Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 ウトウトとまどろんでいる内に雀の鳴き声が聞こえてきて、いつの間にか朝を迎えていたことをボンヤリとした意識で感じ取った。
 俺としては寝るつもりは全くなかったのだが、自分の意識しない内に深い眠りについていたようだ。深く眠ったはずなのに、身体はたっぷり泥に浸かったかのように重い。
 しばらく布団の中で呆然としていると、ノックの音と共に母親の声が聞こえてくる。いつものそれと比べて、その声は不自然なまでに優しかった。
「今日は、学校行く?」
 控えめに扉を開けて顔を覗かせた母が訊ねてくる。俺は黙って、重たい首を横に振った。
「お腹すいてない? 朝ごはん作ったけど、下に降りて来る?」
 俺は再び首を横に振る。
 母はため息をつくと、いかにも憂鬱そうに言う。
「……取りあえず、シャワーだけでも浴びなさい、ね? 昨日からお風呂にも入らないでずっと布団に潜りっぱなしじゃ、汗とかかいていい加減気持ち悪いでしょ?」
 そこで始めて、自分がいかに汗まみれであるかを自覚した。言われるまではさほど気にならなかったのだが、べたつく肌とムッとするような臭いが急激に気持ち悪くなってきた。
 仕方なく俺はベットからのそりと起き上がると、浴室のある階下へと降りていった。
 一日ぶりに浴びる熱いシャワーはとても気持ちよかったが、改めて自分の惨めさが身に染みてくるようだった。結局のところ、どれほど意地を張って閉じこもってみたところで、汗のべたつきが気持ち悪ければ外に出てシャワーを浴びるしかないのだ。
「着替え、カゴの中に入れておくから」
 室外から聞こえてくる母の声。
 シャワーを終えて、着替えようと思ったのだが、その時カゴの中に入っていた着替えを見た俺は無気力にため息をついた。
 まるで俺の気分そのものを表すような、くすんだグレー色のパジャマ。
 俺は苦々しい思いでそれに着替えた。
 ねえ、朝ごはんは食べないの? という母親の呼び声を無視して二階へと上がろうとした、その時だった。

 ――てるくーん、おはよー! 今日もげんきにがっこーいこー!

 家の中まで聞こえてくる、女の子の一生懸命な呼びかけの声。
 晴香だった。呆れかえるほどに晴香だった。
 一番焦がれていた癖に、一番聞きたくなかった声が聞こえてきた。
 俺は思わず階段を上っていた足を止めて、玄関の方へと振り返る。母もその声を聞きつけたらしく、俺の方へとやってきた。
「……会いたくないなら、私の方から先に行くように言っておくけど?」
 俺はそうしてくれと言うつもりだった。しかしそれを言葉にしようとしても異様に重たい口は全く動いてくれず、せいぜい「あぁ……」だとか「うぅ……」などといった呻き声のなりそこないな声しか出て来なかった。
 相変わらず外からは、「おーい! てるくーん!」という声が聞こえてくる。思わず当てつけかと勘ぐってしまうくらいには大きな声。
 ――いいかげんにしろよ……!
 恥ずかしくなったり情けなくなったりを通り越して、だんだんと腹立たしくなってきた。
「ねえ、どうするの? いい加減はるちゃんを待たせちゃ……」
 俺はにわかに踵を返し、玄関へと向かっていく。戸惑う母を尻目に鍵を開け、わざと乱暴に扉を開いた。玄関のベルが慌しく鳴り響く中、俺は扉の前に立つ晴香のことを睨みつける。背後では、ドタドタと母親が近づいてくる音が鳴り響いていた。
 晴香は少しの間びっくりしたような表情を浮かべていたが、やがて俺と目が合うといかにも嬉しそうな笑顔を浮かべた。
 笑顔。
 間違いなくそれは、幾度もなく俺を救ってくれた、人間の、それも至上の笑顔だった。
「えへへ、おっはよーてるくん! 今日もげんきにがっこーのおじかんですよー!」
 天真爛漫を絵に描いたような、晴香のふわふわとしたあいさつ。
 しかし俺は何も言うことなく、ただ怒気を孕んだ目つきで晴香を見据えていた。
「あれ? そういえばてるくん、まだパジャマだけど、着がえた方がいいんじゃない?」
 俺の様子を知ってか知らずか、能天気なことを晴香は言う。これも当てつけなのだろうか。そんな思いが頭をもたげた俺は、いつの間にか拳を強く握り締めていた。
「あっ! さてはてるくん、今日はおねぼーさんでしょ? だから寝ぼけてパジャマ姿で出てきたんじゃ……」
「うるさいなあ……!」
 まるで威嚇する蛇のように低い声だった。
 晴香はやっと俺の様子に気づいたよう(今思えば、気づいていない振りをしていただけなのかも知れない)に目を丸くする。
「寝ぼうじゃないよ。もういっしょー学校にいかないんだよ」
 最初、晴香は俺が何を言っているのかが理解できなかったのだろう。目を丸くしたまま固まって、俺の顔をマジマジと見つめていたから。
 しかし晴香は、このままスゴスゴと引き返すような女の子ではなかった。
「……ねえ、学校でなにかあったの?」
 晴香は俺に全く動じることなく、真っ直ぐにこちらの目を見つめながら問いかける。
 俺は晴香の静かに力強い視線に思わずたじろぎ、気まずい思いで視線を下に逸らした。
「……いつものことだよ。いつもみたいに、また学校でみんなにイジメられたんだよ」
「でも、それでも学校行ってたじゃん」
「いままでの話だろ? でも今日からはもうちがうんだよ。もう分かったんだよ、ボクなんて学校にいかない方がいいんだって」
「なんで? そんなことだれが言ったの? てるくんはショーガクセイなんだからガッコーに行っていいんだよ?」
「……うるさいなあ! だからみんなだって言ってるだろっ! とにかく、ボクはもうぜったいにガッコーにいかないんだから、もうボクにかまうなよなっ!」
「待っててるくん! にげちゃだめっ!」
 家の中へと引き返そうとした俺の背中に、声を張り上げて叫ぶ晴香の声が響く。俺は思わず立ち止まり、振り返らずにはいられなかった。
「ねえ、学校でどんなこと言われたの? おねがいだから、それを話してみてよ! そうやっておうちに閉じこもったら、だれもはるくんの言うことを聞いてくれないんだよ!」
 俺は何も答えることなく、晴香のことを睨みつける。本当は何も言うつもりもなかったし、そもそも振り返るつもりもなかった。しかし、晴香の声を聞いた俺はどうしても立ち止まらずにはいられなかったのだ。
 いい加減にして欲しかった。
 晴香はいつだって付きまとうようなしつこさで、俺なんかの為に真摯に付き添うのだ。そのせいで俺が一体どれほど惨めな思いを味わったか、そのせいで一体どれほど晴香が悲しい思いをしてきたか。そしてその挙句が、昨日の人形たちによる晴香への暴言の飛び火だ。これ以上晴香が俺に付きまとったら、暴言どころか今度は晴香が俺と同じ目にあうかもしれないのだ。
 全部晴香のせいなのだ。
 全部が全部、晴香にこんな辛いことをさせている俺のせいなのだ。
 俺は胸の中がグツグツと煮え立つくらいに苛立ち、そして狂おしいまでに悲痛な感情が胸を打った。それは余りにも混沌に満ちた感情のせめぎ合いで、自分という人間が粉々に砕けてなくなってしまいそうなくらいに苦しかった。
 ――タスケテ! タスケテヨ!
 その衝動の余り、俺の口から一つの切実な叫びが出そうになる。しかしそれは、不毛な意地っ張りによって握りつぶされた。
「おまえ、うっとうしいんだよっ!」
 その代わりに俺の口から出てきたのは、拒絶の言葉の中でも最低なものだった。
「おまえ、自分が学校でなに言われてるかしってるか? ブスだよ、ブス! いっつも笑ってんのがきもちわるいんだってよっ! いちいち大きい声だしてるのがうざってーんだってよっ! うじゆきのそばにくっついてんのがきもちわるいんだってよっ!」
 ――ちがう、ちがうんだよ、春香ちゃん!
 さっきから、自分の意志とは正反対な言葉がこの口から出てくる。いくら止めよう止めようと思っても、まるでブレーキが壊れたトラックが坂道を転がるかのように留まることがない。
 ――タスケテ! タスケテヨ!
「分かったかよ! みんながそういうんだよ! だからもうボクにつきまとうなよなっ! メーワクなんだよ! ボクはもう、いっしょー学校になんて……!」
「はるくん、ひょっとして昨日、わたしのことを言われたの?」
 図星の一言に思わず怯む。
 しかし、そのことが俺の言葉を止めることはなかった。
「うるさいなあ! だったらなんだよ! おまえがブスで、うざくって、きもちわるいのはかわんないだろうが! 何回も言わせんな! ボクはおまえがうっとうしいんだよ!」
「てるくん、ホントウに、そう思ってるの?」
 晴香の表情が、いよいよ深刻な悲しみで歪んでいく。晴香の潤んだ瞳が、すがるように俺の目を真っ直ぐに見つめていた。
「正直に言って。ホントウに今まで、わたしのこと、うっとおしいって思ってたの?」
 この問いかけこそ、超えてはならない最後の一線を画するものであることは分かっていた。ここでこれ以上晴香を傷つけるようなら、男として死ぬべき人間であることを証明することになるのだということも。
 俺はここで「そんなわけないだろうがあ!」と叫ぶべきだったのだ。それが出来ないのならばせめて、この場で泣き崩れながら「たすけてよ!」と叫ぶべきだったのだ。
 しかし、この時の俺は酷く混乱し、脅えていた。自分が本当に望んでいることが分からず、人形への、そして晴香への恐怖ばかりがムクムクと膨れ上がっていった。
 結局のところ、俺は自分と向き合うことが出来なかったのだ。
 手を取って前に進むことも出来なければ、泣き崩れてその場に留まることすら出来なかった。ただ、人形からも晴香からも背を向けて、あの布団の中へと逃げ出したかった。
 晴香から逃げ出す。
 そう、俺はこの時確かに、晴香の俺に対する真摯さが怖かったのだ。
 嫌だった訳でもなければ、うっとおしかった訳でもない。俺が本当に怖かったのは、晴香の思いに応えられず、人形に脅えてばかりの情けない姿を晴香に晒すことだった。そしてそんな姿を見られ、晴香に失望されることだった。
 人形たちに囲まれて生きる中、晴香という人間にまで見捨てられたら、俺は一体どうやって生きればいい? 晴香に見捨てられたその瞬間、俺はこの世の終わりのどん底へと永遠に堕ちていくのだ。
「うるさい……うるさいうるさいうるさい! なんどもなんどもボクに言わせるな!」
 だから俺は晴香から逃げ出すことを選んだ。そうすることで、晴香の失望から逃れられると思っていたのだ――そう思い込んでいたのだ。
「ボクなんかにつきまとってるから、おまえはみんなからきもがられるんだよ! わかれよ、おまえはうっとうしいんだよ!」
 気がつけば俺は顔を伏せていた。晴香の顔なんて見ていられなかった。これ以上晴香の顔を直視していたら、俺という人間のどうしようもさの余りに、気が狂いそうだったからだ。
「だから、もう二度とボクなんかにかまうなよな! きもいボクにつきまとうおまえは、きもくてうっとうしいんだよ! ボクなんかにつきまとうから! つきまと――」
「……そうだったんだ」
 弱々しい声色。
 息を飲み、突き動かされるように晴香の顔を見上げると、晴香の表情には微笑が浮かんでいた。しかしそれは、鈍らな刃物で切り裂いて作ったかのような笑顔だった。作為的で痛ましい三日月形の口と、深い悲しみに潤んだ瞳。そんなものを同時に見せ付けられるくらいなら、いっそ憎悪と殺意を同時に向けられた方が幾億倍もマシだった。
「てるくん、わたしのことが、すっごいめいわくだったんだね……」
 ちがう、ちがう、ちがう……。
 俺は頭の中が真っ暗になりながらも否定しようとするのだが、口はワナワナと強張るばかりで全くもって動いてくれなかった。動く箇所といったら、ひたすらに左右に振られる強張った首ばかりだった。
「ごめんね……今までホントに、ごめんね」
 微笑を湛えながらそう言うとと、晴香はしばらく俺の眼を見つめて、クルリと背を向けてゆっくりと去っていった。その背中はずぶ濡れの服を身に着けるかのように重く沈んでいた。
 俺の眼を見つめていた晴香の瞳からは、一粒の涙が零れ落ちていた。
 俺はただ、何も出来ずに立ち尽くしていた。俺の頭は、真っ黒な霧に覆われていた。
 俺の背後から、「雪輝」と俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。応じて振り返ったその瞬間、俺の頬に手の平が飛んできた。パチンッ! という破裂音と共に鋭い痛みが頬を襲う。むずがゆいさを伴う熱と、そこから発せられる痛み。実際のところ、そこまでの威力がある訳ではなかったのだが、俺の冷え切った心には本来の威力以上に鋭く響いた。
「あんたは、本当に情けない子だよ……!」
 ――うん、そうだね、おかあさん……。
 頬を押さえてうなだれながら、そんなことをボンヤリと思う。俺はきっと、全世界から軽蔑されて然るべき人間に成り下がったのだろう、ということも。
「……はるちゃんのこと、追いかけなさい」
 俺はすぐに首を振った。ここで追いかけてどうにかなるくらいだったら、最初からこんなことにはなっていないのだ。晴香と共に進むことも留まることも出来なかった俺の一人ぼっちの終着点。それがこの家、俺の部屋のベットの中なのだから。
 母親の方も予想がついていのか、「そう」という相槌以外には特に何も言うこともなかった。
「なら、朝ごはんを食べて部屋で寝なさい。ご飯温めるから、ちょっと待ってて」
 それだけ言うと、母親はリビングへと向かう。
「……ごめんね。こればっかりはお母さんにも、何も出来ないの」
 その途中、母はこちにを振り返り、俺に向かって言った。
「ゆっくり休んで、それから良く考えなさい。本当に、このままでいいのかを」
 そう語りかけた母親の顔に、一瞬だけ人間の表情が浮かんだような気がした。俺のことを、息子のことを真剣に案じてくれる、母親の顔。しかし、それが確信に変わるその前に母親は顔を前に戻してリビングに消えていった。

 しばらくして、母親に呼ばれた俺はリビングで朝ごはんを食べた。
 ご飯に味噌汁にたくあん、おかずには半熟の目玉焼きに焼いた鮭、そしてネギの入った納豆。これ以上はないというくらいに完璧な朝ごはんだった。いつもは学校に行く直前まで登校を拒み、そのことでゴネにゴネていたために、朝ご飯はパン一枚だけなのだ。俺はすっかりお腹が空いていた。リビングでは、一足先に朝食を済ませている父と母の分の食器を洗っている。ここからでは顔が良く見えなかった。
 俺はボソリと「いただきます」と呟いてから、味噌汁をすすり、ご飯を食べる。
 おいしかった。とんでもなくおいしかった。
 ただこれだけで涙が出そうだったのに、この時俺の脳裏には、晴香の笑顔と、いつも俺にくれるパンのことが浮かんでいた。そういえば今日の晴香の左手にも、いつも通りにパンが握られていた。食べる人のいなくなったパンを、果たして晴香はどうしたのだろうか。

 ――はい、てるくん。これあげるねっ!

「おいしいなあ……」

 ――どう? おいしい?

「おいしい、なあ……」

 ――ねーてるくん。そういえば昨日、なにかいいことあった?

「おいしい……おいしい、なあ……」

 俺は左の手のひらで眼を覆い、テーブルに崩れた。溢れ出る涙はとどまることを知らず、無様な嗚咽ばかりが喉から漏れ続けていた。

 ――ごめんね……今までホントに、ごめんね。

「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 俺は嗚咽しながらひたすらにそればかりを繰り返した。許される訳がないことは分かっていた。それでもそれ以外に、どうしたらいいか分からなかった。
「どうしたの? もうごちそうさま?」
 リビングの向こう側から母が訊ねてくる。
 俺は首を横に振り、それからがむしゃらに朝ご飯を掻きこんだ。朝ごはんを掻きこんでいても、涙と鼻水は滝のように流れ出ている。
 それでも俺は、この朝ご飯だけは絶対に食べなければならないのだろうと思った。何故ならこの朝ご飯は、間違いなく母親という「人間」が俺のために作ってくれた朝ご飯なのだから。
 やっぱり朝ご飯は身に染みるくらいにおいしくて、それがむしろ残酷だった。

       

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