Neetel Inside 文芸新都
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「あ、来た来た」
 エニスは帰ってきたときの服装のまま行儀良くテーブルの前に座っていた。コートを脱がないのは、暖房が壊れているせいだ。彼女の前にカップを置き、その反対側──ノートPCの前に、ルイゼは腰を下ろした。なにも言わず、黙々と仕事を再開する。
「それって、いつまでに終わらせる約束なの?」
 コーヒーをすすりながら、エニスが問いかけた。
「今日の九時まで」
「夜の?」
「朝に決まってるでしょ。夜から制作会議やるわけない」
「あー、じゃあギリギリだね。もうすこしルイゼで遊ぼうかと思ったけど、しょうがない。おとなしくしてるよ」
 そう言って、エニスはマドレーヌをかじりはじめた。一口サイズだが、一個三ユーロの高級品だ。アールグレイのエッセンスとキルシュ漬けのダークチェリーを刻んだものが、生地に練り込まれている。封を切っただけで紅茶とバターの香りが広がるほどだ。
 こぼれるような笑顔でそれを食べ終えると、今度は一転して真剣な顔になり、エニスはマドレーヌの箱を見つめはじめた。しばらく思案したあとで、選ばれたのはココア味。これもまた、ビターチョコのチップがふんだんに散りばめられた逸品だ。
 それを食べている間、エニスは一言もしゃべらなかった。
 が、おとなしくしていたのはそこまでだった。ふたつめのマドレーヌを食べ終えると、彼女はマグカップを持ってルイゼの隣にやってきた。
「おとなしくしてるって言わなかった?」
「え? おとなしくしてるじゃん。ただ近くに座っただけだよ」
 と言いながら、エニスの手はルイゼの脚を撫でている。
「手がおとなしくしてないようだけれど?」
「最近、サイバネの神経接合が不調なんだよね。ノイズが入ると、勝手に動いてさあ」
「三十年ぐらい前のSF映画?」
「古すぎた? じゃあ、こうしよう。じつはこの右腕には封印されし妖怪の力が……」
「子供のころ、そんなアニメがあったわね」
 つとめて冷静に、ルイゼはキーボードを叩きつづけた。エニスの手は気になるが、払いのけるほどではない。無論、放置すればエスカレートするのはわかりきったことだ。それを期待していないと言えば嘘になる。
「それにしても、映画っていいよね」
 そんなことを言いながら、エニスはルイゼの肩に頬を押しつけた。もう、おとなしくする気はカケラもないようだ。
「あらためてそんなこと言われても、返事に困るわね」
「映画監督に向かって言うことじゃなかったか」
「インタビュアーに言っておけばいいのよ、そういうくだらないことは」
「あたしがそんなマトモなこと言いだしたら、それこそエイリアンに乗っ取られたんじゃないかって大騒ぎになるよ」
 エニスは非常にエキセントリックかつユニークな女優として知られている。すくなくとも公の場所で「映画はすばらしいものです」などとコメントしたことは一度もない。その逆は何度もあるが。
「でも、今日の映画はひどかったなあ」
「老夫婦が死ぬとかいうやつ?」
「そうそう。それまで五十年間……結婚前も含めて七十年ぐらい、とくに病気も事故もない平和な生活だったんだよ? まぁ正直に言ったら退屈なシナリオだったんだけど、それがいきなり夫婦そろって事故死だからね。あれはないよ。いったいなに考えて、あんなの作ったんだろ」
 始末できない感情をぶつけるように、エニスはルイゼの肩に頬をこすりつけた。ブランデーの匂いと香水の匂いに混じって、かすかにリンスの香りがする。
「人生は儚いとか、ありきたりのことを言おうとしただけでしょ。そんなふうに色々考えさせた時点で、監督の勝ちなのよ」
「ああ、もう。バッドエンドの映画は嫌いなんだよ、あたし。みんな知ってるくせに、なんで招待状とか送ってくるかなあ」
「ホラー映画が苦手だって言う人にホラーを見せたくなる心理じゃない?」
「悪趣味すぎるよ、それ」
「映画監督なんて、例外なく悪趣味なものでしょ」
「ルイゼも?」
「それは、あなたが判断することじゃない?」
「ルイゼの映画は悪趣味だけど、出るのは好き」
「そう」
 すこしのあいだ沈黙があった。
 エニスはルイゼの肩によりかかったまま、じょじょに体重をあずけてゆく。その重さと温度が、ルイゼには妙に心地良い。
「次は、どんなの撮るの?」
「会議の結果しだい」
「ハッピーエンドなのがいいなあ。どうせまた、あたしが主役でしょ?」
「こんな名女優をタダみたいなギャラで使えるんだから、主役にしない理由がないわね」
「あたし、どんな演技でもできるけど、死ぬのだけは苦手……」

       

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