Neetel Inside 文芸新都
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「今週末、京都に学会に行くぞ。準備しておけ」
 私が自分のデスクでぼーっとしているように見えないように、必死になってぼーっとしていると、背後から突然にそんな声がかかった。
 振り返った私の目に入ったのは、半分以上白くなった短髪を右手でかきあげ、左手には教科書を持った林田教授だった。まあこの部屋には私と教授の二人しかいないのだから当然ではある。
「ポスター発表と、15分のプレゼンだ。ぼちぼち大きな学会だから、恥をさらさないようなものにしろよ」
「そ、それを今週末までですか…いえ! はいわかりました! きっちり準備しておきます!」
 締め切りの近い突然の大きな仕事に私の口は不満を噴き出しそうになったが、その瞬間林田教授が表情を変えないまま教科書を丸く握り始めたので、私は焦って取り繕う。
 ちなみにポスター発表というのは、自分の研究成果を模造紙くらいのサイズの紙に印刷し、それを展示することで進捗を報告し合う発表形式のことだ。
 今日はまだ月曜日とはいえ、週末までというのは作業時間としてはあまりにも短い。
「普段からまじめに研究をしておけば、この程度の分量の発表など余裕でできるはずだ。心してかかれよ」
「はいぃ……」
 丸めた教科書を解放しながらすごむ教授に、私はいつものようにすっかり萎縮してしまった。
 しんどい仕事ではあるが仕方が無い。まともに研究をしていれば、と言っても、まともな先行研究もない時間遡行工学の研究はなかなか進まないので、教授にとってはたいしたことのない分量でも私には致死量になり得る。
 週末までは家に帰れないかもしれない。私は頭の中で研究室に置いてある替えの下着の枚数を計算する。
 はじき出された答えは、コインランドリーに行かない限り毎日シャワーを浴びることもできないというものだった。
 私は肩を落としながら、自分のコーヒーのカップに手をかけた。
 一口コーヒーを飲むと、苦くて少しぬるい、優しい味が私の喉に広がっていった。
 教授無茶な要求に押しつぶされそうになった心に、なんとなく力が戻ったような気がした。
 私はコーヒーが好きだ。といっても銘柄にこだわりがすごくあるとか、自分で豆を挽いて飲むとか、そんなレベルでは決して無いのだけど。
 研究室の端っこにある、背の高い書類棚。その棚の目線くらいの高さの段には、年期を感じさせる薄汚れたコーヒーメーカーが収まっている。
 私がおいしいコーヒーを作るべく、他の研究室で使わなくなったものをもらってきたのだ。
 それまではインスタントコーヒーしか飲まなかった林田研究室だったが、私が渡来させたそれのおかげでいまやレギュラーコーヒーの香りが染み付いてしまっていた。
「物乞いかお前は。必要なものがあればきちんと俺に言え」
 私がそれを研究室に初めて持ち込んだとき、林田教授ははじめこそ私の頭を叩いてそんなことを言ったものの、うちの研究室にお金がないのはまぎれも無い事実であるので、なし崩し的にそのコーヒーメーカーは導入されることになった。
 去年の冬のある日、私が卒業論文に追われながらコーヒーを作っていると、林田教授が突然に、すん、と鼻を鳴らした。それまではこのコーヒーメーカーで作ったコーヒーは完全に私専用だったのだが、なぜかその日私は勇気を振り絞ってみたくなった。
 なんとなく教授の横顔が寂しそうに見えたからかもしれない。
 意を決した私は、普段よりも多めにコーヒー豆を奮発し、抽出したての暖かいコーヒーを来客用の紙コップに注ぎトレーにのせた。
 そうして私はそろり、そろりと教授のデスクに背後から近づいていった。
「何か用か」
 教授のサーチ範囲は予想以上に広かったらしい。コーヒーメーカーからほとんど離れないうちに教授の方から声をかけてきた。
 私はびくっとその場に立ち止まってしまう。動かなくなりそうになる体を奮い立てて、私はなんとか口を開いた。
「あ、あのっ。コーヒー、お飲みになりませんか?」
 絞り出すようなその言葉に、教授は読んでいた論文をそっとデスクに置いて私の方をじろりと見た。
 じろりではなく、せめてちらりと見てほしい。そんなことを私が考えていると、教授が少しの間黙って、それから少し口ごもった。ようやく声が出たのは、そのさらに少し後だった。
「そ、そのコーヒーは、うまいのか」
 教授の予想外の言葉に、私は目が点になり立ち尽くした。
 そんな様子の私に、私よりもむしろ教授が焦って、さらに言葉を重ねる。
「お、俺はインスタントのコーヒーしか飲んだことが無いからな。その機械で入れたコーヒーはうまいのか、と聞いている」
 その「機械で入れたコーヒー」という言葉が何となくおかしくて、どうにか我に返った私はどうにか返答を絞り出す。
「あ、あのっ。えーと、私も詳しいわけではないのでよくはわからないのですが、少なくとも違った味がすると思います」
「そうか。それなら試してみよう」
 私の要領を得ない説明に何か言うわけでもなく、教授はトレーに乗った紙コップを手にとると、一息吹きかけて冷ましてから、おそるおそる、と言った様子ですすった。
 そんな教授の動作を、私は固唾をのんで見守ってしまっていた。
 果たしてどんな反応をしてくれるのか。そう思ったとき、教授がぼそりとつぶやいた。
「インスタントよりも、酸っぱいようだな」
「あ、はい。少し酸味の強い豆を使っていますので……」
 せっかくならもっと万人に好まれるような味のものにしておけばよかった。私がちょっと後悔していると、教授がこちらに顔を向けた。
「だが、目が覚めるかもしれん。これからはたまに淹れてくれ」
 そういった教授の頬は、寒さのせいか少し赤みが差していた。
「え、あ、は、はい! いつでもお申し付けください!」
 そういって私は挙動不審にその場を立ち去った。
 なんだかすごく疲れてたような気がしたが、教授も思ったよりは喜んでくれたように思うので勇気を振り絞ったかいがあったかもしれない。
 胸の下に抱えたトレーが、私の心臓の鼓動で周期的に震えていた。
 それからというもの、私は教授に時々コーヒーを入れて持っていった。
 感想を言ってくれることはあまり無かったが、嫌な顔もしなかったので迷惑ではないのだろう。
 国立T大学工学系研究科時間遡行工学科、林田和希研究室所属、コーヒー係。
 たいして勉強のできない私にできることは、目下のところこんなことしか無いのだった。

       

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