Neetel Inside 文芸新都
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 そこは美容室でした。開かれたドアからは、鮮烈な印象をもってわたくしの前に立った女性とともに、艶っぽい、心地良い香りが放たれていました。女性の大きな黒目に、わたくしは溶けていました。……一瞬、本当にそんな気がしたのです。わたくしは不意に正気づいて、わたくし自身の実在を確認するために、視線を女性から引き剥がして自分の手に、脚に、体に向けようとしましたが、どうしても視線は女性のまんまるのひとみと、柔らかそうな頬と、頸と、豊かな胸のふくらみから離れませんでした。中でもその頸――柔らかな頬やくちびるや顎の感触を受けとめながらも、肩から胸にかけての骨張った部分につながるように、しなやかな筋肉のついたその頸に。
 わたくしはおそるおそる右の手を左の腕があると思われる位置に持っていき、その指に確かな皮膚感覚が生じたのを認識し、安心したのです。……もっとも、今となっては、あのひとみに、あの時そのまま溶けてしまえば、彼女のひとみの中の住人として存在していられたなら、と思いもするのですが。
 ああ、そういえば、とボールのことを思い出し、やおら視線をドアの下の方へと戻したのですが、もうその時にはボールは無くなっていて、粗いアスファルトから、礫やきらきらと光を反射したガラス質がのぞいているだけでした。振り返ると、もう公園には他の子たちの影は無く、少し湿り気のある風が、公園を貫くようにして吹いていました。
『ごめんなさい、みんないなくなっちゃったわね』
女性は何も悪くないのにそう謝ると、足早に美容室の中に入っていき、またすぐ戻ってきました。
『あげます。……もう、おかえり』
小さな手に、ぽん、と飴がふたつ置かれました。そして、手を『く』の字に二度三度折り曲げる動作をしながら、美容室の中へと戻っていったのです。
 その日、わたくしの一日はそれだけでした。

       

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