Neetel Inside 文芸新都
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「あら、秀介君」
「おばさん。お久しぶりです」
 久しぶりに会ったシノブのおばさんは、随分やつれていた。顔にクマが出来ており、疲弊しきっているのが見て取れる。それだけで、母の言葉が真実だと分かった。
「母から聞きました。その、なんて言うか……」
「良いのよ。無理に言葉にしないで」おばさんは弱々しい笑みを浮かべる。「上がって行って。秀介君が来てくれたらきっとシノブも喜ぶわ」
 玄関を上がると大きな冷蔵庫と真新しいキッチンが目に入った。こんなもの前はなかった。買いかえたのだろうか。よく見ると色々様変わりしている。テレビも、随分と新しくて大きなものになっていた。
 このアパートは隣りの家と間取りが左右対称になっている。リビングから繋がる、ふすまで締め切られた部屋。この向こうに、シノブの部屋がある。
「シノブが死んでね、少し模様替えしたの。気分だけでもどうにか変えなきゃって思って」
 おばさんはそう言いながらリビングにある仏壇の前に座った。飾られた遺影は二つになっていた。シノブの父親と、シノブの遺影。実際に目の当たりにして、動悸がした。
「ほら、シノブ、秀介君が来てくれたわよ」
 おばさんは鈴(りん)の音を鳴らす。チーンと、間延びする音が部屋に響く。
「シノブは……なんで?」かすれた声が出た。気付かないうちに、手に汗が滲んでいる。
「警察の人は、事故死だろうって」
「事故……」
「あの子の好きな公園あるでしょう? アルバイト終わりにあの公園に足を運んだみたい。あそこ、景色が良いから少し眺めようと思ったんでしょうね。でもその日は雨が降ってて、足を滑らせて……それで」
 おばさんは声を震わせ、うな垂れた。きっと事件の事を思い出すたびに涙を流していたのだろう。もう何ヶ月も。
「すいません。葬式の手伝いも出来ずに」
「いいのよ。秀介君が気に病むことないわ。町内会の人だって手伝ってくれたし、こうして来てくれただけでも十分よ。シノブだってきっとそう思ってる」
 おばさんと入れ替わりに、線香を上げた。仏壇に飾られたシノブの遺影には、大学時代に撮ったであろう写真が使われていた。髪を茶色に染めていて、今時のどこにでもいそうな若者だ。朗らかなその笑顔を眺めていると、死んだとはとても信じられなかった。こうして仏壇を前にしてもまるで実感がわかない。
 シノブが亡くなったのは丁度今年の始め頃だったらしい。そういえばその時期に母から度々電話があった。一度でも電話に出ていたら、せめて葬儀には出られただろう。面倒くさいと無視していた自分の愚かしさが恨めしかった。
「おばさん。シノブの部屋、見てもいいですか」
「ええ、構わないわよ」
 ふすまを開けると、見慣れた部屋が広がる。カーテンは締め切られており、机やベッドの上に少しだけ埃が積もっていた。それ以外は、いつものシノブの部屋だ。生前と何も変わらない。細かな遺品もそのままだった。
「あの子の家具、捨てられないのよ。掃除すると思い出しそうだから、あの子と過ごした日々の事」
 おばさんは悲しげな笑みを浮かべる。
「シノブね、家から出て行きたがってたの。就職したら秀介君みたいに都心で働きたいって」
「あいつがそんな事を?」
「直接言われたわけじゃないけどね。あの子自分を押し殺すところがあるから。でも分かるわよね、親子なんだから。多分あの子、秀介君を追いかけたかったんじゃないかしら」
「僕を?」
「あの子の先にはいつも秀介君がいた。あの子の生きる道標はあなただったのよ」
 僕は部屋に入るとベッドの側面にある壁を撫でた。この壁の向こうは僕の部屋だ。そっとシノブの名を呼んでみたが、返事はない。
 先ほどシノブと行った会話。あれは決して夢ではなかった。
 じゃあ一体、あれはなんなのだろう。
 一人の魂が、壁に取り込まれる。そんな現象が起こる可能性について僕は考えた。

 家に帰ると母が心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「あんた大丈夫かい? 顔色悪いよ」
「大丈夫。ただ、ちょっと休みたいかな。帰ってきたばかりで疲れてるし」
「じゃあ晩御飯出来るまで少し寝ときな」
「そうする」
 部屋に入るとふすまを閉めて電気を消した。窓を開けると風が入り込み、風鈴の音が優しく響く。雲は依然として紅く染まっているが、太陽はとっくに沈んでしまいその姿はない。ベッドの上に倒れると身体が沈みこんだ。目を瞑り、深く溜息をつく。
 久しぶりに帰省したら幼なじみが死んでいた。
 家に行くと、やつれたおばさんの姿と仏壇に飾られた死の余韻があった。
 帰ってきたと思ったら最低の事ばかりだ。正直混乱しているし、全然現実味がない。
「シノブ」
「何?」
 この声が、いつも通りの呑気な声が、僕に全く彼女の死を感じさせてくれなかった。
 やっぱり、夢ではないのだ。

 シノブは僕と二人きりの時だけ返事をしてくれた。母がいるときに話しかけても何の反応もない。母が出かけると、「ねぇ秀介」と話しかけてくる。会話している最中に母が帰ってくると突如として返事が途絶えた。
 シノブが僕以外の人間に声を聴かれる事を恐れているのか、それとも他に理由があるのかは分からなかった。僕はただ『そういう物』として受け止めるしかない。
 地元の友達とは全く遊ぶ気になれず、僕は毎日家で母がパートに行く間、シノブと会話することにつとめた。彼女との会話は取りとめがなく、時々僕は彼女が死んでいると言う事を忘れそうになった。
「ねえ秀介、こっちにはいつまでいるの?」
「あと三日ってところかな。一週間盆休みで貰ってるから」
「じゃあ今年も花火見れるね」
 盆に実家に帰ると、いつもシノブと花火大会を見ていた。ベランダに出ると建物の隙間から丁度花火が姿を現し、それをビール片手に二人で眺めるのだ。
 盆に眺める花火大会は、いつしか恒例行事になっていた。何も言わなくてもシノブはその日の予定をちゃんと空けているし、僕もそうだった。
「明日だっけ、花火大会」
「そだよ」
「じゃあまたベランダでビールでも飲みながら眺めるか」
「いいねぇ。賛成」
「もう完全におっさんだな、お前」
「せめておばさんって言ってよ。こっちは華も恥らう乙女ですよ」
 シノブの笑い声につられて僕も笑った。でも、上手く笑うことが出来なかった。
「……? どうしたの、秀介」
「いや、何でもない。ちょっとね」
「何よ、変なの」
「それよりお前、気づいてないのか?」
「何が?」
「いや、やっぱりいいや」
「どうしたのよ。なんか今日変だよ」
「……かもな」
 お前、気づいてないのか? 自分が死んでるってこと。
 尋ねてしまったらシノブが消えてしまう気がして怖かった。
 彼女が死んで初めて、僕はシノブが自分の心の大部分を占めていたと自覚していた。
「ねえ秀介、仕事って大変?」
「なんだよ、急に」
「良いから。わたしって今年で大学卒業じゃない。色々聞きたいのよ」
「仕事……ねぇ。まぁそれなりに大変だよ。何せ一年も帰ってこれないくらいだ。最初は慣れようとするだけであっという間に日が過ぎて行くさ」
「実家から通える場所で就職って出来るかな」
「どうだろうね。今は就職も厳しいから、あまり地域で限定しないほうがいいかも。地域で限定しすぎると、仕事内容に目が行かなくなるから。……シノブは地元就職が良いのか?」
「わたしが出て行ったらお母さん一人になっちゃうしね。それに最近は生活も苦しそうだったから……。しばらくは私が稼いでお母さんを助けようかなって」
「そっか」
「でも、ちょっとだけ都心の方にも興味があるんだ」
「一人暮らしは大変だぞ?」
「一人じゃないよ。あんたがいるじゃん」
 シノブは多分、自分が死んだ事を自覚していない。その事が余計に僕の胸を締め付けた。

       

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