Neetel Inside ニートノベル
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 いづるが「疲れすぎて頭がじんじんするので休みたい」と言うと、キャス子はあっけらかんと「眠りたいならあたしのベッドで寝ればいいじゃない」と言ってのけた。これが蟻塚の静かなる怒りに火を点けた。
「お嬢様、それはいけません」声に余裕が無い。
「ふふふ、過ごしてみたいね、イケナイ夜。――で、何、蟻塚。文句あんの? じゃあこの門倉ボーヤはどこで休んだりどこで自主トレしたりするわけ。ケータイもないこんな世の中でどうやってあたしと連絡取るわけ」
「そんなことは知ったことではありません。お嬢様、すでに仲介料は入ったはずです。もう目的は達せられたのです。我々は死んでからも愚図愚図している馬鹿どもをこの地獄に落とし込んで、そのおこぼれを頂戴する、それだけで充分過ごしていけます」
「へえ? ――蟻塚、あんた自分のご主人さまを糞にたかるハエ扱いしてんの、わかってる?」
「――。いえ、言葉が過ぎました。お許しください」
「許すと思う? このあたしが」
「――お嬢様」
「まあ、でも、心配してくれてるのはわかるよ。おしべとめしべの話もあるしね、うん。まあ死んでるから不毛なんだけどさ、あたしだって腐ってもレディですよ、モラルぐらいわきまえてるつもり。でも門倉はたぶんオオカミだからなあ」
「……人を不当にケダモノ扱いするのはやめてくれないか?」
「――と、容疑者は申しておりますが、蟻塚先生?」
「信用できませんね、こんなドラ猫の言うことは」
「うーん、困ったなあ。蟻塚はあたしが心配、でも門倉はいくところがない。どうしようか……ん?」
 キャス子はぽん、と手を打って言った。
「ああ、なんだ、簡単じゃん。蟻塚」
「はい」
「あんたの部屋に、この子泊めたげて」




 ○




「……………………………………………………………………………………………」
「……………………………………………………………………………………………」
 気まずいことこの上ない。
 蟻塚はいづるなど存在しないかのように闘技場内回廊の入り組んだ通路の一つを優雅な足取りで行進し、そのうしろから俯いてついていくいづるはドサ(手入れ)を喰った一昔前のバクチ打ちのようだった。
 いつもは気にならない足音が、やけにうるさく聞こえた。
 いづるは悩んでいた。何か気の利いたことでも言ってやって「お、こいつなかなか話せるじゃん」みたいな空気を手に入れたい気持ちはあるのだが(それはもう喉から手が出るほどに)、気合を入れれば入れるほど何も思いつかなくなって沈黙が重たくなっていく。いっそ途中で間違ったフリをして別の小道に入りそのまま永遠にこの執事からおさらばしてしまおうか。しかし道はいまのところまっすぐで、ついうっかりで済みそうな手頃なルートが見つからない。いよいよ静寂に耐え切れず、いづるが呼吸困難に陥りかけた時、前をいく蟻塚がぼそっと言った。
「言い忘れていたが、おまえの猫は私が預かっている」
 いづるは息を吹き返した。なんだかこの執事には最初から嫌われているようだが、彼だって鬼じゃあるまいし、まだまだ挽回の機会はあるはずだ。いづるは噛まないように気をつけて丁寧に言った。
「ああ、よかった! いったいどこではぐれたのかと思ってたんだ。ありがとう、助かるよ」
 完璧だ。
 僕が女なら惚れてる。
 だが蟻塚のガードはそこらへんの壁より固かった。
「私に取り入ろうとしても無駄だ。ふん、安いセリフを吐いて油断を誘おうとしているのだろうがそうはいくか。お嬢様は変なものが好きだからおまえなんぞに興味をそそいでしまわれたが、私は違うぞ。覚えておけ」
 むしろ忘れられそうになかった。挨拶代わりの軽いジャブを放ったらカウンターが十五発くらいになって戻ってきた気分だった。いづるはくらっとよろける。ひどい言葉は足に来る。
 こいつ鬼だ。
「いいか、貴様が消えようが残ろうが私にはどうでもいいことだ。だが、目下いまのところお嬢様の興味はおまえにある。ゆえに、貴様は自分のすべてを台無しにしてでもお嬢様を喜ばせ、お嬢様を楽しませ、お嬢様を愉快にさせなければならない。それが愚民である貴様が生まれてきて虫けらのように死んだことの意義だ。わかったな?」
 最後に優しい言葉を受けたのはいつだろうと考えかけたが空しいのでやめた。もう何を言ってもカウンターが二十発くらいになって戻ってくる気がしたので、いづるはそれきり押し黙った。蟻塚もそうした。
 蟻塚の部屋は、キャス子のとは比べ物にならないくらい手狭だった。扉をあけるとそのまま六畳程度のスペースに出て、ベッドが部屋の半分を占拠し、もう半分はほとんど椅子と変わらない丸テーブルが置いてあるだけ。他にはなにもない。玄関から入ってすぐにある右のくぼみを覗き込むと洗面所とユニットバスがあった。
「本来、死人に睡眠の必要は無い」
 いづるの心中を読んだように、蟻塚がネクタイを外し、鍵をベッドにテーブルに放りながら言った。
「だが、できないわけではない。いまのおまえのように、生前の記憶が『これだけ動いたら疲れて頭痛がする』ということを思い出し、『眠りたい』という欲求に繋がっている。いわば幻覚なのだ。よってそれを無理やり意思の力でねじ伏せることは可能だが、そんなことしなくても眠ればいいだけのこと……おお、ビーちゃん」
 ベッドの上で電介が丸くなっていた。蟻塚は彼を抱き上げくんくんとその美しい黄金の毛並みに鼻をくっつけた。電介は不愉快そうににゃーにゃーと虚空に前足を伸ばして脱走を試みていたが徒労に終わった。そしてかつての相棒が呆然と突っ立っているのを見つけて、
「にゃ! ……なおう」
 気まずそうに目をそらした。いづるはぐっと拳を握り締める。
 ビーちゃん?
「人の猫を勝手に改名しないでもらおうか」
「ふん、嫉妬するな。何、おまえが以前どんな名をこの子に与えていたかは知らないが、その名がビーちゃんを超えることはない……うおっ?」
 電介がフーッ! フーッ! とアラシを吹いて、毛先から青白い静電気を放出し、蟻塚はぱっと抱いていた手を放した。電介は床にととんと着地して相棒の影に隠れた。
「ふっふっふ」いづるは電介を抱き上げて喉をさすってやった。電介は目を細め、ごろごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「どうやら僕の方が電介に好かれているようだな、ん? どうした悔しいか? なんとか言ったらどうだ、え?」
「馬鹿な……」蟻塚は顎にフックを喰らったボクサーのように床に膝をついた。
「くっ、許さんぞ門倉……お嬢様に続きビーちゃんまでも……!」
「ふふふ、文句は電介に言うんだな。ビーちゃん? なんだそれは、発売中止になったビーチボールの名前か? あ?」
「うぐぐぐぐ」
「勝負は決した……さあ出て行け。ここは彼の縄張りだ。いったい誰の許可を得てここにいる?」
「覚えてろよ……門倉いづる!」
「ああ、その気になったらいつでも勝負を受けてやろう。まあ勝つのは僕だがな」
 五秒間ほど睨みあった後、蟻塚はいづるの横を通り過ぎて玄関の扉を開けた。最後にちらっと電介を振り返る。電介はいづるの腕の中でいづるを見上げていた。思わず泣きそうになったがそれは男としてやってはならないことだった。
 バン、と音を立てて扉を閉めた。
 深々と息をつく。
 これからどこへいこうか、お嬢様は部屋に入れてくれまい、さて、
 部屋?
 蟻塚は我に返った。そして竜巻よりも早く振り返ってドアノブを握った瞬間、
 がちゃん。
 中から鍵がかけられた。
 どこからか、冷たい隙間風が人気のない通路を吹き抜けていった。

       

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