暫くの間、私は京子さんの肩に手を置いていた。まるで赤ん坊のようにしゃくりあげる彼女は、息荒く顔を赤らめている。そんな場合ではないとわかっていたが、彼女はとてもかわいらしく見えた。
数分後ようやく落ち着きを取り戻してきた彼女は、目元の涙を指でぬぐって私の目を真っ直ぐに見た。まだ目尻に涙を残したままだったが、その目線は力強く、なにか吹っ切れたように見えた。
「ようやく色々と思い出せました……。なんだかモヤモヤしてたのが、吹っ飛んじゃいました」
彼女はそう言ってにっこり笑った。なにか吹っ切れたようなその笑顔は、長い時間旅行に疲弊した私の胸のしこりすらも溶かしていくように思えた。
「なんだかごめんなさい。急に泣き出したりしちゃって……もう大丈夫です! 今日家に帰ったら久しぶりにお父さんと色々話そうと思います。今度こそ忘れないために……」
林田助手と京子さんはこの夜に口論をするはずだった。『なんのために生きているかわからなくなった』という切り出し方を考えても、口論の原因は私と空色オヤジと過去への時間旅行にあったに違いない。
しかしわからないのは、今この状態の京子さんはとても自殺などするようには思えないということだ。過去へと跳んだことで漠然とした現状への不満の原因がわかり、林田助手とのこれからの生活を前向きにとらえている。数時間後に死を考えるには、彼女の笑顔はあまりにもまぶしすぎた。
「詳しい事情はわかりませんけど……良かったですね。今の京子さんの笑顔はとても素敵だと思います」
私は今考えていたことをそのまま口にした。それを聞いて京子さんは少し恥ずかしそうに笑った。
やはりその笑顔に含むところは無さそうに思えた。
ひとごこちついた時になって、私たちは自分たちが駅のトイレにいることに今更ながら気がついた。こんなところで泣いたり語ったりしてしまったせいでトイレにいた人たちの注目を随分集めてしまっていた。きまり悪くそそくさと出ていく私達の背中には、好奇の視線がビシビシと突き刺さっていた。
私たちは駅のホームでもう一度別れた。今度こそ京子さんは帰宅するはずだ。私は例によって彼女の後をつけていく。
林田助手と京子さんの家の最寄り駅に到着する。今度は電車の中で空色オヤジが現れるようなことも無かった。
山手線の一駅。地下鉄も一路線乗り入れ、都心にほど近いにも関わらず、住宅が多く立ち並び商店街にはお年寄りや子供があふれている。華やかな場所ではないが、住みやすい落ち着いた街だ。
そんな夕暮れの街を、京子さんは一人歩いて行く。一度商店街でスーパーマーケットに立ち寄った以外は、特に寄り道もしない。生活感溢れる街に異常なほど彼女は溶け込んでいた。
そんな彼女の後ろを、気取られない程度の距離を置いてついていく影があった。
……もちろん私だ。
経験などあるはずもないので電信柱やポストの裏に隠れるといった稚拙な尾行である。京子さんの勘が鋭ければ見つかってしまったに違いないが、幸いそんなことはならなかった。彼女は後ろを振り返りもせずに自宅を目指している。
おそらく早く家に着きたくて仕方がないのだろう。遠目にも彼女が浮かれているのがわかる。林田助手と早く語り合いたいのだろう。
程なくして、京子さんは古い日本風の平屋建ての家屋の門をくぐった。若い二人の住居にしてはかなり大きいほうだと思う。てっきりアパートやマンション暮らしだと思っていただけに、少し意外だった。
幸い門は鍵のかからないタイプだった。京子さんが家に入るのを見届けて、少し時間を置いてから林田邸に侵入する。玄関ではなく家の裏手へと周り、縁側の見える庭に出た。
先ほどの料亭の時よろしく、手近な物陰に腰を下ろして身を隠す。とりあえず家の中を伺いながら、林田助手が帰宅するのを待つことにする。
京子さんは料理を始めたようだった。開け放たれた窓から包丁の小気味良い音が聞こえてくる。
夏の夜、日本家屋、料理の音。
ここに住んだことがあるわけでもないのに、妙な懐かしさに包まれる。私は自分の目的を一時的に忘れて、なんとなく落ち着いた気分になっていた。
林田助手が帰宅するまでの間、私は都会らしい明るい夜の空をぼんやりとみあげていた。
程なくして、玄関の方から引き戸を引くような音が聞こえてくる。
林田助手が帰宅したのだろう。未来の世界の林田教授の言葉が正しければ、京子さんは玄関で彼を迎えるはずである。
日本家屋の壁は思ったよりも薄かったらしい。私の耳にも彼らの言葉がわずかに聞こえてくる。
『今日……なんで生きているのかわからない……と思ったんです』
京子さんの声は明るい。だが急にそんな話を切り出された林田助手はそうではなかったようだ。明らかに取り乱したような狼狽の声が聞こえてくる。
二人の会話はそこまで険悪なものには聞こえなかった。場所を玄関から居間に移して、彼らは話し続ける。
口論というよりは京子さんの独白と言った感じだった。
今日私と話したこと、どうして結婚に踏み切ったのかわからなくなっていたこと、そしてそれを思い出せたこと。
さすがに過去に帰った、などという突拍子もない話はうまくごまかしていた。林田助手は終始言葉少なで、京子さんの言葉に真摯に耳を傾けているように思う。
……この口論が、明日の京子さんの自殺の原因なのだろうか。
私にはどうにもそうとは思えなくなっていた。もっと喧々諤々の、後味の悪い口論を想定していただけに、ホッとするような拍子抜けするような複雑な気持ちだった。
段々と更けていく夜も厭わずに、二人は対話を続けていく。同じ話を何度も繰り返しながら、自分たちの足元を見返すように、お互いの気持ちを確認しあっていく。
私は不思議と眠くはならなかった。
二人の不器用な、お互いにお互いを補完し合うような会話は、何故か私の心に染み入り続けていった。
そうして朝が訪れる。訪れてしまう。
二人の心温まる、不器用だがかけがえのない、そんな最後の会話が終わる。