Neetel Inside 文芸新都
表紙

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   四


 【視られたがり】は酷く興奮していた。
 あれほどに美しい瞳をこれまで見たことがなかった。まるで液体が一杯に注がれたみたいに揺れるあの瞳は、一体どのようにして生まれたのだろう。篠森紫乃を見つけることができた時、【視られたがり】は思わず神に感謝した。神や運命の類に大した興味はないが、そういった迷信めいた存在に祈らずにはいられなかった。
 【視られたがり】は壁にピンで固定した写真を恍惚とした表情で眺め、写真の中の彼女の頬をそっと撫でた。最早眼前に横たわる女性に興味はないらしく、怯える女性を尻目に【視られたがり】は紫乃の瞳を見つめている。
「さて、君の目に大した興味は感じられなくなってしまったが、ここで逃しても勿体無い。それに、視線は多くても何も困らないから」
 息を飲む音と共に女性は身体を激しく動かすが、頑丈に固定された枷は彼女の手足を掴んで離さない。
 けれども彼女は動き続けるしかなかった。
 目の前の異常者に目を抉り取られたくない一心で必死に身体を捩らせ、皮膚が破けて血の滲んだ手首をそれでも強引に枷に擦りつけた。
 【視られたがり】はそんな彼女を見て、満足気な笑みを零す。


 紫乃は落ち着き払った様子で、写真部の扉の前に立っていた。口を閉ざしたまま前方をじっと見つめる彼女の姿は普段よりも極っていて、口を閉ざした彼女の凛とした姿に、思わず男子学生はおろか女子学生までもが彼女に自然と目を向けていた。
 動かなければ、口を開かなければ、見惚れてしまうほどの存在。それが篠森紫乃だ。滑らかで白い肌と黒い髪に、水気のある潤んだ瞳。唇に薄っすらと惹かれた紅色のルージュ。まるで人形のようだ。
 紫乃は躊躇いがちに扉をノックすると、ノブにそっと手をかけて回す。
「あら、篠森さん」
 入ってきた紫乃を見て、若葉は笑みを浮かべた。手にしていた一眼レフを置いて彼女に歩み寄ると、可愛らしく小首をかしげてみせた。
 紫乃は何も言わず、ただ彼女を見つめる。
「今、丁度現像しているところなの。もう少し待っていてもらっていいかしら」
 若葉はそう言うと奥の扉を指さした。どうやら奥は暗室になっているようだ。「開けるな」と書かれたプレートが貼り付けられている。紫乃は扉をじっと見つめ、それから若葉を見て頷くと、隅の椅子に座った。若葉は両肩を竦めるとポットの湯を沸かし直し、簡単な茶菓子を彼女の前に出した。
「お茶淹れるから、少しだけ待っていてね」
「写真は、いつ頃できます?」
「そんなに写真が見たいの?」
「ええ、すぐにでも貰いたいんです」
「――ずっと気になっていたけど、何故、写真を引き受けてくれたの?」
 若葉がそう問いかけるが、紫乃は顔を上げると、無表情のまま首を振った。
「単なる気まぐれです」
 それっきり口を閉ざしてしまった紫乃を見て、若葉はため息を吐き出し、沸いた湯をティーポットに注いだ。
「私ね、ずっと前から貴方に興味があったの」
 向かいに座ると、二つ用意したカップに紅茶を注いでいく。液体が乳白色の陶器を飴色に染めていく。芳醇な香りが湯気とともに立ち昇るのを、若葉は満足そうに見つめていた。紫乃は飴色に満たされた液体に映る自身をじっと見つめ、それからカップを手に取ると口にする。
「誰にも頼らない貴方がかっこ良く見えてね。私なんて群れることでしか自分の存在価値を見いだせないし、誰かに見られていないと自分がいるのかなって怖くなっちゃうから」
 若葉は紅茶を一口飲むと、紫乃の前に置かれたジンジャークッキーを一つ齧る。
「撮影のこともね、漆原君から話を貰った時、いい機会だって思って二つ返事をしたわ。どうにか貴方とお話してみたいなと思って」
 穏やかな表情を浮かべ、若葉は紫乃のことを見つめている。たった二人だけの部室は、無音だとやけに広く感じられた。紫乃は周囲を見回してから、再び若葉に視線を戻す。どうも彼女は何か普通の人よりおかしな点に執着している。紫乃はぼんやりとだが、そう感じた

 ノブの回る音と共に暗室の扉が開いて、漆原がそっと顔を出した。
「なんだ、篠森さん来てたんだ」
 漆原は大きく伸びをすると息を強く吐き出した。若葉はもう一つティーカップを用意して、紅茶を注ぐと、空いた席の前に置いた。湯気が立ちのぼるカップの前に彼は座るとクッキーを手にとって一口齧り、紅茶を啜る。熱いのは苦手なのか、ずず、と少しはしたない音に紫乃は思わず顔をしかめてしまった。
「今日中には写真、渡せると思うよ」
「そうですか、とても嬉しいです」
 紫乃は熱のない言葉でそう返事を返すと紅茶を音を立てずに口にする。鼻孔をくすぐる香りが、紫乃の中に染み渡っていく。
「にしてもまた事件が起きたね」
「事件?」
 突然の漆原の言葉に紫乃は首を傾げる。なんだ、知らないの。と漆原はまた音を立てて紅茶を啜った。
「決まって必ず目を抉る凶悪犯の事件だよ。今日も行方不明になっていた女性が一人、両目を抜かれていたらしい。隣町で起きてるっていうんだから怖い話だよ」
「殺されはしないんですか?」
「ああ、目を奪われるだけ。といっても、何も見えなくなったら死んだも同然な気がしてしまうよ。盲目の人からしたら酷い言葉だと思うけど……」
「また活発になったのよね、どうなるのかしら」
 紫乃は目を細め、ティーカップの取手を強く握りしめる。その様子にどうやら二人も気づいたらしく、突然感情を露わにする彼女に戸惑いを覚えた。力の篭った白い手が薄ら赤く染まっていく。紅色のルージュに染まった下唇をぎゅっと噛み締める。
「酷い事件」
 漆原と若葉は互いに顔を見合わせて首を振り、それから互いにクッキーを一つ摘んだ。
「そういえば、今日はいないの?」
 嫌悪感を表にした彼女にそう問いかけると、再び彼女から色は失われていった。
「蒼太君のことですか?」
「そう、彼。いつも一緒にいるのに珍しいね」
「蒼太君は、何か用事があるそうで、ここに来る前に別れました」
 ふうん。漆原はそう言って紅茶を再び啜り始める。

 三人の会話が落ち着いた頃に紫乃の携帯に着信が入った。細かくバイブする携帯を手に取ってディスプレイを覗くと、藍野蒼太の文字と画像が大きく表示されていた。紫乃は席を立って部屋の隅の方に向かうとそこで着信を取る。
『紫乃、君はまだ写真部にいる?』
「ええ、まだ居るわ。用事は終わったのかしら」
『そうだね、ひとまずは』
「ひとまず?」
『今、丁度門の辺りにいるよ。できたらこれから会えないかな』
「構わないけど……」
 紫乃はちらりと若葉と漆原を盗み見る。
『少し気になることがあるんだ。場合によっては君の周辺で何か起きる可能性も高い』
 そう言うと、彼の通話が切れた。彼にしては珍しい呼び出し方だと紫乃は思いつつ、荷物から財布と携帯だけ取り出した。
「彼から?」
 なんだか楽しそうに微笑む漆原を数秒程じっと見つめ、それから嘆息を一度すると首を横に振った。
「申し訳ないけれど、漆原さんが思っているような関係ではありませんよ。私達は」
「それにしてはやけに親密に見えるんだけどね」
「私は恋人がいますから」
 紫乃ははっきりとした口調でそう言うと、携帯と財布を手にして部室を出る。
 暫く着信履歴に残った蒼太の名前をじっと見つめた後、その履歴を消す。二件の着信が全て白紙になったのを確認すると、紫乃は固く目を瞑り、大きく深呼吸をして廊下を歩き出す。

 玄関口に紫乃がやってくると、蒼太は携帯のディスプレイから視線を上げて彼女に微笑みかけた。紫乃は訝しげな表情を浮かべ、彼の下へと歩み寄った。蒼太は、背を預けていた壁から離れるとポケットに入れていた手を抜いて携帯を取り出す。肩提げの鞄が小さく揺れた。
「やあ、さっきぶりだね」
「貴方にしては珍しい呼び方ね。普段ならあんな無理に人を呼ぶことなんてないわ」
 ああ、と蒼太は腕を組むと頷いた。軽口に普段以上に反応を示さない彼を見て、よほどのことがあったのだろう。と紫乃は思った。
「視られたがり、という名前を知っているかい?」
 紫乃は首を振る。
「君はそうだと思ったよ。巷で目をえぐりとる事件を起こしている人物だ。視線を気にしているのではという話からついた名前らしい」
 紫乃はふと、先ほど二人とした会話を思い出す。目を抉る凶悪犯の話。どうやら視られたがりという名前で周囲に知られているようだ。
 紫乃は知ってると小さな声で呟いたが、その頃には藍野蒼太は会話を次の段階に移してしまっていた。
「恐らくだけど、君の両目を狙っている」
「……どうして?」
 そのどうしてが一体どういった意味合いを持っているのか、蒼太には理解できていた。さてどこから話そうか。蒼太は腕組みをして思考を巡らせ、それから携帯を取り出すと一枚の写真を紫乃の前に提示した。 グレーのジャケットにベージュのチノパンの男性が写っている。帽子を深く被っていることと、窓越しであるからか顔は曖昧だ。
「君のストーカーだ」
 紫乃は思わず目を見開き、画像から蒼太の顔へ視線を上げた。彼の表情は真剣そのものだ。まして紫乃に対して冗談を言えるような人間ではない。
「いや、ストーカーは少し言い方が違うな。尾行者、といったほうが正しいのかもしれない」
 蒼太の言い回しに紫乃は首を傾げる。玄関口から差し込む陽の光がゆっくりと落ちていく。そろそろ辺りも暗くなるだろう。玄関の蛍光灯が点灯し、周囲が白色の光に照らされる。橙色の陽の光と、白色の光の合間で蒼太は一度目を閉じた後、もう一度開けて、穏やかな口調で告げた。
「彼は頼まれて君を尾行していたのさ。あらゆる点で君を見張るために。ストーカーじみたことまでするようにと相当念を押されていたらしい」
「ちょっと待って、貴方の会話、よく分からない部分がある」
 蒼太は黙ると、掌を彼女に向けて差し出した。紫乃は彼の仕草を頷きで返し、再び口を開く。
「この尾行していた男性を、貴方は捕まえたの?」
「どういう人物がつけているか、顔は分からないまでも目星が付く程度にはなっていたからね。君と別れた後にこっそりそいつをつけたんだ」
 蒼太はその際に彼をナイフで傷つけ、血を流させた。あまりの緊張で彼を開放した後に嘔吐までしてしまったのだが、それらは全て胸のうちに秘めておくことにした。初めてナイフが赤く染まった時の感情は、いくら説明したとしても彼女に伝わることはないだろう。
「残念だけど、依頼者がいるとまでしか聞けていない。ただ、君がつけられ始めていた時期と、彼が依頼された時期、そして視られたがりの犯行再開時期はズレているようで、逆に互いが被らないようになっている。恐ろしいほどタイムスケジュールがぴったり合うんだよ」
 蒼太の言葉に、紫乃は暫く俯く。恐らくそのパズルのピースのように当てはまる現象がもう一つある。紫乃は考えを巡らせ、そして脳裏に浮かんだ事象を一つ、恐る恐る口にした。
「……写真撮影の依頼」
「その通り」
 蒼太は、若葉萌、漆原雅人のどちらかが「視られたがり」であると考えているのだろう。紫乃の中で構築されていった欠片が導き出した結果の中で、二人の姿が浮かぶ。先程まで私と茶菓子を食べていた二人のどちらかが、私を狙っている……。考えれば考えるほど、信じたくはない話だった。紫乃にとっては何気なくやってきた依頼を受け、紅一に送る写真を撮るいい機会に過ぎなかったのだから。
「ちなみに、僕は漆原から「篠森を起用しようと提案したのは俺だ」という話を聴いている。特に君の瞳には魅力があると言っていた」
 彼の言葉を聞いて、紫乃は暫く腕組みをすると考える。
「駄目ね、私は特に何も聞けていない……」
 首を振った紫乃と蒼太はひとまず部屋に戻ろうと共に廊下を歩く。窓越しに薄暗い橙が流れ込み、陰鬱とした空気が周囲に広がっていく。時刻を考えると帰路につく学生も多い頃だ。人気のない廊下を照らす蛍光灯は、やけに明るくて、蒼太には逆に薄気味悪く見えた。
 紫乃は終始無言を貫いていた。足元を見つめ、蒼太の隣を歩いている。
「今回は、君がよく言っている嫌な雰囲気とか、危険な空気を察知することができなかったみたいだね」
 蒼太は率直な意見を彼女に告げた。紫乃は蒼太のことを一度見た後、再び俯いた。
「だって、これは死ねないのでしょう? 私は、死にたいの。命を失う過程で、想像を絶するような苦痛にまみれて死にたい。苦痛を感じたのに、ここに残るのは嫌」
「苦痛によって自らが傷めつけられて、死ぬ寸前に救われたと満足したい。都合の良い死に方だ。首を吊ったり、飛び降りたり、ガスで自らの命を絶つのとなんら変わりない」
 紫乃が立ち止まる。二、三歩歩いたところで蒼太は止まると振り返り、紫乃を見た。憎悪と絶望に満ちた最悪の顔が、そこにはあった。紅色のルージュが醜く歪んでいる。
「あなたにはなにも分からない」
「ああ、きっと僕には分からない」
 蒼太の言葉は、蛍光灯に照らされた無機質な廊下に冷たく響いた。
 彼の言葉に紫乃は小さく舌打ちをすると、彼の横を通りすぎていく。その後ろ姿を見つめ、小さく嘆息をすると蒼太も再び歩き出す。

――悲鳴。

――衝撃音。

 二人が動き出した刹那のことだった。甲高い悲鳴が彼らの歩く廊下の先から響き渡る。絹を割いたようなその悲鳴は、恐らく若葉萌のものだ。それから続いてガラスの割れる音がした。
 蒼太は廊下を全速力で走りだすと、写真部扉を乱暴に開くと中に飛び込む。
「―――――!」
 続いて部室に入った紫乃は思わず息を飲んだ。

 部屋の中央で片目を抑えた若葉萌が倒れていた。抑えた手から溢れ出す液体は地面に雫となって落ちて、赤と白色の奇怪な水溜りを作っている。
 負傷した彼女の先にある大きめの窓は、ガラスが内側から破られていた。
 そんな彼女の傍にしゃがみこんだ漆原が、二人の存在に気づいて声をあげる。
「萌が……萌が!」
「何が……あったんです?」
 蒼太が駆け寄ると、抑えられた若葉の手をそっとどける。閉じられた瞼の間から白濁した液体と血液の交じり合ったものが次々と溢れでてくる。蒼太はそっと指先を彼女の瞼に当てる。感触は、何もなかった。
「……目を、刳り貫かれている」
「まさか、視られたがりが?」
「わかりません。漆原さん、彼女が襲われた時の状況は?」
 漆原は目をギョロつかせながら首を大きく振る。暗室に篭っていて、突然の悲鳴とガラスの割れる音に驚いて飛び出してきたらしい。その時点でガラスには人一人くぐれるくらいの穴が空き、部屋の中央に若葉がうずくまっていたという。
 蒼太は立ち上がると窓の外を見る。暗くてあまりよく見えないが、コンクリートで塗り固められた裏路地と、その先にグラウンドが見える。
「きっと誰かが忍び込んだんだ。そうして若葉に危害を加えた……」
 怒りに満ちた表情で漆原はそう言うと、地面に拳を叩きつけた。
「……行きましょう」
「え?」
「まだ捕まえることができるかもしれない」
 蒼太はそう言って部室の扉へと駆けていく。続いて漆原も蒼太についていく。
「紫乃は救急車を呼んで、若葉さんの介抱を」
 紫乃は頷いた。蒼太は漆原と顔を見合わせて頷き合い、廊下を駆けていく。蛍光灯に照らされた二人は玄関口を飛び出すと、グラウンドへと向かった。

 グラウンドへ到着して、二人は息を切らしながら周囲を見回した。随分と広いグラウンドだ。長距離走者用のレーンやテニスコートの整備されたそこには、しかし人の姿は全く見当たらない。影すらないその場所を見て、漆原は固く目を瞑った。
「ちくしょう、見逃しちまった……」
「……これでいいんです」
 蒼太の言葉に、漆原は耳を疑った。
 彼の顔を見ると、蒼太は穏やかな表情のまま漆原を見つめていた。
「僕は、貴方をおびき出したかったんだ」
 蒼太は、肩に提げられた鞄に手を突っ込むと、にやりと笑みを浮かべた。

       

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