予想はしていたのかも知れない。世の中にうまい話はそうそう無いということを、私はよく知っていた。
 屋上の手すりに体重をかける。上半身を乗り出して、私は真っ直ぐ下を見つめた。
 赤色。赤色だった。
 建物の屋上から見下ろしている私には、それは地面に咲いた彼岸花のように見えた。
 彼岸花の花びらの、ちょうど中央。そこにはかろうじて黄色い服を着ていたことだけがわかる、小さな身体があった。
 うずくまるそのシルエットに、私の脳が強烈な既視感を訴える。
 あれは、そうだ。あのシルエットは。私は。知っている。そうだ。
 肩より短く切りそろえられた髪。小学生と見まごうような身体。今は赤く染まってしまっている、可愛らしい顔。
 林田教授の愛した女性が、そこには横たわっていた。
 私は混乱する頭を必死に働かせる。両手はギュッと手すりを握り締める。錆びた鉄の感触が不快だったが、そうしなければ、そこから落ちて行ってしまいそうだった。
 どうして、どうして。京子さんは屋上には来なかったのに。
 私はその場にしゃがみ込む。目の焦点も全く合わないままに、私の頭の中には様々な言葉が飛び交っていた。
 ほんの数秒前に見た光景が頭の中でフラッシュバックする。彼岸花。京子さん。血溜まり。そして、同時に視界に入った、大きな銀色のモノ。
 その銀色のモノを、私はこれまでにも何度も見たことがあった。
 大学の生協の前に、よく停車していた。
 そうだ。商品の搬入トラックだ。
 その光景と、先ほど耳にしたブレーキ音。それらから導き出される答えは一つだ。
 階下がにわかに騒がしくなってくる。トラックの運転手らしき男の声が、屋上まで届くほどの音量で響いている。
 野次馬も続々と押し寄せているようだ。「早く救急車を!」なんていう声も聞こえてくる。
 その救急車の手配は、結局無駄になるだろう。私には何故か確信めいたものがあった。
 こんなことがありえるのだろうか。
 京子さんが屋上から転落死する。そんな悲劇を回避するために、私は別の世界の私を犠牲にしてまで、この世界に来たはずだ。
 しかしこうしてここにあったのは、もう一つの悲劇だった。全く同じ時間。場所は少しだけずれてはいるが。
 これが単なる偶然だと考えるほど、私は楽観的ではない。
 しかし、単なる偶然だと信じたい気持ちは、明らかに存在していた。
 たまたまこの世界では、私のもといた世界と同じ時間、似た場所で京子さんは死んだ。
 でもそれは全くの偶然で。この二つの世界以外の世界では悲劇など無い、京子さんの死なない幸せな時間が流れている。
 そう信じたかった。
 階下でひときわ大きな叫び声が上がるのがわかる。それは嗚咽を含んでいて、聞くに耐えないほど痛ましいものだった。救急車のサイレンがそれをかき消すまで、その叫びは決して止むことは無かった。
 わかってしまう。これは、林田教授の叫びだ。騒ぎを聞きつけて、現場に駆けつけたのだろう。そして、あの光景を見てしまったのだろう。
 私が避けたくて仕方なかった惨劇は、ここでもこうして起こってしまった。林田教授の叫びはそのことをこれでもかと私に見せつける。
 私はいつまでも、その場にしゃがみこんでいた。



 私の心は、いまや半分くらい壊れていた。
 諦めの悪い自分の性分を、ここまで悪く思ったことは無い。
 京子さんがトラックに轢かれ、いなくなった世界。あの世界だけでは、私は諦めがつかなかったのだ。
 どこかにはきっと幸せな世界がある。そう信じて、何度も、何度も別のパラレルワールドへと移動した。
 しかしその度に、私の希望は砕かれる。何度も何度も砕かれる。そうして今は、ちっぽけなかけらすら残っていなかった。
 およそ人間の死に様というものを、全て目撃したのではなかろうか。
 そう感じてしまうほど、すべての世界で京子さんは命を失う。あの日、あの時間に。……死因だけは様々であったが。
 私は科学者だ。科学者は事象の繰り返しから法則性を見出し、普遍の定理を発見する。
 その科学者たる私が言おう。少なくともパラレルワールドを渡り歩くことでは、京子さんを死の運命から救うことはできない。
 でくのぼうのように何も考えられない私の頭に浮かぶのは、空色オヤジの顔だった。
 私にこんな能力を授けた張本人。人なのかどうか、それすらも知らない。
 あいつさえいなければ、私は過去に戻ることなどなかった。
 教授から奥さんの事故の話を聞いた所で、ただ胸を痛めるだけだった。
 同じ傷口を何度も何度もえぐられるような、こんな思いをすることは、決して無かったっ……。
 頭ではわかっていた。空色オヤジは私に手段をくれただけだ。
 戦争で人が死ぬのは武器商人が銃を売るからではない。兵士が人を撃つからだ。
 武器商人は空色オヤジ。私は兵士。
 そんなことはわかってはいた。しかし、繰り返す悲しみは行き場を失い、いつしか空色オヤジへの憎悪へと変わっていく。
 そんな見当違いの憎悪は、却って私を苦しめる。自分の勝手さに呆れ返る。
 死ぬべきなのは京子さんではない。私だ。
 何度訪れたかわからない、理学部棟の屋上。私は空を見つめている。
 そのまま空に吸い込まれよう。それが一番いいと思った。
 手すりに手をかける。身体を乗り出す。さあ後は簡単だ。あの世界で見た彼岸花を、今度は私が咲かすのだ。
 私の身体は、宙を舞った。