Neetel Inside 文芸新都
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 街を見たいんや、とコノハは言った。
 彼女がこの様に人の形を持つ事が出来たのはどうやら今回が初めてらしい。人と会話するのも、僕が初めてだと言う。先ほどの彼女はなれた仕草で僕に話しかけていた。とてもそうは見えない。
 坂の上に置いてきた自転車が気がかりだったが、盗まれる事はないだろうと高をくくり、僕らはゆっくり歩いて坂を下った。
「街なんか見てどうするのさ。今日中に対策を練らないと、明日お前は消えちゃうんだぜ?」
「そんなん別に構わんわ。うちはもう長いこと生きた。今更どんな形で幕を閉じようと別に構やせん。それより気がかりなんは、長年見続けたこの街の景色がどうなっとるか知らんまま死んでしまう事や」
 彼女は平然と『死』を口にする。その言葉に後頭部を打たれるのにも似た鈍い痛みを覚えた。美しく澱みのない表情は、既に死を受け入れている、むしろやっと死ねると言いたげだ。どうしてそんな顔が出来るのか、僕には分からなかった。
「でも、今からどこに行くんだよ」
 あれだけ神木を心配したのに、当の本人がこの調子なので思わず不満が声に出る。彼女はそんな僕の様子など微塵も気にしていない。ますます不服だ。
「そやな、とりあえずどこでもええんやけど、海行こか。浜辺が見たい」
「浜辺? あんなところ見ても面白くないよ」
「とりあえずや、とりあえず」
 二人並んで、近づく夏の気配の中、歩く。不思議なことにコノハの姿は僕以外の人には見えていないようだった。和服でこの容姿だ。目立たないはずがない。それなのにすれ違う人は誰一人として彼女に視線を向けないのだ。
 ずっと坂を下ると、終着点である浜辺が姿を現した。
「到着や。随分長いこと歩いたなぁ」
「当たり前じゃん。自転車がないと三十分はかかるよ」
 来た道を振り返る彼女に釣られて、僕も道を見上げた。
 街の真ん中を頂上まで突き抜け、色々な場所に派生する坂道は、神木に似ていた。

 浜辺では朝早くから猟師達が船を出している。彼らの朝は驚くほどに早い。一度目の漁を終えたらしく、船から魚を降ろしている所だった。沿岸には海女の姿もうかがえる。
 波の音が緩やかで、どこか遠くからカモメの声が聞こえていた。空は海を反射したような青さで、仄かに磯の香りが鼻腔をくすぐる。
 漁師や海女の中には友達の親もいて、彼らは僕を見つけると手を振ってくれた。彼らもやはりコノハが見えていないようだ。
「昔からえらい綺麗な海や思とったけど、やっぱり実際来て見ると迫力が違うなぁ。それにゴミ一つない。綺麗な砂浜や」コノハは真っ青な海を見て溜息を漏らす。
「そうかなぁ」
 彼女が大げさに口にするほど綺麗な光景には見えない。見慣れてしまったからだろうか。でもゴミがないのは事実だ。この街の人間は基本的にポイ捨てをしない。もしかしたらそれは、この自然豊かな街の風景を崩したくないと言う住民の願いが深層心理に働きかけているのかもしれない。今の彼女の言葉を耳にするとそう思う。
「あっ」
「どうしたの?」急に声を上げた彼女を僕は見上げる。
 コノハは砂浜の端の方を指差していた。
「祠があるやん」
「祠?」
 僕は目を細めた。確かに、浜辺と山の境目、木々に埋もれた小さな鳥居がぽつんと見えた。十年以上この街に住んでいるがそんなものがあるなど今まで全く気付かなかった。
 近づいてみると鳥居はボロボロに色あせており、どれくらいの間ここにこうしてあったのか容易に想像できた。
「ケンヤ、ここは何の祠なん?」
 知らないよ、と言おうとしてふと鳥居の上に書かれた文字に目が留まった。

『村上 七左衛門(むらかみ たんざえもん)』

 どこかで耳にした事がある。
「あ、分かった。これこの街を作った人の祠だよ。学校の裏手にその人のお墓があって、街の色んな場所に祠が作られてるんだ」
 しかしコノハは何も答えなかった。奇妙に思い彼女を見る。鳥居を見上げた彼女の表情は僕の背丈では伺うことは出来なかった。
「コノハ……?」
 心配して着物の袖をそっと引っ張ると、ハッと彼女はこちらを振り返った。
「あ、あぁ、ごめんなぁ。村上って聞いてビックリしてしもたんや」
「ビックリ? 何で?」
「そやなぁ。……なぁケンヤ、うちをその村上の墓まで案内してくれんか? 理由は歩きながら話すわ」
「別に良いけど……」よく分からずに、困惑したまま僕は頷いた。
 浜辺を出る時に彼女はちらりと祠をいちべつした。
 その時の彼女の視線には形容しがたい情愛に似た何かが込められている気がした。

       

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