Neetel Inside 文芸新都
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 講義室で座っていた。一号館の大講義室。山際にある建物で、高低差のあるうちの大学の中では最も高い場所となる。その後ろの目立たない場所に僕はいた。横に、網タイツとガーター、女性物の下着を身につけている怪しげなおじさんも座っていた。
「しかし退屈な講義だな。せっかく外の世界を拝んだのにこれじゃあ意味がない」
 おじさんはフワリと浮かび上がると空中に寝転がった。この講義室に来るまでに分かったが、この人の姿は僕にしか見えないようだ。
「文句を言うならトイレに戻ったらどうですか」
 周りの人に悟られないように、僕は小声で言った。おじさんと話していても、周囲からは僕が独り言を言っているようにしか見えない。外での会話はなるべく避けたい。
「なんで午後の昼下がりに便器を前にしなければならないんだ。それは違うだろう」
 何が違うのかはまるで分からんが、なんだかんだ文句を言いながらもおじさんがはしゃいでいる事だけは分かった。
 黒板の前には年老いた老人が立っており、先ほどからなにやら眠くなる呪文を唱えている。この講義は出席も取らず、テストも簡単なので別に出なくても良い。だが四限が入っているためこの講義をサボってしまうと非常に暇になってしまう。
 寝てしまおうかな。そう思っていると前の席の後頭部に目が留まった。
 あれはそう、同じゼミの佐伯さんじゃないか。
 佐伯さんは黒髪ロングヘアーが眩しい美女だ。そのスタイルや良し、性格や良し、頭脳や良し、と正に良いところだけを凝縮したような人間である。
 僕と彼女は同じゼミだった。三年間キャンパス内に友達どころか知り合いすらいなかった僕に親しげに話しかけてくれる時点で彼女がいかに心の綺麗な女性か把握できる。彼女は僕の憧れだった。
 佐伯さんは学部の友人らしき女性と講義を受けていた。佐伯さんの友人なら彼女もさぞかし性格が良いに違いない。
 佐伯さんは一輪の花だと僕は思う。ただ、そこらにある花とは違う。普通の花は様々な虫にその蜜を吸われてしまうが、佐伯さんと言う花はなんと穢れなき蝶しかその蜜を吸う事ができない。それ以外の汚れた虫が近寄ると花のあまりの美しさに浄化され、存在が消えうせる。
 僕が佐伯さんに見惚れていると、不意に汚物が上空からフェードインしてきた。
「なんだ、あの女の子が好きなのか」
 汚物はその汚い視線を佐伯さんに向ける。やめろ。
「同じゼミの子です。好きとか、そう言うのじゃありませんよ」
「何を言う。そんな目をして見つめているのに特別な感情がないなど、誰が信じるんだ」
 さすが神様とだけあって観察眼が鋭い。僕はぐっと言葉に詰まった。
「恋か、いいな、俺も若い頃は恋をしたもんだ」
「便所に巣くう神様でも恋をするんですか」
「あたりまえだろう? 彼女の名前は花子と言ってな、それはそれは美しい女性なんだよ。あの子を見ていると思い出す」
「その花子さんってひょっとして女子トイレの三番目の個室にいませんでした?」
 おじさんは目を丸くした。
「よく分かったな。どうして知っているんだ?」
「それ自縛霊って言うんですよ」
 僕は溜息をついた。と、ふと佐伯さんがこちらを見ている事に気がつく。驚いて思わず姿勢を正した。佐伯さんは僕が気付くと軽く微笑んで手を振ってくれた。僕も手を振る。
「可憐だ……」
「お前とは不釣合いそうな良い子じゃないか」
「うるさいな!」
 思ったより大きな声が出て自分でも驚いた。周囲の視線が僕に集まる。教授も驚いて講義を中断した。
「どうしました?」
 マイク越しに教授がそう尋ねてくる。僕は顔が熱くなるのを感じた。佐伯さんも見ている。
 僕は意を決して立ち上がると、後ろの方にいるギャル三人組を指差した。
「お、おおおお前らがうるさいから講義に集中できないじゃないか。不愉快だ、帰る!」
 適当に言いがかりをつけた僕は筆記具を鞄の中に詰め込むと、逃げるように教室をでた。

「最悪だ……」
 教室を去った僕は学内にあるファミリーマート前の階段で頭を抱えた。
「まさか叫ぶとはな」
 僕はおじさんを睨みつけた。おじさんは僕の視線に気付くと「おぉ、こわ」と体を震わせる。ムカつく。
「佐伯さんにキモイって思われてしまった……」
「大丈夫だ、お前は俺よりはキモくないって」
 当たり前だ。女性物の下着をはいた中年男性より気持悪かったら僕がこの世界で生きることは至極困難となる。
「次の講義までまだ時間あるのに、これからどうしよう……」
「暇なら図書館に行ってくれないか? あるだろう? 大学内に図書館くらい」
「図書館? まぁあるにはありますが」
 訳が分からない。図書館など行ってどうするのだ。
「まぁ詳しくは行ってから話すよ」
 さっきの出来事があったばかりなので素直にこの変態の言うことを聞くのも癪だったが、いかんせん他にやることもない。嫌々ながら僕は図書館に向かうことにした。
 図書館は大学入り口の近くにある。大きくて、他の大学に比べ蔵書も多いとゼミの教授が言っていたのを思い出す。
「実は俺が相棒を必要としたのにはな、ちょっとした理由があるんだ」
 図書館の入り口を通った時におじさんは口を開いた。
「調べたいことがあったんだよ。そのために相棒を必要とした」
「調べたいこと?」
 便所の神様は全国各地のトイレの中しか動くことができない。相棒を選ぶことで初めて便所外へ移動が出来るとおじさんは言っていた。
 トイレの中では決して分かり得ないこと、それを調べたいとおじさんは言う。
「何なんですか、調べたいことって」
「この世界の歴史と、その意味についてだよ」
 おじさんはその格好に相応しからぬ事を口にした。
「世界の歴史?」
「俺は何年も長い間トイレにいた。その間この世界がどうやって移動してきたのか、断片的にだが知っている。もしかしたら普通の人間が知らないような機密まで知ってしまっているかもしれない。トイレと言うのは人間がもっとも油断する場所の一つだからな」
 おじさんはそこで少し胸を張る。着けたブラジャーがミチリと音を立てる。
「だがそんな機密は知っていても、俺が知っているのは所詮『断片』でしかないと言う事だ。俺は全てを知らない。どういう流れで世界が動いたのかが分からないんだ。それはさながら推理小説で事件の内容とトリックは知っているが犯人が分からない状態に似ている。非常に中途半端なんだ」
「だから歴史を知りたいと?」
「俺はまず自分の持つ莫大な情報を整理する必要がある。歴史上の出来事と、情報の整合性をはからねばならない」
「整合性ねぇ」
 なんだかよく分からない話だ。そもそもこんな変質的な格好をした人間に難解な表現は似合わない。とりあえずおじさんは自分の知っていることが歴史上のどの出来事に当てはまるのか、一つ一つ調べていきたいのだろう。
「それでおじさんの目的はその整合性とやらを調べたら全て達成するんですか?」
「いや、それは始まりに過ぎない。そこから俺は、自分が神としてどうあるべきか、この世界における俺の存在意義、お前らの言い方に直すと生きる意味とやらを見つけたいと思っている。何事も考えを得るには知識が要るからな。無知は悪いことではない。だが損ではある。同じ問題でも凡人は二時間かかるが全知全能は二秒とかからないかもしれない。つまり知識って言うのは多く持てば持つほど確実に近道になると言うわけだ」
 見た目に合わず随分と深い考えを持つ変態だ。しかしそこで気になった。
「でも、おじさんの目的が世界の事を良く知ると言うことであれば何で僕を選んだんですか? もっと歴史家の人とか、教授とか、貴重な資料を見ることが出来る人物とか、人選は色々あったでしょう」
「うん、それは俺も考えたさ。だがな、物事には相性と言うものが存在する。相性が良い人間と一緒にいる時ほど俺は力を出しやすい。それに変に権力を持つ人間だとしたら、もしかしたら俺の能力が悪用されるかもしれない。そこらへんも危惧した」
 便意を操る能力などさほど利用価値もない。しかしその事を言うと下痢にされるかもしれないので黙っておいた。
「俺にとって最も都合が良かったのは、暇で、こちらの言うことを聞きそうで、秘密をばらす友達もおらず、勉強もさほどしておらず、性格は心底大人しい、いわゆる陰キャラで、趣味もなく、便所と愛称が良く、便所飯がうまいやつ」
 おじさんは少し間を置いたあと、僕の肩にポンッと手を置いた。
「つまり総じて言えば存在が便所、お前だ」
 僕は振り返るとおじさんに向かって拳をふるった。しかしおじさんは天井近くを飛び、攻撃が届かない。きっと周囲には僕がシャドーボクシングしているように見えただろう。
「まぁそう怒るな、俺の目的を達成したらお前の願いを叶えてやるから」
「願いを?」僕は拳を緩めた。「それは何でも叶えてくれるって事ですか?」
「俺が出来る範囲でな」
 おじさんは頷いた。僕はそれを聞いて肩を落とす。
「どうした、どうしてそんな失望したような顔をしている」
「いくら神様と言えども所詮は便所。お通じをよくするとか、せいぜいその程度の願いしか出来ないと思って」
「失礼な、俺を誰だと思ってやがる」
 おじさんは怒ったように顔を歪めると鼻息をフンッと鳴らした。それと同時に鼻水が飛び散る。汚い。どうやら予想外の出来事だったらしく、おじさんは慌てて丸めたティッシュをブラジャーから取り出すと鼻をかんだ。詰め物をしていたのか、僕は震撼した。
「俺は神だ。全知全能とか不老不死とか死んだ人間を生き返らせるとかお前をお洒落でイケメンにするとか、そんな倫理に反したことはとても出来ないが、それでも結構色々出来るんだからな」
「なんで僕をイケメンにするのが倫理に反するんですか」
 僕はムッとした。おじさんは当然と言いたげに腕を組む。
「世の中には理ってものがあるんだよ。皆顔が良かったらイケメンの価値はなくなるだろ? 陰キャラで不細工な奴がいて始めて世界は回るんだ。つまりそんなスーパーに売ってそうな服装してないで、自分でどうにかしろってこった。まずはユニクロの服を使って、そこからレベルを上げて上手くお洒落になっていくんだよ」
「黙れ変態」
 こんな変態にまさか服装でダメだしを食らうとは。悲しみは海より深かった。
「とにかく俺に協力してくれるのであれば悪いようにはしないよ。今のうちに願いを決めておくんだな」
「まぁ、別にいいですけどね……」
 これだけ何も期待できないのは珍しい。

 四限が始まるまで、ずっと図書館で調べ物をしていた。まずは大雑把な世界の歴史から、アジア史、西洋史、日本史まで。僕はおじさんの命令通りにページをめくり、資料を運ばされ、読めない漢字を読んであげた。漢字くらい読めろよ。
「ふーむ」おじさんはアゴに手を当てて何やら考える。「ふーむむむ」
「あの、いいかげんにしてくれませんか。そろそろ僕も体力の限界です。次の講義も始まるし、今日はこれくらいにしましょう」
「うーむ」おじさんは首をひねる。まるで人の話を聞いていない。何を話しかけても反応がないので、仕方なく僕は取ってきた資料を全て棚に戻した。
 図書館を出て四限目の教室に行くと驚くことに誰もいなかった。もしやと思い確認すると掲示板に『休講』の文字。最悪だ。おじさんはその間も僕の頭上で呻きながらクルクル浮遊しており、鬱陶しい事この上なかった。
 自転車に乗り大学から五分の場所にある自宅へと向かう。小さな学生アパートの一室で、中はそれほど広くない。家に入ると乾いたドアの音と、妙に生活感のない我が家が僕を出迎えてくれた。
「ここがお前の部屋か、意外ときれいだな。神経質そうな男の部屋って感じだ」
 いつの間にか呻くのをやめたおじさんが天井付近を浮遊しながら言う。やはり鬱陶しい。
「なんか悩んでたみたいですけどもう大丈夫なんですか」
「悩んでた? 俺がか?」
「歴史書見てなんか難しそうな顔してましたよ」
 するとおじさんは「あぁ」と納得したように声を出した。
「あれはな、あの書物に書かれていた事が一切わからなかっただけなんだ」
「えっ? それって」
「ああ」
 おじさんは僕の隣に降りてきて僕の肩をぽんと叩いた。
「お前のやったことはまるで無駄だったと言うわけさ」
 僕は台所から包丁を取り出すと掃除機の筒にガムテープで固定し、簡易的な槍を作った。空に逃げてもこれなら刺せる。
「わかった、わかったからその物騒な物をしまってくれ。俺は神様だぞ」
「便所のな」僕は槍を持ってずいとおじさんに迫った。おじさんは一歩距離を置く。「人を下痢にする神様などこの世にいなくてもいいだろう」
「待て、それは違うぞお前、それは待て」
「代名詞が少し不自由なようですね、変態」
「しかたない、わかったよ。お前の願い、何でも一つ叶えてやろう」
「えっ?」
「だから振り回したお詫びだよ。お前の願いを叶えてやる」
「じゃあ出来れば今すぐこの契約とやらを破棄して僕の前から消えて欲しいんですが」
「それはちょっと出来ない相談だな」
「どうしてです? もう目的は果たしたでしょう。歴史を調べて神様としての存在がどうのと言いながら、あまりにも学がなさ過ぎたんですから。あと四百年は便所の中で勉強しやがってください」
「待て、待てよ。俺は初めて便所から外に出たんだ。嬉しいんだよ。外の世界を歩けたんだから。もう少しだけ俺に猶予をくれよ。他の願いなら叶えてやるから」
 必死なおじさんを見て、僕は少し哀れになった。考えてみたらこの人も今まであんな臭い場所に閉じ込められてきて辛い目にあったのだろう。ここで無下に追い返すのは人として失格かもしれない。
 僕は槍を地面に置いた。
「分かりましたよ。じゃあ、どんな願いなら叶えてくれるんです?」
 するとおじさんは「それはな」と口を開いた。その途端彼の口から唾が飛び、部屋のカーペットにかかる。おじさんはブラからティッシュを取り出すと慌てて唾を拭いた。
「さっきのゼミの子とかはどうだ?」
「佐伯さんですか?」ドキリとする。
「そうだ、その女子とお前をくっつけてやろう。どうだ? 文句ないだろ」
 確かに佐伯さんと付き合えたら最高だろう。生きていて良かった、そう思えるかもしれない。
「確かに文句はないですけど……遠慮しときます」
 僕の答えにおじさんは「えぇっ」と驚愕した。それと同時に彼の鼻水が飛び散る。おじさんはティッシュで拭く。お前は何なんだ。
「どうして断るんだ。最高の条件だろう」
 僕は肩をすくめた。
「確かに最高です。冴えない僕が佐伯さんと付き合えば、それだけで世界が変わると思います。でも違うんですよ。神様の力で佐伯さんと付き合ったところで、それは佐伯さんの本心とはまるで違うんです。偽りの心で付き合ってもらっても、僕は全くうれしくない」
 いくら魔法みたいな力で人の心を変えたって、所詮それはまがい物でしかない。好きな人の心を歪めてまで自分の私欲を満たしたいとは、僕は到底思えない。
「お前、意外と良い奴だったんだな」
「意外と、は余計です」僕は包丁を固定しているガムテープを剥がす。
「俺はてっきり、お前はただのピーピング男かと」
「誰がピーピング男だ。……まぁ、そんなわけで願いはまた今度に持ち越しますよ」
「まぁ、決まったらいつでも言えよ」
「わかりましたよ。今日のところは便所に戻ってください」
「わかった」
 おじさんが消えると、またいつもの静かな一人部屋に戻った。隣の住民が友人を連れてきているらしく、笑い声が聞こえる。最悪だ。
 便所の神と契約したことで、僕の人生も少しは変わるのだろうか。

       

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