Neetel Inside 文芸新都
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 振り向いた林田教授の顔に浮かんでいた悲しみは、ほんの一瞬の間にわずかの余韻も残さずに消えてしまった。教授はいまや悲哀など微塵も感じさせない憤怒の形相でそこに立っていた。
 私は身体をビクっと硬直させてその場で動けなくなってしまう。完全に蛇に睨まれたなんとやら状態である。
 ほんの数瞬の間に、私は自分の失言を数十回に渡って悔いた。と、とりあえず謝らないといけない、動転している頭の出した結論はそれだった。
「あ、あの……申し訳ありません! 別に研究室に不満があるとか、そういったことではないので……お気になさらないでください……!」
 私は地に頭をこすりつけるくらいの勢いで精一杯謝罪する。先ほど教授に頭を叩かれたときに椅子から落ちて床に膝をついていたので、ほとんど土下座に近い格好になってしまった。
 少しの間教授は何も言わなかった。私の視界を床だけが埋め尽くして数十秒後、ようやく教授は口を開いた。
「……さっき言ったことを、もう一度言ってみろ」
「さ、さっき……ですか。え、えーと……」
 私は教授の突然の命令に困惑する。さっき言ったこととは、教授を激昂させてしまったこのセリフのことだろう。
「『自分がなぜここにいるのか、わからない』、ですか?」
 私がそれを口にすると、教授はつかつかと私の方に近づいてきた。
 やはりこのセリフはまずかったのだろうか……私はまた叩かれると思い、目の前で足を止めた教授を見上げる形で震えていた。
 案の定教授は手にしていた丸めた教科書を高く振り上げた。その高さは私がこの研究室に配属されてからの新記録をマークするレベルだった。当然振り下ろしたときの痛みも新記録に違いない。位置エネルギーは高さに比例するのだ。
 私がそんな見当違いなことを考えていると、いよいよ教授の腕が私に向かって落ちてくるところまで来ていた。
 私は自分の頭を襲うであろう激痛に備え、目を固くつぶり全身に力を込める。
 目の前に火花が……なかなか走らなかった。
 自分の耳に響くはずだった轟音の代わりに、ぱすっ、というような間の抜けた音だけが広がった。
 恐る恐る開いた私の目にまず入ってきたのは、私の頭にあてがわれた教科書だった。それは高速で振り下ろせばなかなかの衝撃をもたらすが、今回はゆっくりと私の額に添えるような速度で振り下ろされたためになんの撃力も生まなかったようだ。
 私の視線は教科書からそれを支える手、腕、そして教授の身体に移動する。
 最後に私の目に入ってきたのは、教授の顔だった。
 その表情は先程までの厳しものと変わらないようには見えたが、食いしばった歯も、眉間に寄った皺も、先ほどとは違った印象を私に与えた。
 それは教授の目尻に涙が滲んでいたからだろう。
 思わず私はきょとんとした顔で教授を見つめてしまう。いい大人が二人して涙目で見つめ合っている姿はなかなかに滑稽だったのではないかと思う。
 私のそんな視線にようやく気がついた教授は、心持ち顔を赤くして素早く教科書を振り上げると、今度こそ私の頭に高速でそれを叩き落とす。
 今までにない痛みに私が戦慄している間に、教授はさっさと自分の席に戻ってしまった。
 そしてしばらく騒がしかった研究室に残ったのは、教授が定期的に論文のページを捲る音だけになった。
 結局のところ、なぜあそこまで教授が激昂したのか、あの涙の意味はなんだったのか。私にはわからずじまいだった。
 気まずい夕方の時間を切り上げるために、私はさっさと身支度をすると逃げるように研究室のドアに手をかける。
「……お先に失礼します」
 聞こえるか聞こえないかくらいの音量の、形だけの挨拶を教授に送る。
 返事を待たないまま私がドアを開いた瞬間だった。暗い廊下を目の前に、後ろの明るい部屋から声がかけられた。
「……待て」
 この部屋に私以外の喋れる生命体は一人しかいない。
 その生命体はさらに言葉を続ける。
「今晩は、時間はあるか?」
 これまでにかけられたことのないセリフは、私に頭に滲み込むのに少し時間を必要とした。

       

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