Neetel Inside 文芸新都
表紙

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   五


 蒼太は部室に足を踏み入れた。もぬけの殻の写真部室には、白濁混じりの血痕だけだ。
 紫乃、と部屋に向けて呼びかけてみるが、返事はない。
 紫乃はおろか、傷ついて倒れていた筈の若葉の姿すらない。開け放たれた暗室から人の気配も感じられない。蒼太は一度大きく息を吐き出すと、ポケットから携帯電話を取り出して、手の中で弄ぶ。割られた窓から吹き込む風が、蒼太の髪をするりと撫でる。窓の方を暫く見つめた後、口を閉じたままテーブルの傍に近付き、ティーカップを端に退かす。かちゃり、と陶器の接触音が広い部屋に響き渡る。
 蒼太は椅子にどっかりと座り込み、退かして出来上がったテーブルのスペースで頬杖をつき、足を組んだ。
「本当に、誰もいないのか?」
 遅れて部室にやってきた漆原は部室を見回し、がっくりと膝をついた。
「見ての通りです」
 蒼太は膝をつく漆原に、坦々とした口調で言う。
「おかしいと思ったんだ。被害者は行方不明になった後に目を繰り抜かれ、放置されている。けれど今回は片目だけ。それも中途半端な形で彼女は放置されていた」
「けど、あいつは確かに目を……」
「彼女は、その為に再び視られたがりとして事件を起こし始めたんじゃないですか? ここ最近目に関する事件が多くなってきた。そんな時に目を刳り貫かれた人がいたら、漆原さんはどう思います?」
「そりゃあ、視られたがりの……」
 漆原はハッとして、若葉が倒れた直後の会話を思い出す。蒼太は頷いた。
「全部、篠森さんを連れ出す為のこと?」
「きっと漆原さんが彼女を撮影することを提案していなかったとしても、彼女から提案があったでしょうね」
 蒼太は一呼吸置いて、項垂れる漆原に向けて追い打ちともいえる一言を放つ。
「視られたがりは、若葉萌です」
 鞄からクリアファイルを取り出すと、蒼太はテーブルの上に置いた。
「紫乃を着けていた尾行者の物です。これと、【尾行者】の言葉から、若葉萌が視られたがりだと予想して先ほどまで動いていました」
 漆原は立ち上がると、ファイルの中を確認する。二枚目には篠森紫乃の顔写真と尾行期間が細かく書かれている。依頼書の日付は、丁度漆原が彼女を起用しようと提案した日だ。漆原はその日付を見て、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「でも……どうするんだ? 若葉が篠森さんを連れ去ったとして、どこに行ったかなんか分からないだろ」
 漆原は声を荒げ、蒼太をじっと見つめる。
 その時、蒼太の携帯が机の上で振動する。机を介しての鈍い音を響かせるそれを彼は手にし、やってきたメールの内容と写真を見て微笑む。
「今丁度出ていったみたいですよ、彼女」
 蒼太が向けた携帯のディスプレイには、単車に跨る若葉の姿と、サイドカーに載せられた紫乃の姿があった。

――数時間前

 写真部へ向かう紫乃に手を振り、蒼太は彼女に背を向けて廊下を暫く歩き、途中の角を曲がるとその場でしゃがみ込む。予め持ってきておいた手鏡に映る自身の姿を確認し、そっと来た道へと手鏡を向けた。
 鏡に映る廊下の先に、猫背の男性が写った。
 ジーンズに紺色の七分袖のシャツ、そしてメッセンジャーバッグを腰に付けた黒髪の男性。
 蒼太は店主に写してもらった写真と見比べる。断定はできないが、姿勢や様子から少なくとも先日のストーカーで間違いはないだろうという結論に至る。
 彼は紫乃の方をじっと見つめた後、ポケットに突っ込んだ手をもぞもぞと動かし、足早にその場を立ち去っていった。蒼太は鏡をしまって数十秒程指折り数えた後、深く深呼吸をしてから立ち上がり、玄関へと向かった。
 講義が終わってから多少時間が経っているからかキャンパスの人通りはそこそこで、見失う可能性の少ない状況を無事作り出すことができたと蒼太は安堵する。蒼太は人込みの中から目当ての男の姿を見つけると後ろをついていく。途中知人に声をかけられたりもしたが、幸いなことに相手方に気づかれたような仕草はなかった。
 校舎を出ると、男性は少し歩くペースを早めた。もしかして気づかれてしまっただろうか。いや、多分まだ彼は気づいていない。蒼太は一度携帯で彼の後ろ姿を撮ると、追跡を続行する。

 白鷺町から黒鵜町へ通じる道にやってきた。相変わらずシャッターは降りたままで、ゴースト・タウンのような重たく冷たい空気を蒼太は感じた気がした。
 不意に、彼は突然振り返る。蒼太は慌てて物陰に隠れたが、多分すでに彼は追跡されていることに気づいただろう。いや、むしろ歩くペースを早めた時点で彼は気づいていたのかもしれない。
 ぴり、と張り詰めた空気をぐっと飲み込む。
「いるんだろう」
 さて、どうするべきか。蒼太は鞘に入ったままのナイフの柄を握り締める。硬い感触と、この中に人を一人殺傷できる程度の切れ味が眠っていると思うと、不思議と安心することができた。何も怖くないといえば嘘になるが、それでも十分な安定剤になる。
 もしこれで人を殺してしまったらという不安と、もし殺すことができなかったら、といった相対する感情が混ざり合い、蒼太の緊張を更に高めていく。
 生唾を飲み込み、息を深く吐き出すと、蒼太は鞄から手を抜いて、物陰から姿を晒す。
「やはり君か。藍野蒼太」
「………篠森を付け回して、一体何がしたいんですか」
 警戒に満ちた声で蒼太が問いかける。男性は押し黙ったままじっと蒼太のことを睨みつけ、ふう、と嘆息する。
「彼女に興味があるんだよ」
「……目的は、彼女の目か?」
 蒼太のその問いかけに、男性は顔をしかめ、肩を竦める。
「目?」
 蒼太の言葉に首を傾げる彼の姿を見て、蒼太は戸惑う。ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、彼は道の真ん中に立っている。少し眉毛の太い男性だ。だが体格は蒼太とさほど変化はない。取っ組み合いになったとしても、ある程度は勝ち目があるかもしれない。いや、彼はおそらくそういった類にも精通している可能性がある。少なくとも、ただのストーカーではないのだろうし。
 蒼太はゆっくりと男性との距離を詰めていく。警戒の色を見せるが、彼は一向に後退する気配を見せない。この程度でも逃げ切ることはできるということなのだろうか。
「ここ数日、彼女を尾行しているのは、攫う機会を狙っているんじゃないのか?」
 目を細める蒼太に対し、男はまた肩を竦めた。
「君は、俺と依頼人とを勘違いしているようだね。誰だか言ってごらん」
「……視られたがり」
「やはりね。悪いが目に興味はない。ましてや目を奪うなんて、そんな割にあわないこと、余程マニアックな性癖を持ち合わせていなけりゃしないさ」
 彼の言葉に、蒼太は下唇を噛み締めた。なら彼は、何故篠森紫乃を着けていたのだろうか。単純な恋慕か。なんにせよ、視られたがりを「性癖」と呼ぶ辺り、彼女の目が目的ではないということは理解できた。
 どこからともなく吹いた風が、蒼太の身体を通り抜けて行く。男は胸ポケットから煙草を取り出すと口に咥え、ライターで火をつける。
「……探偵?」
 ご名答、と男は指に挟んだ煙草で蒼太のことを挿すと、再び口に咥え、煙を吐き出す。半透明の煙が、閑散とし重たい空気の町の中にふわりと立ち上る。
「まあ、どちらかといえば何でも屋だな。探偵ならもっと上手く隠れてるさ。厄介事を引き受けてくれる確率も低いし、かかる金額も俺の倍以上だけどな」
 突然饒舌になる「何でも屋」と名乗った男を、蒼太は訝しげに見つめる。
「何故、そんなにも簡単に事情を?」
「ああ、悪いが、煙草を持っていないか?」
 蒼太が首を横に振ると、なあんだ、と何でも屋は残念そうに口を歪める。スニーカの爪先で舗装された地面を二度叩くと、彼はあっという間に短くなっていく煙草を残念そうに見つめ、くつ底で火を消して道端に放り投げた。
「これで最後の一本。ここ最近あまり財布に余裕がなくてねぇ」
 何でも屋はにやりと薄気味悪い笑みを浮かべてとん、とんと蒼太との距離を簡単に詰める。蒼太は一瞬怯んだが、鞄の中のナイフを握り締め、なんと視界を彼から外さないようにする。
「俺はね、結局のところ自分が美味しければそれでいいのさ。尾行の依頼もここ数日間で随分と報酬を貰えているし、他に美味しい話があればそっちに飛びついてもいいと思っている」
 蒼太は、初め彼が一体何を口にしているのかわからなかった。
「仕事がマンネリになってやる気が削がれていたこともあるが、二度も逆に尾行されるとは思っていなかった」
 その言葉を聞いた途端、蒼太は鞘の留め具を外して彼にナイフを突き出す。明るみに出た刀身は白銀の光と共に彼の右腕を舐める。
 何でも屋はその白い殺意を受けて即座に後方へと飛び退いたが、七分袖は縦に破け、肌から一筋の赤いラインと、血液がじわりと溢れた。咄嗟に避けたおかげで抉られることはなかったが、それでも随分な傷だ。何でも屋は嘆息を一つすると、両手でナイフを構える彼の姿をじっと見つめる。赤い液体がつうっと先端から柄の方へと流れていく。
「成程、篠森紫乃が絡むと君は相手を排除するかどうかでしか考えられなくなるようだね。その感情は、果たして好意なのかい? 執着なのかい?」
 何でも屋の問いに、蒼太は何も答えない。深く呼吸をし、自らの震えを抑え、目の前の標的に狙いを定める。落ち着け、落ち着け、これだけ鋭い得物を持っている自分がどれだけ優勢かを考えろ。
 何でも屋は相変わらず薄気味悪い笑みを浮かべたままその場に立っている。
「――藍野紅一の代わりにでもなろうってのか?」
 その言葉と同時に、蒼太は地面を強く蹴って彼の懐へと飛び込む。何でも屋は穏やかな表情のまま、こちらに飛び込んでくる蒼太を見つめ、次々と無差別に振り回される彼のナイフを躱し続ける。
「悪いが君に関して調べられることは調べさせてもらったよ。その結果、俺は君に興味を持ってしまった」
 立ち止まる何でも屋の顔めがけてナイフが飛ぶ。蒼太の表情にほころびが生まれ、それが恐怖の色に染まるまで時間はさほどかからなかった。何でも屋にとって、彼のその心情の顕著なまでの移り変わりは餌だった。これほどまで壊れたがる狂人を見たことがない。何でも屋の気分は、嘗てないほどに高揚していた。
 蒼太の突き出したナイフが何でも屋の右の掌を貫く。もしあと一瞬でも何でも屋の反応が遅れていたのなら、彼の顔は潰れていただろう。
 掌から夥しい赤が雫となって落ちていく。呼吸を荒げる蒼太と、無言のまま微笑む何でも屋。二人はじっと見つめ合ったままその場にとどまり続ける。
「……俺はね、藍野君。人の欲を埋めるのがたまらなく好きなんだ。視られたがりは素晴らしい表情を俺に見せてくれたよ。最高だった」
 蒼太に蹴りを一発、腹部に入れると何でも屋は出血する右手を軽く二度スナップさせた。床に倒れこんだ蒼太は、咳き込みながら彼の姿を見つめる。
「ただね、君の欲望の方が面白そうだと俺は今思っている。分かるかい、この意味が」
 何でも屋は蒼太の目の前にしゃがみこむと、不気味なほどに柔和な笑みを作ってみせた。

   ―――――

 蒼太はディスプレイの時計を眺め、それから次にやってきた画像を見て机に置いていた鞄を手にすると、椅子から立ち上がる。
「そろそろ行こう」
 立ち上がる蒼太を、漆原は椅子に腰を下ろしたままじっと見つめる。蒼太は彼の方を一瞥した後、口を閉ざしたまま扉に手をかけた。
「……藍野君、君は一体何を望んでいるんだ?」
 扉を開けると同時に、割れた窓から風が吹き込む。入り込んできた強風が二人の髪と服を乱し、あっという間に開いた扉から去っていく。蒼太は乱れた髪を手櫛で軽く整え、棘のある視線をこちらに向ける漆原を見つめる。
「僕が望んでいるのは、紫乃が無事であること。それだけですよ」
「なら何故すぐに追わない?」
 漆原は声を荒げる。
 彼が一体、誰に若葉萌の尾行を依頼しているのだろうか。漆原には理解しきれていない情報があまりにも多すぎる。だが、わざわざ尾行を付けるのならば、彼女を救い出す為にできることは多いはずだ。相手は目玉を抉るためならなんでもする犯罪者。わざわざ彼自身が対峙する必要があるわけない。
「僕は、紫乃に這い寄る死を退けなくちゃいけない。その為には、普通に終わらせることはしたくない」
 蒼太が向けた目を見て、漆原は思わず息を飲む。それは、酷く冷徹で、淀んだ水のような真っ黒な闇を孕んだ瞳だった。篠森紫乃の潤んだ水気の多い瞳とは違う。

――深淵。

 漆原の中で浮かんだ言葉が、それだった。
「……お前、狂ってるよ」
 かろうじて出すことのできた言葉は、それだけだった。
「どうでもいいよ」
 ただそれだけを告げると、蒼太は部室を出て玄関へと向かう。鳴り響く携帯電話を取り出すと、何でも屋から受信した画像を開く。黒鵜駅の改札だ。
 蒼太は携帯を閉じて、蛍光灯の灯りの下で伸びをする。部室で感じた心地良い風はどこにもない。塵と生ぬるい空気の塊を飲み込むと、蒼太は再び歩き出す。

 蒼太が身を投じた先は、深く淀んだ水底。

 汚泥に包まれ、光の届かないどこかへと彼は落ちていく。

       

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Neetsha