Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

CLUB861 でのライブ前日、俺は駒ヶ岳の自転車道をロードバイクで駆け抜けていた。

軽量化されたアルミホイールの隙間を冷たい風が突き抜けていく。俺はドロップハンドルを握り10段変速のギアをスムーズに切り替える。

スプロケットがシーク音のような音を立てて軸の回転をローラーチェーンに伝達していく。


俺は週末になると定期的にこの駒ヶ岳のサイクリングロードを愛車と共に訪れていた。明日に迫ったライブを思い高ぶった気持ちを俺はペダルに込める。

「おーい、キミ!危ないじゃないかー!」

対向車線をシティサイクルで走っていたドライバーが自転車を停めて俺に声をかけた。

俺も自転車を停めると通り過ぎた彼を振り返った。背はあまり高くなく、痩身で不精ひげを生やしている。

「なんだ、まだ子供か」20代後半と思しき青年は自転車をまたぐと俺に向かって声を張った。

「ヘルメット!」「?」俺が彼の言葉の意味を理解出来ないでいると青年が自分の頭を指さした。

「公道をロードバイクで走る時はメットが必須だろ!」そう言われて俺は彼のママチャリを見ながらふっと息を吐いた。

「ロードバイク乗車時にヘルメットの装着義務はない」

呆れたような俺の言い方が気に入らなかったのか青年は舌打ちをし、「気をつけろ」と言葉を残して自転車にまたがり、坂を下りていった。

水滴が俺のウエアからこぼれ落ちる。俺は薄く霧の出てきた空を見上げた。さっきから霧雨が降ったり止んだり繰り返している。

路面はスリッピーになりがちでこれからアタックする下り坂を見通してあの青年は俺に気をつけろと言ったのだろう。

俺は駒ヶ岳の山頂の休憩所で水分を摂り、ウエアを着替えて用を足すと再び自分のロードバイクに腰をかけた。歩道の外には向陽町がジオラマのように広がっている。

俺はひとつ、ふたつ深呼吸をし、その街並みを目指すように二つの車輪を走らせた。


下り坂は思いのほか悪路だった。

風が出てきて昼間だと言うのに辺りが暗くなり始めた。雨が強く降り出し車道の中央に水溜りを作っていく。

俺はそれを避け、カーブの30メートル手前でギアを重いのに変えて速度調整をとる。

中央帯をはみ出して曲がるトラックに巻き込まれないように俺は車体を操る。トラックが連れてきた突風を全身にうけると俺はフー、と細く長く息を吐く。

後方に気配を感じる。俺はその気に覚えがあった。ゆっくり呼吸を整えて俺はその影を振り返る。

「や、久しぶりだね。和樹」

隣を大橋照之が並走していた。「驚いたかい?」俺は視線を前に戻し、ペダルを漕ぐペースを早める。少しの間ヤツをやり過ごすと俺は自分の頭を整理した。

なぜあいつがここにいる?俺に何の用があってここに来た?両手が震えているのはこの雨風の寒さのせいではない。あの男が放つ暴力的な狂気。

このまま逃げるべきか、それとも、

「逃げられないよ」

耳元で聞こえる声に背筋が凍る。「何の用だ?」平静を整って俺は『テル』に言葉を返す。ヤツは俺の隣でにこやかな笑みを浮かべ言った。

「僕も好きなんだ。サイクリング」

対向車が減速するためにブレーキを踏む。俺はその音に合わせて『テル』に気づかれないよう、ギアを切り替える。

それを察してか、無意識かヤツも自転車を漕ぐスピードを早める。

黒塗りの14段変速のバイクの上でヤツは言った。

「いよいよ明日だねぇ。僕と和樹の決戦の時だ。おまえがどんな顔をして前日を迎えているか見に来たのさ」
「プレッシャーを与えにきた、の間違いだろ?」

俺は自分の体がガードレールと『テル』の車体に挟まれているのに気づいていた。俺の言葉を受けて乾いた笑いをするとヤツは俺の前を車体ひとつ半ぐらいのリードを取って走り始めた。

まるで俺に「ついてごらん」という風に。緊張状態で頭に血が上り、俺はその挑発を受けてしまう。俺はハンドルを握り、次々とギアを切り替えていく。

体感時速50キロ、60キロとバイクの速度が上がっていく。俺は逃げない。こいつから、運命から俺は逃げる訳にはいかない。

減速することなくカーブを曲がると『テル』が俺の姿を横目で睨む。俺は『テル』のすぐ隣に車体を走らせる。

「僕はあの日の事を一日も忘れずに生きてきた」

その言葉を受け流し、俺は『テル』の前方に車輪を投げ出す。「本当はおまえも同じはずだった。でもおまえはその事からずっと逃げてきた」

「違う」俺は『テル』を完全に追い抜き、ダンシングスタイルでペダルを漕ぐ。「いまでも思うよ。死んだのが兄さんじゃなくおまえの親父だったらってさ」

カーブの手前、大型トラックが視界に見えた。体中の血液が一気に脳天に沸騰する。後ろに死神、前方に鉄の戦車。ブレーキを踏むが間に合うはずもない。

俺はハンドルを左にきり、軸足を地面に擦りつける。ラバーソールとアスファルトの間で火花があがる。「おまえが死ねば良かったんだよ」

呪詛の言葉を受け、俺の現実はブラックアウト。バイクは車道に投げ出され、俺の体はガードレールに直撃した。頭の奥で死神が笑う声が遠くなっていく。

遠雷の鳴る空、裏返った車体の上で猛スピードでホイールが回る音が響いていた。

       

表紙
Tweet

Neetsha