Neetel Inside 文芸新都
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「ここは、君の家なんだよね?」
「ええ、そうですけど……」
 門扉から左右に広がる柵に、頭を預ける形で横になったまま男は話し始めた。かすれた声が、不思議と耳に心地好い。
「ご家族に、誰か、病気の方が?」
「はい、弟が」
「そう……弟さんが……」男が上体を起こそうと体を動かす。僕は慌てて手を貸した。体は、紙のように軽かった。
「僕もね、君の弟と同じ……たぶん同じ、病気なんだよ」
「え? でも」僕は驚いて、男の顔を見た。
 男の姿は、さっき家を出たばかりには到底見えないし、昨日一昨日といった感じでもない。どう見ても、何年も放浪してきたように見える。
 昔、僕の弟が他愛も無い理由で家出した事があった。その時は一時間もせずに近所で見つかったが、それでも一週間近く寝込む騒ぎになった。もし、男の言った事が本当だというのなら、何故、今まで生きてこられたのだろうか。
 男は、そんな僕の疑問を汲み取るように、話を続けた。
「そう、だけど僕はずいぶんと長いこと、街の中で暮らしてきた」男がすっと目を細める。『遠い目』とよく言うが、それよりもずっと、ずっと遠くを見つめる様だと思った。
「僕が家を出たのは、僕がまだ十歳にもならない頃だ。僕は、それまで一度も家の敷地から出た事なんて無かった。きっかけは、そう、弟の死だった」
「亡くなられて、しまったんですか?」
「……うん。まだ、生まれたばっかりだったのに、ね」まるで搾り出すような男の声に、僕は何も言えずにいた。弟の顔が浮かぶ。
 黙りこむ僕を気にもせず、男は独白を続けた。
「でも、僕は信じられなかった。弟が死ぬはず無いって。だって、弟は、天使だったんだから」
 天使。男はその言葉を強調するように言った。
 しかし『天使だった』とは、どういう意味だろう。死んだ後に『天使になった』と表現するのならわかるが──。
「だから僕は家を出たんだ。本物の弟を探すために」
「本物の?」思わず声に出して訊いてしまった。男の話は脈絡が無く、僕にはいまひとつ、ストーリーが飲み込めなかった。
「僕の弟は天使だから、父さんを信じ続けるためにも、僕は本物の弟を探さなくちゃならなかった。たとえ街に出た為に、病気で僕が死ぬかもしれないとしてもね」男はそう言って、ちらりと僕の方を見た。
 僕は息を呑んで、次の言葉を待った。
「でも、僕は死ななかった。死ななかったんだ。一日経っても、一週間経っても。最初のうちは気にもしていなかった。けど、家を出て一年二年と経って、少し大人になると、僕はようやく疑問に思った。病気は、どうしたんだろうって」
「治った……んですかね」恐る恐る、僕は訊いた。
「わからない。病院になんて、もうずっと行っていないから。もしかしたら、最初から病気じゃなかったのかも知れない」
「最初から?」
「誤診だったのかも知れない。もしくは……」
「……もしくは?」
 男は突然黙り込んだ。そっと伏せた眼は、幽かに潤んでいるように見えた。
「だから、だから僕は」再び口を開いた男の声は、悲しく擦れたものだった。「だから僕は、どうしても弟を探さなくちゃいけなかった。父さんが、僕に嘘をつくはず、無いんだから」
 いつの間にか傾き始めた陽に照らされ、薄汚れてはいるが白い男の肌は、仄かに赤く染まっていた。
 断片的ではあるが、なんと不思議な話だろう。
 もしかしたら、狂人の妄想なのだろうか?
 僕は、男がさっきまで死にかけていた事も忘れ、尋ねた。
「あの……弟さんは、見つかったんですか?」
 僕の問いに、男は小さく頭を振って答えた。
「そうですか……すみません」
「謝らなくて良いよ。大丈夫、きっともうすぐ、見つかる」
 そう言うと、男は右手を自分の上着の中に入れ、胸を押さえた。
 その仕草を見て、僕ははっとする。
「あ、ああ、すいません、大丈夫ですか? ごめんなさい、僕……すぐにお医者さんを」
「良いんだ。違うよ、大丈夫」
 立ち上がろうとした僕を、驚くほど強い力で、男は引き留めた。無理に作ったような笑みが、苦痛に歪んでいるのがわかる。
「でも……」
「もう少し、もう少しだけ……」
 縋るような声に、僕の気持ちはすぐに折れた。助けなくては、という気持ちが無くなったわけではないが、それ以上に、好奇心の方が強かった。
「大人になって、わかったことがある」苦しそうな声で男は再び話し始めた。
 ここまでして、何故、僕と話をしたいのだろう?
「大人になるって事は、毛糸玉を解いていくようなものだ。自分という塊を『何か』に昇華していく作業なんだ。でも、僕は、毛糸玉を家に転がしたまま、ただただ遠くまで、糸を引っ張ってきてしまった」
 咳き込む男の顔は、夕日に赤く焼かれている。
 僕は黙って、その顔を見つめていた。
「僕は……『何か』には、なれなかった。ただの虚しい糸だ。今更手繰り寄せたところで、もう毛糸玉に戻る事も出来ない」
「そんな……」僕は何かを言おうとして口を開いた。しかし、結局何も言えずに、ただ唇を噛んだ。
「僕は、やった事が無いけれど、毛糸を編むのは難しいんだろうね。見た事があるよ、女の人が、公園でマフラーを編んでた。編んで、間違えたら解いて、また編んで……きっと、僕らもそうなんだ。間違えたら、解いて、また編んで……」男の眼に、今度ははっきりと涙が浮かんだ。
 言葉に出来ない感情に、僕の視界も、いつの間にか滲んでいた。
「でも、僕は編まなかった。それに……気付いていたんだ。父さんも、途中で編む事を諦めて、毛糸玉を転がしてしまったんだよ。糸は簡単に絡まって、無理に引っ張れば、糸は、簡単に千切れる……たとえ悪夢だとしても、覚めるわけにはいかなかった。そう、気付かないふりをしてただけだ。僕も、父さんも」最後は叫ぶ様に、男は言った。呼吸が、荒い。
 僕はまた、はっとする。
 しかし、男は話す事を止めようとはしなかった。
「別にもう……良かったんだ。父さんが嘘吐きだって。でも、それはこの夢が覚めた先にある、現実の世界の話だ。この夢を、悪夢で終わらすわけにはいかない。だってそうだろう? そんなの……だって、そんなの……」
 男が上着の中から、そっと右手を出した。

 そこには、古びた、小さなナイフが握られていた。

 柄に取り付けられた宝石が、夕陽に眩しく輝いている。

「そんなの、哀し過ぎるじゃないか」

 男はそのナイフを、すばやく僕の手首に押し当てた。

       

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