Neetel Inside 文芸新都
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 私は居酒屋というものが少し苦手だ。いや、お酒は大好きなのだが居酒屋が苦手なのだ。
 個室のないお店だったりすると、テーブルをいくつかくっつけた若者たちが周りもはばからずに馬鹿騒ぎしている時があったりするので、特に苦手意識がある。
 だから居酒屋に来るのはどうしても避けられない時だけということにしている。お酒が飲みたいときは自分のアパートで飲めばいいのだ。
 そんな私が今こうして居酒屋に足を踏み入れたというのは、教授のお誘いという避けようにも避けられない打診があったからである。
「……飲みに行くぞ」
 教授の誘いの言葉は通常男性が女性にするそれとはかなりかけ離れていた。林田研究室に所属してからそんな言葉を聞くのは初めてだった私は、思わず首を縦に振ってしまったというわけだ。
 手早く帰り支度を済ませた教授は「ついて来い」とだけ言って、大学の色のついた門をくぐり、最寄りの地下鉄の駅へと向かう下り坂をずんずんと歩いて行ってしまった。
 たどり着いたのは駅前の古びたビルの二階にある、チェーン店の居酒屋だった。こういった店に先陣を切って入るのはなんとなく気後れをしてしまうのだが、今日に限っては同伴者がなんの躊躇もなくドアを引いてくれたため気軽なものである。
「……二人だ。禁煙で頼む」
 私たちが店内に入って間もなく小走りで駆けつけてくれた背の低い女性の店員に向かって、教授はそのように告げた。
 教授はタバコを吸わない。見た目だけではカタギと判断しかねるようなその風貌からはちょっと意外だ。前に昼食をご一緒したときに、沈黙に耐えかねてタバコを吸わないのか聞いてみたことがある。
「昔は吸っていたが、やめた」
 そんな感じで結局大した時間稼ぎにもならなかったのだが、禁煙家というのは私が知る教授の数少ないパーソナリティの一つである。
 パーティションで区切られた二人掛けの席に案内される。席に着き目の前でおしぼりに手をかける教授を見て、ようやくこれから教授と二人きりでお酒を飲むのだと実感した。おそらく数時間は一緒にいることになるだろうが、果たしてうまく過ごせるだろうか……。
 先ほど案内してくれた店員が、お通しを持ってくるついでにドリンクの注文を取りに来る。それに対して教授はおしぼりで手を几帳面に拭きながら、顔も上げずに次のように言った。
「生一つと、あとカシスオレンジを一つ」
「あ、先生。私も生で大丈夫ですけど……」
 最初の一杯からカクテルを頼むような若者が最近多い、というのはよく聞く年寄りの愚痴である。それに迎合するわけではないが、私も最初の一杯くらいはビールを飲みたいと思う。お疲れ様、と言いながら乾杯するのだから、同じ飲み物でお互いに疲れを労いたいではないか。
 私のそんな言葉に、教授はまだ一杯も飲んでいないのに顔を少し赤くして、
「……カシスオレンジが俺のだ」
と言った。
 私は店員のお姉さんが小さく吹き出したのを見逃さなかった。あぁわかるよ。こんな風に照れられたらそりゃあ笑いたくもなるだろうさ。
「し、失礼しました! とりあえず注文は以上で大丈夫です……」
 私が慌てながらそう言うと、お姉さんも気まずかったのかそそくさと退散してしまった。その背中が厨房らしきカーテンの向こうに消えるまで、教授は腕を組んで口を真一文字にしていた。不機嫌を装っているのかも知れないが、薄暗い店内でもわかるくらいに頬が紅潮している。
「……ビールは、あまり好かんのだ。あまり酒に強い方ではないし、そもそも味がな」
 最初のドリンクが来るまでの間に教授はそんなことを言った。禁煙とは違って、教授が下戸というのは初耳である。考えてみれば私は教授とお酒の席に同席したことがあっただろうか。
 林田研究室は歓迎会すら校内のカフェで済ますような研究室である。おかげで歓迎会と言っても、私と教授が無言で紅茶をすするだけのなんとも小規模な会合になってしまった。
 会話が途切れる。なんとなく気まずい沈黙に、私は早くドリンクが来て欲しいと切に願った。とりあえずアルコールが入ってしまえば砕けた雰囲気にはなってくれるだろう。
 そうすれば、教授がこんならしくない誘いをした理由もきっと分かるに違いない。
 結果から言えば、アルコールは確かに場の空気を砕けたものにはしてくれた。到着した各自のドリンクを手に取り、教授の相変わらずのテンションでの乾杯の音頭に合わせて、私たちはお互いのジョッキをぶつけ合う。
 私はジョッキの半分くらいを、教授はそのさらに半分くらいを一口で飲んだ。
 身体を駆け巡るエタノールを感じて、私は少し熱い息を吐いて体の力を抜く。
 そんな私以上に力の抜けた声が、ふと目の前から聞こえた。
「ふぅ……酒ってうまいな。いや、本当にうまいな! おい、お前! 今日なんで俺がお前を酒に誘ったかわかるか!?」
 えぇ。いきなり本題に入っていただけて、非常に光栄です。
 そこまで下戸だったのか……。
 私は顔を押さえて、いつもより心持ち高い声で喋る教授の言葉に耳を傾けるのだった。

       

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