最初からどこにもないのだ、と言われているようで、
 悲しくなって、
 寂しくなって、
 殺したはずのいろんな気持ちが蘇ってきて、
 それでも、
 いづるは、
 なにもできない。
 自分を兄と慕ってくれた子が蹂躙されているのに、
 いま目の前でひどいことが起きているのに、
 動けない。
 誰かに言われた言葉がよぎる。
 ――おまえはぜんぶの敵なんだ。
 そう。
 そうなんだ。
 だから、僕は、敵だから、僕は、
 彼女を助けられないんじゃなく、
 彼女を助けないのかもしれない。
 そんな助けるとか助けないとか、優しい機構、最初から、僕には備わってなかった、のかも。
 そんなこと初めから知らない、のかも。
 だから言ったんだ。
 僕なんて、信じない方がいいって。
 言ったのに。
 言ったのに――――







「――っ!」
 身体ごとぶつけるようにして、火澄は赤ブレを突き飛ばした。その顔は涙とキスで、化粧がぐちゃぐちゃになっていて、もうどんな表情をしているのかさえ判然としない。ただ、その爛々と光る眼を、赤ブレザーと――そして一瞬、いづるに向けて、くるっと彼女は踵を返した。そのまま、脇目も振らずに走り去ってしまう。
 後には、男二人が残された。赤ブレザーはひとしきり唇を指先で撫でてから、仮面を被り直した。
「……あんな風にすることはなかったんだ」
 自分で自分の声の調子に驚く。
 いづるの声は、何時間も叫び続けたように枯れていた。
「彼女を傷つけてしまった」
「まるでおまえがヤッたような口ぶりだな。ん?」
 赤ブレザーはぺたん、とベンチに座り込んで、両手を支えにし、夕焼け空を見上げた。
「あの子は負けた。だから奪った。それだけのことだ。違うか」
「やりすぎだ。いったいなんの意味があって、あんな……」
 赤ブレザーは夕焼けに向けていた顔を真正面に下ろし、
「寝ぼけてんのかよ、門倉いづる」
「――――」
「しっかりしろよ。この世はすべて闘いだ。ゲームだ。遊戯だ。勝ちと負けと黒と白だ。欲しいものは奪わなければ手に入らない。永遠にだ。そうだろ?」
「でも」
「じゃあおまえはどうしろって言うんだ? 俺はキスがどんな味かも知らずに死んだんだぜ。え? そんな当たり前の幸福さえ味わわせずに俺に消えろっていうのか。火澄に、やァあの取り決めはちょっと強引だったし最初からキスなんて冗談に決まってるじゃないか何本気にしてるんだよ火澄ちゃんこんなの欧米じゃ普通のジョークだよ? ――こんな風に茶化して水に流せばよかったってか? おい門倉、おまえいったいなんのためにここにいる?」
「――――」
「消えたくないからだろうが。終わりたくないからだろうが。――ただの、それだけだろうがッ!!」
 赤ブレに胸倉を掴まれる。その手が怒りで震えているのが、わかる。
 仮面同士が触れ合いそうな距離で、
「生きるのも死ぬのも嫌なら消えちまえ。誰もおまえに消えないでくださいなんて頼んでやしねえ。誰もそんな風に頼んでくれて、おまえに『存在理由』を与えてくれやしないんだ。俺たちにそんな甘すぎる幸せはやってこなかったし、これからもやってはこないんだ。わかるだろうが、いい加減」
「知った風なことを、言うな……」
 やっとのことで、締められた喉から声が出た。
「おまえに、僕の何が……」
「わかるさ」
 赤ブレは言う。
「俺とおまえは、同類だからな」

 否定は、
 できなかった。







 ぱさっ、と赤ブレが競神通信を放ってきた。いづるが見返すと、
「次のレースが始まるぜ。買うなら早くしな」
 うつろな気持ちで、それを手に取る。右上のレースタイトルが目につく。

 泰山府君杯 第二レース

「次のは障害物走だ。現世じゃそうでもないが、こっちじゃ実は障害レースが花形なんだ。それは三回走って順位から来る総合得点を一番取ったやつが勝ち。まァそれは第三レースでの話。いまは、第二の着順だけ考えておけばいい。第一はもう終わってる」
「見知った名前がある……紙島に、みっちゃん。なんだ……ヒミコセカンド?」
「ああ、結構濃いメンバーだから面白いぜ。――賭けるか?」
 いづるは新聞を指差して、
「どうしてみっちゃんに赤バツつけたの」
「何言ってんだ。おまえが牛頭天王とやらかしたから、その余波で土御門はいま明日も知れぬ身なんだぜ。来れないさ、来たくてもな」
「そっか。そうだった」
 いづるは予想紙を畳んで、立ち上がった。
「買い目が決まった」




 いづるの目指した券売所は、赤ブレが買うところのちょうど真向かいにあった。なので買うとき、必然と二人は背中合わせになる。
 券売所はガラス張りになっていて、声通しの穴が無数に空いており、その下に長方形の口がある。そこに手を突っ込むと神券をくれるらしい。名を告げなくてもちゃんと印刷してあるのだという。便利なものだ。
「いいのかよ、その買い目は死んでるぜ」
 いづるが買おうとしているのは、光明―ヒミコセカンドのライン。他は知らない。よく見てない。
 どうでもいい。
 足元でなーおと鳴く電介を抱き上げ、
「来るさ。みっちゃんは、来る」
「好きにしろよ、もう」
 いづると赤ブレザーは同時に券売所に手を突っ込んだ。がっ、とガラスの向こうの曇った闇から老婆の手が伸びてきて、二人の手に紙切れを押し付け、また闇の中に戻っていく。
 神券を握って、いづると赤ブレは振り向きあった。そして別々の方向に歩き出した。オールインはしない。
 妖怪と死者に溢れかえった通路をいづるは進みかけ――足を止めた。
「ねえ」
「なんだよ」
 向こうも、足を止めていたらしい。
「名前」
「あ?」
 いづるは振り向いて、赤ブレザーの背中に向かって、言った。


「シマ……っていうんだ?」


 あの火澄を泣かせた神券に記されていた、赤ブレザーの本名。
 いづるはそれをしっかりと覚えていた。
「そうだよ」
 赤ブレザーが、肩越しに振り返り、
 顔に手をやり、仮面を外して、
 悪巧みを思いついた子供のような、あの笑顔で、
 答えた。









           「シマ――夕原、志馬。それが、俺の名前」

       

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