Neetel Inside 文芸新都
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 中学への進学と同時に僕は街を出た。都会にある寮制の中学に入り、そのまま高校を卒業するまで滅多に街に帰ってくることはなかった。大学に入ってからもアルバイトをしながら独り暮らしをし、そのまま卒業した。
 去年から仕事を始め、今でようやく一年半になる。
 暮らしもどうにか落ち着いてきた時、ふと押入れから懐かしい物が出てきた。帰郷を決めたのはそれが理由だ。
 ガレージに車を止めると、窓を誰かがノックした。長い髪の女性で、夏らしい白のワンピースを着ている。見覚えがある気はするものの、誰だか思い出せない。
「ケンヤ、久しぶりだねぇ」
 車から出ると女性は嬉しそうに声を掛けてきた。やはり誰だかわからず、首を捻る。
「覚えとらんのか? 向かいの家の翔子ちゃんじゃよ」じっちゃんが言う。
「えっ? 翔子? ホントに?」
 昔の面影がまるでない。随分女らしくなった。
「そうじゃよ、お前が久々に帰ってくると言うのでまだかまだかと何度も電話してきて大変じゃったんじゃ──」
 そこでじっちゃんは翔子に首を絞められ黙った。
「やだなぁじいちゃん、あたしがこんなピーナッツボーイの帰郷を楽しみにするはずないじゃない」ミキミキと人体から放たれてはいけない音がする。じっちゃんが七十年の人生に終止符を打とうとしている。
「翔子、それ以上やったらじっちゃん死ぬから」
「あっ──」
 僕の言葉でようやく翔子はハッとして手を離した。なるほど、性格はあまり昔と変わらない。
「あははは、ごめんねぇじいちゃん、変なこと言うから」
「ワシは今確かに死んだばあさんを見た……」
「やだなぁ、心配しなくてもそのうち会えるって。それよりケンヤ、おばさんも中で待ってるし、早く行こう」
「う、うん」
 僕は翔子に押されるようにして久々の我が家に足を踏み入れた。ばっちゃんは数年前に亡くなり、今ではじっちゃんと母が二人で生活している。
 ばっちゃんの仏壇に線香を上げ、リビングの席に座った。
「仕事はどう? ちゃんとやってる?」向かいに座る母が口を開く。髪に随分白い物が増えた。
「うん、最近お得意様に気に入られて色々と仕事を任せてもらえてるよ」
「ご飯はちゃんと食べてるの?」翔子が言う。
「まぁ、一応自炊はしてるけど……」
「彼女は?」
「いや、今はいないけど……」
「『今は』って事は昔はいたんだ! おばさん、この子不潔ですよ。不潔男子です」翔子はやたらとわめく。僕も母もその様子に苦笑した。
「それで、今まで滅多に帰ってこなかったあんたがわざわざここまで足を運んだのはどう言った理由?」
 さすが母親だ。単純な帰郷でないことはお見通しと言うわけか。
「あれ、帰ってきたらまずかったかな」
「そうじゃないけど、ちょっと気になってね」
「なるほど」
 僕は鞄からシルバーの名刺ケースを取り出すと机の上に置いた。
「何それ?」翔子が顔を覗き込ませる。
「名刺ケースは父さんの。中には昔、友達からもらったものが入ってるんだ。今日はそれを返しに来た。……翔子、後で公園行かない? 山の上の」
「え、良いけど」
「よし、決まりだ」
 笑う僕に、母と翔子は不思議そうに顔を見合わせる。じっちゃんだけが、何かを察したように笑みを浮かべていた。

 学校の裏手まで来ると、翔子が首を傾げた。
「ねぇ、こんなとこに来てどうするの?」
「ちょっとね、墓参り」
「こんなところにお墓なんてあったっけ?」
「一人だけあるんだよ」
 夏の木々は一層深く生い茂り、木漏れ日が地面を反射する。枝と枝が絡み合い、まるで木のトンネルの様になっている道の先に、村上さんのお墓はあった。定期的に補修されているのだろう、思っていたよりも朽ちてはいない。どこか懐かしい感じがする。
「へぇ、こんな所初めてきた」
「普段に足を運ぶようなところじゃないからね」
 僕は名刺ケースを墓石の前に置くと、手を合わせて静かに目を瞑った。
 二人は今、幸せに暮らしているのだろうか。
 顔を上げると一瞬だけ、墓石に座ってこちらに笑いかけるコノハの姿が見えた気がした。
 拝み終えると、名刺ケースを回収して翔子のところに戻った。
「ごめん、お待たせ」
「ねぇ、あのお墓って誰の?」
「この街の創設者だよ」
「創設者? 何でそんなお墓にお参りするの?」
「そうだな、ちょっと長くなるから帰ってから話すよ。どうせ晩御飯食べてくだろ?」
「もちろん」

 十数年ぶりにやってきた広場は、すっかり森に囲まれた公園として様変わりしていた。
 かつて神木だった太い幹は円形のベンチとして姿を変えている。公園にある木造の遊具やベンチ、それらは全て神木から作られたものだ。日が差し込み、子供達がサッカーや鬼ごっこをして遊んでいる。手すりからは相変わらず街並みが見渡せ、更にその向こうには海が広がっていた。吹き付ける潮風が森の香りを運ぶ。心地がいい。
「昔さ、ここがどんな公園になるか想像したじゃん」翔子は手すりに持たれ、懐かしむように目を細めた。
「ケンヤ、ずっと神木にこだわってたよね」
「大好きだったからね」
 僕は名刺ケースを開けると、一枚の葉っぱを取り出した。翔子が不思議そうに目を丸くする。
 それはすっかり朽ちて、黒くなってしまったかつて神木だった物だ。
 静かに流れる風に、葉を委ねた。風に舞い上がり、葉はどんどん高く昇る。
 僕たちはその様子を静かに見つめた。
 葉はやがて、海へと姿を消していく。
 遠くを見たい。かつてのコノハの声が、不意に蘇る。
 これでいいのかな。言葉に出さず尋ねると、懐かしい訛りのある声が聞こえた気がした。そのかすかな声が、ゆっくりと僕に浸透していく。
「さよなら、元気で」
 僕は風に向かって、今はいない神木に向かって、かつての守人に向かって、旅立つ友達に向かって、静かに別れを告げた。
 かつてここには大きな木があった。それは街を愛し、街に愛されていた。同じ景色を毎日眺め、小さな変化に感動し、喜びを見出していた。それは優しい目で子供達を見つめ、目を見張るほどの美しい笑みを浮かべた。
 僕は大きく深呼吸をする。吐く息が、震えるのを感じる。
 街の長い下り坂を、一人の女性が下っていく。紅い着物を着た彼女は僕たちに向かって手を振り、目の前の果てしなく広大な世界へ足を踏み出していく。道は広く、どこまでもつづいている。その中を彼女は目一杯駆け出す。
 葉は風に舞い、空を飛ぶ。
 どこまでも、どこまでも飛んで行く。


 ──了

       

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