Neetel Inside 文芸新都
表紙

踊るには朱過ぎる月の夜に
「ねえ、明かりを消して」

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   一

 錫谷は夢を見ていた。いつもの様にスーツを着て、バスに揺られているという酷くつまらない夢だった。
 錫谷が座っている座席は後部の、丁度タイヤの上部辺りに設置された二人用席だった。エンジンがかかる度にタイヤの振動が微弱に私の身体に伝わるのが嫌でも分かる。
 なんだか、夢なのに随分と現実的な夢だなあ、と錫谷は肘掛けに頬杖をついて、流れていく景色を窓越しに見ていた。景色も変わらず通勤時の風景。日常のワンシーンを切り取ったような町の風景が左から流れては右へ消え去っていく。
 そんな時、不意に目の前を黒い髪が流れた。
 私が目を向けると、前方に、女性が一人座っていた。
 彼女の長い黒髪が揺れる度に、陶器みたいに真っ白いうなじが姿を現している。とても滑らかできめの細かい肌をしている女性だった。
 錫谷は、前方の女性の顔がとても見たかった。その小さな肩に手を掛け、振り向かせたいという衝動に駆られ、思わず手を伸ばしてしまう。
――きっと、彼女は恐ろしく美しい瞳をしているに違いない。
 触れるか触れないかの指先で、美しい項が目先でちらりと覗く。艶のある髪が私の鼻先をくすぐる。
 どうしてだろう。彼女の目がとても気になった。彼女の瞳を酷く見たい気分だ。
 振り返らせて、そこに映る自分の姿が、見たくて堪らない。
「……貴方は、私をどうするつもりなのかしら?」
 肩に触れるか触れないかのところで、彼女は背中越しに言った。錫谷は、伸ばした手を止めた。
「ただ、君を正面から、見たいだけだ」
 言い訳じみた言葉に、彼女がクスクスと背中を揺らす。
「何故?」
「何故だろう。理由は分からない。でも今、私は君の瞳が酷く見たい気分なんだよ」
 正直に答えると、彼女はそう、と溜息でもつくように気のない返事をする。
「でも残念、貴方に見せる瞳は無いの」
「どうして?」
「だって、貴方は私の顔を見たがらないから」
 そう言って、彼女はくるりと振り向いた。長い髪がふわりと靡いて、黒い服の中に秘められた白い肌がちらりと見える。綺麗な鎖骨がくっきりと浮き出ている。
 だが、その先は見えなかった。
「貴方に、私の瞳は、きっと見えないわ」
 まるで、電波の途切れた液晶のように、彼女の顔はノイズに遮られて見えない。錫谷はその顔に触れてみようとするのだけれど、ジリジリと焼けつくような音がするだけで、ノイズに塗れた顔は消えなかった。
「どうしたら、見えるようになるんだ」
 尋ねてみるが、答えは帰ってこなかった。彼女は嗤うと、再び彼から背を向けてしまう。綺麗な鎖骨も、白い首元も、魅力的な瞳も、彼方へ行ってしまう。
――待って欲しい。見せてくれ。
 慌てて手を伸ばした
瞬間、目の前が、まるでスイッチを落としたみたいに、ばちんと暗くなって、全てが消えた。
 全て消えて、暗闇の中、錫谷は周囲を見回す。
 錫谷は、自分がまだ眠りの底にいるのだと錯覚した。これは夢の延長で、きっとこの暗闇も自分の次の夢なのだろうと。瞼を閉じても、開いても見えるのは暗黒だけで、一筋の光すら見つけることが出来ない状況が、彼にそう錯覚させた。
 だがその錯覚も、身体中に走る鈍い痛みによってすぐに醒めてしまった。全身を打ち付けたような鈍い痛みに、動かない左腕、腹の底からせり上がる吐き気。
 耐え切れず思わず呻くと、じゃりり、と地面を踏みしめる音が聞こえた。
「気が付きましたか」
 女性の声だった。
 鈍い頭痛に頭を抱えながら上体を起こし、錫谷は周囲の暗闇を見て回る。やはり何も見えない。足元に触れてみると、砂利のざらりとした感触があった。
「その、ここは、どこですか」
 返答の代りに衣擦れの音と、砂利を踏む音が聞こえる。そして、次第に誰かの呼吸の音が錫谷に近づいてくる。
「どこか、痛いところはありませんか」
 澄んだ綺麗な、耳触りの良いはっきりとした声だ。その声は、私にあの背中を向ける女性の事を連想させた。自分の前の席に座る、あの黒い服と髪の彼女の姿を。
「左腕が、動かない」
「それはもしかすると、折れているのかも」
「多分」
 左腕の痛みに顔を顰めながら、自分が置かれている状況を考える。だんだんと意識もハッキリしてきたからか、記憶が泡のように湧いて、錫谷はここまでの出来事を思い出した。
 確か、バスに乗っていた筈だ。いつもの時刻の、いつものバスに。ただ、その日は錫谷にとって「いつもの事ではない」出来事が起こった。 
 突然運転席近くの男が立ち上がったかと思うと、懐から拳銃を取り出して運転手に突き付けたのだ。
 バスジャックだった。彼は大人しくしろ、と叫び、特に煩かった乗客を撃ち殺してみせると、連絡の手段を奪い、拳銃で運転手に指示させて公道から離れた人気の無いけもの道に錫谷達を乗せたまま連れて行った。
 けもの道を暫く走った先で、バスは廃トンネルに到着した。中に入れろと言われ、指示の通りにトンネルの中にバスを入れると、それから、彼は掌に収まるくらいの円筒状の棒を取り出し、先端のスイッチを押した。
 彼の動作から間もなく幾つかの大きな炸裂音がして、激しい衝撃がバスを襲い、前後左右上下感覚を失い転げまわった挙句に、錫谷は気を失ったのだった。
「どこまで覚えているか分かりませんが、トンネルが崩れた後、バスごと生き埋めになりました。最後に運転席側が瓦礫で押し潰れるので見たので、多分犯人と運転手さんは、もう……」
「それは、災難だったね」
 髪が揺れる音がする。恐らく、首を振ったのだろう。
「何も分からないよりは、良かったと思っています」
 凛々しい声だった。錫谷はそうか、と答える。強い女性だと思った。
「君は、私の前の席にいた子かな」頷くのが衣擦れの音で分かった。
「貴方が庇ってくれなかったら、今頃酷い目に遭っていたと思います。本当に、ありがとうございます」
 そう答えると、右手に、彼女の手が添えられた。冷たくて、つるりとした陶器みたいな肌の感触だった。だがこの暗闇の中で感じられた人肌に錫谷はひどく安心した。
「明かりは?」
「周囲を照らせるようなものはどこにも」
 荷物の類は全てバスジャック犯に奪われてしまった。彼が無事で無いということは、つまりそういった物資も瓦礫の中、ということなのだろう。
 全くなんて状況だ。錫谷は心中で悪態をつくと深く息を吐く。
 ふと気になって、錫谷は添えられた手の主に再び声をかける。
「他の人は?」
「返事もないところを見ると……」彼は思わず唸ってしまう。
「――時間は?」
「それも、分かりません」
 時計も無いと来たか。生憎錫谷も時計の類は持ち合わせていない。ただ、生き埋めになってから随分経っているには違いない。
 人間どうしようも無い状況に立たされると、やけに冷静に物事を考えられるようになるらしい。
――いや、自分がもう戻る必要が無いからかもしれない。
 むしろ、死んでしまえばまだ楽だったかもしれないと思うのは、いけないことだろうか。錫谷は胸中の言葉を呑み込んだまま、右手に添えられた彼女の手を握った。
「とにかく、ありがとう。君はどこも問題はないかな」
 錫谷の言葉に、篠森はええ、と口にする。
「怪我も何もありません」
「それは良かった。互いに心を強く持たないといけないね。大丈夫、きっと私達は助かるよ」
 心にも無い言葉だと思いつつも、錫谷は彼女の為に励ましの言葉を口にする。そう、自分は特にどうなっても構わないが、せめて彼女が生き延びる努力くらいはしなくてはいけない。
 そんな想いの彼とは裏腹に、彼女は別に良いんです、とぽつりと漏らした。微かに、握った右手に力が入るのが分かった。
「こうして、暗闇に包まれてしまいたいと思っていましたから。むしろ都合が良いです」
「どうして?」
「私は、私でなくなりたかったから」
 彼女の零した言葉に、錫谷は眉を顰める。
 自己否定の気がある子なのだろうか。それとも既にこの状況に諦観しているのか。
「何か、嫌なことでもあったの?」
 錫谷が尋ねるが、返答は無かった。添えられた彼女の手が微かに震え、首を振ったような気がした。錫谷は嘆息を一つしてから、彼女の手を握り返す。
「深くは聞かないが、こんなところにいたいなんて言うべきじゃない。そのうち、きっと光は差し込むだろうし、駆けつけてくれる人がいるはずだ。だから、頑張って耐えよう」
「ほんとに、来ると思います?」
 彼女の言葉は、やけに重たく、冷めて聞こえた。
「生き埋めになって、連絡の手段も無い。人気のない場所をわざと選ぶように走っていって、予定した通りに入り口を爆破して生き埋めにしたんですよ。あの犯人は確実に、心中を狙ったに違いありません。こんな状況で誰かがここに気づくまでに一体どれだけかかると思いますか。その間の水や食料はどうしますか。生きる為に必要なものが一つも揃っていない中で、励ましの言葉は何も意味を成しませんよ」
 坦々と吐き出された言葉に錫谷は何も言い返せなかった。一呼吸置いてから、彼女は再びあの、と口を開く。
「すみません、言い過ぎました」
「いや、私こそ無責任な発言をした。すまない」
 静寂が、再び暗闇を満たしていく。
 外の様子はどうなっているだろう。
 彼女の仄暗い感情にあてられてああは言ってみたものの、実際のところ自分にも外に希望は無かった。
 彼女の手から離れて、用心しながら錫谷は後ろに下がってみる。虚空を探りながら慎重に周囲を探ると、途中で壁に触れたのを感じた。錫谷は暫く壁の感触と強度を確かめてから、そこに寄り掛かる。身を寄せる場所が出来ると少し緊張が解けた気がした。全身の緊張が、吐息となって口から吐き出されていくのを感じる。
「まあ、私も実を言うと、そこまで外に出る必要性は感じていないんだ」
「どうしてです」彼女が隣にやってきて、壁に寄り掛かる音がした。
「この間仕事を辞めてね」
 彼はそれだけ言うと、特に必要もないけれど目を閉じた。
 上司との軋轢や、終わりの無い低空飛行を気合でどうにかしようとする社内の在り方、色々なものが重なった結果の退職だった。辞表を提出した時、君はきっとこの先もやれる、君の力を必要としている場所はあると励まされはしたが、そんなリップサービスをされるくらいなら、寧ろ好き放題言って貰ったほうがまだ気が楽だった。
 休日を削り、一日の勤務時間も増やし、上司の見当違いなオーダーを見直し、後輩も面倒を見ていたつもりだったが、努力しても結果に結びつかなければどうにもならない。
 会社を辞めてみると、使う余裕が無くて小金の貯まった通帳と、ダンボール一箱、会社から一駅離れたアパートだけしか自分には残らなかった。随分長く仕事を続けてきたつもりだったが、いざ振り返って見るとなんとも虚しく、一生を切り売りした結果の見窄らしさに溜息すら出なかった。
 恋人も気が付けば連絡が取れなくなっていたし、実家に帰るのも億劫だった。兄が家業を継いで、今更仕事が無くなったと実家に帰ってもただのお荷物としか思われないだろう。
 どうして、こうなったのだろう。
 ビール片手に部屋の片隅でつまみを口にしながら考えてみたが、結局答えは出なかった。自分と、世界と、タイミングが悪かった。結局のところそれだけだ。
 どうにも新しい仕事を探す気にもなれず、使わずにいた金があるからと小旅行にでも行って気を紛らわせようと考えた。リフレッシュすれば、何か新しい道も見つかるだろうと。そう思って着替えだけを詰め込んで、私は家を出たのだ。
 そうして、その結果がこれだ。男の唐突なバスジャックによって、人気の無い場所へ連れ込まれ、森の奥深く、使われた様子のないトンネルに入り込み、爆破。生き埋めになり、犯人は無責任にも早々退場。連絡の手段も無い。水も食料の余裕も無く、誰もいないトンネルの住人として八方を塞がれた状態に取り残されている。
 はは、と自嘲じみた笑いがこみ上げてきた。錫谷は壁に頭を預け、真っ暗闇の中天を仰ぐ。

 どうして、こうなったのだろうか。
「そんなの簡単だ」自身の言葉に、彼は返答するように呟く。
 自分と、世界と、タイミングが悪かった。
 ただそれだけの事なのだ。

「そういえば、君の名前を聞いていなかったね。私は錫谷だ。君は?」
 錫谷の問いかけに隣の彼女ははい、と返事をして、名前を口にした。
「篠森、篠森紫乃です」
 脳裏に再びあの後ろ姿が浮かんだ。
 黒鵜駅から、必ず同じ時刻にバスに乗車してくる、黒いチュニック姿と白い肌が印象的な女性。錫谷は必ず、座れる時は彼女の後ろの座席に座るようにしていた。
――紫乃。
 時々一緒に座る若い青年が、確かその名前を呼んでいた事があって、錫谷は彼女の名前を知っていた。
 初めて聞いた時から、素敵な名前だと思っていた。


       

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