Neetel Inside 文芸新都
表紙

涙雨
◇04:邂逅

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 大学の構内で理衣子を見かけたのは、本当に偶然のことだった。
 まだ暑さの残る秋の日だった。イチョウの葉はまだ青く、それでも風が吹けば少し涼しい。私は講義を終えて教室の外に出て何気なく目を上げた。その時だった。
 その姿が目に飛び込んできた瞬間、理衣子だと一目でわかった。
 でも彼女は私に気がつかなかった。凍りついたように立ち尽くす私の少し先を通り過ぎて行った。男の子と肩を寄せ、手を繋ぎ、親しげに何かをひそひそと囁きあいながら。

 それから、理衣子の隣を歩いていた男の子のことを知った。同じ学年で同じ学部。そして学外に彼女がいる(理衣子のことだ)。意外なくらいに身近な人物だったことに驚いた。同じ講義を取っていることに気がついてからは、こっそりと彼の姿が目に入る席に座るようになった。その隣に理衣子が現われることを期待して。
 でも理衣子は現われなかった。どこか遠い場所から花の匂いだけが風に運ばれてくるみたいに、そこには可能性と気配だけが漂っていた。
 それから季節がひとつ移り変わり、冬が訪れる頃。
 その男の子が――浅野君が、私の前に現われた。
 たまたま数合わせで呼ばれて断り切れなかっただけの飲み会。浅野君はひどく浮かない表情をしていた。数ヶ月前に、恋人に浮気をされて失恋したのだと彼の友人から聞いた。
 でもそれは浮気なんかじゃない。川原理衣子はそもそも誰の恋人にもならない。彼女にとって、彼は「客」の一人にすぎなかったのだ。それが私にはわかっていた。
 彼女は誰かの心の潜む空虚さを探り当て、するりと入り込み、ほんの少しだけその隙間を埋めて、抜け出していく。鮮やかに、なんの未練も罪悪感もなく。それが彼女の本能だから。
 浅野君もまた、理衣子が「通り過ぎていった」一人でしかない。
 かつての私がそうだったように。
 居酒屋で騒ぐ男女の中で、浅野君は馴染めない様子で憂鬱そうに一人でビールを飲み、ぼんやりと宙を見つめていた。ずっと遠くから観察していたその姿が手の届く範囲にある。アルコールのせいか、あるいは居酒屋の熱気のせいか、現実感がひどく希薄になっていた。既視感にも似た奇妙な感覚。
 理衣子はどうして彼に近づき、寄り添い、そして捨てたのだろう?
 知りたい。そして、そこに残された理衣子の影を感じ取りたい。
 手を伸ばせば触れられそうなくらいにくっきりとした空虚さが、諦めが、そして僅かな期待が、彼の中に眠っているのが見えた。私の「客」たちと同じように。私にはそれを感じ取ることが出来る。そして、そこに入り込んでみたい、と思う。鼓動が高くなる。指先がじわじわと痺れるように震える。
 恋に似た期待。でもこれは恋愛じゃない。極めて独善的で、曖昧な興味を模した誘惑だ。でも、私には予感があった。それがきちんと目的を果たしうるはずなのだと。
 そして私は彼に近づいた。戸惑う彼の前で、微笑んでみせた。それが理衣子の微笑みに似たものになるよう強く意識して。





「……椎森?」

 驚きを含んだその小さな声は雑踏の中でもまっすぐに耳に届いた。
 その声に思わず目を向けてから、無視してしまうべきだったのだ、とすぐに悟った。
 浅野君は人波の中で立ち尽くし、まっすぐにこちらを見ていた。
 その姿から目を逸らす。隣にいた「客」が立ち止まった私に怪訝そうな表情を浮かべている。行きましょう、と小さく言って歩き出そうとすると、突然後ろから手を引かれた。
 一瞬、バランスを崩してよろめいた。浅野君はこちらに背中を向けたまま私を引きずるようにして歩いていく。手首を掴む力はとても強い。痛いくらいだ。何かを言おうとしても、うまく声が出ない。「客」の男が呆気に取られたようにこちらを見ていたけれど、追いかけては来なかった。トラブルに巻き込まれたくないのだろう。やがてその姿も人波に紛れて見えなくなる。
 随分歩いてから、ようやく私は小さく言った。
「離して」
 そう呼びかけても、浅野君は振り返りもしない。
「離して!」
 強く言って腕を引く。振りほどくことは出来なかったけれど、彼は立ち止まり、しばらく迷ってからそっと手を離した。自分がずっとその手を握っていたことに今更ながら気がついたかのような様子で。
「椎森」
 浅野君が何かを確かめるように私を呼ぶ。
 それを無視して、私は口を開く。
「どうして、こんなことをしたの?」
 浅野君はそれに取り合わず、更に問う。
「これは一体どういうことなんだ?」
「あなたが何もしなければ、私は……」
 それから先の言葉は、溶けて消えてしまう。
―― 見つけられてしまった。
 彼にだけは見られたくなかった。理衣子のような格好、理衣子のような振る舞い、理衣子に似せた仮の名前。この間の喫茶店でのこともある。何かに、気がついてしまうはずだ。
「椎森」
 再び名前を呼ばれた。
「これは、どういうことなんだ?」
 彼が質問を重ねる。今まで聞いたことのないくらい強い口調で。
 適当な言い逃れが許されるような空気ではなかった。彼は何かに感づいている。小さな違和感の積み重ねを嗅ぎ当て、真相を知りたがっている。
 でももうそれでいいのかもしれない、と思った。
 何もかも全部を相手の眼前につきつけて、思い切り傷つけてしまいたい。そんな残酷な気分が、ゆっくりと意識に滲んでいく。
「……私は、その質問に答えなくちゃいけない?」
 自分でも驚くほど冷たい声が出た。浅野君が少し怯むように息を呑む。それでも、彼はなお言葉を続ける。
「僕に訊く資格なんかないのかもしれない。でも知りたいんだ」
「一体なにを?」
「僕は君にとってどういう存在なのか、ってことを」
「どうして?」
「どうして、って……それは」
 私は質問を重ねる。彼はその度にたじろぐ。
 これがひどく意地の悪いやり方であることは分かっていた。でも止められない。彼の方が引けばいい。知りたがる必要なんかないのだ。そうすれば傷つかなくて済む。嘘に気がつかなければ、ずっとそのままでいられるのだから。
「それは、私の方こそ訊いてみたい。私はあなたの何なの?」
 浅野君が一瞬言葉に詰まる。そして彼が口を開こうとするのを阻むように、私は言い放った。
「あなたが見ているのは、理衣子でしょう?」
 理衣子。
 その名前に、彼は目を見開いた。そして言葉を失ったように瞬きを繰り返す。
「答えられない? そうよね。でも私は最初から知ってた。あなたが理衣子の『客』だったことも、全部わかっていて近づいた。あなたを通して理衣子に近づくために」
 自嘲の響きが混じる声は微かに震えている。その震えに、浅野君が気づかないように願った。動揺していると思われたくない。
「あなたが私を知るずっと前から、私はあなたを知ってたの。理衣子の隣に居た存在として。彼女がどういう理由であなたに興味を持ったのかを知りたかった。そして私が理衣子のように振舞えば振舞うほど、あなたは近づいてきた」
 人々がすぐ隣を通り過ぎていく。その匿名的な存在の群れが現実味を削り、失わせていく。言葉はひとりでにエスカレートする。止まらない。
「私がいったい何をしているのか? 知りたいのなら教えてあげる。理衣子と同じことよ。それでもうわかるでしょう?」
 浅野君は俯いたまま黙って私の言葉を聴いている。視線は合わない。
「私がずっと見ていたのは、あなたじゃなくて理衣子よ。でもそれはあなただって同じ」 

 そう。私が見ていたのは理衣子だけだ。浅野君じゃない。彼の向こう側にいる理衣子に近づくために、彼の興味を惹くように、理衣子のように振る舞い、近づいた。
 そして理衣子は突然現われた。けれどあの喫茶店で、彼女は私のことを知らない相手のように扱った。まるで、理衣子を追い続けてきた私の全てを否定するかのように。

 長い沈黙が続いた。張り詰めた空気が限界に達しそうだった。頭がくらくらする。光がまぶしい。息苦しくてもうこれ以上立っていられない、と思った頃に、それは破られる。
「つまり、僕も『客』なのか」
 浅野君は呆然とした様子で、小さく呟いた。
「さっきの男と同じように?」
 私は感情をこめず、ただ短く頷く。
「どうしてだ?」
 苦々しい表情で彼は問う。
「椎森にとって、理衣子はどういう存在なんだ?」
 当然の質問。
 答えは決まっていた。
「それに答えるつもりはないわ」
 はっきりとした拒絶。
 これで全部だ。全て手の内を明かしてしまった。
 もう終わりなのだ、と思った。それでいい。
 私はゆっくりと歩いて、浅野君の隣を通り過ぎる。すれ違う瞬間に彼が呟いた。
「……最低だ」
 その小さな声に聴こえない振りをして、私は足を止めずに歩き続けた。感覚を麻痺させて、一切の感情を封じ込めたまま。

     



 何か短い夢を見ていた。
 目を覚ました時には、部屋はすっかり薄暗くなっていた。
 夕暮れの僅かな明かりの中で、あらゆるものの輪郭が曖昧に溶け込んでいる。意識がうまくまとまらない。身体も重く、手足がうまく動かない。しばらくの間瞬きを繰り返して天井を眺めていた。時間が緩慢に流れているのか、あるいは急速に過ぎ去っているのか、感覚が落ち着かない。脳の隙間にバターを塗りこまれたような不明瞭な感覚を抱えたまま、覚醒までの時間をやり過ごす。
 夢のことを考える。でもうまく思い出せない。心地よい夢だったのかそれとも悪夢だったのか、それさえもわからない。けれど夢の気配はしっかり残っている。意識の底にこびりついて剥がれないまま。それは拾い上げられるのを待っているのに、私はきっと二度と思い出せないのだ。
 そっとため息をつく。呼吸を繰り返しているうちに、ゆっくりと身体の痺れが薄らいでいき、少しずつ意識のもやが晴れていく。
 ふと脇を見ると、文庫本が伏せてあった。本を読んでいる途中に寝てしまったのだ。
 あの浅野君との会話から、私は部屋にこもって本ばかりを読んでいた。ほとんど学校にも行っていない。試験期間になり、最低限必要なだけは学校に向かっていたけれど、用が済めばまっすぐに家に帰る。このまま春休みになってしまえばいい。そうすれば、彼と顔を合わせないで済む。少なくともしばらくは。
 無意味な逃避。
 私はもう一度シーツに頬を埋める。
 手を伸ばして、伏せたままの文庫本をベッドサイドの本の山の上に重ねた。積み上げられた本の中に浅野君から借りたままになっている本が混ざっている。どれも薄い本で、男性作家と女性作家が半々。きっと考えて選んでくれたのだろう。でもこれも、もう返すあてがない。
 もう浅野君と会う必要はないし、きっと向こうだって会いたくないだろう。
 それでいい。私は理衣子に近づきたかった。だから浅野君に近づいた。理衣子らしい言葉や態度、そういうもので彼の気を引いた。それだけだ。理衣子と再会して、それが何の意味もなさなかった今となっては、もう必要ない。
――でもあの時、彼は言った。

「椎森さんはすごいよ」
「どうして?」
「自分を持ってるから」
 
 浅野君は私の中に、どんな「私」を見つけたというのだろう?
 私なんてどこにも居ない。彼が見ていたのは、「理衣子を装った私」に過ぎない。彼の目に都合のいい像を結ぶ私の姿に興味を示しているだけ。彼が本当に求めているのは理衣子だ。だから本物の理衣子が現われたのなら、私はもう必要ない。
 薄暗さの中に溶け込もうとするみたいに、目を閉じる。
 意識がするすると滑り落ちていく。私の内側からこぼれ出してしまう。穴が開いているのだ。塞ぐことのできない暗い穴。
 誰でもいいから、それをふさいでくれればいいのに。
 まるで真っ暗な森の中にいるみたいだ。全てが闇の中に溶け込んでいて、境界線をうまく見分けられない。光も音も闇に吸われてしまう。冷たい雨が降っている、でも雨音さえ聴こえない。何が正しく何が間違っているのか、聴き分けることが出来ない。
 きっと随分昔から、私はそこに居たのだ。そこで一人きりであることにも気がつかないまま。
「さびしい」
 気がつくと、そう呟いていた。それは薄暗がりの空間に少しだけ漂って、そして吸われて消えていく。泣く気はしなかった。それほど独善的にはなれない。
 私が「自分を持っている」なんて、そんなの彼の錯覚だ。
 きっと「椎森沙紀」なんてどこにも存在しない。ここにいるのは、理衣子の拙い模倣をしている影のような存在だ。あの日私が潜り抜けてきた鮮やかな記憶の残像として、うつろい彷徨っているだけの。
 
 目を閉じる。するといつでも残像がまぶたに浮かぶ。変わらない光景。光る雨。十五歳の私。そして、十五歳の理衣子。

       

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Neetsha