Neetel Inside 文芸新都
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 一見するとただ銀杏の葉が舞っているように見えた。しかし注視すればするほど、その光景の奇妙さが際立つ。銀杏の葉は一枚たりとも微動だにせず、まるで空中に張り付いているかのように静止しているのだった。
 私はあの夏の終わりの、京都での出来事を思い出す。しんと静まり返った化粧室。水のでない洗面台。そして、全身青ずくめの男。
 その時は、自分の中で彼をなんと名付けたっけ。確かその色のイメージそのままだったはずだ。
 空色オヤジ。そこにいたのは彼だった。
 彼は帽子のつばに触れて角度を整えながら、私の方に目を向ける。
「待っていたよ」
 そう言ってからこちらへと歩いてくる。そのかすれたダミ声もドラえもんのような足音も、数カ月前に聞いたのと全く同じものだった。
「若き日の林田教授、いえ、この時は助教だったね。彼とその奥さんに会ったよね」
 空色オヤジは私に問いかける。見た目と裏腹に口調が幼いのも記憶のとおりだ。
「なんでそれを……と言うよりも、なんでこの時間にあなたがいるんですか」
「その質問の答えがわからない? 君はそんなにバカじゃないはずだ。君に時間跳躍術を教えたのは一体誰だったのか、よく考えてみるといい」
 確かに、時間跳躍術を私に授けてくれたのはこの男だ。一瞬納得しそうになるが、私が尋ねたのはホワイであって、ハウではない。
「どうやってここに来たのか、じゃなくて、どうしてここにいるのか、が聞きたいんですが」
 私は思ったことをそのまま口にする。空色オヤジは口の端を少し上げて、目を細める。わかりにくいが、おそらく笑っているのだろう。
 彼は歪んだ表情を崩さずに、そのまま私に語りかける。
「ああ、君の言うとおりだ。さすがにごまかせないね。いや、ただ君に一つ質問をしようと思って、わざわざこの時間に来たのさ」
「質問?」
「そう」
 空色オヤジは止まった時の中を、なおも私に向かって歩いてくる。空中に静止した落ち葉を器用に避けながら、気がつけばもう私に触れられるくらいの距離まで近づいていた。
 空色オヤジは一瞬立ち止まってから、ばね仕掛けの人形のように唐突に私の鼻先に人差し指を突きつける。
「優秀な君のことだ。もう気がついただろう。君がこの時間をどんなに駆けずり回って努力した所で、京子さんの命を救うことはできない」
 私はその指摘に目を白ませる。
 確かにその通りだ。先程思考してたどり着いた結論。私は京子さんを自殺の運命から救うことはできない。
「私のいた未来で京子さんが死んでいるなら、それはもう事実で、変えることはできないってことですよね」
「そういう事」
 空色オヤジは手を引っ込めると、そのままコートのポケットへと突っ込んだ。なんとなくふてぶてしい態度と、人をおちょくったような態度になんとなく腹が立ってくる。
「彼女を救うことはできない。じゃあそれで君はどうするんだ? 彼女がどうやって死んだかを観察して帰るかい?」
「それは……」
 私は京子さんを死の真相を知り、出来るなら救うためにここへ来た。だが、自分の中で、その「出来るなら」が思っていた以上に重くなっていることに気がつく。
 それはもう「出来るなら」なんて枕ことばは必要のない、私の確固たる目的になっていた。
 今日ほんの少しの時間だけ、彼女と触れ合った。
 そしてそのほんの少しの時間で感じたのだ。死なせたくないと。
 だが、彼女にどれほど忠告しようとも。最悪強硬手段に出て、彼女を監禁しようとも。
 明日彼女が死ぬのは、「事実」なのだ。
 歴史を書き換えることは、誰にもできない。そして彼女の死に顔を見るだけ見て帰る、なんてこともしたくない。
 この空色オヤジに先程出会う前に、私の心はもう決まっていたのだ。
 このまま何も見ずに帰ろうと。
「それでいいのかい」
 空色オヤジは私の心を見透かしたように言う。そのつぶやきのようなボリュームの問いかけに対して、私の返答は半ば叫びだった。
「良くないっ……」
 悔しい。私はうつむいて、ぎゅっと拳を握り締める。
 悔しい。歯を食いしばる。
「助けたいに決まってるっ……でも、無理なものは、なにやったって絶対無理だよっ」
 私の叫びは、止まった時間に吸い込まれていった。空色オヤジはそんな私をじっと見ながら、やはりにやけたような不愉快な表情をしていた。
 科学に絶対はない。なんて素晴らしい響きだろう。だがそれは、現在もしくは未来の事象に限る、という但し書きのもとでしか成立しない。
 絶対はある。過去にすでにあった「事実」。これだけは絶対に揺るがない。時々揺らぐような気がするのは、事実そのものではなくその解釈が揺らいでいるに過ぎない。
 ふと、静止した時の中で風が吹いたような気がした。
「……彼女を助けられる、としたらどうする?」
 私は一瞬、彼の言った意味がわからなかった。
 しかし数瞬でその言葉を咀嚼して、その意図を確かめる。
「たすけ、られるの?」
「京都で君が習ったものはなんだったっけ」
 空色オヤジのもったいつけた言い回しにイライラしつつも、私は記憶を巡ってその答えを探す。
 果たして、その答えは見つかった。
「『時間遡行術』……『・初級』……だ」
 私は無意識にそれを口にする。確かにそう言った。私にこの力をくれた未来の私は、たしかにそう言ったのだ。初級、と。
「何度も言うようだけど、頭のいい君のことだ。次に僕が何を言うか、もうわかったよね」
 空色オヤジはポケットに突っ込んでいた手を引きぬいて、その手に握っていたモノを私につきつける。
「時間遡行術・中級。君に教えよう」
 その手に握られていたのは、栄養ドリンクの小瓶。
 この前の京都でのものとはメーカーの違う、赤と黄色のなんとかCという名前のものだった。

       

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