Neetel Inside 文芸新都
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 私は大学構内の坂道をてくてくと登っていた。先程は少女、いや、教授の奥さんの林田京子さんと一緒に登った坂道だったが、今私は一人だった。
 京子さんとは、林田助手の所属する研究室の前で別れた。夫婦の語らいに水を刺すのはあまり褒められた行いではない。バクに蹴られる前に、怪我の手当をしてもらった礼を言ってそうそうと立ち去ることにしたのだった。
 私の足取りは重かった。
 あの少女が、京子さんが、私がこの時代を訪れた理由だ。あの人が明日、8月26日にどういう目に合うのかを明らかにするために、それを止めるために、私は今ここにいる。
 だが、明日起こることがそもそも、私が京子さんと接触することで発生する事象なのではないか。そんな考えが頭を離れなかった。
『何のために生きているのかわからない』
 その言葉を聞いて、京子さんは『そんなことは考えたこともなかった』と言った。
 しかし居酒屋で聞いた教授の話が確かならば、確実に彼女は口にするのだ。
 今日、8月25日の夜。林田助手の前で。
 何のために生きているのかわからない、と。
 林田助手と京子さんとの喧嘩が、彼女の死の直接の原因かどうかは定かではない。それでも、彼らにとって何か大きな契機になっていることは間違いがなかった。
 私は京都で会った、未来から来た『私』の姿を思い出す。
 彼女は私の前になんの前触れもなく唐突に現れた。それが何を意味していたのかを、私はこの時になって初めて理解する。
 例えば、私がある日定食屋に行ったとしよう。私はラーメンを食べるかチャーハンを食べるかで非常に悩む。
 結局ラーメンを選択した私に差し出されたのは、味の薄い、麺のグダグダにゆだったとんでもない一品だったとしよう。
 食事を終えた私は『やはりチャーハンを選ぶべきだった。過去に帰ってチャーハンを選ぶように過去の私に助言しよう』と考える。それを実際に行動に移すことは可能だろうか。
 答えは、ノーなのだ。
 仮に私がそうしたとすれば、ラーメンを選んだ瞬間の私の目の前には、最初から未来から来た『私』が現れていなくてはおかしい。『ラーメンではなく、チャーハンを注文すべきだ』と助言していなくてはおかしい。
 私が誰の助言も受けずにラーメンを選択して、後悔した、というその事実は、もうすでに確定しているのだ。
 考えてみれば、これまで私に起こった事象の全ては、それと同じような法則で発生していた。
 例えがわかりにくいかも知れないので、一言で片付けよう。
 この世界には、パラレルワールドは存在しない。
 すでに確定している過去は、変えることができない。
 なぜこれまでにこの考えに至っていなかったのか、自責の念が私を苛む。これほどまでに時間遡行工学科所属という肩書きが恥ずかしくなったことはない。
 私は京子さんがなぜ死んだのかを知るために、過去に来た。そのことはいい。
 出来ればそれを止めるために、過去に来た。このことは駄目だ。
 京子さんは、明日死ぬ。
 これはすでに起こった事実なのだ。
 おぼつかない足取りで、私は歩き続ける。もうすでに、この時代にとどまるモチベーションが尽きようとしていた。
 これ以上ここにいても、無駄に事態を掻き回すだけなのではないか。
 後ろ向きな考えだけが頭の中で回る。回っては淀んでいく。
 重々しい雰囲気をまといながら、私は坂道を登りきる。そして、銀杏の木が枝を伸ばしている広場に差し掛かった時、それは起こった。
 初めは違和感。
 一瞬前まではうるさいほどだった、銀杏の木の葉ずれの音が聞こえなくなった。
 次は既視感。
 私はこんな世界を前にも体験していた。
 青々と茂る、銀杏の木の葉。後ニ三月で散ってしまうその葉が連なる木の枝。
 そのふもとに、葉の緑や木目の褐色とは明らかに違った色がぽつんと浮かんでいた。
 それは水色だ。
 水色のハット。水色のコート。
 上から下までその色で固めた紳士風の男が、そこにはいた。

       

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