身体を投げ出した私を包む、8月の蒸し暑い空気。それは私が落下するにしたがって上方へと流れていく。
私はあと数秒で死ぬ。
時間的には京子さんより早い時間になるが、心情としては後追い自殺という形になる。
私が自殺しようとしまいと、京子さんはおそらく死ぬだろう。それはこれまで渡り歩いてきたパラレルワールドで十二分に確認したことだ。
彼女には、死の運命があるのだから。
そこで、私の頭に僅かな疑問が浮かぶ。
『死んだからには、すべての並行世界での私という存在が死ぬ』それが私の定義した『死の運命』というものだ。
私がここで死ねば、私にも死の運命というものが刻まれるのだろう。
あらゆる並行世界で待ち受ける死の運命。それが私にも訪れるとして、私はどの時間で死んだことになるのだろうか。
少なくとも、京子さんが死んだこの時間に、私という存在はまだ生きている。……本来の私がいた時代の十年前なので、まだ中学生ではあるだろうが。
つまり、死の運命が刻まれるのは私にとっての「十年前」の私ではなく、林田教授とともに二人だけの研究室にいた、あの時代の私なのだろう。
まさか十年前の世界で自殺をしているなんて誰も思いもしないだろうから、私は行方不明扱いにでもなるのだろうか。
このまま死ねば、身元不明死体として歯型を取られるだろう。
そして現在中学生であるところの『私』が数年後に歯医者に訪れたなら、同じく歯型を取られるだろう。
『あなたはもう死んでいるはずだ』
そんなことを言われるのだろうか。それはさぞ不思議な体験だろう。
惜しむらくは私の歯が全くもって健康優良児であるということだ。ミステリーは発生しないで終わるに違いない。
しかしこれから死ぬであろう私にとっては、そんなことが起こるかどうかなどどうでもいい話だ。
さあ楽になろう。
不思議なほど長く感じる落下までの時間、私の頭はいわゆる「走馬灯」状態に達していた。
いろいろなことが思い起こされては消えていく。
その陳腐な紙芝居の最後の一ページ。そこに現れたのは、家族でも友人でもなく一人の壮年男性だった。
私の頭をしょっちゅう叩く、あの男だ。
『お前の口から妻と同じセリフが出て、これは、今度こそは、どうにかして止めなくてはならない、と思ったんだ』
……そうだ。私は過去に来る前、教授に相談したんだった。
『あの時俺は、激しく悔いた。後悔した。妻の気持ちを汲んでやれなかった自分をな』
何故生きているのか分からない、と……そう打ち明けたんだ。
『自ら命を絶ってしまうほどにあいつを追い詰めていたのにも関わらず、のんきに問題は解決したと思い込んでいた自分を、殴ってでもあいつを止めなかった自分を、俺は殺してやりたかった』
教授は、またそう思うのだろうか。
『こうしてお前にこのことを話したのは、お前のためじゃなく、自分自身を満足させたかっただけなのかも知れないな』
そう言って教授は、照れたように片頬だけで微笑んだのだ。
それが、私は嬉しかった。
堅物だと思っていた教授が、私に身の上を話してくれた。
自分の弱い部分を晒してまで、私を元気づけようとしてくれた。
その行為の根底にあったのが、おそらく『こいつまで妻と同じようにいなくなってしまうのではないか』という意志だったのだろう。
そうだ。
私はその意思に報いたくてここに来た。
それが今、私のやろうとしていることは何だ。
教授の心に、深い大きな傷を新しく刻もうとしている。
それはなんだ。私はそんなことだしたくてここに来たのか。
違う。……違う。
……違うっ!
私は気がつけば泣いていた。仰向けに落ちていく私の目元から、大粒の涙がまるで重力に逆らったように上昇していく。
私は心の中で静かに念じる。
『自分の細胞が点滅するような感覚を持って。少し前と、少し後を行き来して点滅しているような感覚を持って。そうしたらその点滅の感覚を広げていくような感覚を持って。あんまり過去に行くと面倒だから、一分前くらいにいくつもりで』
かつて京都で、私に時間遡行術初級を教えた、私(2)自身の言葉だ。
そう。跳ぶのは一分前で十分なのだ。
涙を拭いながら、私の全身がふわりと浮いたような感覚に覆われる。
気がつけば、私はついさっき自分が身を投げ出した屋上にいた。先ほどとは全く違った気持ちでそこに立っていた。
私は自分がここにいる理由を取り戻す。
林田教授のため。
奥さんの死の真相を知るため。
できることなら止めるため。
そのために私は、時をかけたのだ。……止める、という目的は果たせそうに無いが。
京子さんの自殺の理由を知ることが出来れば、それを何らかの形で教授に伝えることが出来るかもしれない。
自分を責め続けたあの人に、僅かな赦しを与えることが出来るかもしれない。
知りたい。……知ろう。
戻らなくてはいけない。私が元いた、あの世界へ。京子さんが自殺してしまうあの世界へ。
再び、時をかけて。