Neetel Inside 文芸新都
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 僕の横には、佐伯さんがいる。こっちを向いて微笑んでいる。まるで月だ。凛としていて、一等美しい。その輝きたるや、万丈だ。湿っぽい空虚な僕の生活スペースが、アルプスの広大な草原みたく輝く。世界を見渡せる丘から手のひらにも及ぶ大きな月を眺めているような、そんな心地よさが心を満たす。きらきらと優艶な光が僕をとりまく世界を包む。
「さ、佐伯さん……」
「どうしたの、久保君」
 どうしてここに、なんて言えない。そんな事を言って彼女が帰ってしまったら、そう思うと何も言葉が出なかった。僕の世界に、一分一秒でも長く彼女を引きとどめたかった。
 そんな折、電話の音が鳴った。
「電話だぞ」便所の神の声がする。
 はっと部屋の中を見渡すと、わけが分からないくらいたくさんの固定電話が置かれていた。壁に引っかかっていたり、天井からぶら下がっていたり、窓にくっついていたり、床にめり込んでいたり。
 僕は一つ電話の受話器をとった。しかし音は止まない。この電話じゃない。次の受話器、これでもない。次。駄目だ。一体どれだ、どの電話が鳴っているのだ。
「なんだアラームか。早くしろよ、さもないと学校に遅れるぞ」
「うるさいな、分かってるよ!」
 叫んだ自分の声で目が覚めた。急な場面転換に意識が覚束ない。視界が巡るなか、無意識のうちに枕元に手を伸ばした。鳴っているのは携帯の着信音だ。黒電話と同じ音が鳴るように設定してある。
「もう九時か……」
 一限は入れていない。二限目は確かゼミだ。僕が一週間で楽しみにしている日──佐伯さんに会える時間だ。サボるわけにはいかない。アラームを止めて天井を眺めているとにゅっと仮面を着けたおじさんが視界に入り込んできた。
「うわぁ」
「うわぁとは何だ。人がせっかく起こしてやったのに」
 おじさんはぷりぷりと怒りの声を出した。妙に愛くるしいので逆に殴りたくなる。
「起こしたって、いつ起こしたんですか」
「さっきから声かけてただろ。お前も返事したじゃないか」
「あー……」
 そういえば夢の中でおじさんの声が響いていた。時折現実の物音が夢の中に介入してくる事があるが、それにしても入り込んできたのがこんな変態の生声だと思うとげんなりする。
「確かに。どうもすいません」一応礼を言っておく。
「お前、すごい寝起き悪いんだな」
「いや、いつもはそんなことないんですけど」
 いい夢を見ていた時に介入されたのでついイラついた声が出てしまったのだ。僕は身体を起こすと、思い切り溜息を吐いた。
「朝一でそんな重たい溜息つくなよ。いい若者が」
「……」一々口うるさい神である。
 便所の神と過ごして五日が経った。相変わらず慣れることのない日常。
 軽くシャワーと朝食を済ませて学校へ向かった。水曜日はどの学部も二限目までしか講義がない。そのためこの日を休みにする学生も多く、朝の大学にはほとんど人の姿はなかった。春学期も中間を越え、サボりだす人がピークになる時期だ。当然だろう。
 キャンパス入り口から一番近い場所にあるくせに、妙に存在感のない法学部棟へと足を踏み入れる。二階奥の演習室が、毎週ゼミの教室として割り当てられていた。
 全部で二十人ほどのゼミ。女子と男子の人数はほぼ半々。いわゆる『リア充ゼミ』と言うやつだ。友達も多くて、日々楽しんでいる、私生活が充実している人間をリア充と呼ぶらしい。そんな人たちが固まったゼミだ。もっとも、僕にとってはまるで地獄なのだが。佐伯さんがいなければ恐らく離脱していた。
 ゼミのテーマが「ナショナリズム」だったので、興味を惹かれてつい入ってしまったのがきっかけだった。だが一部の学生の間では「楽なゼミ」として有名だったらしい。結果としてチャラチャラした学生が多いゼミになってしまった。純粋にゼミのテーマに興味があって入ってきたのは、僕と佐伯さんだけだった。
 過去数回、ゼミで飲み会があったらしい。らしい、と言うのも僕は誘われていないからだ。皆が仲睦ましげにディベートする中、僕はいつも黙っている。先生の出した真面目な議題はまるでおふざけみたく茶化され、変えられ、最近のどうでも良い芸能関係の話題へと移行させられる。先生はその様子をニコニコ笑って見ているだけだ。
 一度、グループ発表と言う形で二人一組になったことがある。高校時代のトラウマから二人一組など僕にとっては恐怖にも近い存在だったが、その時僕に声を掛けてきてくれたのが佐伯さんだった。他の男子からの誘いを全て断って、わざわざ彼女は僕に声を掛けてきてくれた。
「久保君、ちゃんとしたナショナリズムがやりたいんでしょ? 実は私もなの。だから、久保君とならいい発表が出来るかなって。迷惑かな?」
「うううううん、びょびょくもしょうだにゃって」
 あの時の僕は、ミステリ小説で犯人の名前を言おうとして死んでしまう人並に酷かった。早口でどもっていて何を言っているのか分からなかったはずだ。それでも佐伯さんはにこにこしていた。全く裏に含みのない笑みを浮かべて。
 彼女と一緒に課題を作ったのはたった一週間だったが、そのわずかな間でも佐伯さんと言う人が女神のように心美しい女性だと知る事が出来た。裏表のない、ただひたすら人を好きな人。そんな穢れない存在がこの世にあるなんて。
 彼女と付き合いたいとは思わない。彼女がどこか素敵な男性と恋仲に落ちて、幸せな家庭を築いてくれればいい。僕はその光景が見れたらそれだけで満足だ。自分の好きな人が幸せになってくれる。それ以上の喜びがあるだろうか。

 ゼミの教室は長机が会議室のように向き合っている部屋で、その一番奥の席に佐伯さんが座って本を読んでいた。他には誰もいない。壁にかかる時計を見ると、まだ一限目の講義が終わっていない。佐伯さんも水曜日はゼミしか入れていないのだ。
「おはよう、久保君」
 胸が高鳴った。一瞬で全身から汗がほとばしる。髪の毛が逆立つ感覚すらした。
「おおお、おは、おはおはおはおはよう、佐伯さん。ず、随分早いんだね」
「どもり過ぎだろ……。早口で声小さいし、これだからコミュ障は」後ろからおじさんが呟くが無視する。
「あら、私はいつもこの時間には教室にいるわよ? 久保君こそ、今日は随分早いんじゃない?」
「あ、ああ。なななんだか今日は目が冴えちゃって」
「俺のおかげでな」無視だ、無視。いまこの空間には僕と佐伯さんしか存在しない。
「そうなんだ」
「はは、うん」僕は入り口近くの席に腰掛ける。
「何でそんな微妙に間隔空けて座るんだ。どうせなら思い切って隣に腰掛けたら良いじゃないか」
 ぶぅぶぅ言うおじさんを何とか視界から外す。するとおじさんは空中を飛んで僕の視界に入り込んできた。
「人の話を聞いているのか、お前は。大体今、お前からすれば俺が話しているが、彼女からすれば漂っているのは沈黙だ、沈黙。無だ、無」
 おじさんは空中をふわふわ浮かんでいる。出来ればシャープペンシルで突き殺してやりたかったが、佐伯さんの手前そうもいかない。一体どうした物かと思っているとおじさんは「ぶぇくしょーい!」とでかいクシャミをした。鬱陶しい事この上ない。
 そうこうしているうちにチャイムが鳴り、他のゼミ生達が集まってきた。教室はいつも通りの活気を取り戻し、僕は相変わらず沈黙する。席譲ってくれるかなと言われ、どんどん端の方に追い込まれる。そうこうしているうちに居心地が悪くなり、僕は荷物だけ残してトイレへと立った。
「ふぅ……」個室で腰を落とし、ようやく落ち着く。目の前におじさんが仁王立ちしているのが分かった。
「お前はホンッとにヘタレだな。好きな女とマンツーマンで話も出来ないのか」
「出来ないですよ、普通」
「まぁ確かにそれが出来たら友達もいるってもんだな」
 わっはっはとおじさんは大声で笑う。一体どうやって殺してやろうかと考えているとトイレに誰かが入ってくる気配がした。僕はそこで息を殺す。
「今日の飲み会どうするよ?」
「いつもの場所でいいんじゃね?」
 ゼミの奴等だと気付く。
「誰誘う?」
「とりあえず全員。戻ったら声かければいいんじゃね?」
「だな。あ、でも久保どうすんの?」
 ドキリとした。どうやら個室に僕が居る事には気付いてないらしい。
「あいつ誘っても来ないしな。良いだろ、別に」
「まぁ来たところでだしな」
「……」
 ざぁっと小便器の水が流れる音がして、やがて二人は出て行った。僕はそっと息を吐き出す。ホッとした気持ちと、胸の痛みとが同時に襲ってきていた。おじさんは僕の傍に立っているだけで、何も言わない。
「個室にいると妙に安心するんですよね。便所飯を始めたのも、それがきっかけでした」
 誰にも見られない安堵感。この室内では、干渉されると言う事がおよそ全くと言っていいほどない。その絶対的に確立された空間は、いつしか僕にとって必要不可欠になっていた。
 一人でご飯を食べるのは平気だと思っていた。でも違う。誰もいない中一人でいるのと、周囲が楽しそうにしている中一人でいるのとでは格段に違ったのだ。
「お前、何で飲み会行かないんだ」
「苦手なんですよ。どれだけ無理して人と話したって気付いたらいつも一人になってるし。お酒もそんなに飲めなくて。帰ったら残るのがタバコ臭い服だけ。惨めになるんです」
「逃げてばっかりいたらずっと一人だぞ」
「逃げてるわけじゃないんです。ゼミの時は、頑張って行こうって思ってました。僕だって佐伯さんと仲良くなりたかったんだから。行かなかったんじゃないんです。誘われなかったんです」
 おじさんは拳をギュッと握り締める。震えていた。僕の為に、憤ってくれているのか。
「おじさん……」
「ぶふぅ」
 奴は笑っていた。
「ふふ、まさかこんな根っからの便所人間がいたとは。飲み会誘われないってお前、それ、ぶふっ、ぷふ。なまじそれをちょっとシリアス調に語ってるところが笑える。グヒィ」
 おじさんはとうとう我慢できなくなったのか空中を転げまわりながら爆笑しだした。
「殺す」
 僕が立ち上がるとおじさんはひぃひぃと息をつきながら口を開く。
「ま、待て。待ってくれ。お前に会わせたい人が出来た」
「往生際の悪い」
「その子ならお前の恋愛相談にも乗ってくれるだろうよ。お前変えたくないの? 今の自分を」
「変えたくないわけないでしょう!」
 僕が叫ぶとおじさんはビックリしたような顔を浮かべたあと、ニヤリと笑った。
「よし、じゃあ決まりだ。後でお前の部屋に連れて行ってやるよ」
「誰が来るんですか」
「俺の初恋の女性だ」
 やめろ。

       

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