Neetel Inside 文芸新都
表紙

感じない温度
手を伸ばしても世界って

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「よう」
 数百メートル前から発見してはいたのだが、今気付いたかのように少年に声をかける。
「あ、おっちゃん」
 それほど高くはない屋根の上、犬を傍らに空を見上げていた少年は力なく返事をする。
「どうした?腹へったか?」
「まーそれもあるんだけどね、しょっと」
 掛け声と共に降りてくる。
「おっちゃん、今日ちょっと時間貰っていいかな」
 どうやらここで俺を待っていたようだ。
「今から、ここで?」
 アウラに指で指示。バーガーふたつ。
「うん」
「座って聞こうか」
 少年が空を見ていた屋根の下、壁に寄りかかるように路上に腰を下ろす。
「聞きたいことがあるんだけどさ」
 少年が俺の隣に腰を下ろし、犬は──アウラの股間の匂いをかいでいた。
「俺よりもお前に懐いたみたいだな」
 バーガーをひとつずつ両手に持ち、アウラは固まっている。
「ますたぁ……」
 俺は立ち上がり、アウラの両手からバーガーを取る。
「……食い物ってバーガーしかないの?」
 少年はちょっと笑った。犬はアウラから離れ、少年に向かい尻尾を振っている。
「飽きたか?」
「いや、おっちゃんたちが来るまで食ったことがないものだったし、おいしいよ」
 アウラは上着の裾を持ち上げ、匂いをかがれていた自分の股間を不思議そうに見つめている。
「アウラ」
 声をかけるとハッとしたようにアウラがこちらを向く。
「はい、なんでしょうかマスター」
「今日の携行食料の残量を」
「バーガー3、棒チョコ5、オイルサーディン缶4、乾パン缶2、です」
 淀みなく答える。俺の記憶と相違ない。
「棒チョコと油鰯缶、ひとつずつ出してくれ」
「はい、少々お待ちください」
 ちょっと疑問を持ったようではあるが、指示には従う。
 少年にバーガーをふたつ渡し、先ほどと同じ位置に腰を下ろす。
「アウラ」
 はい、とばかりに、アウラは俺に棒チョコと油鰯缶を手渡す。それを少年に説明しつつ渡そうと思ったのだが、少年は渡されたバーガーのひとつを分解し、犬に与えていたのでその目論見は宙に浮いた。
「食いながらでいいから話してみな」
 チョコと缶詰を持って座ってるというのは間抜けな光景だな。
「おっちゃんたちが割と食い物を持ってるってのはわかったよ」
 バーガーの包みを開けながら。
「聞きたいのはそれだけじゃないんだろう?」
 大きく一口。ゆっくりと咀嚼して、目をつぶって飲み込む。
 そして、目を開けて、空を見上げて。
「世界って、なんなんだろうね」
 犬は肉を食い終わり、期待半分怯え半分の瞳で少年と俺の顔を交互に見ている。
「おっちゃんはさ、キャンプに行けば勉強だの自由だの世界を見れるって言うけど」
 アウラは犬の尻尾が左右に振られているのを眺めている。
「勉強なんかしたこともないような人が『世界を変える』って頑張ってたりもするんだよね」
 少年、上空の太陽に向かって、それを掴もうとするかのように手を伸ばして。
「世界なんかいくら広くてもさ、手の長さは変わらないよ」
 力なく手を降ろし、犬の頭を撫でる。
 アウラは右手の中指で、自分の耳の上の髪を梳き流す。
「それが俺がおっちゃんの世話にならない理由。おかしいかな」
 力なく笑う。
「別におかしくはないさ」
 世話をするのは正確には俺じゃないんだが。まあいいか。
「前から言ってる通り、自分の意思で選んで歩けばいい。導くことはできるが強要はしない」
 少年は、一口齧ったっきりのバーガーを犬の口に近づける。
「ああ、怖かったんだ、俺」
 匂いをかぎ、食べ始める犬を見て、大きく息を吐く。
「おっちゃんに聞いてもらって、なんか安心したよ。ありがとうね」
「そうはいうものの、なんかあったら遠慮せずに言えよ」
 ちょっと泣いているのか。目を伏せているので、横顔ではわからない。
 警邏任務中でなければ、煙草が吸いたかったな。
 少年が、少年なりに自分の手で何かを掴みとろうとしている。俺にはそれで充分だった。
「ああ、ありがとう」
 抱えた自らの膝に顔を押し付けて、そして数分後。やっと少年は声に出した。
「それだけでよかったのか?」
「うん」
 こっちを向いて、なんとか笑顔を作ってみせる。
「じゃ、次は俺の話を聞いてもらおうかな」
 わざと意地悪く。でも、少年は作った笑顔を崩さないよう努力する。
「説教は聞き飽きたー」
「ほい、まずこっち」
 缶詰を渡す。
「それはな、ここをこう引っ張れば開く。やってみろ」
 ぱっかん。まさにそんな音で自己主張する缶詰。
「それは、オイルサーディン。魚の油漬けだな。人も犬も食える、と説明しなくても犬は正直なもんだ」
 口を開けた缶詰を持ったままの少年の袖に犬が噛み付いて、お裾分けをねだる。
 アウラは右足を半歩引く。戦闘動作だ。
「アウラ」
 そう呼び、手で行動を制する。
 アウラは左足を右足と同じ位置まで引き、犬に正対する姿勢をとる。
「ためしにひとかけら渡してみるといい」
 少年は言われるままにする。そして自分の口にもひとかけ、放り込む。
「うん、でもちょっと味が濃いよ。バーガーの方が好みかな」
「軍用だからな。日持ちとか栄養とか色々考えてある。そして」
 棒チョコを渡す。
「チョコレート。これは犬は食えない。人間専用だな。食ってみろ」
 犬はチョコには興味を示さず、汁だけが残った油鰯缶を物欲しそうに見ている。
 俺は少年の手から缶をゆっくりと持ち上げ、犬の鼻先に置いてやる。犬は少年と俺の顔を交互に見比べ、少年がチョコに口をつけたのを確認してから缶に鼻先を突っ込んで舐め始めた。
「これは甘いね。これは好きだな」
 目を輝かせる。甘味が人の心を大きく動かすことは幾多の歴史が証明している。ここも例外ではなかった。
「今日だけだからな、誰にも言うなよ」
 わざと悪戯っぽく言うが、この少年が友人を連れてきたとしても、それはそれでいいのだ。キャンプや制度の説明をし、受けるにしても残るにしても、自分の意志で選択してもらえばそれが今の俺の役どころだ。
 いつも通り。うん。いつも通り。
 缶の汁を舐め尽くしたのか、犬は少年の手を舐め始める。
 アウラは再び右足を半歩引き、腰のナイフに手を伸ばし、俺の顔を確認する。
 勿論、俺は制止する。
 犬の尻尾は、路上の埃を規則正しく舞い上げる。アウラはそれを不思議そうに眺める。
「アウラ、あれの準備は、まだだったな?」
 狂犬病予防接種。犬と過ごすならば避けては通れないことのひとつだ。
「はい。要請は通りましたので近日中には届くことになっています」
 生真面目に俺に視線を移して応える。尻尾が面白いのか。また視線を戻す。
「わかった。じゃ、俺に出来ることは終わりだ。あとなんかあるか?」
 少年とアウラの顔を見る。
「今日はありがとう。なにかあったらまたおっちゃんに聞くかもしれないけど、その時はお願い」
「わかった。そろそろ行こうか」
「はい、マスター」
 名残惜しそうな空気は全くなく、アウラは俺の後ろの定位置に着く。
「じゃ、またな」
 そうして立ち去る。
 少年と犬は、二分ほど俺たちの後姿を見送って、そして物陰へと紛れ込んだようだ。

          *

「アウラ、犬に対して攻撃行動を起こしかけたな」
「はい」
 これは仕方のないことだ。人間以外の動物が人間に対して攻撃行動を起こしたと判断した場合、人間を援護するようにプログラムされているのだから。
 同様に、人間が人間に攻撃行動を起こした場合は、マスターと呼ばれる人間の指示を仰ぐとされている。マスターである人間が攻撃された場合、問答無用でマスターを援護し、敵を撃退するという仕様だ。優先順位として、そうなっている。
「お前は俺とキスをするだろう」
「はい」
「お前は俺の耳に唇を這わせたりするだろう」
「……はい」
「俺はお前の乳首を吸ったり噛んだりするだろう」
「っはい」
「そのほかにも他人には聞かれたくないような行為を、俺とお前は沢山するだろう」
「私は兵器なので公言しても平気ですが」
 心の中で頭を抱える。こういうデータを混ぜる馬鹿は誰だ。
 気を取り直して、続ける。
「あの少年と犬は仲が良くて、あの程度なら人前でやっても平気だ、というだけだ」
 振り向くと、アウラは虚を衝かれたというような表情をしていた。
「仲が……いい、のですか」
「ああ。あれが犬の親愛表現のひとつだ」
 人間同士の場合、わざと見せ付けるという手段をとる輩も存在するけど。
「しん、あい、ひょう、げん……」
 一音ずつ、刻み込むように。

 その後、キャンプに到着するまで、アウラの靴と地面との擦過音が鼻歌に似て聞こえたのは気のせいではないと思う。

     

         *

 アウラに後処理を任せ、気が向いたら来ても良いと告げ、俺はその足でバーに向かう。
「あらま。ここで会うとは珍しいじゃない」
 エリだ。このキャンプにいる六人の医師の中の一人で、三人いる女医の中では一番若い。といっても、年の頃は三十前後だろう。小柄で童顔だから若く見えはするが。
「もしよかったら一緒に飲まない?」
 手招きして俺を誘っている。
「光栄なことで」
 勿論、乗る。今日はこいつと話をするためにここに来たのだ。
 四人掛けのテーブルの、エリの隣の椅子を選んで座る。
「サカってんの?」
 不快ではないが意外そうな声でエリ。
「礼儀としてだけどな」
 向かいの椅子に座りなおす。
「じゃ、礼儀として『残念だわ』と言っておくわ」
 ウェイターにチーズのベーコンロールとビールを注文し、届くのを待って、
「かんぱーい」
 エリは何故か盛り上がっていて、わざわざ俺の国の言葉で言う。
「さっそくで悪いんだけどさ、エリに訊きたいことがあって来たんだが、いいかな」
 グラスを傾けつつ
「そうじゃないかと思ってたのよね、でもね」
 意外そうでもなく言う。
「身長とスリーサイズと年齢は、ひ・み・」
「はいはい」
 立てた人差し指を口の前で左右に往復させるエリの言葉を遮る。
「ぶー。で、何かしら」
 俺のベーコンロールを一個持っていく。
「エリって、割と物知りだよな」
「そうでもないわ。知識なんて正しい判断の確率を上げるただの道具よ」
 めんどくさそうに言う。
「責任があるから間違えることができない、どんな状況でもね」
 ベーコンロールを口に押し込んで。
「それだけのことなのよ」
 懐かしい言い回しだが、エリにとってはうんざりするやり取りなのかもしれない。少なくとも一年前までは週に数回、この会話を繰り返していたのだから。
「充分だ」
 俺はビールで口を湿らせて一息入れて。
「世界って、なんなんだろうな」
 グラスを口につけたまま、エリの動きが止まる。そして
「……入院治療する?今なら私の特別看護がオプションでつくけど」
 真面目な声で問われてしまった。
「特別看護のみを別の機会にお願いする。が、真面目な質問だ」
 ベーコンとチーズを分離しながら。
「今日、警邏担当地域の子供にそう訊かれたんだ」
「そう」
「俺はそれに答えることができなかった」
「うん」
「エリならなんらかの答をもってそうな気がしてな」
 俺は煙草を咥える。火は点けずに唇で弄ぶ。
「世界に比べて自分の手は短い。そう言われた」
「そりゃ、どんな人もそんなものよ」
 エリは氷のみになったグラスをカラカラと回す。
 ウェイターがやってきて、エリはカルアミルクを注文する。
「世界は広がるのよ、しかも光速で」
「はあ? もう酔ってんのか?」
「広がるのよ。子供には子供なりの、大人には大人なりの腕の長さがあってさ」
 火を点けずにいた煙草を灰皿に置き、チーズを口に運ぶ。
「そして、科学には科学の腕の長さがあって、宇宙は光速で広がっている」
「ふむ」
 チーズをビールで流し込み、ベーコンを丸め、口に入れる。
「科学はやっと無人探査機が太陽系を出て、大地を踏むのは月が精一杯」
 エリは軽く会釈してカルアミルクを受け取る。
「学べば学ぶほど腕は長くなるわ。でもね、それ以上に世界が広いことを知らされるの」
 グラスを自分の顔の前に掲げ、ウィンクして。
「そして、こうやってもっともらしく誤魔化すのが私の腕の長さの精一杯ってところ」
 そう言っておどけて笑ってみせる。
「掴める世界ってのは必ず、見えている世界よりは狭いのよ」
 そして、ちょっと寂しそうに目を伏せる。医者になるという目標を現実にしたエリでも取りこぼした夢があったのかもしれない。そこまで深くエリの事情に踏み入ったこともなかったな。
「あくまでも私の経験上の話、だけどね」
 一転して明るい声を装う。
「ところで、私の方もちょっと興味があることがあるんだけど、ね」
 ちょっと驚いた。
「私とあなたの仲ってことで少々の不躾は許してほしいのだけれど、いいかしら」
 この言い方は、おそらくアウラに関することだ。
 公にも私にも極めて近い人型兵器を話題に出す時、人は後から刺されることを恐れる。それほど『恥』に近い道具なのだ。あれは。
 俺はカウンターの方に上半身を向け、手で合図を送ると、気付いたウェイトレスが笑顔でやってくる。
「フィッシュアンドチップスと、フランクフルトと、ピッツァマルゲリータ。そして、黒ビールを」
 はい、と小さく答え、ウェイトレスは空いた皿を持って去る。
「あら、優しいのね」
 つまらなそうにエリは言う。
「聞いてみなきゃわからんからな。エリにわからんことが俺にわかるかどうか自信ないぞ」
「そこは気にすることではないわ。ただの世間話の延長のようなものなのよ、本当に」
 黒ビールとフランクフルトがテーブルの上に置かれる。
「それならそれで、エリもつまみながら気楽に話せばいいよ」
 ウェイトレスに空いたジョッキを手渡し、黒ビールを手元に寄せる。
「ありがとう。あなたのところの、あの子。アウラちゃんだっけ?のことなのだけれど」
「うん」
 エリがフランクフルトを咥える。なんかエロい。わざとだろ、こいつ。
「あくまでも一般的な話なのだけれども、データ記録って、任務前にするのが多いのよ」
「そうなのか」
 ウェイターがテーブルの上に置いたフィッシュアンドチップスをエリが横目で睨む。そうして、それを俺の目の前に移動させながら、
「そうなの。でも、アウラちゃんは、任務報告直後にしているのよね」
 エリがフランクフルトの皿を抱え込んでしまったので、フィッシュアンドチップスを食う。
「何か支障が出るのかな」
 指先を紙のおしぼりに擦り付ける。どうせまたすぐに油がつくんだけど。
「さっき言ったとおり、ただの世間話の延長よ。一日一回という規定を外さなければ何も言われないとは思うけど」
「だよね。ところでこれ、食わんの?」
 フィッシュアンドチップスを示す。
「ザベスと呼ばれるより嫌」
 そりゃ本気で嫌なんだな。眉間に皺を寄せる。
「理由聞いてもいい?」
「子供の頃食べてたのより美味しいのが悔しいからよ」
 なるほど。納得しながら黒ビールを一口。
 相変わらず妙なところを気にする人だな。兵士の人数分存在する人型兵器がバーゲンに並ぶ目敏い者が如くデータ記録のために列を成してもしょうがないだろうに。
 しょうがないと思うとはいえ、それで仕事に支障が出ても面倒だしな。
「念のために訊くけど、いつくらいの時期から?」
「気付いたのは、この前の雨の日のちょっと前あたりかしら」
 思ったより最近の話だな。
「うーん……」
 ウェイターがピッツァマリゲリータを持ってくる。エリはそれを受け取り、次のカルアミルクを注文する。
「さっきの話の子供なんだけどさ、犬を拾ったみたいでね」
 これくらいしか思いあたることがない。
「そういえばワクチンの申請があったわね」
 なるほど、という表情で数回細かく頷く。
「初の対処でデータが不足してたようだから『戻り次第データ記録』を指示したことが数回あったな」
 黒ビールを口に含む。ゆっくりと口の中を湿らせ、嚥下。
「ふうん」
 エリはグラスの底、一口分のカルアミルクを飲み、グラスをテーブルに置く。
「それくらいしか思い当たることはないかな」
「そう、ありがとう。変なこと聞いてごめんなさい」
 表情からは、その理由に納得したのかどうかは窺えない。だが、それ以上深く追及してくるつもりも無いようだ。
「変なことついでに俺も質問していいかな」
「何かしら」
 フランクフルトを一本だけ皿に残したまま、ピッツァの六片の中のひとつに齧り付きながら応える。
「エリたち医者も記録兵器連れ歩いてるよな。なんで?」
 エリが一本のフランクフルトが乗った皿を、俺の方に寄せる。俺が注文したんだけどな。
「私たちも階級で動いてるし軍属扱いだからね」
 その一本を咥え、皿をテーブルの端に寄せる。そんな行動の間に食い終わる。
「前線では敵であっても治療するからね、その時に手を抜いてないかーとか、治療放棄してないかーとか、虐待行為してないかーとか。色々煩いのよ、こっちも」
 なるほど、聞いてるだけで煩わしい。
 ジョッキを引っ掛けないよう気をつけながら、エリの前の皿からピッツァの一片を取る。
「エリがF型を選択したのは驚いたな」
 エリが纏う空気が変わった。
「何か誤解しているようだけど──」
 一瞬だけ。
「私の監視兵器は、LDF──ラブドールタイプではないのよ」
 俺はといえば、ピッツァに齧りついていた。大量にかいた冷や汗を誤魔化すために。
「あれは、MNF──医療用。メディカル・ナース・フィメールというタイプ。それに」
 エリは一旦言葉を区切り、小さく手招きをする。
 素直にテーブルの上に身を乗り出す。平手打ちされるくらいの覚悟は決めた。
 エリも俺の顔をめがけて身を乗り出してくる。唇が触れるかと思った瞬間、エリは顔の軌道を変え、
「何度も肌を重ねたあなたにそう思われるのは、ちょっと寂しいかな」
 耳元、小声でエリはそう囁く。そして、
「……忘れられた女みたいで」
 そう言って姿勢を戻した。
 胸の高さに両手でグラスをもって、エリは悪戯っ子のように微笑んでいる。
 忘れてはいない。忘れている筈は、ないのだが。
「相変わらず怖い女だな」
 俺は姿勢を戻す。意味もなく指先を紙のおしぼりで拭う。
「安心して。紳士の国は淑女の国でもあるわ」
 だから怖いんだよ、とは言わない方が賢明だろうな。
「本当は、礼儀としてではなくて、心の底から残念に思っているのよ」
 目を伏せ、彼女の故郷の言葉でぽつりと呟く。
 俺は聞こえなかったことにする事にした。

     


         *

「明日は朝から詰めなきゃならないから、ごめんなさいね」
 それから小一時間飲み食いしながら世間話をした後、エリはそう言い、先にバーから去った。
 支払いは礼と失礼と非礼の兼ね合いで俺が担当することになった。
 当然といえば当然なのだが、エリのこういう席の立ち方は、この一年で出来た壁を感じさせる。
 ついてきてくれるなよ、と。
 見慣れていたはずのエリのベッドが、今は記憶の中でセピア色だ。その記憶の中の形と匂いを留めているのかどうかの確認を拒絶されている。
 求めてはいないのだが。たぶん、お互いに。

 ──掴める世界ってのは必ず、見えている世界よりは狭いのよ──

 エリの言うそれが真実ならば、俺にとってエリは『観測は出来るが手の届かない存在』に変わったということか。
 声は届くから光速で遠ざかっているわけではなさそうだけど。スナイパーライフルならば音より先に着弾するな。届くのだろうか。いや、声が届くのだから音速より遅くても届くだろう。では、手を伸ばせばどうなる?どこに向かって?空に向かって手を伸ばし、届いたのは犬の頭。触れる振れるココロ。そこにココロはありません。ココロは胸にあるのでしょうか。掴みたいのはココロ?摘みたいのはムネのナニ?
 ……酒のせいか。取り止めがねえな。酒のせいなのかな。
 軽く頭を振り、時計回りで大きく一回、次いで逆周りで一回、頭を回す。
 よし。帰ろ。
 声には出さずに呟き、会計を済ませてバーを後にする。

         *

 部屋に辿り着くと、アウラは風呂場の手前にある洗面所の鏡に向かい、しきりに顔を左右に振っている。
「マスター、おかえりなさい」
 と声には出すものの、こちらに来る様子も気配もない。
「なにやってんだ?」
 眠る準備をしようとベッドサイドに歩きながら声をかける。
 椅子がない。アウラが洗面所に持ち込んでるのか。今日は不精をせずに真面目にハンガーにかけることにしよう。
「鏡を見てます」
 律儀に答えるのはいいんだけど、それはわかってるんだよ、アウラ。
 楽な服装に着替え終わり、アウラの様子を確認するために移動する。
 アウラの髪は短い。長い必要がないからだ。違和感を与えない程度に人間と見間違えられたならばそれでいいのだ。
 ショートカットで可愛く見える女の子は顔立ちが整っているとは聞いている。実際、アウラの顔立ちは世間一般でいうところでは、かなり可愛い部類になる。
 整形どころではなく、一からの作り物だからな。集められ、高められた技術の粋。『すい』でも『いき』でもいいよ。不気味の谷などものともせずに飛び越えてきてしまった。そんな、水域の技術。
 そんなアウラがしきりに鏡の前で顔を左右に振っている。自分の後頭部を見ようとしているようだ。
 後頭部。
 ……筆の穂先? ミニチュアの竹箒?
 アウラの髪は、短い。
「なにやってんだ?」
 改めて訊く。せっかく邪魔にならない髪形なのに、むしろ邪魔だろ、これ。
「鏡が見れないんです」
 首の関節がよく動くなあ。人間の可動範囲としておかしくない程度にだが、実に滑らかに動く。それでも後頭部は見ることは出来ないのだろうな。
 アウラが何を思ったんだか何が目的なんだか皆目わからないまま、俺はベッドサイドからもう一枚の鏡を持ってきて、合わせ鏡で後頭部が見えるように調整してやる。
「おお。マスターすごいです。ありがとうございます」
 アウラは礼を言いながらも鏡の中の自分から視線を外すことはなく目は丸く。
 鏡を組み合わせるという考え方はプログラムされてないのか。それはちょっと意外だった。
 ということは。まさかとは思うが、俺がバーにいる間、ずっとこうやって鏡の前で雀の真似のような動作をしていたのか? 確かに、気が向いたら来てもいいと言ったのであって、来ないことに関してはアウラの自由に任せたが、何やってんだ。
「アウラ、自分でやってみな」
 そう言い、鏡を渡す。
 アウラは暫く鏡の位置や角度を試行錯誤していたが、自分の中でのベストポイントを見つけたのか、今度はその束ねた髪を摘んだり、びよんびよんと指で弾いたり、人差し指で絡めるようにぐるぐると回したり、色々と試すかのように弄びはじめた。
 ……非常に可愛くて面白いんだがな。なんなのだろう、この光景は。
 アウラの後方の壁に寄りかかり、腕組みをしつつ眺めていたのだが、もう一度ストレートに疑問をその発生源にぶつけてみる。
「で、アウラ、なにやってんだ?」
 一瞬動きを止め、そしてこちらを振り向いたアウラは、
「マスター、見てください、しっぽです」
 何故か得意そうに、勝ち誇ったような笑顔で言う。
 うん、そうだね。でも、ポニーテールには足りないその長さは、何の尻尾なんだろうね。
「任務中は、それ、禁止ね」
 一瞬、笑顔から無表情になり、
「はい、マスター」
 体ごとこちらに向き直り、揃えた両膝に軽く握った両手をきちんと乗せて、応える。
 何故か満面の笑顔で。

       

表紙

栗野鱗 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha