Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 家に着いて、途中で寄ったスーパーで買った食材をトートバックから取り出して冷蔵庫に入れていると携帯が震えた。久しぶりに携帯電話としての機能を果たした機械を開くと立花君からメールが来ていた。内容はどうでもいい話で、初めてメールしたとか、今何してるとか、返すのも面倒くさいものだった。律儀に返す気も起きなかったので、携帯を放り出して、夕食の準備をする。
 今日は夏野菜のパスタだ。パスタは簡単だけれど、いつ帰ってくるかわからないお母さんに合わせてソースだけ作っておく。夕食の準備を終えて、煙草を吸って、自分は麦茶とサラダを少し食べて自室に戻った。お母さんには久しぶりにメモでパスタを茹でてと指示しておいた。
 

 立花君とのメールが頻繁になったのと反比例するようにお兄ちゃんとのメールは無くなった。あたしが返さないから当然なのだが。そして同時に、立花君があたしの帰りと帰る時間を合わせてくるようになった。全く意味がわからないのだが、彼の中であたしの立ち位置が変わったのだろう。時間をずらして気まずい思いをするのも微妙なので合わせたまま一緒に帰った。あたしもあたしで彼を必要としていた、唯一学校で繋がりのある人間だったから。
「そっかー立花君はキーボなんだね、カッコ良いね」
「そうでもないよ、やっぱり花形はボーカルとかギターだし。縁の下で支えるのは低音のベースとドラムだし。僕は結構どうでもいい立ち位置だよ」 
「そうなの?あたし音楽あんま知らないけど単純に数増えたら音に深み出そうだし、キーボってそれだけで全部の楽器の代わりこなせそうだから重要じゃない?」
「そう、かな、ありがとう」
 照れたように目を反らす立花君を見ながら、ああ暑いと持っている団扇で扇ぐ。たまに立花君も扇いであげるとテンプレのように涼しいねと笑う、同じ事しか言えないのかと思う。
 二人でコンビニでアイスを買って、それを食べながら歩いたり、駅の待合室のクーラーの前で涼んだりしてここ数日過ごしている。その数日で少しずつ立花君の情報を得た。軽音楽部でキーボ担当、コピーバンドとオリジナルバンドを二つ掛け持ちしていてコピーバンドはイエモンとかいうもののコピー、音楽が好きであたしがよく知らないバンドを知っている、小説はW村上が好きでどちらかと言えば龍派らしい、小説や詩を少しだけ書いたりもしている、あたしと同じ路線を使っていてあたしより早く乗車して二駅目で降りていく、成績はそこそこ良くて英語が得意、猫派。どうでもいい情報が新鮮な情報として脳内に溜められていく。今まで入ってきていた文字列とは違う言語が脳に記憶されて、目新しいのだ。
「こうも暑いとこれだけの距離で汗出てきちゃうよね」
「うん、キーボとか本当は持ち運びたいんだけど、この暑さとあの重さはキツくてさ」
「絶対重いでしょあれ、ガチで重そう!じゃあお家では違うキーボで練習したりするの?」
「いや、家にはピアノがあるんだ、練習はそれで、かな。あんましないけど」
「元々ピアノ習ってたとか?凄いねー」
 実際あたしは音楽関係に弱い。無知、と言った方が早いのかもしれない。流行の曲を少し知っているだけでクラシックもジャズもバンド系も知らない。楽譜は読めないし、弾ける楽器も無いし、歌だってそんなに上手くない。選択科目も書道だから音楽、美術といった芸術関係に弱いのだ。だからピアノを弾けたり、楽譜を読めるというだけで一目置いてしまう。
「母親がピアノ好きで、だから無駄にグランドピアノなんかあってさ」
「凄い、ガチでお金持ちだね!!あたしピアノ弾けないから羨ましいー」
 あたしが凄いとか、ガチとか同じ単語を繰り返しているのにこの男は気付いているのだろうか。もう少しで駅に着きそうな、駅手前の信号に捕まってしまって、二人で横断歩道の前で立ち止まる。
「じゃ、じゃあ家、来る?ピアノ教えてあげるよ?」
「へ?」
「あ、あの……ピアノ、てか家、来たら色々貸せるし。若林さんが面白そうって言ってた小説とかCDとか……ピアノとか……」
 立花君は信号を見たまま話を続ける。一番最初に話しかけて来た時や、ナンパから助けてくれた時のように少し震えている。
「じゃあお邪魔するね、いつが暇?」
 こちらは立花君の顔を見て笑顔で返事をする。信号は青に変わって周囲が歩き出したので足を進めると、信号を凝視していたはずの立花君は一歩遅れた。
 歩幅が違うのですぐに追い付けれて、二人で並んで駅まで歩く。その間にいつでも暇だと聞いて、駅からホームまでの間に軽音楽部の練習が無い日が良いだろうとなり明後日向かう事になった。ホームで電車を待ちながら、何手土産を持っていこうと考えていると、立花君が恥ずかしそうに笑う。
「あんまり期待しないでね、グランドピアノあるだけでそんなお金持ちじゃないから」
「えーじゃあ期待し過ぎないように期待する」
 二人で笑うと丁度電車が着いて、乗り込む。定期範囲内だから行けるよね、といった話をしながら電車は立花君の降車駅に着いて、彼は降りていった。
 軽く車内からバイバイと手を振って、会釈する立花君を見送る。扉が閉まった瞬間に大きく溜息をついて、携帯を開けた。祖父母の家に電話して今から行きたい、と告げると了承の返事を受けて、笑顔になる。あまり夕飯を食べれる気がしないのだが、夏バテと伝えておけば祖母はそんな量を作らないでくれるはずだ。
 また、買うのも面倒だけれど、話を聞く分に立花君の家はお金持ちそうなので何か良い菓子折りでも祖父母の家から貰っていこうと思う。一々買い物に行くのも、私が自腹を切るのも嫌だ。グランドピアノのある一軒家というのは洋風なイメージしか湧かないが、流石に和菓子食べないなんて事は無いだろうし和菓子が日持ちがして良いかもしれない。
 家より一駅早く降りて、道を歩く。祖父母の家に着いて、麦茶を飲んで祖母と一緒に買い物に出かけた。祖母には女友達と説明しているので、可愛い干菓子なんかが良いかねと言っていたが、食べやすくて美味しい物が良いよー等と返事をして老舗和菓子店名物の創作菓子のゼリー詰め合わせを買った。八個入りのそれと、自分達で食べるように白玉あんみつを買う。その後、軽く買出しをして家に帰った。何も気を遣わずに喋れる祖父母は喋っていて安心する。あたしの息苦しい高山病みたいな病は、祖父母が酸素をくれる事で軽くなる。


 午前中は学校に行って、昼食を取ると、菓子折りを持って立花君の家の最寄り駅に降りた。改札を抜けると私服の立花君が立っていて、制服の自分自身に気後れしてしまった。ジーパンとポロシャツという簡易な格好ながら、ジーパンは青黒い綺麗な物でポロシャツもよく見る鰐のロゴが無くて、形が横に広い感じの妙な作りの緑色だった。
「制服で来ちゃった」
「全然。僕の家ちょっと遠いから歩くか、もし良かったらチャリ二人乗りで行きたいんだけど大丈夫?あ、スカート大丈夫かな」
「ちゃんと下に敷いて押さえとくから大丈夫、あたし重いけど平気?」
「絶対重いとか無いでしょ、鞄カゴに入れるよ」
 自転車置き場にあった自転車に立花君が乗る。
「足、右か左どっちが良いかな?」
「ん?ああ座る向き?あーそんなに変わんないと思う、好きな方にどうぞ」
 適当に右側に足を置いて、後ろに腰掛ける。ウエストの辺りに手を置くと立花君がびく、と震えた。そのまま勢いに乗って立花君が自転車をこぎ出す。
 見慣れない景色が目の前を通っていって、風が抜けていく。駅前のビジネスホテル群を抜けて、コンビニやお弁当屋が立ち並ぶ広めの道路から脇に反れてアパートやマンションの類を抜ける。その後一軒家が連なる場所に着いて、緩めの上り坂になる。立花君が少し腰を上げて立ちこぎをして、声をかけたが大丈夫、と返ってきてすぐに一つの家の前に止まった。
 塀が覆っている家は立花という黒に白抜きの表札がかかっていて、塀の合間にある玄関から入っていく。少しだけ塀と家の間に植物が植えてあって、丸く綺麗に刈り込まれた低い木々やオレンジ色の花と向日葵が少し生えている。あたしは植物に全く詳しくないけれど、どれも洋風な植物だ。ベコニア、マリーゴールド、ガーベラ……思いつく限りのオレンジっぽい花を思い出したがどれかはわからなかった。
 家自体はクリーム色の大きめの家で、玄関は大きくて下駄箱の上にはパステルカラーの絵画が飾ってあった。傘立ても藍色の円柱状の陶器で高級感がある。玄関には家族の靴が無くて、サンダルしか無かったので客用の玄関なんだと知る。
「凄いーお邪魔しまーす」
「凄くない凄くない、とりあえずピアノの所行こっか」
 笑いながら立花君がスリッパを出して案内をしてくれる。
「あーっとお家の人とかは?あたし一応お菓子持ってきたんだけど」
「あ、きょ、今日は居ないんだ。てかお菓子ありがとう、これ美味しい所のだよね」
「うん、美味しいよねーここ」
 立花君に紙袋を渡して、連れて行かれた部屋に入る。ここまで幾つかの部屋の扉を横目に抜けてきた。途中縁側のような場所もあって、庭と言うよりガーデンと呼んだ方が良さそうな庭園があった。その緑の中で椅子とテーブル、テーブルの真ん中から黄緑のパラソルが立っていた。
 ピアノの部屋は中心にグランドピアノがある部屋で、広い窓とエアコンと空気清浄機があった。簡易な本棚があって、楽譜が幾つも入っていた。涼しい部屋は明るく光が差し込んでいて、フローリングがワックスで綺麗に光っている。
「すごーい!綺麗!!何か弾いて立花君!!」
「うん、じゃあ適当にね」
 持っていた紙袋を立花君が本棚に立て掛けて、グランドピアノを開ける。椅子に座ってペダルを確認して、立花君がピアノを弾き始めた。節くれ立っているけれど、細く長い指が鍵盤を叩く。指が何度も何度も持ち上がるように跳ねて、重々しく叩きつけられて、大きな音を奏でる。早い運指に手元があまり確認出来ない。立花君は大人しい感じの人だったから、ゆっくりとしたメロディーを奏でるかと思ったのに、弾く曲はとても荒々しい。
 途中から緩やかなメロディーになって、それも一呼吸ほど置いて、徐々に元に戻って激しくなる。トンと高い音が跳ねて、演奏が終わった。
「……凄い、ね、凄い。ごめんね、あんまり言葉が出て来なくて良い表現言えないや。立花君めっちゃ上手いんだね、ガチで技巧派だね!」
「ありがとう、結構練習した曲なんだ。技巧派って若林さん知ってるじゃん」
「え?何を?」
「あ、知らなかったんだ。そっちの方が凄いなぁ、超絶技巧練習曲集ってのからの一曲なんだよ。今は途中までしか弾かなかったけど。リストって知ってる?」
 椅子に座ったまま立花君がこちらを見上げる。ピアノは凄かった、何か痛々しいくらい凄かった。立花君の言葉にこくんと頷く。リスト、は知っている。凄い難しい曲作った人じゃなかったかな。そんな曲が弾けるのか、とただただ感心する。
「そっか、その人の曲。難しくて練習大変だけど上手く出来たら凄い達成感あるよ」
「凄いねーー!!他にも何か弾いてー?」
 純粋に面白くて、軽くはしゃいで立花君に話しかけると、彼は笑ってまた手を動かしだした。二曲ほど弾いてもらって、凄いと笑って拍手をする。
 彼は照れたように頭をかくと、眼鏡を直して若林さんは、ねこふんじゃったとかは弾けないの、と聞いてきた。
「あーそれくらいなら弾けるよー。あ、あとね、これだけ弾ける」
 立花君の横にすっと身体を入れて右手を鍵盤に乗せる。エリーゼのために、を少しだけ弾く。片手一本で主旋律の一部しか弾けない。これだけは凄く簡単で覚えやすくて、小さい頃ピアノを習っていた友達に教えてもらったのを覚えている。
 弾いて顔を立花君に向けると彼は笑って少し椅子の左側にずれた。
「横、座って。ここ、ここからさっきの弾いてみて」
「ん?いいよ」
 指差された白鍵の上からあたしが同じ様に弾くと、立花君が左手で鍵盤を叩いた。ほんの少しだけ完成型のエリーゼのためにが流れる。弾きながら横を見ると立花君が顔を赤くして笑った。
 それにつられてあたしも笑うと立花君の顔が近づいた。近すぎないかと思っていると唇が触れた。驚いて右手の全指を鍵盤の上に投げ出してピシャンと高い不協和音が響いた。勝手に触れて離れていった立花君の顔は照れたように笑っていた。
「え…………今の、何?」
「何って……え……っと、ごめん」  

       

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