あなたに半ば引きずられるようにして、僕はタクシーに乗り込んだ。母の今も、あなたという人も、今の僕はただ恐ろしくて恐ろしくて仕様がなかった。病院で感じた吐き気は濃さを増し、厭な汗がじっとりと脇を湿している。視線を感じてあなたの方を見遣ると、あなたは微笑んで手を握ってくれる。それはいつものうっすらとした笑みと何も違わないように見え、決定的に何かが違うようにも感ぜられた。冷たい、手。
母の生家は、病院から車で二十分程の所にあるらしい。窓の外の徐かな町は、僕のざわついた心情を嗤うように過ぎて行った。知らない町だ。あなたの方を見る。あなたはいつの間にか前に向き直っていて、表情はいつもの通り涼しげで、しかし目だけは何か、強い光を宿していた。タクシーに乗るときに脱いだキャプリーヌが膝に遠慮がちに納まっている。ああ、知らないあなただ。
「怖いのね、私が」
僕の考えを察したかのように、不意にあなたが口を開いた。
「いいえ」
僕は答えた。
「嘘でしょう。酷い貌をしているもの」
「……母は、元気でしょうか」
「どうかしらね。
元気でいると、いいわね」
あなたの口調からは、何も感じられない。色のない言葉だと、僕は思った。すぅ、と、脳の芯が冷える。あなたは、決して楽しんでいるようには見えなかった。かといって、僕のように何かを恐れているような印象も受けない。
「あなたは、何を考えているの」
僕は問う。あなたが何を考えているのか、皆目見当もつかなかった。僕の手を引く意味は。母の行方を追う意味は。そもそも、僕と一緒にいる意味は。
「さて、ね」
あなたは何も答えなかった。僕はなんだか拍子抜けしてしまって、曖昧に笑った。
「君は、」
と、あなたは続けた。
「君は何を考えているの。お母様のことかしら」
僕は、言葉に詰まってしまう。ああ、あなたはどうしていつも的確に僕の心を打つのか。もう少し痛みの小さな言い方をして欲しいと思う反面、それが些程嫌でもない自分がいる。
「ええ、母のことを」
ようやく絞り出した声は、それだけをあなたに伝えて黙った。車のエンジンの音だけが、僕らの間に響いている。知らない町が、尚も後ろへと過ぎ去っていく。
タクシーが止まった場所は、大きな平屋の前だった。表札を見るとたしかに母の姓が書いてある。
「ここね」
あなたは先ほどまで膝に置いていたキャプリーヌを被り直し、黒いレース越しに朱色の屋根を眺めた。ここへ来ても、やはり涼しい目をしている。今日のあなたは、あなたの目は、なんだかオパールのように様々な色に煌めいているように見えた。
「やはり、ここまで来ても緊張します、ね」
僕は服の上から早鐘のようになる心臓を押さえつけながら、途切れ途切れにそう言った。あなたが、僕の手を握る。あなたの手は冷たかったが、その冷たさはむしろ僕を安心させた。ゆっくりと、インターホンに手を伸ばす。指が、触れる。
と、その時だった。がちゃり、と大袈裟に重い音を立てて、家の錠前が開く音がした。ゆっくりと、ドアが開いていく。僕は思わずあなたの手を強く、握りしめてしまった。あなたもまた、僕の手を強く握り返す。ドアが開いたそこに立っていたのはまぎれもなく、美しい母の姿だった。
「母さん」
もう十年以上も経つのに、何も変わっていない。変わらず、美しいままだ。母が僕の名を呼んだ。驚いた貌で。もう一度、呼んだ。
「母さん、会いたかった」
僕がやっとの思いでそれを言うと、母はこちらへ近づいてきて、門を開けてくれた。
「私も、会いたかったわ」
母が、薄く笑う。目に涙を浮かべて。
「そちらは、どなた。恋人かしら」
「僕の、とても大切な人。
彼女がいなければ、ここまで来ることは出来なかった」
あなたは薄く笑って、帽子を脱ぎながら丁寧に礼をした。
「そうなの。はじめまして。
とにかく入って。疲れたでしょう」
僕らは母の手の誘うまま、家の中へと入って行った。
客間のようなところに通されてしばらく待っていると、母は祖父母を連れて戻ってきた。それから僕たちは様々な話に花を咲かせた。大学のことも話したし、音楽をやっていることも話した。父のことは話さなかった。あなたも、母も、祖父母も、にこにこと笑って僕の話を聞いてくれた。とても、幸せな時間だった。夕食には母と祖母の作った料理を食べた。母の作る食事は美味しく、僕の好物ばかりが並んだ食卓は見目にも楽しかった。ああ、夢のようだと、僕は思った。
その晩は、母の生家に泊まることになった。あなたと別々にお風呂に入って居る間に、空き室に二つ布団を敷いてもらった。ああ、なんだか時間が過ぎるのがとても早い。こんなにも幸せなら、どうしてもっと早く来なかったのだろう。母は退院して、病気ももうすっかり良くなって、穏やかな毎日を過ごしていると言っていた。どうして僕らの町へ戻らないのかと聞いたら、僕や父の迷惑になりたくないからと言っていた。けれど、僕が望むならもう一度戻っても良いと、僕らの町へ越して、父と再婚しても良いと言ってくれた。出来る事ならそうして欲しいと、僕は返した。眠る前、あなたとキスを交わした。あなたの唇は矢張りひんやりとしていて、興奮で火照った体に心地よい。
その夜僕らは、互いの布団に潜り込んで、手だけを繋いで、眠った。