Neetel Inside 文芸新都
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「お兄ちゃん、おはよ」
 線香の煙る仏壇の前で、春子は気だるそうに言った。まだ起きたばかりらしく、前髪に癖がついてしまい、バラバラな方向にツンと伸びている。
「お兄ちゃん、こないだ話した友達のこと、憶えてる? ほら、久しぶりに、心の底から通じ合えるような友達になりたい、と思った人の話。したでしょ? 私ね、今日、その人と待ち合わせしてるんだ。功二と圭一も一緒。晴れてる間に遊びだめしなくっちゃね」
 仏壇に飾られた、少し横に伸びた遺影。確かこれは、一昨年の誕生日の写真。新品のカメラを貰った時に撮った記念すべき一枚目だった。あの弾けるような満面の笑みをまだ写し切れなかった未熟な自分の記憶が、いくつもの剃刀のように、すっと頭をよぎり、飛び交う。フィルムが現像されて帰ってきた時、兄の笑顔の輝きは実物の十分の一にすら達していなかったように、春子には思えた。
 悔しい。親のお下がりではない、自分のカメラと一緒に歩む生活の第一歩だった写真が、今は兄の終わりの象徴となってしまった皮肉。次こそは最高の笑顔を余すことなく残すという、報われぬ夢。こうして明るく友達の話をしても、返事の帰って来ない虚しさ。それらの重荷を背負うことはあまりにも辛過ぎる。しかも、まだ荷物はある。飛び切り負荷のかかる荷物が。
「じゃあね、お兄ちゃん。またあとでお話しよ」
 春子は立ち上がって、洗面所に向かう。開け放たれた窓を抜ける風に乗って、小鳥のさえずりが聞こえる。スーパーカーの「sunday people」を歌いながら、春子はふらついて、寝癖を直しにゆく。有との待ち合わせの時間まで、あと一時間ある。

 間延びした呼び鈴の音に反応して清水圭一が玄関までゆっくり歩き、インターホンに出ると、なんの前触れもなくドアが開き、中川功二が顔を出した。
「よう、圭一」
「お前なー、物事には手順ってもんがあるだろ」
 ひょうひょうとした態度の功二に、圭一は形ばかりは苛立ってみせる。気心の知れた友人としての、日々の儀礼である。
「そうだね。でも、手順を踏まない関係というのもアリなんじゃない?」
 そんな圭一の不平そうな態度をスルーするのは、功二の儀礼である。
「ったく、朝っぱらから」
「いいじゃん。で、今何してた、って、見れば分かるか。口にトーストくわえてるなんて、今時ベタ過ぎ」
 ニヤニヤしている功二を軽くこつく。
「なんの話だよ」
「なんなら、そのまんま町内一周してみ? どっかの曲がり角で、素敵なヒロインとの出会いが」
「ねーよ」
 トーストの端をサクッと噛みちぎりつつ、圭一は功二を中に招く。

 テーブルに着くと、功二の前にマグカップが置かれ、コーヒーが注がれる。湯気とともに、穏やかで温かい香りが立ちのぼった。
「さすがに、毎朝豆を家で挽いてるだけのことはあるね」
 功二が偉そうに講釈を垂れ始める素振りを見せたので、圭一は素早く話題を変えた。中学生だった頃、同級生が話した人物評の通り、功二はやたらと自分を大きく見せたがるのだ。
「今日の待ち合わせのことだけど」
「あぁ、なんだ」
「今日来る人って、どんな感じかな」
 新利春子は明るく、弾けた性格をしているのだが、同時にひどく弱い部分もある。その弱さを人が避けるのか、その弱さが人を避けるのかは圭一には分からなかったが、春子はクラスメートとの付き合いを「友達付き合い」ではなく、「仲のいい知り合いとの付き合い」として捉えている節があった。だから、春子が知り合って一日も経っていないうちから「友達」と呼びたがっていた、「アリムラユウ」なる少女がどんな人物なのか、気になってしょうがない。
「そっかー、お前あんまり知らないもんな、うちの学校の顔面偏差値の高さを」
 圭一は隣町の私立高校に通っており、功二の通う神村高校の事情には詳しくない。学校行事も平日と被ることが多く、行く機会がほとんどないから、幼なじみの圭一や春子からの話で想像を補うしかなかった。
「顔の話をしたつもりはないんだけど」
「へぇ、そうか。でもそう言って、結構気にしてたりしない?」
「ぜーんぜん」
 功二の女好きは相変わらずだ、と圭一は少し嘲る。
「あんだよ。新利も、きれいとか大人っぽいとか騒いでたことだから、ルックスには期待していいのに」
「顔からは離れろ」
 緩慢な動きで、圭一は功二の胸板を叩く。圭一は怯まずに話を続けた。
「でも、言われてみると、性格とかの話は全然しなかったなー」
「さすが面食い」
「今、なんか言った? あ、コーヒーおかわり」
「はいはい」
 コーヒーの入ったポットを手に取ったところで、圭一は違和感を覚えて、功二を睨みつけた。
「おい」
「どうした」 
「お前さー、目の前にポットあるんだから、自分で注げよ」
「細かいこと気にすんな。普段色々と無関心な癖にこういうのは敏感なんだからぁ、圭一君たらぁ」
「黙れ」
 圭一の突っ込みをものともしない功二に「黙れ」というのは敗北宣言のようにも思えるのだが、休日の朝のボーッとした頭ではそんなことに考えが至らない。
「早くしてよ、待ち合わせまであと十分なんだから」
 その発言を最後に、しばらく会話が途切れ、晴れ渡った朝に似つかわしくない、重苦しい雰囲気が二人の間を占領する。
 やがて、圭一が口を開いた。
「じゅ、十分!?」
「ああ、お前、髪も服装も用意してねーのに、朝飯食ってて大丈夫なのか」
「バカ、先に言えよ」
「お前はどこの国の時間で生活してるんだよ。時計見ろよ」
 促されて時計を確認すると、まだ時間に余裕はある。功二が笑った。
「だーまさーれたー」
 バカ、いっぺん死んでこい。
 圭一はそう思った。しかし、その気持は決して、友情と背反することはない。むしろ、二人の友情の必要条件なのだ。このドタバタした休日の朝が完璧過ぎて、楽し過ぎて、他のスタートが想像できない。多分こいつとは一生親友でいられる、という感情すら湧いてくる。
 功二の顔を見ると、彼も同じ意見を持っていそうだった。幸せそうな顔をした功二の頭を叩く。
「いって。なんだよ、今の」
 功二はすこししかめっ面をするような仕草をしたが、相変わらずにこやかだ。
「笑いながら言うなよ」
「分かった、分かったからさ、さっさと食え」
「はいはい、仰せの通りにいたします」


       

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