さすがにミュルスには活気があった。しかも、ピドナのそれとはまるで雰囲気が違う。民はみんな陽気で、どこか大らかな所があるのだ。また、感情表現も豊かで人見知りが極端に少ない。こういった民の特徴は、港町という事が関係しているのかもしれない。
ミュルスに訪れて、最初に驚いたのは食文化だった。メッサーナとは違い、肉を使う料理が少ないのだ。その代わりに、魚料理が豊富である。その種類は多岐に渡り、塩をまぶして焼いたものや、蒸し焼きにしたもの、中には生のまま食すものもあった。肉を生で食すことは、滅多にない。
最初は魚の食い方が分からず、皿の上を散らかすばかりだったが、最近になってようやく食い方が分かってきた。シオンの食い方を見て、真似るようにしたのだ。シオンは、驚くほど魚の食い方が上手い。
ニールも俺と同じく魚の食い方が分からず、最初は四苦八苦していた。だが、今はもう面倒だからと言って骨ごと食っている。上手く食う努力すらしないのはニールらしいが、ダウドなどは苦笑するしかなかったようだ。骨が刺さって痛くないのかとも思ったが、何故か器用に口内でさばいているらしい。そんなニールがミュルスの民には珍しかったようで、今ではニールはちょっとした有名人である。
ノエルと出会ったのは、そういう時だった。
切欠はニールの魚の食い方からで、ノエルの発する言葉に微かな賢明さが垣間見えた。そこに興味を惹かれた俺は、一緒に飯を食わないか、とノエルを誘ったのだった。
ノエルは一介の書生で、元々は軍人だったという。
以前、このミュルスには、レキサスという名の将校が居た。今は都に異動となったようだが、かなりまともな将校だったらしく、民からの評判はすこぶる良かった。
このレキサスに付いていたのが、ノエルだったのだ。将来的にはレキサスの軍師を希望していたようだが、それは叶わなかったらしい。レキサスだけが都に異動となってしまったのだ。そして、残されたノエルは軍を辞めた。
「レキサス殿が居なくなったミュルスで、軍人を続ける理由はない」
ノエルは、淡々とそう言った。
ミュルス軍の動きが慌ただしくなったのは、このノエルと交流を持ち始めた頃だった。
最初は賊徒の討伐でもするのだろうと思っていた。しかし、それは全くの見当違いだった。
なんとミュルスは、国を相手に反乱を起こしたのである。その理由まではわからないが、民が協力的でない所を見ると、大義は無いのだろう。
反乱を起こしたのは、現在のミュルスの太守であるルードだという。一度だけ町を歩いてるのを見かけたが、いかにも卑しい、という感じの男だった。眼の色が暗く、仕草の一つ一つがねちっこい。
俺が思ったのは、こういった男でも太守になれてしまう、という事だった。やはり、国は腐っていると言わざるを得ない。
「即座に官軍がやってくる。戦にはなるだろうが、ミュルスは第二のメッサーナにはなれないな」
ノエルが水を飲みながら言った。ちょうど、晩飯を食い終えた所だった。ここ最近は、ノエルも含めた五人で飯を食う事が多い。
「戦になれば、これはメッサーナにとって好機となり得る。今回の最大の焦点は、ここだろう、と僕は思っているんだが」
「俺もそう思う。メッサーナが軍を出すにあたって、ミュルスの反乱は良い切欠になるだろう」
ノエルには、俺達がメッサーナの人間である事は言っていない。別に隠す事でもないが、特に聞かれもしなかったのだ。ただ、魚の食い方などで大体の見当は付いているだろう。
「そのメッサーナだが、今のままでは天下は取れないだろうな」
不意に、ノエルがそう言った。俺の心に、微かな動揺が走る。他の三人も、有るか無きかの反応を示していた。
「何故、そう思う?」
動揺を打ち消すように、俺は言った。
「いや、天下は取れるかもしれない。制圧、という意味になるが。しかし、真の天下、すなわち民が納得する天下は取れないだろう」
「だから、何故」
「メッサーナには、王が居ない。そして、国には王が居る」
言われて、俺は心を鷲掴みされたような感覚に陥った。ノエルは、かなり重要な事を喋ろうとしている。
「この国の王は、どうしようもなく愚劣だ。この事は、ある一定の職に就いている者ならみんな知っている。だが、それ以外の者、つまりは民だ。民は、この事など知るはずもない。宗教でいう神のように、王の事を信じている。信じ続ければ、救われる。いつもどこかで自分達の事を見ていてくれて、いつか救いの手を差し伸べてくれる。そう思っているのだ」
「それは違うだろう、ノエル」
シオンが割って入る。
「王は何もしてくれない。こんな事は、今までの経緯から見ても明らかだ」
言い終えたシオンを、ノエルが静かに見据えた。
「それでも信じている。つまり、王とはそういう存在なのだ、シオン。民にとって、絶対的な存在。それが王だ。どれだけ愚劣でも、王は王なのだ」
ノエルの言葉が、心にしみわたっていくのが分かった。旅の目的。戦う理由とは別のそれを、俺は掴みかけている。いや、ノエルが掴ませようとしているのか。
「メッサーナの政治は確かに清廉だ。僕が思うに、これまでに無い最高の政治だろう。だが、それだけでは駄目だ。民の心の拠り所がない。国としての象徴が、王が、メッサーナにはない」
そう言ったノエルを、俺はじっと見つめていた。全てが、分かった。今まで、旅をしていてずっと見つける事のできなかった答えを、今ここで見つけた。
「兄上」
シオンに呼ばれて、俺は自分が身を乗り出している事に気付いた。
ノエルの言うとおりだった。まさしく、メッサーナには絶対的存在が居ない。ランスという首領は居るが、これは首領という座についているだけで、絶対的存在ではない。
そもそもで、メッサーナに絶対的存在は必要なかった。民のための政治を掲げているのだ。絶対的存在が居れば、ある意味で民を抑えつける事になってしまう。しかし、それは一部の人間の考えに過ぎなかったのかもしれない。
民は弱い。俺達が思っているよりも、ずっと弱い。国を旅してきて、これは肌で感じた事だ。そんな弱い者達には、何か頼れるものが必要だったのだ。
今のメッサーナに足りないもの。そして、必要なもの。それは、王という名の絶対的存在。
「ノエル」
俺は、じっとノエルの目を見据えた。
「俺達は、メッサーナの人間だ」
俺がそう言っても、ノエルは表情を変えなかった。やはり、知っていたのだろう。そして、知った上で俺に答えを掴ませた。すなわち、ノエルはそれほどの知恵者だったという事だ。
そんな知恵者が俺の軍師となってくれれば。メッサーナの同志となってくれれば。
「単刀直入に言おう。俺達と一緒に、メッサーナに来ないか」
ノエルは尚も表情を変えない。他の三人だけが、ただ驚いている。