見慣れた街を歩く。太陽が随分と昇って来ていた。涼やかな潮風が雲を流す。
「村上はな、うちの旧友みたいなもんや」
歩く中で、コノハは静かに語る。
「うちは昔、山の向こう側にある小さな村で生まれたんや」
「山の向こう?」
奇妙に思う。この辺りに村などないからだ。別の街に行くにはバスで数時間はかかる。この街はまるで陸の孤島のような存在なのに。
「今はもうない。戦で潰れてしもうたからな」
それは、いつ頃の話なのだろう。僕には到底想像がつかない。
「村の子供に葉を千切られ、枝を折られ。苗木やったうちは弱りきっとった。誰もうちの叫び声を聞いてくれる人はおらんかったんや」
村上以外はな、とコノハは付け加える。懐かしむように、遠い目をしていた。
「村上さんがコノハをこの街に埋めてくれたの?」
コノハは静かに頷く。風に髪をなびかせながら。
「村上は優しい男やった。毎日うちに話しかけたり、水をやってくれてたんや。うちが弱った時も、あいつはここまでうちを運んで、添え木をしてくれた。うちが独りで生きられるようになるまで、辛抱強く面倒見てくれたんや。うちが大きくなった時、あいつはいつしかここに住んで、仲間を集めて、街を作っとった。おかげで、ちぃとも寂しくなかったわ」
僕は神木が生えていた広場を思い出す。あそこまで不自然な空間になっていたのは、大きくなっていく神木の成長を止めないよう、村上さんが周囲の木々を切ったからではないだろうか。
彼は象徴にしたかったのだ。コノハを、神木を。まだ苗木だったコノハを見て、やがて大きく成長すると分かっていたからこそ山の頂上に移した。
「村上が死んでからも、うちには街の子供達がおった。毎日うちの根元で遊んで、楽しそうに笑ってくれる。それだけでうちは嬉しかったんや」
コノハはそう言うと、着物の裾をスッとめくり上げた。真っ白な足に、小さな傷。
それはよくみると相合傘だった。
「これはケンヤが生まれるずっと前に書かれたもんや。うちの体には、街の歴史が染みついとる」
死んでしまった村上さんの代わりに、彼女は長い間この街を見守ってきたのだ。
学校の裏手にある村上さんのお墓は、ずいぶん古びていた。山のふもとで、大きな石碑の様に静かにたたずんでいる。墓石には蔦が巻きつき、その歴史の長さが垣間見えた。
「久しいなぁ。ホンマに、久しぶりや」
コノハは笑みを浮かべる。
「あんたが逝ってしもてから随分経った。長いようであっという間やったわ」
まるで目の前にいる人物に語りかけるように、彼女は言葉を紡いでいった。
もうすぐ、あんたと久々の再会になるなぁ。その彼女の言葉が、いつまでも耳に貼り付いて離れなかった。
その後も、コノハと僕は街をずっと見て回った。
学校の中を巡り、田畑を眺め、スーパーに行き、僕の家にも案内した。
コノハの姿はやはり僕以外の誰にも見えていなかった。
それでも、コノハは幸せそうだった。
自分の見守って来た街の住民達が幸福な毎日を送っていて、その姿を目の当たりにする度に彼女はそっと目を細めていた。
再び神木の前に戻ってきた時には、既に陽は沈み始めていた。夕景が空を突き抜け、僕らを包み込む。手すりの向こう側には街が見下ろせ、どこか懐かしい香りが漂い始めていた。
「やっと終点やな」
坂を上りきって広場に入ると風が吹き、音に埋もれる。
「ケンヤ、今日一日ご苦労さんや」
彼女は僕の頭を優しく撫でた。何だか嬉しくなり、自然と顔に笑みが浮かぶ。
コノハはゆっくりと街の景色に視線を移すと、綺麗な街やなぁと言った。
「この景色をもう何年見たんやろ。ホンマにいつ見ても飽きひんかった」
その声は僕に語っている訳ではない。強いて言うなら、彼女は自分に語りかけていた。
「大好きなこの街で死ねるなら本望や。でも、未練があるとすればもっと遠くを見たかったな」
「遠く?」
「遠い世界、海の向こう、山の向こうに広がる景色を見てみたかった。まぁ、木として生まれたからにはそれは無理ねんけどな」
自嘲気味に彼女は薄く笑う。悲しい表情。何だか見ていられず、僕は自然とうつむいてしまった。風にコノハの着物が揺れ、足の傷が姿を現す。
まだ父が生きていた頃、この神木を使ってよく遊んだ。木登りもしたし、かくれんぼもした。ある日、たまたま父と見つけた木の根元にある隙間に入り込んだ。今では到底は入れそうもない小さな隙間で、中はいい具合に空洞になっていた。空洞の中に入り込んだ僕を見て父はまるで秘密基地だな、と優しく笑った。あの空洞はいつしか体が大きくなるにつれ入れなくなり、木が成長したのか、空洞もなくなってしまった。
「父さんもな、子供の頃よくこの木で遊んだもんだよ」
ある日、父は神木の根元にある傷を触りながら言った。
「この傷を見てごらん。これは父さんがカッターで掘った物なんだ。当時好きな女の子がいてね、この気に相合傘を書けば願いが叶うと思ったんだよ。ペンで書くんじゃすぐ消えちゃうから、カッターでわざわざ彫ってね。今考えると酷い事をしたもんだ。木も生きてるのにな」
そうか、この傷は……。
「ケンヤ、やっぱりここにいたんか」
背後から声がし、振り向くとじっちゃんが立っていた。じっちゃんは僕が気付くとゆっくり歩み寄ってくる。
「何やっとんじゃいなこんな所で。立ち入り禁止じゃろ」
「いや……」咄嗟のことに口ごもった。なんと言えばいいのだろうか。木を守りに? 違う。懐かしんでいただけだ、神木との思い出を。コノハは死を受け止めている。彼女の中の決心に、いつしか僕の中の灯火は揺らぎ、その形を変えていた。「じっちゃんこそ、何しに来たんだよ」
「探しに来たんじゃよ、お前を。もう晩飯なのにちぃとも帰って来んからな」
じっちゃんは別に怒っていなかった。入ってはいけない場所にいた僕を、さも当然のように受け止めていた。
「もうお別れはすんだんか?」じっちゃんは木を見上げる。
「いや、まだ……」
僕はコノハの方を見た。しかしそこに彼女の姿はなかった。かわりに神木がサヤサヤと揺れているばかりだ。
「コノハ?」
しかし返事はない。
「コノハ! どこだよ!」
僕は辺りを見回す。どこにも彼女はいない。まるで最初からそんな人物、存在しなかったように。
僕は何となく分かっていた。
コノハはもう、神木に還ったのだ。
木を見上げると、一枚だけ、緑色の葉がゆっくりと僕の手元に落ちてきた。僕はそれを両手で受け止める。艶やかな葉が手のひらに乗り、僕はそれを両手で包み込んだ。
「ケンヤ、最後にお別れしとけ」
じっちゃんは何か尋ねるでもなく、ただ静かに僕の肩に手を置いた。
今日一日彼女と行動したのは、ひょっとしたら僕の夢だったのではないだろうか。本当はこの木が切られることなどなく、これからもこの街であり続けてくれるのではないだろうか。
でもそうではないのは分かっている。草木の囁きが、それを証明していた。
「さよなら、コノハ」
僕はそっと呟くと、神木に背を向けた。
「ケンヤ、元気で」
広場を出るとき、風に乗ってそんな声が聞こえた。
翌日、山の上の大木が倒れ、街を揺らした。