Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 息子が突然、わたしの体調を心配しはじめたのは、半年前に夫に先立たれてからのことだ。
「母さん、本当に大丈夫か? 一人暮らしでボケちゃわないか」
 そう電話をかけてくる賢吾の脳裏には、認知症になった祖母――つまり私の母の姿があったのだと思う。
 快活な人だった。
「お父さんが怒ってばかりだから、わたしが笑ってなきゃどうしようもないの!」
 工務店の親方だった父は昔気質で怒りっぽく、酒を飲んでは暴れるような人だったが、母はそんな父を常に笑顔で支えていた。
「今となっちゃあ、まあ、アイツの笑顔に惚れたってとかァあるわな」
 晩年、少し丸くなった父が、一人酒を飲みながらしみじみとこぼしたことを、一度だけ聞いたことがある。
 大好きで、尊敬できる母だった。
 父が九十歳で、大往生を遂げるまでは。
「あれ? そうだったかしら」
 父を喪った母は認知症を患い、そしてみるみるうちに悪化した。最初は軽い物忘れ。そしてすぐに、様々な場面で、記憶の整合が取れなくなっていった。もう居ない父を、探しに行こうとすることもあったという。役所の勧めでわたしたちの実家に引き取ったが、その時はもう、自分が今居る場所が分からなくなり、家に帰せと毎朝怒り狂い、叫んだ。
「またわたしを騙したなアアアアアア!」
 記憶を失うたび、母は目を吊り上げ、今まで聞いたことのない金切り声で叫んだ。深夜に近所を徘徊することも増え、近所の人から通報や苦情を受けることも多くなった。認知症の進行は七段階中の六――重度と診断されていた。
「あたしが何したッ! あたしが何したんだッ! この恩知らずッ!」
 認知症ケアをしてくれるグループホームを捜し、母を入所させた。わたしが面会に来るたび、母は顔を歪め、何度も口汚く罵りかける。以前の母の面影は、すでにどこにも残っていなかった。
「ご理解ください」
 かかりつけの医師から、説明があった。
「認知症が進むことで、猜疑心が強くなり、攻撃的な性格になってしまうことはよくあることなんです。これはあなたのお母さんのもともとの性格ではなく、病気の進行によるものなんです。彼女も不安なんです。どうかご家族で支えてあげてください。きっとすぐに落ち着くはずです」
 それからほどなくして、医師の言葉どおり、母は暴言を吐かなくなった。
 家族の心が通じたわけではない。
 症状が悪化し、もはや自分の感情を表に出す方法すら、失ってしまったからだ。
 食事を飲み込むことも難しくなったため、老人ホームから病棟に移された。彼女は乳白色の壁に囲まれた牢獄で、食事し、排泄するだけの日々を過ごすようになった。まるで、抜け殻のように。
 わたしは定期的に母の面会に行き、彼女が、淡々と介護を受ける様子を見守っている。
 母を見るときの気持ちは、いつでも同じだ。
 悲しみはすでにない。今まで暴言を繰返されたことへの怒りもない。虚しさもない。そんなレベルの感情は、とうの昔に行き過ぎた。
 ただ一つ残っているのは――恐怖だ。
 変わり果ててしまった母をベッドの傍で見下ろすとき、それはいつも、心臓にやすりをかけるような激しさで、わたしを襲った。
 認知症は、遺伝の要素が強い。
 そのことを、母が発症し、この病気について調べてから、知った。
 脳の変異が始まるのは50代。早くて60代ごろから発症しはじめる。
 原因には様々なものがあるが、母のように80歳以上の高齢で発症した場合は進行が早く、3~4年で死に至る。一方、60代で発症した場合は、5年から10年をかけて、ゆっくりと自我が蝕まれていく。
 わたしもいずれ、こうなってしまうのだろうか?
 介護をするわたしの脳裏には、常にその疑問が貼りついていた。
 母を前にそんな不安を抱いてしまう自分を、浅ましいとも、情けないとも思う。
 だが、そんな自分をいくら責めたところで、一度感じた恐怖を拭うことはできなかった。
「今更じたばたして、どうなるっていうのさ」
 弱気になるわたしを笑い飛ばしていた夫は、その数年後、嘘のようにあっけなくこの世を去った。交通事故だった。
 一人残されたわたしを賢吾は心配し、そして――。
「母さん、本当に大丈夫か? 一人暮らしでボケちゃわないか」
 ある日、電話で相変わらずそう聞いてきた賢吾に、わたしは自らの意思を伝えたのだ。
 DBAG……脳深部刺激調整装置の手術を受けると。
 
 
「なに、大したもんじゃありません。侵襲式って、昔は脳に直接電極を埋め込んでたんですがね。今はホラ、耳の後ろの皮膚と頭蓋骨の間に、チョッピリ針を通すだけ。簡単なもんですわ」
 ほら、と、トキタ医師はあの日、診察室で緊張しているわたしと賢吾に向かって、耳の裏に着けたシリコン製のその装置を見せてくれた。
 小さい診察室を、大柄な賢吾と肥ったトキタ医師が占拠して、少し息苦しいくらいだった。
 トキタ医師はデスクにわたしのカルテを置き、時折それに何かを書きつけながら、手術の概要を、身振り手振りを交えながら説明してくれている。
「でも、脳をいじくるのに変わりはないんだろ」
 賢吾の尖った声が、トキタ医師を唐突に遮った。あれだけわたしを心配していたくせに、私がDBAG手術を受けたい、と伝えると、賢吾は驚くほど激しく反対した。診察室に入ったときからの鋭い目付きは、絶対に手術の危険性を暴きだしてやる、という決意に満ちているようだった。患者家族というより、まるで取り調べに向かう警察官のようだ。
「詳しいことは分かんないけど、要は先生、その耳の後ろにくっ付いてる機械が、あんたの動かなくなった脳の代わりに、電気信号を送ってる……ってことでいいんだよな?」
 賢吾は、椅子の上でふんぞり返り、トキタ医師を侮蔑の表情で見下す。
「それってさあ、その機械に乗っ取られているようなもんじゃねえの?」
 やめなさい。
 私の声を無視して、賢吾は続ける。
「本当はあんたの意識なんてとっくになくなっててさ、機械の命令どおりに人間のふりをしてるだけ……って可能性もあるよな。その機械をつける前のあんたと、つけた後のあんたが、同じだって保証はどこにあるんだよ」
 やめなさいって。
 あまりに無遠慮なその物言いに、わたしは思わず賢吾に向かって声を荒らげ、そしてこわごわとトキタ医師を見る。
 驚くことに、トキタ医師は不快感を示す様子もなく、いつものように、静かに笑っていた。
「ま、ま、ま。そんなに怒らんでくださいよ」
 と、肥満体のお腹を揺さぶりながら、大袈裟な素振りでなだめてみせる。賢吾は大きく舌打ちをし、改めて椅子に座りなおした。わたしはその態度にまたハラハラするが、トキタ医師はだっはっは、と快活に笑っただけだった。
「ご家族の方の、不安に思うお気持ちはよぉっく分かります。実を言うと、賢吾さんがおっしゃったようなこと、よく言われるんですわ。心を持たないアンドロイド、人のふりをした人形、機械に乗っ取られた脳死ゾンビ……ってな具合でね」
 そういいながら、頬を人差し指でこりこりとかきつつ、苦笑をこぼす。
 トキタ医師は、若い頃に事故で脳機能に障害を負い、当時まだ一般的ではなかったDBAG手術を受けて回復したと聞く。今、彼自身が言った言葉は、患者家族だけでなく、今まで数限りない人たちから浴びせられ続けてきたものなのだろう。賢吾を横目でもう一度にらみつけると、彼はさすがに気まずくなったのか、少し目線を伏せて視線を外した。
「ただ、そういった偏見はなんというか……皆さんがDBAG手術を過大評価しているところから来ているんですな。この機器、皆さん思ってらっしゃるほど万能ではないんです」
 そういってトキタ医師は、一枚のスライド写真をわたしたちに見せた。
 ベッドに横たわる男性。はだけられた胸には聴診器のようなものが当てられている。白衣を着た医師が、金属で出来た円形のコテらしき器具を、男性の両方のこめかみに当てていた。器具からはコードが伸び、緑色の箱型の器具に繋がっている。
「これは今からもう百年以上前から行われていた、電気けいれん療法というものです」
 トキタ医師が穏やかな声で説明する。
「脳細胞に一定の強さで電流を流すことにより、うつ病やパーキンソン病といった精神的な疾患を治療するものです。これがDBAGの、いわばご先祖さまですな」
 電流、という言葉に、賢吾がピクリと反応する。ざらついた不快感を滲ませる彼の横で、わたしも膝に置いた手に、汗が滲み出すのを感じた。電流。その言葉は否応なく、脳裏に危険なイメージを喚起する。写真の男をわたしに置き換えてみた。こめかみに当たる器具のひんやりとした感覚……。電気椅子での処刑シーンを見たのは、何の映画だったか。自らの意思に反し、座ったまま奇妙なダンスを踊る罪人のイメージ。
「先ほどもご説明した通り、こうした疾患はすべて、脳内のニューロンとシナプス――つまり神経細胞が、機能不全に陥った結果起きるものです。だから脳に電気を流してその部位を活性化させ、症状の改善をはかる。これをもう少しスマートにしたものが、DBAG手術というわけですな」
 トキタ医師はさりげなく首を傾け、両耳の後ろにつけられたシリコン製の器具を改めて見せてくれたる。
「この装置は脳の神経をモニターし、不活性な神経核に、ピンポイントで電磁誘導によるパルス刺激を励起、活性を促します。まァ簡単に言えば、弱まっている水の流れに、ポンプで勢いをつけてやるようなもんですな。ただし、ポンプは水のない場所に水を流すことはできません。同じように、この機器も脳の代わりにはならんのです。機械は助けで、あくまで動くのは患者さんの脳。だから、認知症が進行し、神経がすでに死滅してしまった人には、この装置は無力です」
 入院した母の姿が一瞬、浮かぶ。胸の裡がざわついた。
「繰り返しになりますが、DBAG手術を受けたからといって、心を失うとか、そういったことは起こりえません。大丈夫ですよ!」
 そう言ってトキタ医師は、にっこりと笑う。
 賢吾は全く納得していない風だった。その気持ちはわたしも同じだったが、しかし、決意は変わらなかった。
「よろしくお願いします」
 と、わたしは頭を下げた。


 母の見舞いに来ていた。
「でね、賢吾ったら、10歳は若くなったんじゃないの、なんて言って。でも、正直安心したわ。みんなが散々脅したみたいに、手術したら意識がなくなるようなことはなかったし。そりゃもちろん、頭痛や眩暈はあったけど、それも何度も調整するうちに随分軽くなったのよ」
 透明なチューブを鼻から生やしたその老人に、いつもの通り、とりとめもなく話しかける。反応がなくても、話し続けることが、病気の進行を遅らせることになるんです……。いつか聞いた医師のアドバイスを思い出す。
「それに、僕は思うんです。反応がなくても、脳が機能しなくなっても、心はきっと死ぬまでどこかに残っているんじゃないかって。だから話しかけてあげてください。きっと喜んでくれるはずですよ」
 30代半ばくらいだろう。まだ青年の面影の残る担当医は、かつてわたしにそう言った。わたしは、ありがとうございます、と頭を下げながら、彼はまだ若いな、と思った。いくら懸命に介護しても、容赦なく壊れていく母を目の当たりにし続けたわたしにとって、彼の言葉は空しい気休めにしか聞こえない。だが、結局は医師の言うとおり、定期的に見舞いに来ていた。今の母が、それでもわたしの肉親であるということを、わたし自身が確認するために。
「……もっと早く、お母さんにもこの手術を受けさせてあげたかったなあ」
 ふと、そんな言葉を漏らす。
 そう。もしお父さんが倒れる前に、DBAG手術が実用化されていたら。
 彼女もまだ彼女のままで、いれたかもしれないのだ。
 珍しく感傷的な気持ちになった。母のことをこんなふうに思うのは、久しぶりだったかもしれない。
 思わず涙が出そうになって、一瞬母から目をそらす。
 ベッドから床ずれの音が聞こえたのは、そのときだった。
 わたしは思わずベッドに視線を戻す。気のせいか――。
 いや。
 わたしは目を見開いた。
 入院してから今まで『お世話になります』とつぶやく以外に全く反応を見せなかった母が、かすかに身じろぎ、顔を傾けてわたしの方を向いていたのだ。
 深い穴を覗き込んだような昏い両目が、わたしの視線を真正面からとらえていた。
「……お母さん?」
 わたしは呼びかける。
 だが、彼女の反応はなかった。
「お母さん!」
 もう一度呼びかけたが、彼女はまばたきもせず、再び天井を向くと、それきり動かなくなった。
 体内で、心臓がうるさいほど大きく脈打っている。
 ただの偶然?
 わたしが喋ったタイミングで、たまたま体を動かそうとしただけなの?
 その時、突然病室のドアが開いた。
 まだ心が整理されていなかったので、わたしは反射的に身構えてしまう。
「はい、三橋さーん、ご飯ですよー……、あら、すみませんお邪魔しちゃったかしら?」
 入ってきたのは、中年の看護師の女性だった。銀色のトレーを乗せたカートを押している。
「どうしました? 顔色が悪いみたいですけど……」
 わたしの顔がよほど強張っていたのだろう。彼女は心配そうな表情を浮かべた。胸に『山中』というプレートをつけたこの人とは、見舞いのときに何度か会ったことがある。
「い、いえ。ちょうどそろそろ出ようと思ったタイミングだったから、びっくりしちゃって」
 わたしはとっさに笑顔を作った。うまく笑えたかどうか自信がなかったが、山中さんはあらあ、もう少しゆっくりしていけばいいのにと言い、恰幅のよい体をゆすって笑った。
「こうして毎週娘さんに会えて、お母さんもきっと喜んでいると思いますよ」
「そう思ってくれていると、うれしいんですけどね……」
 何故だか、さっきの母の行動を、彼女に説明する気にはなれなかった。早くこの場を離れたかったが、山中さんに捕まり、世間話に付き合わされてしまう。彼女もまた、DBAG手術に興味があるようで、手術はどうだったかとか、術後の経過はどうだとか、色んなことを聞いてきた。元気にまくしたてる彼女の言葉を適当に聞き流しながら、ちらりと母を見る。彼女は相変わらず、無表情で天井を見ていた。しかし、その顔がまたぐるりとこっちを向きそうな気がして、背筋が冷えた。
「あの、すみません、わたしもそろそろ夕食がありますので……。母の食事もあるようですし」
「あら、そうね。ごめんなさいお時間ないのに引き止めちゃって」
 申し訳なさそうに頭を下げる山中さんに会釈をし、母にじゃあまた来るねといって、わたしはそそくさと病室の引き戸に手をかける。
 ドアを開けたところで、山中さんが母に話しかけるのが聞こえた。
「はーい三崎さん、お加減はどうですかー。あら、娘さんお帰りなのに、今日はいつもの挨拶がないのねー」
 わたしは思わず足を止める。
 いつもの、挨拶?
『お世話になります』
 病室を出るときに聞く、母の言葉が頭に浮かぶ。
「あの」
 思わず振り返り、山中さんに声をかけた。トレーの流動食を点滴にセットしようとしていた山中さんがこちらを見る。
「あ、さっきおっしゃってた、いつもの挨拶って……」
「ああ」
 そう言うと、山中さんは顔をほころばせた。
「三橋さん、いつも娘さんが帰るときにだけ、『お世話になります』って言うのよ。やっぱり娘さんのことは分かるみたいねえ」
 それにしたって、お世話になりますってちょっと他人行儀よねえ。せっかくの水入らずなのに、生真面目というか礼儀正しいというか……。そう続ける山中さんの言葉が、すうっと遠のいて聞こえた。
「お母さん」
 思わずもう一度、母に呼びかけていた。母はやはり応えない。無表情で天井を見上げている。
 山中さんは何を勘違いしたのか、感極まったようにわたしを見つめた。
「ええ、そうなの。あたしがどれだけ喋りかけても返事一つしないのよ。何もかもが分からなくなったって、親子の絆っていうものは残るの。きっと娘さんのこと今も大好きなはずよ、きっと」
 山中さんは続けてまた何かを話していたが、もはや耳には残らなかった。
 母がわたしに向けたまなざしを思い出す。
 あれは、娘に向けるものではなかった。
 昏く、冷たく、何の感情も持たない目。
 あのとき、わたしはあの瞳の奥から、確かに母の声が聞いたような気がしたのだ。
『あなた、誰?』
 という声を……。
 いや、まさか。
 そんな馬鹿な。
 ただの気のせいだ。やっぱり手術のせいで、ナーバスになっているだけだ。
「それにしても、やっぱり三橋さん、今日は挨拶しないわねえ。ほら、娘さんが帰っちゃいますよう」
 山中さんの母への呼びかけが、胸に突き刺さる。
「あの」
 わたしは穏やかな顔をしている山中さんに話しかけ、振り返った彼女に、先ほどの母の反応を説明する。
「実は、さっき母が


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 ……なんです」
 わたしは三度目の調整に来ていた。トキタ医師に会うのは三週間ぶりだ。
「なるほど……お話はよく分かりました」
 トキタ医師は、タブレットでわたしの脳波をモニターしつつ、深く頷いた。
 軽い眩暈が続いている。
 あの日、母の病室で起きたことを、トキタ医師に伝えていた。
 今まで身じろぎもしなかった母が、わたしの目を見つめ、よくわからないが、大きな不安に襲われたこと。
「ただ見つめられただけなんですけど……」
「お気持ちはよく分かりました。返答の前に、いつもの問診に応えていただいてもよろしいですかな。患者さんの状態とも照らし合わせて、正確なことをお話ししたいですから」
 わたしはうなずく。お手数をかけてすみませんな、とトキタ医師は笑い、手に持ったタブレット端末を操作する。
「ええと……まずは前回の調整から、頭痛が起きることはありましたか」
「いいえ」
「眩暈は?」
「ときどきあります」
「頻度はどのくらいでしょう」
「最近は二日に一回くらいです」
「最初の方はもっと多かった?」
「はい。一日一回くらいの頻度でした」
「眩暈の強さも変わりましたか」
「はい。最初は大分酷かったんですが、最近は随分良くなりました」
「時々、意識が途切れるといったことはありましたか? ふと気がついたら全然別の場所にいて、後からその間の記憶を思い出す、というような……」
 いいえ……と答えようとして、ふと口をつぐんだ。そんなこともあったような気がする。
「そういえば、一度だけ」
「それは、いつごろのことか、思い出せますか?」
「すみません。詳しい日時は……」
「十五日くらいではありませんか?」
 トキタ医師はタブレットをせわしなく操作しながら質問をしてくる。
 ゆっくりと記憶を辿る。十五日……今から二週間前……確か、母の見舞いに行ったはずだ。そのあと賢吾と電話して、それから……。
「ああ、そうです。確かその日の夕食のときに、ちょっと度忘れしたような感覚が、あったような気がします」
「なるほど。それ以外はないですね?」
 トキタ医師は、じっとわたしの目を見て言う。
「え、ええ。その一回だけです」
 その真剣さに少しとまどいながら、わたしは答える。
「わかりました。では、度忘れが起きる直前に、何か気になることがあったでしょうか」
 思い出そうとして、ハッとする。
「そうだ、あの日、美香ちゃんにも……」
「美香ちゃん?」
「ああ、すみません。お向かいに住んでいるご夫婦の娘さんです。今年5歳になる」
「その子に何かを言われたんですか?」
「はい。『おばあちゃん、だれ?』って……」
「ふむ、なるほど」
 それから、いくつか問診を続けたあと、トキタ医師はタブレットを指先でつついて何かを入力し、それからニカッと笑った。
「ありがとうございます。だいたい現在の様子は分かりました」
「どうなんでしょうか」
 わたしは焦れて、つい声を大きくしてしまう。トキタ医師はまあまあ、とそんなわたしをいなして、言った。
「自分が、自分でないような気がしてしまう……。これも調整段階で、患者さんがよく陥る不安の一つです。脳を手術したという事実が、知らず知らず本人のストレスになり、ある日突然不安が噴き出すというわけです。例えば、身近な人から、『変わったね』と言われませんでした?」
「そういえば、息子に『若返った気がする』と言われました。その時は冗談だと思っていましたけど」
「冗談だと思っていても、実は心の中ではストレスが溜まっていること、よくあるんです。近しい人からの言葉だと、なおさらね」
「じゃ、あのとき母から受けた印象も、やっぱり思い込みということなんでしょうか」
 とてもそうは思えないんですが、という言葉を、辛うじて飲み込む。トキタ医師はわたしのそんな感情を見越したように、噛んで含めるように言った。
「もちろん、本当のことは誰にも分かりません。ですが、大事なのは人からどう見られるか、ではありません。あなたがどう感じるか、です。以前お話したことを思い出してください。機械は刺激を与えるだけ。実際に活動しているのは、あなたの脳です。三橋さん。あなたは以前の自分と比べて、考え方や好みが変わりましたか? 本当に自分が違う人間になったと思いますか?」
「……思いません」
 そう答えるしかなかった。実際、わたしは変わっていないのだから。
「それが事実です。大丈夫、あなたはあなたです。自信を持ってください。じゃないと、同じように手術したわたしも、実は別人だったことにされてしまう」
 そういってトキタ医師は笑った。
 わたしは笑わなかった。
「そんな怖い顔をしないでください。不安はわかります。安心してください」
 トキタ医師はわたしの目を正面から見つめ、言う。
「過渡期ですよ。もうすぐ収まります」
 その目の奥に、今までと違う光が微かに灯った気がするのも、わたしが疑心暗鬼に陥ったせいなのだろうか?
 
 

       

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Neetsha