独りぼっちには慣れていた。


 どこにでもあるような、ありふれた食堂で、白衣の群れが一塊になって何かを熱心に語り合っていた。彼らの手の中には印刷したてのプリントアウトの束が握られ、そこに印刷されたモノクロのデータと写真を指差し点検で自分の意見の材料にしている。誰もが最終的には自分の意見が正しいことを信じて疑わず、それを他人に押しつけようと躍起になっている。
 自分の研究所の職員が、そして世界で一握りの選りに選られたピースメイカーたちが、そんな醜態を晒していることがDUEL4thのトップである氷坂美雷にはとても悲しいことだった。
 具体的にその悲しみは、白衣の一団から遠く離れたテーブルに夕餉を置くことで表現された。肩身を狭めて夕食をつつくその姿は、とてもこの地下二千五百メートルの地の底を牛耳り支配するマッドサイエンティストの幹部には思えない。
 誘いがなかったと言えば嘘になる。
 ラボメンバーたちはトップである美雷を軽んじたり、侮辱したりはしなかった。しかしそれでも差し出された手を取る気にならなかったのは、彼らの顔に、あの悪臭極まる「自分はおまえのことを理解できる」という思いあがった自惚れがべったりと貼りついていたから。そして、あわよくば顔だけは怖いほど整っている美雷と「そういう関係」になれればいいという薄ら寒い欲望が獣じみた両目に宿っていたから。美雷はため息をつく。
 男は、苦手だった。
 なのに、美雷のラボにはほとんど男しかいない。それも超一流の名門医大から巨額の賃金と人跡未踏の研究という餌で釣られたエリートしか。そういう人間は自分にできないことはないし、同じ人間の、それも自分より学歴も地位も能力も下位の人間のことなら必ず理解してみせるし、何より自分にはその才能があると思いこんでいるやつしかいなかった。少なくとも美雷にはそう見えたし、ちょっとご飯に付き合っただけで彼氏面をし始める男にそのそしりを跳ね除ける資格があるとは思えない。
 美雷は、うらなりが嫌いだ。
 細くて、弱くて、触れると冷たい男になんて興味はなかった。が、何度それを伝えてもあの白衣の群れは「誤解」を解こうとしてくる。そうするのが「正しい」のだといわんばかりに。美雷にとっては、たとえ誤解であっても、それが自分の意見であって変更不能のクオリアであり、それを否定されることは自分を否定されるに等しかった。それが正しいのだとしても、その結果として相手を理解することに繋がるとしても、嫌だった。どうしても、嫌なのだった。
 それを何度言ってもわかってくれない人たちが、食堂の中央で決して擦り寄ることのない意見を闘わせている。議題は聞かなくても分かる。さっきのスパーリングのことだろう。彼らが盛り上がるのもわかる。
 天城燎。
 所長直々のスカウトでこの世界へ進撃してきた彼の通算成績は、恐らくブラックボクサーが何もない虚空にグローブをかけて闘い始めて以来のフルマークだった。
 最初の星(ミット)打ちでは白黒/左右問わずに一発ですべての星を撃墜した。続くノッカープラスによる2on2のスパーリングでも十二秒で相手の氷殻をクラッシュアウト。相手のボクサーはその場で失神、現在も意識不明。ノッカーの初期投与による副作用は、美雷が最初に与えたあの『目覚めの一発』以来まったく見られず。それは調整用のテストアイスを投与してのスパーリングに移行してからも変わらなかった。その成績も。
 スパーリングとはいえ、八戦して八勝。
 そしてつい数時間前に行われたばかりの一戦で、とうとう再起不能者が出た。名前は鏑木信弥。ブラックボクシング暦は二年で、数ヶ月前にセブンスの剣崎八洲に負傷させられなければ最優秀の栄光を勝ち取っていたはずだと言われていた才能のあるブラックボクサーだった。
 それが、同じアイスピース、同じ手札(カード)でやりあって見事に燎に負けた。
 3ラウンド四十八秒TKO負け。
 1ラウンドで終わらせなかったのは、美雷との例の『インターバル』を楽しむため、なのだろう。多分。
 燎のパイロはすでに半ば戦意喪失していた鏑木のアイスを突き破り、その中にいた鏑木を生焼けにした。ブレインによる緊急転送の甲斐もなく、鏑木は重傷を負い、そしてもう二度と戻ってくることはないだろう。先刻、美雷自身の手で、彼のブラックボクサーとしての登録は抹消された。闘えないボクサーに貴重な地下の空気を分け与えておくわけにはいかない。
 熱に浮かされた白衣の群れの、昆虫の羽音じみた喧騒を聞きながら、美雷は手元のコーヒーカップを見下ろした。真っ黒な液体に、小さな栗色の粒々が浮いている。
「――また食べこぼしてる」
 美雷は顔を上げた。
「……銀子」
 フォースで美雷を除けばひとりしかいない女性のピースメイカー、空木銀子は野次を飛ばしてくる白衣の群れに(ボスを襲うなよ、肉食獣!)舌を突き出して抵抗すると美雷の前の席に座った。
「それ。汚いって」
 銀子が指差したのは、銀色の皿に乗ったクッキー。勝ちが積もった勝負師の卓のように山になったそれそのものが汚いのではなく、銀子は美雷の癖のことを言っている。
 美雷は、食べこぼしが烈しい。
 ご飯を箸で食べれば半分は膝に落としてしまうため白米をスプーンで食べているほどで、それは愛嬌を通り越して病魔を連想させる。ましてやクッキーなどという強く摘むだけで砕ける菓子を食べるとなればゴミ箱の上でかじるしかないほど。だがもちろん、そんなみじめなことをするわけにもいかず、美雷は最近、なみなみと注いだコーヒーの上でクッキーをリスのように食べている。そうすればクズが落ちても後で飲めばいいから。
 美雷には、どうしてそれがいけないことなのかがわからない。
「……銀子には迷惑はかけてない」
「そりゃあね。そうでしょうとも。あんたはあんたの勝手にしかできないもんね。だからあたしも勝手に思ったことを口走ってるだけ。悪い?」
 美雷は首を振る。
 たったひとりの友達と言ってもいいこの女(ひと)の、こういうサッパリとしたところが美雷は嫌いではない。
「ったく。男連中と来たら、燎くんがどこまで強いか、十年も前のブラックボクサーまで引き合いに出して語っちゃってまあ。男って好きよね、『サイキョー』ってやつ」
 チラリ、と美雷が銀子を上目遣いに見る。
「銀子は、好きじゃない?」
「最強? べつに。だってあたしたちの仕事って、誰でも超能力者になれるクスリを開発することで、ブラックボクシングはそのオマケでしょ? 目的と手段を取り違えるほどガキじゃないわよ」
 言って、銀子は下ろした髪をばさりと五本の指で梳った。
「それより聞いたわよ。あんた、またデートの約束すっぽかしたんだって? 御崎くん、怒ってたわよ」
「約束した覚えなんかない」
「あんた忘れてんのよ毎回毎回。だってあたし、生であんたが約束するの聞いたもん」
「嘘」
「ほんと。ま、天才サマは自分のタイヘンな研究のことでアタマがいつでもイッパイイッパイなんでしょうけど? ……でも、たまには遊んであげたら? セントラルってそのためにあるんだし。あんただって、男の一人くらい作らないともったいないわよ。可愛いのに」
 美雷は、髪が逆立つほど首を振った。
「…………!!」
「頑固なことで。……ところで、燎くんは?」
「知らない。もう部屋にいったと思う」
「そ。あんた、明日のこと彼にちゃんと伝えた?」
 美雷は口を丸く開けた。
「あ」
「ったく。あとで言っときなさいよ? なんならあたしが言おうか」
「いい。燎の部屋のパスは私にしか開けられない」
 銀子が口をアヒルのように尖らせる。
「はいはいわかってますよーだ。……でもさ、今日はホントに凄かったね。あんなに速く、綺麗に、あの世界で動ける人がいるなんて……さすがのあたしも見惚れちゃった」
 美雷は、真っ黒な水面に浮かぶ茶色いキューブを眺めている。銀子は重ねた手の上に顎を乗せて、夢見るように喋り続ける。
「左の使い方が天才的よね。すべてのパイロに意味があるっていうか、相手を追い込むのに何か、彼にしか見えない仕組みに従って動いてるっていうか……」
「……」
「彼なら、絶対にいいところまでいくと思う。ひょっとしたらブラックボクシングなんてしないでも、どんなアイスピースにも適合できる特異体質の彼さえいれば、私たちの研究はパラダイムシフトを起こせるレベルに達するかもしれない」
「そうかもね」
「なに、その連れない感じ。本当はまんざらでもないくせに」
 コーヒーカップの取っ手を掴む指が、軋む。顔を伏せた美雷の髪に銀子の無邪気な声がぶつかる。
「ね、あんたたち付き合っちゃいなさいよ、もう」


 銀子は、
 銀子は、美雷が絶対に首を縦には振らないことを知っている。
 知っているのに、聞いてきている。
 つまりそれは、そういうこと。


 ――たったひとりの親友が、つまらない牽制を振ってくるようになってしまったことが、美雷には、とても悲しい。



 ○

 銀子を置き去りにして、食堂を出た。夜間に絞られた照明の中を、暖かなオレンジ色に満たされた小さなトンネルの中を、美雷はポケットに両手を突っ込んで少し下を見ながら、歩いていく。背中に伝わる部下たちの喧騒がすり抜けていく風のようにどこかへいってしまうと、ようやく人心地ついた。肩から荷物が下ろされたような気分。一人になってかえって落ち着くなんて我ながら根が暗いと落ち込む。だが、仕方ない。こういう性分なのだ。
 もう一日の仕事は終わらせた。あとは部屋に帰って寝るだけだ。それなのになぜか爪先が自分の部屋から逸れてラボの中を彷徨った。曲がり角を折れて、自販機の前に出る。顔を伏せていたから、誰かがいることにギリギリまで気づかなかった。
「よう」
 自販機の強すぎる白(ひかり)の中で、天城燎がベンチに腰かけて笑っていた。缶コーヒーを割れ物のように指先でそっと掴んでいる。ゆらゆらと揺れるそれに美雷の目が止まった。
「……起きてたんだ」
「眠れなくてね」缶コーヒーを一口あおり、聞く。
「どうしてって聞かないのか?」
「え?」
「ここはピースメイカー専用のフロアだろ。ボクサー禁制なのにって驚いてもらわなくっちゃ張り合いがないな」
 言って、燎は百年来の親友のような笑顔を浮かべた。
「……どうせ、銀子からパスカードの複製でももらったんでしょ」
「ふふふ、いや? 俺のファンは女だけじゃないんだぜ」
 恐ろしいことをさらりと言って、燎はベンチの空いたスペースをポンポンと叩いた。
「こっち来いよ。何か飲むか?」
「いらない」
「そう言うなって」
 燎は、飛行気乗り風のジャケットの上着から、もう一本、缶コーヒーを取り出して美雷に放った。ぱしりと美雷の手がそれを受け取り、ひっくり返す。
 BLACK。
「どうして、私が来るってわかったの?」
「足音」
 わかってしまえば、当たり前の話だ。
 いくつかの刹那を躊躇いで重ねた後、美雷は諦めて燎の隣に座った。どうせ無視して歩いていっても付きまとわれる。最悪、自室まで来るかもしれない。そんなのはゴメンだった。
 白い光の中で、壁に映る自分たちの間延びした影を見ながら、二人は缶コーヒーを飲んだ。
「苦いな」
 燎はあらためて自分の缶を見て舌を出した。
「おまえ、よくこんなの飲めるな。俺はもう買わない」
「……嫌なら飲まなければいいのに」
「お前がいつも飲んでるから気になったんだよ」
 美雷は、顔をしかめた。
「べつにいい。そういうの」
「ははっ、ま、いいじゃねえか。愛されてるうちが華さ。……で、どうだった?」
「何が?」
「今日の俺の相手」
 美雷はぼそっと答えた。
「再起不能」
「うっし」
 燎は軽く拳を引いた。最軽量のガッツポーズ。
「やっと一人殺せたか。あんまり仕留め切れないんでイライラしてきてたところなんだ」
「狙ってたの?」
「当たり前だろ。でなくっちゃ面白くない。勝負は生きるか死ぬかでなくっちゃな」
 美雷は、手元の缶コーヒーの表面を指で拭った。
「あの、ああいうのは、できればやめて欲しい。スパーリングパートナーがいなくなるから」
「いなくていいさ。俺が一番強いんだから。だろ?」
「そうだと、いいけど」
「絶対そうさ」
 燎はベンチに両手を突いた。
「誰が相手でも俺は負けない。そうだろ。俺は結果を出してる。お前らピースメイカーが喉から手が出るほど欲しがる特異体質でもある。それとも不満か? あと何人殺せば、お前は俺を認めてくれる?」
「私は、……あなたを認めてる」
「いいや認めてないね」
 その笑顔に輝く両目は曇っている。
「お前は俺をガキだと思ってる」
「まあ……歳は一つ下だし」
「そういうことを言ってるんじゃねーよ」
 まったく、と燎は諦めたように首を振った。
「お前みたいなやつは初めてだ。俺になびかない女なんていないと思ってた」
 美雷は割りと本気で引いた。
「うわあ……すごい自信」
「だってそうだろ? 俺に欠点があるなら言ってみな。拳の槍をかわし炎の雨を潜って相手を仕留めてみせるこの俺の、いったいどこに不満がある? 顔だって控えめにいっても美少年だろ?」
「…………」
 いいさ、と燎は飲み終えた缶コーヒーを振り返ってトラッシュボックスに放り捨てた。ガコココォン、と小気味のいい音を立てて缶はボックスの中へ消えた。
「これでいいのさ。なんといっても俺は、俺にになにがなんでもなびかない、そんなお前だからこそ欲しくなっちまったんだからな」
「……悪いけど、その気持ちには、その、答えられないと思う」
「だからいいって」
 照れたように笑う燎は、まるで普通の少年のように見える。
 とても、人殺しには見えない。
 美雷は、手の中の缶コーヒーの処理について考えているうちに、銀子に釘を刺されていたことを思い出した。
「そうだ、忘れてた」
「ん? どした」
「いや、大したことじゃないんだけど――」
 二、三の事務連絡を伝えると燎はふむふむとうなずいた。
「わかった」
「あと、これ」
 美雷が差し出したものは、銀紙に包まれた四角い欠片。燎はそれを受け取ると銀紙を剥いた。うっすらと霜を張った氷殻の中に、赤黒い液体が揺れている。
「アイスピース……?」
「お守り」
「こんなの、いつ使うんだよ」
「それは、使いたいと思った時かな。本当に、お守りだと思えばいいから。君ならテストしないでも副作用残らないだろうし」
 それじゃ、と美雷は必殺のタイミングで立ち上がり、さっさとその場を後にしようとした。残してしまった缶コーヒーなど自分の部屋でも捨てられる。
「なあ、俺も忘れちゃいそうだから、今日のうちに一個聞いておいてもいいか」
 聞こえなかったフリをしようかと、少しだけ迷ったが、結局美雷は足を止め、返事を待つ燎を振り返った。
「……何?」
「いや、俺はいいんだよ」と燎は言った。
「俺は昔から自分がちょっと普通じゃないのは知ってる。特別な才能があるっていうのも。だから結局、こういう危ない橋を渡って生きていく運命にあったと思う」
 でも、と燎は言った。
「お前は? お前はなんでピースメイカーなんて裏世界の道に入ろうと思ったんだ? お前くらいの才能があればさ、心が壊れてるわけじゃなし、もっとまともな道もあったんじゃないか?」
 美雷には、燎が何を言っているのかよく分からない。
 だが、なんとか噛み砕いて考えれば、どうしてピースメイカーになったのかと聞かれている気がする。そんなことは美雷が知りたかった。そのために誕生したから、というならそうだろう。だが、なんのために、ただ毎日を重ねる以上の情熱を持って、アイスピースを、人間を進化させるクスリを作っているのかと言われれば、どうして何もかも投げ捨てて死なないかと言われれば――
 桜色の子供っぽい唇が、言葉を紡ぐ。
「いまを、いまじゃなくなるようにするため」
「……は?」
 どうせ伝わらないのは、わかっていた。
 いい、べつにいい。
 わかってもらえなくてもいい。
 自分にだって本当にわかっているのかどうか、わからないのだから。
 震えそうになる足をなんとか誤魔化して、美雷は歩き出しかけた。そして最後に、ささやかな意趣返しに出た。
「本当は、言っちゃいけないんだけど、教えてあげる」
「……何?」
「次の対戦相手」
 空気がピシリと固まった。
「誰?」
「君の知ってる人」
「だから、誰だよ。俺に殺されるやつの名前は?」
 美雷は、死人に呼びかけるように、少しだけ振り向いた。
「黒鉄鋼――元日本スーパーフェザー級チャンピオン」
 その戦績を、美雷はすべて諳んじられる。
 デビュー戦から日本タイトル奪取に至るまでの栄光の階、そのすべてを。
 かつて黄金の右と呼ばれ、10戦10勝10KOの勝ち星を積み上げた男は、美雷がボクシングを見るきっかけになったボクサーだった。
 そして、彼は、一人の少年によって未来を奪われた。
 彼は、と美雷は言った。

「――彼は、君が右腕を殺した相手だよ」

 覚えてないかもしれないけど――その呟きが、果たして燎に届いたかどうか。
 効果は、少しはあったらしい。
 自分にまとわりついていた熱っぽい気配がほぐれて、その触手を宿主の元へと戻した。美雷は今度こそ廊下を進んで、燎の前から姿を消した。そして、ひとつ目の曲がり角を折れるとすぐに、お守りを渡したことも、燎と喋っていたことも、何もかも、忘れてしまった。後にはただ、霞がかった眠たい意識と、たったひとりの名前だけが残留していた。
 黒鉄鋼。
 テレビの画面を通して、氷坂美雷が初めて、いいなと思えた相手。
 この男(ひと)になら、自分の言葉が届くんじゃないかと思えた相手。
 もうすぐ会える。
 もうすぐ――……

 会えたら、きっと、一年前に伝えたかった言葉を贈ろう。
 そう決めていた。